第2話

 息を弾ませながら立ち止まり、恐る恐る振り返ったが、狼男は追いかけてきてはいなかった。安堵の吐息と共に首を巡らせ周囲を見渡す。いつの間にか駅舎は遠くなり、灯りの溢れる街の中にいた。背の低く古い建物が並び、道に飛び出した看板が点灯している。店名から推し量るに、食事を提供する店ばかりだ。店先にも屋台が点在し、嗅いだことはないが香ばしいにおいが鼻先をくすぐる。屋台の鉄板では何かの肉が焼かれ、建物の中からも美味そうなにおいが流れてきていた。車がすれ違うことも不可能なほどの狭い道には多くの住民が歩いていて、やかましい声が飛び交っている。

 住民は全て、人間の姿をしていなかった。あの駅員のような恐ろしい形相をした怪物や、馬や熊の顔をのぞかせた異形が闊歩している。のっしのっしと歩いて来た牛男を慌てて避け、シオは呆然と街を見つめていた。

 ここは人間の住む街ではない。

 突然、足が宙につかなくなる。後ろから自分の襟首をつかむ相手を振り向いた。ぶよぶよの肉塊の中に目鼻はなく、大きな口だけがついた化け物だった。

「ちょうどいい、客に出す肉が足りなかったんだ」

 一軒の店に化け物が歩いていく。その片手に握られた肉切り包丁を目にし、シオの心臓が大きく跳ねた。

 大声で叫びながら暴れるが、化け物の力は遥かに強い。

「よしよし、暴れるな。活きのいい人間だな」

 包丁を持った手が、腹を抱えようとする。その太い指先に、シオは精いっぱい噛みついた。豚の声に似た悲鳴を上げて、化け物が手を緩める。地面に落っこちたシオは、兎のように跳ね起きると全力で走り出した。

「人間だ」「人間がいるぞ」

 異形たちが自分を見て囁き合っている。飯が逃げたと、豚の声がキイキイとがなり立てて追ってくる。ちらりと後ろを見ると、包丁を振りかざして追いかけてくる化け物の姿が目に入り、シオは無我夢中で駆け続けた。

 街はぐねぐねと入り組み、自分がどこから来たのかも全くわからない。異形たちにぶつかりながら、シオは懸命に駆ける。しばらく何も食べていないせいか、ぐらぐらと足元が揺れた。何度も転んで起き上がり、必死に裸足で地面を蹴った。

 もう駄目だ。息が切れ、視界まで歪む。よろよろと路地に足を踏み入れた時、むんずと再び襟首を掴まれた。何か黒いものの中に押し込まれる。力を振り絞って暴れると、「静かにしろ」と低い声がした。「あいつが来るぞ」とも言った。

 キイキイ声が近づき、シオは暴れるのをやめて息を殺す。布の中には温かで分厚い塊があり、無意識にしがみついていた。汗と土の交じった獣のにおいが充満している。不思議と不快なにおいではなかった。

「こっちに人間が来なかったか」

 あの肉塊の化け物の声が聞こえ、シオは石のように身体を固める。

「こんなちっさいやつだ」

 低い声が返事をする。

「俺の前を走ってったぞ。すばしっこいガキだったな」

 それだそれだと嬉しそうな声をあげ、どたどたと駆け出す足音が聞こえた。微妙に足元が揺れているのは、心臓の鼓動が激しいからではないだろう。

 その声も音も揺れも全てが遠ざかった頃、自分を囲う黒い布が持ち上がった。

「くそ、面倒ごとに巻き込みやがって」

 そう言うのは、電車で出会った狼男だった。コートの中に隠してくれていたのだ。シオはへなへなとその場にへたり込んだ。

「おい、あいつはいなくなったぞ。おまえも早くどっかに行け」

「……もう、いい」

 自然と、そんな言葉が口をついていた。「ああ?」狼男が怪訝な声を出す。シオは汗を拭うふりをして、視界の滲んだ目元を拭った。

「もういいってなんだおまえ。食われてえのか?」

 わからないと囁く。電車でも同じ台詞を言ったことを思い出した。情けなさに零れそうになる涙を懸命に堪える。だが、この異形ばかりの街に自分の居場所などないことはすぐに理解した。かといって、何とかして元居た場所に戻ることも考えられない。家にいられなくて、どこかを目指して電車に乗ったのだから。どこにもいけないことを理解すると、せめて痛くないように誰かが殺してくれればと思った。

 狼男は舌打ちし、路地から出て去っていった。

 シオは膝を抱え、建物の隙間で目を閉じた。血の滲んだ裸足がじくじくと痛む。寒くも暑くもないのが幸いだ。もう何も考えたくなくて、立てた膝に額を押し付けた。

 疲労から眠りかけた時、ちっという音が聞こえ、身体が浮いた。舌打ちをした相手に抱えられ、コートの中に突っ込まれた。それが狼男であることは、さっきと同じにおいでわかった。まるで犬にでもなったような気分だった。


 ぽいと放られ床で打った背中をさすっていると、部屋の灯りが点いた。眩しさに目を細める。天井がやけに低く見えるのは、狼男がでかいせいだろう。部屋の中央には巨大なソファーが横たわり、壁際には薄汚れたシンクがある。そばには一組のテーブルと椅子があり、狼男がどっかりとそこに腰掛けた。これから、人間という食材を使った晩飯の時間なのだろう。覚悟したはずなのに、シオはうずくまったまま恐ろしさに身体を縮こまらせた。

