わたしのすてきなお兄様

岩上翠

第1話

「何を祈っていたの?」

「あ……ご、ごめんなさい! 勝手に入って……」


 礼拝堂のステンドグラスごしの光にきらめく銀の髪に、アメシストのような紫の瞳。

 気がつくと、見たこともないほどきれいな男の人が、わたしを見下ろしていた。



 ✻✻✻



 十歳のとき、優しかったお父様とお母様が流行り病で亡くなり、わたしは王宮に引き取られた。

 わたしのお母様が王室の血を引いていたからだ。

 王宮にいくつもある立派な宮殿の一つに住むことになったけど、下町で両親の愛に包まれて育ったわたしにとって、どんなに美しくても、そこは寂しい場所でしかなかった。


 息苦しい宮殿から抜け出して、王宮の広大な敷地内をあてもなくさまよった。

 すると、ひとけのない木立の奥に、小さな古い聖堂を見つけた。

 お父様とお母様のために祈ろうと、わたしは重い木の扉を開けて中の礼拝堂に入り、祭壇の前でひざまずいた。

 

 一心に祈っていたから、あとから人が来たことに気がつかなかった。

 すぐ隣に足音が聞こえて、パッと見上げると、見たこともないほどきれいな男の人が立っていた。


「何を祈っていたの?」

「あ……ご、ごめんなさい! 勝手に入って……」


 礼拝堂のステンドグラスごしの光にきらめく銀の髪に、アメシストのような紫の瞳。

 身なりからして、非常に高貴な人なのだろう。

 でも、わたしを見下ろすまなざしは、温かかった。


 そういえば、他の建物には入るなと、王宮へ来た初日に侍従長に言われていた。

 言いつけを破っているところを身分の高そうな人に見つかってしまい、わたしは泣きそうになった。

 もしも王宮を放り出されたら、この先どうやって生きていけばいいのかわからない。


 すると、彼はかがんで、わたしに目線を合わせた。


「聖堂には、誰でも、いつでも入っていいんだ」

「……そうなのですか?」

「ああ。きみの名前は?」

「ジョゼット。ジョゼット・フォーレです」

「ジョゼット……叔母上の忘れ形見のご令嬢か。俺はエドワール・グノー。きみの従兄だ」


 彼が教えてくれた名前は、この国の王太子殿下のものだった。




 エドワール王子はわたしより五つ年上の十五歳で、国王陛下のたった一人の息子で、誰もが二度見するほど美形な上にとても頭が良く、国中の貴族令嬢たちが花嫁になりたがっているような人だった。


 とても多忙なはずの彼は、なぜか、三日に一度はあの聖堂を訪れていた。

 たった一人の近衛騎士を聖堂の外で待たせ、祈るでもなくただお堂の中に佇み、しばらくの間ステンドグラスを見上げている。

 わたしもあの聖堂の居心地のいい空気が好きで、両親のために祈ろうと毎日訪れていた。

 だからわたしは美貌の王子様と自然に仲良くなり、いつの間にか彼のことを「お兄様」と呼ぶようになっていた。

 従兄妹だから何もおかしくはないけれど、この聖堂以外ではまったく接点のないすてきな王太子殿下をお兄様と呼ぶのは、少し奇妙なような、くすぐったいような気分だった。


「どうしてこの聖堂には誰も来ないのですか?」


 ある日、あまりにもこの聖堂でお兄様以外の人間に出くわさないので、不思議に思って尋ねてみた。

 彼は思案顔で呟いた。


「古くて今は使われていないし、ここは王宮の外れだし、正殿の隣には新しくてきれいな大聖堂があるし……それに、この場所は神聖力が強すぎるからかな」

「強すぎる?」

「ああ。神話では、王家の人間は神の子孫とされている。俺やジョゼにとっては、神の力……神聖力は心地がいいものなんだ。だけど、そうでない普通の人間にとって、ここの空気は清浄すぎて逆に息苦しいものになる。さらに、魔塔にいるような邪悪な魔法使いともなれば、ほんの少しこの聖堂に入っただけでも、耐えられないほどの苦しみを味わうだろう」

