安楽生
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安楽生
生きるのは辛く苦しいものである。
世の中は不幸だ。
ふとした瞬間、死にたいという気持ちになる。
しかし本当に死んでしまいたいのかと言われれば、結局そこにも痛みや苦しみがあるのだろうし、そもそも生きる気力がない者に死ぬ気力が満ち満ちている訳もない。
悲しい。孤独だ。
失敗ばかりで己の価値も見入出せない。
人生を変えようにも活力が足りず、活力を生む為の肉体は脆い。
S氏は今日も青白い顔で虚ろに天井を眺めている。
一切まるで力がないという訳ではない。不条理に腹を立てている頃もある。
しかしこの時間になれば精も魂も尽き果てている。
病気でもないのに調子が悪い。気を紛らわせようと何かに取り組んでみて、それが楽しかったのだとしても、終わる頃には生気を奪われゲッソリとしている。
更に言えば虚しくもなる。
目を開けているからいつまでもクヨクヨとしてしまうのだが、クヨクヨすればする程目は閉じられないし眠れもしない。
ただただ生きるのが辛い。
この時間が過ぎ去ってしまえばいいと思う一方で、時の流れそのものには目を向ける事も叶わない。
溜息を一つどころではなく零す。最早喘いでいるのと変わらない有様である。
いっそ窒息してしまえば楽になるだろうに、その時の息苦しさを想像するのはただただ嫌だ。
そんな堂々巡りを続けるS氏の耳に、ノックが聞こえた。
気のせいかと思ったが、コンコンと響く音は明らかに自分の家の扉からしており、それは規則的に続いている。
こんな時間に何だろうか。非常識だし迷惑である。
しかしノックは止まらない。いっそ諦めてくれればいいのに、ここまで来ると出ない訳にもいかない。
立ち上がるまでに一苦労、そこから玄関扉へ向かうのにも必死で、更には人前に顔を出し、姿を見ながら会話をする所まで想像すれば吐き気さえする。
渋々、嫌々。それでもS氏は扉を開けた。
「ああ、出てらした」
「何ですか、こんな夜分に」
「時間については御尤も。誠に相済みませんで」
言う割に、申し訳なさそうには見えない。どちらかと言えば笑っているようだ。しかし困っている時程、人は愛想笑いを浮かべたりするものだからこの人物としても本意ではないのかも知れない。
小柄な人物である。それ以外には特徴がない。
着ている物が制服らしく思えるので、市役所や郵便局、宅配の人間かと推測したが知っているどれとも異なっている。
或いは警察や税金関係だろうか。弱者特有の権力に対する抵抗感を抱いているS氏の不安は増した。
「……それでご用件は何でしょう」
「ええ、実はですね。良いお話を持ってきたのです」
鞄からパンフレットのような物を取り出し始めたのでS氏は途端不快になった。
何だ、ただのセールスマンじゃないか。
こんな夜中に来る意味もなければS氏に執着する必要もない。
更に言えば今時この様な売り方は宜しくない。詐欺や押し売り、果てには販売を装って強盗を働く者もいると言うじゃないか。
そこまで考えて、今度は恐ろしくなった。どう考えてもこの状況は尋常ではない。
粗末なアパートである。相手が金目当てだったとして敢えて狙おうとは思わない筈だ。ではS氏への恨みでもあるのか、そこに関しては何とも言えない。S氏は自身を恵まれない一般人だと思っているが、どこからどんな目を向けられているか分からないのがこの世の中である。
とは言え、扉を開けさせる事に成功しておいて、次に進もうとしないのは何故なのか。
疑いを深めるS氏の事等お構いなしに、訪問者はパンフレットを広げてS氏に見せつけた。
「何ですか」
「昨今、苦しみや不幸を訴える方が多くいらっしゃいます」
「はぁ」
「最早社会問題です。しかし社会がその全てに寄り添えているかと問えば、誰もが否と答えるでしょう」
「それは確かに」
まるまるS氏に当て嵌まる話でもある。思わず話に聞き入ってしまう。
「果たしてこのままで良いのか?いいやそんな事は有り得まい、安楽太平幸福平穏無事朗らかこそ追及すべき人の道であろう、とそういう考えで我々の会社は立ち上がったと言う次第でございまして」