「そんなにビクつくな。おまえみたいな骨だらけの人間なんて、不味いに決まってる」

 山高帽をテーブルに置いた男の顔は、やはり狼そのものだった。夢のようだが、夢だなんてシオは思わなかった。

「安心しろ、おまえがもっと太ってから食ってやる。今は非常食だ」

 物騒な台詞だが、今すぐ食われるわけではないと知り、シオの身体に安心感が満ちる。同時に緊張が緩んだのだろう、電気が切れるように視界が暗くなり、シオは意識を手放した。


 目が覚めても、窓の外は夜だった。煌々と街の灯が輝いている。ソファーの上で目を覚ましたシオに、ここは朝と昼のない異形の街なのだと狼男は言った。ごくまれに人の世界と繋がることがあり、シオのような人間が迷い込むことがあるらしい。

 狼男に言われるがまま、バスルームでシャワーを浴びた。いつの間に手に入れたのだろう、身体に合うサイズの服を渡すのに、大人しく着替える。だがズボンと下着の後ろには指が三本通るほどの穴が開いていた。

「針と糸、持ってない……?」

 着替えたはいいものの自分で縫って直そうとするシオに、狼男は裁縫道具ではなく一つの面を押し付けた。それは狐の面だった。白い顔に、細い目の周囲には赤い隈取の模様がある。

「ここでは、人間は食いもんだ。外に出れば、さっさと取って食われるぞ」

 この面をつければ、人の姿を隠せるのだと言う。半信半疑で、シオは洗面所の鏡の前で、そっと顔に面を被せた。

 吸いつくようにぴたりと面がくっついたと思うと、全身を妙な感覚が駆け抜けた。むずむずとした痒みに似た、くすぐったいような感触。そして鏡を見るシオは、思わず声をあげた。

 自分の顔が、面に似てはいるがリアルな狐のものになっている。それだけではない、服から覗く肌一面に白い毛が生え、短くなった指の先から鋭い爪が飛び出す。悲鳴と共に面を外そうと顔に手をやると、いつの間にか後ろに立っていた狼男がその手を掴んだ。

「いいのか。外すのはいつでもできるが、それを外せばおまえの姿は人間のままだ。食ってくださいっつってるようなもんだぞ」

 それを聞いて、シオは手の力を抜いた。鏡の中には、二本足で直立し、服を着た白狐がいる。まさに化け物の姿だ。これなら街に紛れても人間だとバレそうにはない。促されるまま鏡の前を離れ、部屋のソファーに浅く腰掛けた。隣に狼男が座り、シオが転げそうなほどソファーは深く沈みこんだ。むずむずするので触れてみると、尻には白くふさふさした尻尾が生えていた。ズボンの後ろに空いた穴からその尻尾を外に出した。

「全く、面倒かけやがって」

 ソファーの前にあるローテーブルには、骨のついた肉を乗せた皿があった。その一本を鷲掴み、狼男は豪快に齧る。思わずシオはその口元を凝視してしまう。目下忘れていた空腹という存在が、今になって主張を始めていた。腹がぐうと鳴り、口の中いっぱいに涎が溜まる。

 狼男は舌打ちし、皿へ顎をしゃくった。「食え」と短く言った。「部屋で野垂れ死なれたらたまらん」

 獣の手を伸ばし、一つ掴んだ肉をじっと見るが、何の動物のものかわからない。だが一度齧りつくと止まらなかった。その美味さに涙さえ零れそうだった。

「おまえ、何か持ってるもんはないか」

 しばらくそれを見下ろしていた狼男が言った。

「なにかって」

「なんでもいい。持ち込んだものがあったら出してみろ」

 少し考え、シオは洗面所に引き返し、床に畳んで置いていたぼろぼろのハーフパンツのポケットを探った。狼男の横に戻り、手を開く。

「これだけ……」

 手のひらには、汚れた十円玉が一枚乗っていた。

「金だな」狼男は顎に手を当てる。「失くすなよ。肌身離さず持っておけ。じゃないと、戻れなくなるやもしれん」

「どういうこと」

 シオは尋ねたが、肉にかぶりつく狼男は答えなかった。代わりに、「おまえも戻りたいだろ」と言う。

 今度はシオが返事をしなかったが、指についた油を舐めとりながら狼男は続けた。

「いくら誤魔化せるっつっても、おまえは人間に違いねえ。どうにかして戻る方法を探さないとな」

「……戻りたくない」

「わがまま言うな」

 そういう狼男に、シオは震える声でこれまで受けた仕打ちを伝えた。誰かに自分の境遇を語るのは初めてで、説明はたどたどしかった。詰まるたびに、何度も唇を噛んだ。

「戻るぐらいなら、狼さんに食べられた方がいい」

 狼は失笑する。

「なに馬鹿なこと言ってやがる」

「初めて、ぼくを助けてくれた人だから。役に立って死ねるなら、その方がいい」

 ちっと、狼男は何度目かの舌打ちをする。生意気にと愚痴をこぼす。

「ここにいるなら、おまえは俺の非常食だ。覚悟しとけ」

 鋭い爪を向けられ、シオはびくりと肩を震わせる。その爪先で、狼男はシオのズボンのポケットをつついた。そこには、先ほどの十円玉が入っていた。

「そんでも、これは持っとけ。気が変わるなんてのは、いくらでもあるからな」

「変わらないよ」

「うるせえ」

 二人は肉を食べ続けた。窓の外は、夜のままだった。

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