「そうなのですね……」


 金茶色の髪と目をした平凡な容姿の私が、銀の髪に紫の瞳を持つ美しいお兄様と同じ王家の人間だなんて、まだうまく信じられない。

 でも、この聖堂の空気が、わたしにとって気持ちのいいものであることは間違いなかった。内部の装飾にも古い時代の素朴な美しさがあるし、ここにいるだけで、なんだか体内の毒素が抜けて、生まれ変わったような清々しい気分になれる。

 多忙なお兄様も、だからこそ、この場所で息抜きをしているのだろうか。

 たまに王宮で見かけるお兄様はキリッとした表情で、そんな姿もとてもすてきなのだけど、ここにいるときだけは安らいだ様子で、気さくにわたしとお喋りをしてくれた。


 週に数回、廃れた聖堂でお兄様と過ごす時間に勇気づけられながら、下町育ちのわたしも、少しずつ王宮での生活に慣れていった。

 慣れないマナーや座学も、紳士的で博学なお兄様に近づきたくてがんばった。面倒なルールの多い社交も、お兄様の従妹として他の人たちに認めてもらうチャンスだと思えば、楽しみになった。


「ジョゼはえらいな。もう隣の国の言葉まで覚えたのか」

「ふふっ。隣国へ行かれるときには、通訳としていつでも呼んでくださいね」

「駄目だ。そんな危険な場所にきみを連れていくわけにはいかない」

「お兄様ったら、意外と心配性なのですね」


 きょうだいのいないお兄様はわたしを本当の妹のようにかわいがってくれたし、わたしもお兄様のことが大好きで、お兄様以外の男性など目に入らない位だった。

 お兄様、お兄様、とひたすら彼を慕うわたしは、宮廷人や使用人たちにすっかりお兄様っ子として認識されていたのだが、わたしが両親を早くに亡くしていたこともあり、温かい目で見守ってくれた。