「会社なのですか?」
「ええ、会社なのです」
急に胡散臭くなってきた。やはりただの押し売りか。
「人の喜びとは何でしょう」
「それは、まぁ金だとか健康だとか。色々あるんじゃないでしょうか」
「その通りです。しかしある物はいつか壊れるのが世の理、失う恐怖や苦しみを抱える方も多くいらっしゃいます」
「まぁそうですね」
「満たされても苦しい、足りなくても苦しい。最早生きる以上苦しいのが正常だと捉えるべきかも知れません」
「それは何らかの思想的な話ですか?」
だから救われる為に信仰を持て、なんて話の流れになるのは勘弁願いたい。
胡散臭いどうこう以前、S氏としては信仰を持つ努力すらしたくないのである。
「こんな有様ですから、場合によっては安楽死、と言うような議論も出て参ります。しかし人の命の責任を他人に背負わせると言うのは非常にセンシティブです。それは戦争等の体験からも明らかになっています」
「まぁ、確かに」
「更に言えば死んで物事が解決するのか、という点もあります。肉体に関しては遺骨や遺灰という変化がありますが精神や魂という話が出てくると一体どうなるかという話でして。死後というものは未だ解明されていないのです、何せ死んで戻り人の言葉でそれを説明してくれる生き物等そうそう居りませんから。死を停止したものと捉える場合、例えば事故の怪我で死んでしまったのならその人の精神は事故による苦痛で止まってしまうのか?という疑問も存在しています」
「待って下さい、何を言っているのか」
「要は霊だとかという発想ですね。死後の世界を不安視する声もあるという事です」
「ああ、成程」
「単純に死んだものをやっぱり止めたで戻す事は出来ないでしょう」
それはそうだろう。
「そこで、我々は人を安楽に生かそう。言うなれば安楽生というものを目指してみようという話になったのですが」
「安楽な生ですか」
苦しみなく生きられるなら確かに良い事だ。だがそれが出来ないから苦しんでいるのではないのか。
S氏は自分が楽しく生きる未来を想像しようとしたが、その行為だけで苦痛を感じた。
幸せな自分が想像出来ない、幸せな自分にすら嫉妬する、そもそも楽しく生きるという事が分からないという不幸者三点盛りが自分の内に出来上がってしまったからである。
表情を欠落させたS氏に構わず訪問者は話を続ける。
「まず死なない、これは大前提です」
「……先程ありましたね」
「死なない為には生命を脅かしかねないあらゆる事象から離れて頂きます」
「と、言うと?」
「完全に安全が確保された環境で過ごしていただきます。衣食住から娯楽まで、全てが管理下に置かれます。何せ世の中、生きているだけ命の危険はありますので」
「まぁ、確かにそういう面はありますが」
「物も金銭も手放して頂きます。家族血縁恋人からも離れる事になります。執着から生まれる命の危険がありますし、これもまた苦しみの元です」
「その場合、どうやって暮らしていくのでしょう」
「我々が目指すのは安楽生ですから。生活に対する不安や苦しみも当然取り除かれるのです。その対価という形で私共の会社に預けて頂ければ宜しいのではないかと」
「それは、何と言いますか……相手が貧乏人だった場合、割に合わないのでは?」
S氏に大した資産はない。日々苦しい原因の一つである。
「ええ。しかし問題はないのです。老若男女ありとあらゆる人を幸福に出来ればそれは我が社にとって功績となります。功績が大きければ大きい程、評判も上がるでしょう?そうなれば利用者数が増えたり、スポンサーがついたりと別の所からの見返りが発生しますから」
やはり金というのはある所にはあるものなのだ。聞いているだけでまた不幸な気分になってきた。
「まぁあまりに上手い話ですし、身も蓋もなく表現すれば我が社に全て預けろ、言う通りに暮らせとなる訳ですから詐欺や監禁という言葉が過るのも大いに分かります」
「正直に言えば、そう感じました」
「ええ、ええ。ですのでこちらも第一に会社です商売ですとはっきり申し上げているのです。内容に関しても理解して頂けるよう説明致しますし、当然デメリットも御座います。そちらについても疑問がありましたらば回答致します。最終判断は皆様にして頂きます。急がせたり迫ったりなんて事は御座いません。自ら選んでの契約ですよ、大変にフェアなお話じゃあありませんか」
