深夜街
ふあ(柴野日向)
第1話
すっかり夜の帳が下りた頃、シオは路地裏から通りに這い出た。帰宅ラッシュの時間はやや過ぎたが、それでもスーツ姿のサラリーマンやバイト帰りの学生たちが忙しなく通りを行き交っている。幸い、陽が暮れても雪は降り出さなかった。
鼠のように忙しなく頭を動かして周囲の様子を覗いながら、足早に雑踏に紛れる。二時間前に絡んできた不良たちの姿は見えない。路地の先が行き止まりと知らずに諦めた風だったが、どこかで待ち伏せしているとも限らない。金がないと知られれば、腹いせにリンチに遭わされる危険性がある。
あてもなく彷徨っている内に、大きな駅の前に出た。広場の時計を見上げ、夜の十時を過ぎていることを知る。十二歳のシオは警察に補導されてもおかしくない。そうなれば、あの家に強制送還されてしまう。自分が何を言おうと、外面の良い母親の内面を誰も信じはしないだろう。殺されるのも時間の問題だなんて、誰一人信じるはずがない。
昨日バットで叩かれたばかりの脇腹をおさえると、空腹を思い出した。丸二日、水しか飲んでいない。もう腹は鳴らないが、そろそろ何か食べる方法を見つけなければ。
とぼとぼと歩きながら、ハーフパンツのポケットに右手を突っ込み、目の前で開く。百円玉が二枚に十円玉が五枚。全財産、二百五十円。
スーパーでおにぎりを買おうか。だけど、それからどうする。ゴミ箱でも漁るのか。店員に通報されれば、一発で終わりだ。
自分でも知らないうちに、シオは駅の券売機の前で路線図を見上げていた。知らない場所に行こう。そこならば、なにか新しい道が待っているかもしれない。馬鹿馬鹿しい考えだとは分かっている。二百五十円の距離なんて、たかが知れている。だが吸い込まれるように二百四十円分の硬貨を投入口に落とし、切符を手にした。改札をくぐると、もう戻れない気持ちに不思議と背筋が粟立った。クロックスを引きずってホームへの階段を上がり、五分後にやって来た電車に乗り込み、座席に腰を落とした。車内は適度に混んでいたが、立っている人はいなかった。
電車が走る振動と、足元から吹きあがる暖房の温みが心地よく、熟睡していたシオは重たい瞼を持ち上げた。はっとして飛び起きる。目の前のシートで横一列に並んで座っていた乗客の姿がない。もしかして既に終点を過ぎ、車庫に向かっているのでは。
焦って周囲を見渡し、ほっと息をつく。シオが座っているのは六人掛けシートの左端。その同じシートの真ん中に、乗客が一人座っていた。この人が乗っているのなら、まだこの電車は客を運んでいる最中だ。とっくに二百四十円区間は過ぎているが、改札でわけを話せば通してくれるだろうか。もし家に連絡を入れられるなら、逃げるしかない。
重い気持ちで、正面に視線を移す。窓の外は真っ暗で、疲れた自分の顔が窓ガラスに反射している。その向こうには一つの灯りもない。どこに向かっているか知らないが、民家の灯りさえ見つからないだなんて、一体どこを走っているのか。
「おい」
首をひねっていると、低く唸るような声が耳に入り、咄嗟に身を竦ませた。ぎこちなく視線を横に向けると、唯一の乗客は前を向いたまま続けて言った。
「おまえ、どこから乗ったんだ」
真っ黒のコートを身に纏った、背の高い男だ。黒の山高帽を深く被りコートの襟を立てているから、顔がよく見えない。髭を剃っていないのか、隙間から灰色の毛がはみ出している。
「どこから乗った」
その髭が吐息に揺さぶられる。わからないとシオは囁いた。男は不気味だった。
「自分がいた駅もわからないのか」
苛立ちよりも呆れの滲む声だった。どうしようもなくなり、膝においた両手を握りこみ、シオは男から視線を剥がす。「全く……」男がぶつぶつと何か呟いているが、聞こえないふりをした。聞きたくないものを八割がた聞こえなくするのは、数少ない得意技だ。
男が黙ると、電車の走る音だけががたごとと響く。背もたれに身を預けぼんやりとしながら、随分長い間、駅に到着しないことに気が付いた。知らないうちに、死者を運ぶ乗り物に乗ってしまう怖い話を思い出したが、それでもいい気がした。だが、隣の男は死者にしてはあまりある存在感を放っていた。
突然、窓の外に灯が見えた。一点二点ぽつぽつとではなく、一気に街が近づいたようだ。光の粒が闇の中にばらまかれたように輝いている。思わずシオが目を見張ると、電車は徐々に速度を落とし、現れたホームの中に滑り込んで停止した。
「ここが終点だ。降りろ」
立ち上がった男がぶっきらぼうに言い、シオも座席から下りてホームに出た。床と柱と屋根があるだけの、閑散とした見たことのないホームだ。
「ここは、どこ」
釣られるように男の後ろをついて歩きながら尋ねる。だが男は鬱陶しそうに背後を一瞥して言った。
「街だ」
「街って、何市の? それとも、県出ちゃった?」
返事をせずに男が改札を出たから、シオは慌ててポケットを探り切符を取り出した。とても二百四十円区間ではなかったが、おずおずと差し出すと、駅員はそれを受けとった。青い制服と帽子の駅員を見上げて、シオはぎょっとした。異様に目が大きく、口が耳まで裂けている。灰色の皮膚はしわしわに乾ききり、まるで紙のようだ。慌てて駆け出し、シオは男の背にぴったりくっついた。
「なんだおまえ、ついてくるな」
「さ、さっきの、駅員の人……」
「あれが普通だ。ここじゃおまえがバケモンなんだよ」
男が立ち止まり、シオも足を止める。二メートルはなさそうだが、やはり背が高い。見上げていると、男は山高帽を右手で取ってみせた。
シオの喉の奥で引きつった悲鳴が漏れる。震える足を引くと、ぶかぶかのクロックスがすぽりと脱げた。
男の顔はまるで狼そっくりだった。頭に生えた三角の耳、金色の鋭い瞳、突き出した鼻、口を小さく開けただけで尖った牙がはみ出す。その顔は灰色の毛でおおわれている。
「今日の飯は、おまえにするか」
真っ赤な舌がだらりと口から垂れ下がるのが見えた途端、シオは声をあげて走り出した。
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