 ずっとこんな穏やかな日々が続くのだと思っていた。

「聖女」オリアンヌ・ド・リールが現れるまでは。



 ✻✻✻



「まあ、あなたがジョゼ? エドワールに聞いていた通りのかわいらしい方ね」

「……お目にかかれて光栄です、オリアンヌ様」


 王宮の正殿で、お兄様と、お兄様の腕に手を絡めて歩くオリアンヌ様とすれちがった。

 わたしは十八歳になっていた。

 お兄様は二十三歳。オリアンヌ様は二十一歳らしい。容姿端麗な二人が並ぶと、とてもお似合いだった。


 わたしは丁寧に淑女の礼をした。オリアンヌ様は礼をしない。聖女という、この国では王太子と並ぶほど高貴な方なのだから当然だ。ただ艶然とほほえんでわたしを眺める。


 彼女は美しい人だった。

 ゆるくウェーブのかかった漆黒の髪に、吸いこまれそうな青の瞳。肌はミルクのように白く、儚げな顔立ちだけれど、長身でとてもスタイルがいい。

 辺境伯の娘で、去年、聖女の証である「聖痕」が背中に現れたそうだ。


 開国の際に初代国王を助けたという伝説の聖女は、背中にまるで天使の羽の名残りのような聖痕を持ち、人々の傷病を癒したと言われている。

 そんな聖女を騙るニセモノは数多い。

 聖女として正式に認定されれば自動的に、王子の婚約者になれるからだ。

 この国の王家は神の子孫だから、神の血を濃くする者は結婚相手として歓迎される。


 現王家が開かれて二百年。

 これまでに数十人のニセ聖女たちが現れ、欺瞞を暴かれて処刑された。

 聖女を騙ることは大罪だ。教会から罪人として破門され、未来永劫許されることはない。

 ニセ聖女たちはあの手この手で教会の聖女審査をくぐり抜けようとしたけれど、誰一人として合格した者はいなかった。

 そんな慎重な教会が、とうとう聖女として正式に認めたのがオリアンヌ・ド・リールだった。

 歳の近いエドワール王太子との婚約は、秒読みの段階と言われている。


「ねえ、三人で庭園を散歩しましょうよ。わたくし、もっとジョゼと仲良くなりたいわ。だってジョゼはエドワールにとって、妹も同然の子なのでしょう?」


 ふんわりとした微笑をたたえてオリアンヌ様がそう提案した。

 わたしの背中が、ぞわりと粟立った。

 いやだ、と思った。

 この人にお兄様の「妹」と呼ばれたことも、この人がお兄様を「エドワール」と呼び捨てするのも、どちらも耐えられないほどいやだ。


「……ジョゼ? 大丈夫か? 顔色が……」

「大丈夫です、殿。すみませんが今は急いでいるので、失礼いたします」


「殿下」と呼ばれて、お兄様が変な顔をした。でも、彼女の前では「お兄様」と呼びたくない。

 わたしは無理してほほえむと、もう一度さっと礼をして、逃げるようにその場を離れた。




 古い聖堂には、わたし以外、誰もいなかった。

 最近はお兄様も忙しいのか、ぱったりとここへ来なくなった。

 お兄様はオリアンヌ様に夢中なのだろう。あんなにきれいな人だし、開国二百年目にして初めての聖女なのだから、無理もない。

 国民も聖女登場のニュースに沸いていた。

 王太子ご成婚への期待も、日に日に高まっている。


 自分が醜い感情を抱いているのはわかっていた。

「あんな人いなければいいのに」なんて、聖女様に対して抱いてはいけない感情だ。

 平凡なわたしがどうあがいても、お兄様にとっては妹のような存在でしかないし、ましてや聖女になんてなれるわけがない。

 オリアンヌ様は何も悪くない。

 大好きなお兄様に迷惑をかけてはいけない。祝福しなくてはいけない――


 そのとき、ガタッと物音がした。

 お兄様かしら? と、期待をこめて振りかえる。

 でも、目に入ったのは一匹のネズミだった。

 最近よくこの聖堂で見かける、灰色のぽっちゃりとしたネズミだ。右耳にかじられたような跡がある。人なつっこい子で、わたしを怖がらずに見上げ、「何かちょうだい」とでも言うように後ろ脚で立つ姿がかわいい。


「……パンを食べる?」


 この子のために、この頃はドレスのポケットに紙に包んだ小さなパンを忍ばせていた。パンを持ち歩いてネズミにあげるなんて、とても貴族令嬢とは思えない行動だ。わたしの根っこの部分は、いつまでたっても下町娘なのかもしれない。


 だけど、うれしそうにパンを食べるネズミを見ていると心がなごんで、きちんとお兄様の婚約をお祝いしようと思えた。



 ✻✻✻



「まだ……の部屋に入ったこともないと?」

「ごめんなさい、お父様。……は……みたいで」


 お兄様とオリアンヌ様とお茶会をする約束の日になり、わたしは王太子の住まう宮殿へと向かっていた。

 時間よりもだいぶ早く来たのは、宮殿の正面にある庭園を見て、心を落ち着かせるためだった。

 お兄様があの人と結婚するのだと思うと、理性では納得していても、どうしても胸が苦しくなってしまう。

 だから、一人きりで心静かに花を眺めてからお茶会に臨もうと、庭園の中へ入ったのだけれど。

 先客がいた。

 迷路風に造園された垣根の向こうに、誰かがいる。

 話し声がしたから、見つかりたくなくて、反射的に花木の陰に身を隠した。


 お父様、と言っていた声は、オリアンヌ様の声だった。

 それでは男性の方は彼女の父、辺境伯ド・リールだろう。

 でもなぜこんな場所に?


「どういうことだ? 王太子には他に好いた女でもいるというのか?」


 どきん、と心臓が跳ねた。

 王太子とは、もちろんエドワールお兄様のことだ。

 オリアンヌ様の声が答える。


「さあ……そんな女はいないようですが。あの男が妹のようにかわいがっているというジョゼット・フォーレにも会いましたが、まだ乳臭い小娘でしたわ」


 え?

 ちょっと待って、今なんて言ったの?

 この人……聖女のはず……よね?


