儀国の膿 ⑥
カサカサと床を這う蜘蛛たちは側にいた侍女たちの衣をも登っていく。
「っ! ひぃいいっ!」
恐怖を溜め込むように一拍間を開けてから悲鳴が響いて、爽やかなはずの朝の空気がまるで幽鬼でも見て混乱しているかのような様相となった。
蘭貴妃側の侍女たちも、悲鳴までは上げないものの明らかに青ざめている。
念のためこちらの侍女たちには蜘蛛が嫌う
(それにしても香鈴様は微動だにしないわね。思っていた以上に肝が据わっている)
などと感心しているうちに西昭儀たちは少し落ち着きを取り戻したようだ。
いつの間にか箒やら手拭いなどで蜘蛛を払い、始めにいた場所から後退している。
「な、なんてものを持ってくるの!?」
蜘蛛のほとんどが部屋の隅に散っていき、多少は余裕が出来たのだろうか。
涙目になりつつも、西昭儀は翠玉を睨み付け叫んだ。
「なんてもの? 小さくて可愛らしい蜘蛛ではありませんか」
対する翠玉は頬にそっと指を添え、西昭儀の様子が理解出来ないかのように振る舞う。
だが、ある意味本当に理解出来ないのだろう。
翠玉は本当に蜘蛛を可愛いと思っているのだから。
今逃げていった蜘蛛たちも、翠玉がこの後宮へ来てから捕まえて集めていたものだ。
餌の調達は明凜の仕事の一つでもあるためあまり増やさないで欲しいと思っていた。
ある意味今回処理出来て、明凜としても助かった。
蜘蛛の可愛さを理解出来ない周囲を不思議に思っている翠玉だが、虫や蜘蛛などが他の者にとってはあまり好ましくないものだということは理解している。
蘭国の後宮でもよく捕まえた蜘蛛を意地悪な妃にけしかけたりしていたものだ。
(まさか儀国にてこのように有効活用することになるとは思わなかったけれど)
蘭国ではたちの悪かった悪戯も、この儀国ではほどよい仕返しとなっている。
すぐに分かる毒とはいえ、平気で人にそれを盛る様指示する妃だ。
涙目で怖がる様には正直胸が
「か、可愛らしい!? そんなわけがないでしょう!? あなた、何様のつもりでこのようなことを――」
「何様? 少なくとも西昭儀よりは地位が高いですね」
身分をわきまえなくなってきた西昭儀へ翠玉は冷ややかな目を向ける。
それで自分の身分を思い出せば良かったものを西昭儀は怒りに顔を歪ませた。
「お前など、蘭国の田舎から儀国に媚びを売るために渡された者ではないの! 公主だからといい気になっているのでしょうけれど、私の父にこのことが知られればお前など!」
ついには目上の立場である翠玉をお前呼ばわりしてしまう。
あまりにもな理解力のなさに、明凜は眉を寄せた。
翠玉の表情からも笑みが消える。美しく可愛らしい顔から華やかな笑みがなくなると、とても冷めた表情になる。
「分かっていないようね? 蘭は確かにこの儀国よりは劣っているかもしれないけれど、あなたはあくまで儀国の皇帝に仕える一貴族。私は蘭を後ろ盾に持つ公主。一個人としての価値は私の方が上なの」
だから貴妃という四夫人でも最高位の位を与えられたのだと告げる翠玉に、やっと自身の位を思い出したのか西昭儀は息を呑んだ。
「あ……も、申し訳、ありま――」
なんとか謝罪を口にしようとしたようだが、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
バタバタと、多くの足音が玻璃宮に響いたからだ。
バタン、と乱暴に開けられた扉から武装した宦官たちが入ってくる。
その中央から進み出たのは大長秋である令劉だった。
厳しい表情の令劉は普段より凜々しく見え、いつもとはまた違った魅力を見せる。
「昭儀・
「なっ!? 嘘よ!」
「証言もある。悪あがきなどするな。……捕らえろ」
青ざめながらも叫ぶ西昭儀の言葉を淡々とはね除け、令劉は宦官たちに支持を出した。
西昭儀やその侍女たちがわめき散らしながら捕らえられていくと、玻璃宮の一房には蘭貴妃一行と令劉だけが取り残された。
「蘭貴妃様、お騒がせ致しました。ですが貴女がこのような場所にいるとは思いませんでした」
「あら、私も令劉様がいらっしゃるとは思いませんでしたわ。罪を裁く体制がまだ残っていたのですね」
笑顔で交わされる会話はどちらも皮肉たっぷりだ。
令劉は『毒を盛った相手に喧嘩売りに行くとか貴妃がやることではないだろう』と。
翠玉は『この腐った後宮でちゃんと罪人を裁くことがまだ出来ていたのね?』と。
美しい顔が向かい合い、フフフハハハと笑う様はここに来た日を思い起こさせる。
おそらく二人は根本的な部分で犬猿の仲なのだろう。
前のように巻き込まれてはたまらないと思った明凜は、未だ微動だにせずまっすぐに立っている香鈴の陰に隠れるように移動した。
「皇后不在の今は私が皇后府を管理していますからね。ちゃんと仕事はしますよ」
「そうですか。では、後ほど子細の報告をしていただけるのかしら?」
「……蘭貴妃様が望むのであれば」
礼を取った令劉は、最後にチラリと明凜を見る。
隠れてしまっていたため少々気まずかったが、令劉は優しい笑みを明凜にだけ見えるように浮かべた。
その甘さを含んだ笑みは自分にしか見せないものなのだと分かり、思わずドキリと心臓が鳴る。
「では、私は失礼致します」
すぐに真顔に戻った令劉はそのまま房を後にした。
令劉を見送りフン、と鼻を鳴らした翠玉は香鈴へと向き直る。
「では私たちも紫水宮へ戻りましょうか」
すっかりいつもの可愛らしい表情に戻った翠玉に、他の侍女たちも安堵した様子を見せた。
だが……。
「……香鈴? ねぇ、聞いている?」
何度も声を掛ける翠玉に香鈴は全く応えない。
流石におかしい。
周囲だけではなく自分にも厳しい香鈴が主の声に応えないなど。
「香鈴様? どうなさいました?」
明凜も声を掛け、軽く肩を押す。
すると、香鈴は棒が倒れる様に直立したまま倒れてしまう。
「香鈴様!?」
「しっかりなさってくださいまし!」
侍女たちの悲鳴が上がる中、床に倒れた香鈴は気を失っていた。
どうやら蜘蛛を見た時点で意識を飛ばしてしまっていたらしい。
その日の午後は、意識を取り戻した香鈴に「貴妃ともあろうお方が蜘蛛を捕まえておくなど言語道断!」と叱られる羽目になる。
何故か明凜も共に叱られ、どこか理不尽さを味わったのだった。
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