第4話
毎日、といえど陽が昇ることはないが、起きてから眠るまでの時間、家事を除けば、シオはガロに言われた通りひたすら素振りをした。木の棒を振り回すシオを、チヅをはじめとした異形たちは面白そうに観察した。
ガロが帰宅すると共に食事を摂って眠りにつき、目が覚めると身体の動かし方を教わる。そしてガロが出かけている間、ひたすら練習をする。木の棒は日毎に大きく重いものになり、自分の身体も洗えないほどの筋肉痛に悩まされ続けた。しかし、自分が強くなっている証拠だと思えば、疲労感さえ心地よかった。
部屋にはいつの間にか小さなソファーが一つ増えた。シオの身体に丁度よい大きさで、眠くなるとそこで丸くなり、自分の尻尾を抱いて眠りについた。
この身体にもだいぶ慣れた。シャワーを出てすぐに毛だらけの身体を揺すって水を飛ばすのは楽しかったが、ガロがやめろと怒ったので、風呂場で控えめに水を落とすことにした。
眠って起きてを繰り返す日々の中、ガロはたまにシオをつれて街に出た。最初は恐ろしくて堪らなかった街並みが、賑やかで胸の弾む景色に見えた。屋台で買った琥珀色の饅頭は、頬がとろけそうに美味しかった。
日付という概念がこの街にはない。夜の続く街で、住民たちは勝手に眠って起きてを繰り返す。それでもシオの背は少し伸びた。相変わらずガロは大きく、その背丈には全く及ばないが、シオの背も人間の指一本分ほどは伸びた。面を取って人間の姿に戻ったとしても、身体は大きくなっているはずだ。それがシオは嬉しかった。
ある晩、ガロは酒を舐めながら外から流れる音に耳を澄ませていた。たまに街の一角で太鼓を叩いたり楽器らしきものを演奏する酔狂な住民がいた。
シオは小さなソファーに腰を下ろし、尻尾の毛づくろいをしながら、窓から流れるその音楽を聴いていた。異形の街には似つかわしくない、そう思うのにやけに馴染んで聞こえる弦楽器の音色。以前見かけたその楽器がバイオリンによく似ているのに驚いたことを思い出した。もしかして、バイオリンを知っている人間がこの街に来て作ったのではないだろうか。それとも、人間に化けた異形が向こうの世界に持ち込んで広まったのだろうか。
向こうの世界とはなんだろう。
はっとして、シオは顔に手を当てた。面の感覚がある。顔にくっついているが、引っ張れば取れそうだ。鏡で見ると面ではないのに、自分はその面をつけている。その理由を思い出す。
「ガロ……」
不安げな声で、シオはガロを振り向いた。
「ぼくの名前は、シオだよね」
「何言ってるんだ?」
「ぼくは……ぼくは、人間の世界からここに来たんだよね。その時から、名前はシオだった?」
カップをテーブルに置き、ガロは「ああ」と唸るような声を漏らした。「おまえは前からそう言ってたぞ」
それでも頭を抱えてうずくまるシオに、ガロは自分のズボンのポケットを軽く叩いた。
「おまえのポケットに入ってるもん。そいつを握ってみな」
不思議に思いながらも、言われるままにシオはポケットに手を入れた。二本指で挟んで取り出した十円玉。それを右掌の肉球に乗せて、ぎゅっと握りしめてみる。
頭の中を津波が襲った。正確にいえば、津波のような記憶だった。決して幸福と呼べない生活。中傷、暴言、そして嘲笑の嵐。怒鳴りながらバットを振り上げるのは、確か母親……。
それで脇腹を殴られる前に、シオは小さく悲鳴を上げて十円玉を放りだした。銅の硬貨は床を転がり、テーブルの脚にぶつかって止まった。
「思い出したか」
「今のは……ぼくの、記憶?」
前の生活のことをすっかり忘れていたのに気が付いた。自分は人間という生き物で、ここで狐の姿をして生きている。事実はそれだけで、以前のことを思い出すことも、その思い出さえも薄れてしまっていた。母の名前も思い出せない。
「面にとられるんだ」
ガロが自分の額をちょいちょいとつついた。つつかれたように、シオは額に手を当てた。毛だらけの狐の顔だった。
「面をつけてここで暮らしていれば、以前の記憶は面に吸い取られちまう。忘れるんだ。だが、向こうの世界から持ってきたものさえあれば、それを伝って思い出せる。それに触れることで、記憶が戻ってくる」
ガロは立ち上がり、床に転がる十円玉を拾い上げた。
「つまり、これをなくせばおまえは永遠に人間の記憶もなくすってことだ。気が変わって人間世界に戻ることもなくなる。一生化け物のふりをして生きることになる」
シオはよろよろと腰を上げ、爪でそっと挟んで受け取った十円玉をポケットにしまった。自分が以前のことを忘れていたのもショックだったが、以前の生活もショックだった。永遠に忘れていたいと思う一方で、完璧に忘れればシオという存在の根幹が崩れるような不安もある。
「おまえの好きにしな」
どっかりと巨大なソファーに腰を落とすガロ。
「……ぼくは、ガロの非常食だよ」
囁いて、自分の腕を見下ろした。決して肥えてはいないが、あの頃より随分マシになったと思う。毛だらけの獣の腕だが、少々のことでは揺るがない力強さが宿っている。きっと食べ応えもあるだろう。
そう思い顔を上げたが、ガロはソファーに仰向けに寝転び、腕を枕にしている。
「そこまで困窮してねえよ」
「いつ、ぼくを食べるの」
忘れてしまうのは怖い。しかしあの生活に戻るぐらいなら、ガロの腹の中に収まった方が何百倍もマシに思える。しばらく考え、ガロは言った。
「次の仕事が終わったら、おれの刀を貸してやる。そろそろ振れるようになっただろ」
シオが壁に立てかけられた刀を見て目線を戻した時には、ガロは瞼を閉じていた。シオも自分のソファーに座り直し、狐のように丸くなる。
「おやすみ」
「ああ」と低い声が聞こえた。遠い音楽はまだ鳴り響いていた。
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