「それなら、お前の美貌でさっさと王太子をモノにしてしまえ。少しでも魔塔との繋がりを疑われたら、私たちは終わりなんだぞ」

「わかっております。お父様の率いる魔塔によって、影からこの国を支配する。その悲願のために、わたくしは必ず王太子と結婚し、国母となってみせます」


 聞きながら、サーッと血の気が引いていく。

 魔塔――それは、魔法を操る秘密結社の名だ。実際に、天を穿つように高くそびえる魔法研究のための塔が、辺境の地のどこかに存在するらしい。


 この国では、魔法は神に背くものとして厳しく禁じられている。魔塔など教会の敵の筆頭だ。もしも魔塔との関りが露見すれば、教会から破門された上に処刑される。

 神の子孫と呼ばれる王家とは、まるで対極の存在だ。

 そんな人が聖女を騙り、王太子であるお兄様と婚約しようとしているの?


 この国を、魔塔の支配下に置こうと目論んで。


 どうしよう。話を聞いていたことがバレたら、きっとただでは済まない。

 できるだけ物音を立てずにこの場を離れようとしたが、動転していたのか、足元の小石を蹴ってしまった。


「誰?」


 オリアンヌの鋭い声が飛ぶ。

 同時に、わたしは思い切り走った。


「მადჩუ」


 背後からオリアンヌが何かを唱えた。わたしは構わず走った。

 こういうとき、躊躇なく全力疾走できるのは下町育ちのいいところだと思う。もしも自分が走ったことなど一度もない王室育ちのお嬢様だったら、すぐにあの二人に捕まり、王都のドブ川に沈められていたかもしれない。




「通して! お兄様に会わせて!」


 わたしは王太子の宮殿に駆け込んだ。

 貴族令嬢にあるまじき鬼気迫る勢いに、衛兵や侍女たちが何事かと驚いた顔を向ける。

 だけど、お兄様がわたしと親しくしていることは周知の事実なので、止める人は誰もいない。


「ジョゼット様、どうされましたか?」


 お兄様の近衛騎士のリシャールが足早に近づいてきた。お兄様が聖堂に来るときにはいつも従えている騎士だから、わたしとも顔馴染みになっていた。

 いつも寡黙で無表情な彼が、珍しく心配そうにしている。

 わたしはそれほどひどい顔をしているのだろうか。


「リシャール、お兄様はどこ?」

「……こちらへ」


 彼は何も聞かずに案内してくれた。


 お兄様は執務室の机で仕事をしていた。

 リシャールに連れられて入ってきたわたしを見ると、一瞬、笑みを浮かべかけて、それから眉を曇らせた。


「ジョゼット……何かあったのか?」

「お兄様……」


 リシャールは黙って退室し、分厚い扉を閉めた。これで話が外へ聞こえる心配はない。

 わたしは机の方へ歩いた。お兄様に会えた安心感で、今になって足が震えそうになる。お兄様は立ち上がり、わたしのそばへ来た。


「お兄様、さっき……」


 はく、と、口から息が漏れた。

「庭園で」と、続きを言おうとしたのに、声にならない。

 ふたたび口を開いても、はくはく、と唇が動くだけで、喋れない。


「……ジョゼット?」

「あ……わたし…………」


 喋れた。でも、さっきの出来事を伝えようとすると、また声が出なくなる。

 無理に試すと、気分が悪くなってきた。

 お兄様の心配そうな顔が、わたしの顔に近づく。


「ジョゼット、大丈夫か? 何があった?」

「お兄様……」


 オリアンヌは最後に何かを唱えていた。

 あれは呪文?

 わたしが誰かにさっきのことを話せないように、魔法をかけたの?


