令劉という男 前編

 心が凍り付くような目と合い、ハッとして視線を逸らす。


(見つかった? いいえ、姿は見られていないはず。目が合ったのもきっと気のせいだわ)


 ドクドクと早まる心臓をなだめ息を詰める。

 今見えたものは何だったのか。

 女官の首筋を濡らしていたのは確かに血だ。そしてそこに口を付けていたということはあの宦官――令劉は女官の血を啜っていたということだろうか?


(ただの逢い引きではなかったの?)


 異様な光景の答えを求めて思考が巡る。

 だが、一拍ほど見ただけの情報では確かな答えにたどり着けるわけもなく、明凜は木陰で息を潜めることしか出来なかった。


「では帰りなさい。今夜のことは忘れるように」

「……はい」


 やはり目が合ったと思ったのは気のせいだったのか……女官に淡々と命じる令劉の声が聞こえる。

 そっと視線をやると、女官がフラフラと大明宮を離れていくのが見えた。

 後は令劉がいなくなれば動ける。そう思ったとき――。


「……さて」


 一段落したような令劉の呟きの後、ザッと草の鳴る音と共に陰が現れた。

 残り香のような血の香りに、その陰が令劉だと気づく。

 あまりの早さに驚きつつも、やはり目が合っていたのだと理解する。

 その口元が弓月のように弧を描いているのを確認すると、今度は自身の体が浮いた。


「なっ!?」


 令劉に抱えられたのだと分かったときには、すでに彼は素早く動き出しておりすぐに房へと連れ込まれてしまう。

 抵抗する暇もなく連れ込まれ、ゾッとする。


(嘘っ、武人でもないのに速すぎる! いえ、それ以前に人間離れしているわ)


 先ほど女官の血を啜っていたことといい、この早さといい。

 月明かりの下、凍えるほどの美しさを見せた令劉というこの宦官は人間ではないのかもしれないと思えてしまう。

 幽鬼の類いはあまり信じない明凜だったが、実際に人間離れしたところを見てしまってはその可能性を否定することは出来なかった。


「まさかそちらから来てくれるとは……嬉しいよ」


 令劉は優しい声音で呟くと、抱えていた明凜を臥床がしょうの上に寝かせる。

 想定外の優しい扱いに戸惑う明凜だったが、そのままのしかかってきた令劉に自分の甘さを恥じた。


(優しくしているんじゃない。これはおそらく、色仕掛けで目的を吐かせようとしているのだわ)


 これだけ美しい男だ。男としての機能はなくとも、その美貌だけで対象を虜にすることが出来てもおかしくはない。

 明凜は目を閉じ、令劉の怜悧な美しさを視界に映さないようにする。同時に、自分の翡翠の瞳を見られないようにした。

 昼間に珍しい色だと近くで見られたばかりだ。

 明らかに賊にしか見えない格好の今、自分が蘭貴妃の侍女だと知られる訳にはいかない。


「なぜ目を閉じる? 私を見ろ」


 冷ややかな声音だというのに、どこか熱が込められた吐息が耳にかかる。

 鼓膜が溶かされてしまいそうな感覚にゾクリと震え、明凜は悲鳴を上げそうな口を両手で覆った。

 声も聞かせるわけにはいかない。

 昼間は会話らしい会話をしていなかったが、声そのものは聞かれていただろうから。

 声だけで判別出来るとは思えないが、万が一ということもある。

 令劉の下にされ、募る焦りの中瞼と口を閉じたまま明凜は逃げ道を探った。


 だが、令劉の色仕掛けは止まらない。

 閉じた目尻を指の腹で撫で、尚も耳元で甘い言葉を囁く。


「私を見てくれ……私はずっと、お前を待っていたのだ」


(何を、言っているの?)


 まるで心から求めているような熱い吐息に戸惑う。

 賊が何者なのかあらためようとしているのではないのだろうか?


(そういえば、何者だと問われていない?)


 未だに誰何すいかの言葉がないことに気付き、サッと血の気が引く。

 まさか、蘭貴妃の侍女だとすでに知られているのだろうか?


(いえ、だとしても確証はないはずよ。このまま目を閉じ言葉を発しなければ大丈夫なはず。後はこの状況から逃げ出せれば……)


 色を仕掛けてきているのだから、このまますぐに殺されたりはしないだろう。

 今のうちに抜け出せれば正体を知られることなく逃げられるはずだ。

 そのためには令劉にどいてもらわねばならないのだが……。


 うっすらと、状況の確認のため目を開ける。目の色が知られないよう、本当に薄く。

 だが、目の前の令劉の表情を見て思わず瞠目しそうになった。

 

「ずっと求めていた。やっと手に入るのだ……逃がしはしない」


 甘かった吐息が更に熱を持ち、冷たかった凍て空の瞳に炎が宿っている。

 情欲が揺らめく目に見つめられ、明凜はゾクリと身を震わせた。

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