フェアかどうかは分からないが、まだマシという気はしなくもない。少なくとも現状のS氏にはバタンと扉を閉じる自由がある。
「で、先はどうなるのですか?何もかも手放して、そちらの言われる安全な環境に行った所で幸せになれるとは限らないでしょう?」
「その通りです。ただ生きる為に生かすのではありません、幸せに生きる為に生きて頂くのです」
そう、そこが肝心だろう。生きるだけならS氏だって既にしている。
「幸せとは何か、結局は不幸を感じない事でしょう。生きる事は苦しみである、しかし死んでどうなるか。ならば生きて不幸を感じない状態を作り上げる事が適切でしょう。不幸を感知するのは意識であり、脳です。しかし脳という部分は医学的にも科学的にも未だ完全解明には至りません。薬物投与や外科治療でどうにかしようという話もありますが、リスクがある。そこでごく自然の産物でありまた多くの生物が生まれながらに有する機能であり、脳の働きに作用し、意識を希釈する事が出来る、まぁ簡単に言えば睡眠状態になって頂きます」
「眠るのですか?」
「こちらのパンフレットになりますが、これが当社で開発した『コクーン』と言うものでして。特殊な設計となっており、どれ程寝転がっていても体に負荷がかからないようになっています。また事前の施術で食事や排せつ、呼吸等は自動的に行えるようになりますのでどうぞご安心を」
差し出されたパンフレットにある『コクーン』なるものは、いつの時代でも未来と言えばこの様な雰囲気になる、と思える程に未来感のあるデザインをしていた。だが話の内容から考えればつまる所ベッドなのだろう。
「温度調整に姿勢確保、更には脳波測定も行います。可能な限りの手段で安寧な眠りをお届けし続けます」
「ですが人間は起きるものでしょう?」
「ええ。けれども条件を整えれば寝続ける事もまた出来るのですよ」
果たしてそんな事が可能なのだろうか。しかし哺乳類の中には冬眠をするものもあるし、人間でもロングスリーパーだとか言って長時間寝る人間もいるそうだから不可能ではないのかも知れない。
「所謂昏睡とはまた違うのですよね?」
「勿論です。覚醒の必要があれば起こす事も可能ですよ。ただしある程度のリハビリは必要になりますが」
「リハビリですか」
「体を動かさないのですから」
確かに。
寝ている間は何も考える必要がないのも事実だろう。ならばその間未来を憂う事も過去を悔いる事もない。
世間に出て行きもしないから余計な苦労を背負う事もない。人間関係もなく、目にしたくもない事象との出会いもない。
ある意味とても理想的である。
脳の負荷が高いと多く眠りを必要とするだなんて話もあるし、生き物は眠らなくてはいけないものなのだ。死ぬより悪い事ではないのだろう。
しかしベッドの上で寝たままの生活。
聞けば何故だろう、昨今ちらほら聞かれる安楽死という言葉が頭を過る。あれらは確か、どういう時に出て来る話だっただろうか。
頭の中で色々な物が組み合わさって、落ち着かない気持ちになったS氏は縋るように質問をした。
「もう一度確認したいのですが」
「はいどうぞ」
「幸せとは何でしょう」
「脳の作用です」
「不幸とは、苦しみとは何でしょう」
「脳の作用ですね」
つまる所S氏が苦しい辛いと言っているのは何の意味も根拠もない、ただ一個人の、たかが何キログラムの脳みその中の話という事か。
S氏という人間がまず世間からすればちっぽけで無意味だと言うのに、それよりなおつまらないものだと言うのか。
薄々理解しないでもない。しかし明確に他人から突き付けられるにはあまりに残酷な現実である。
S氏は先程迄唸っていた己が小さな檻に閉じ込められた、頭ばかりの大きな猿であるように思えて酷く途方に暮れた。
S氏はしょぼしょぼとした声で呟く。
「生と死の境とは何でしょう」
「生きているか、死んでいるか。それだけの事ですよ」
真夜中の訪問者はただ微笑んでいた。
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