私を見て

ハチニク

浮気


 私は知ってる。


 彼に別の女がいることを。


 それでも、その事実を彼に問い詰めることなんてできない。

 

 まるで糸が切れそうな繋がりにしがみつくように、私は彼との関係を続けたかった。

 

 それがどれだけ虚ろなものか、心の奥でわかっていながらも。


 今日もまた、私は彼の部屋へ足を運ぶ。

 

 ここでしか会えない二人の時間。

 

 それでも、私は彼のそばにいるだけで、その存在を感じられるなら、それで十分だと自分に言い聞かせていた。


「ねぇ、実は髪を切ったの……」


 震える声で問いかけた。

 

 彼に少しでも私を見てほしくて。

 

 彼の中にある私の存在を確かめたくて。

 

 だけど、彼の視線はスマホの画面に釘付けで、私に向けられる言葉は空虚そのもの。


「そうなんだ、似合ってるよ」


 その声には、かつての温かみは微塵も残っていなかった。

 

 初めて出会ったころの彼とは違う人のように感じた。

 

 あの頃の彼は、私だけを見つめ、私の言葉に耳を傾けてくれていた。

 

 今はもう、その目は私を捉えようとしない。


 それでも、私は彼に愛されたい。


 彼を愛したい。

 

 彼が他の女と時間を過ごしていても。


 

 私のことを少しでも心に留めていてくれるなら、それで構わないと。

 

 だけど、それはもう、届かない願いに過ぎないのかもしれない。


 

 友達に相談しても、返ってくるのは冷たい現実の言葉ばかり。


「あんた、バカじゃないの?」

「そんな男、やめなよ」


 彼が私を見ていないことなんて、とうの昔に分かっていた。

 

 彼が別の誰かに心を奪われていることも。

 

 だけど、彼の前に立つと、その言葉がどうしても喉を通らない。

 

 何も言えなかった。


 でも、そろそろ終わりにしなければならない。

 

 私も、大人になるべき時が来たと思う。


「私、もう帰るね……もう、これからは会わないから」


 思い切って言葉にした。

 

 彼の目が一瞬驚いたように見えたけれど、すぐにその表情は無機質なものに戻った。

 

 彼は私を引き止めようとしなかった。

 

 ただ、その冷たい目で私を見送るだけだった。


 外に出ると、冷たい夜風が私の頬を撫でた。

 

 胸の奥に絡みついていた重い鎖がほどけていくのを感じた。

 

 街の喧騒が遠くで聞こえ、星が瞬く夜空が広がっている。

 

 今まで見えなかった世界。


 こんなにも美しかったのだと、ふと気づいた。


 自然と微笑みがこぼれ、私は軽やかな足取りで自分の家へと向かう。

 

 これまで感じたことのない解放感。

 

 そして、幸福感。

 

 共に心に染み渡っていく。


 私は、やっと自分を取り戻したのだと、静かに思った。



 

 家のドアを開けると、暖かな灯りが迎えてくれる。

 その柔らかい光に包まれ、私は少しだけ安堵の息を吐いた。


 中からは、弾むような小さな声が聞こえてきた。


「おかえり、ママ!」


 その無垢な響きに、胸が締め付けられる。


 私はいつも通りの微笑みを浮かべ、言葉を返す。


「ただいま」


 笑顔が自然と頬に浮かぶ。


「おかえりなさい、ママ。友人とのディナーはどうだった?」


 パパの無邪気な問いかけに、私は一瞬躊躇した。


 やがて穏やかな声で答えた。


「うん、とても楽しかったよ」


 だがその一言は、まるで心に重くのしかかる罪の告白のようだった。

 

 私の胸の奥にしまい込まれた、誰にも知られてはならない秘密


――それが、今もじわじわと私を蝕んでいる。



 

ごめんね、みんな。


ママは、浮気をしているの。

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私を見て ハチニク @hachiniku

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