 ハッと気がついた。

 喋れないなら、文字で伝えればいいんだ。


「お兄様、紙とペンをお借りしても?」

「ああ」


 わたしは急いで机に向かい、まっさらな便箋を出してペンを握った。

 ――でも、あのことを書こうとすると、手が動かない。手だけが麻痺してしまったかのように。

 気持ちが悪い。吐き気がしてきた。

 お兄様が気遣わしげにわたしの背に触れた。


「……ジョゼット。一体どうしたんだ?」

「……お兄様……」


 口が、はくはくと空気を吐き出す。

 言えない、ということすら言えない。まるで自分の口ではなくなってしまったかのようだ。

 ままならなさに涙が滲んだ。


 突然ノックの音がして、わたしは飛び上がりそうになった。

 扉の向こうからリシャールの声がする。


「殿下、オリアンヌ様がお越しです」


 そちらを見たお兄様の袖を必死につかみ、ブンブンと激しく首を横に振る。

 お兄様は驚いて紫色の目を見開いた。

 変な子だと思われたかもしれない。でも、今にも悪魔が扉から入ってこようとしているときに、気にしている余裕はなかった。


 お兄様はわたしをじっと見つめ、それから扉越しにリシャールに声をかけた。


「悪いが、急な案件が入って手が離せない。このあとのお茶会も延期してくれ。


 パッとお兄様を見上げた。

 いつもの美しい笑みを、安心させるように、わたしに向けてくれる。

 強烈な安堵を感じ、へたりこみそうになった。

 あの言葉によって、わたしは今この部屋にいないことになり、しばらくはオリアンヌの目を他の場所へ向けさせられる。


 扉の向こうでは、しばらくリシャールとオリアンヌが押し問答をしていたようだったが、やがて静かになった。

 お兄様が悪戯っぽく尋ねる。


「……それで、どうしてジョゼはオリアンヌとかくれんぼをしているんだ?」

「遊んでいるわけでは……」


 こんなときにもわたしの心をとろかす笑みと、切迫感のないセリフに脱力する。

 でも、そのおかげで強張っていた体の力も抜けて、どうすればいいのか考える余裕ができた。


「お兄様、お願いがあります」



 ✻✻✻



 最近、恐ろしい悪夢ばかり見る。神様に祈ったら、寝室の場所が良くないのでこの国の王太子の近くへ部屋を移すと良い、と啓示があった。悪夢に対して無力なわたしをどうか憐れみ、この宮殿に部屋を与えてほしい。


 ……と、わたしはもっともらしい口調でお兄様に懇願した。

 すぐにわたしの部屋は、元いた宮殿から、王太子の宮殿内のお兄様の部屋の向かいへ移された。


 神様を口実にしたのは申し訳ないけれど、こちらも命がかかっている上に、敵の悪行を訴える言葉まで封じられているのだ。今夜は寝る前に懺悔のお祈りを二十回唱えよう。


「ジョゼ、この部屋で構わないか?」

「はい。ありがとうございます、お兄様!」


 わたしは心からの感謝をこめて言った。

 さすがは目下の者に対して寛大なお兄様だ。人並外れた美貌を持つだけでなく、彼は心も温かいのだと、わたしはよく知っている。

 それにつけこむのは心苦しいけれど、さらにもう一つ、お願いを重ねる。


「あの、お兄様。すみませんが、啓示はもう一つあったのです」

「どんな?」

「はい、実は……『悪夢を防ぐために、腕の立つ近衛騎士に守ってもらいなさい』と言われました」

「……近衛騎士……」


 お兄様は怪訝な顔をした。

 やはり無理なお願いだったかしら?

 緊張して返事を待っていると、お兄様は険しい顔のまま、離れた場所に直立不動しているリシャールを呼んだ。


「……リシャール、お前は今日からしばらくジョゼの警護に当たってくれ」

「承知しました」

「ありがとうございます、お兄様! リシャール、よろしくお願いします!」


 会心の笑みが浮かんだ。

 よかった。これでしばらく時間を稼げる。


 まずはオリアンヌとその父親の辺境伯から、わたしの身を守る。

 王太子のそばにいれば、いくら魔法使いでも手が出せないだろう。

 お兄様がいない間は、迷惑だろうけれど、リシャールに守ってもらう。近衛騎士になれるのは王国の腕利きの騎士の中でも指折りの、最強レベルの騎士だけだ。そのリシャールがそばにいてくれれば安心だし、近衛騎士は他にもいるから、お兄様の警護が手薄になることはないはず。


 その間にオリアンヌと魔塔の関りを調べ、言い逃れのできない証拠をつかんで、お兄様と国王陛下に差しだすのだ。

 そうすればお兄様を、この国を、邪悪な魔法使いの手から守ることができる。

 絶対に、ニセ聖女なんかの思い通りにはさせない。


 お兄様は硬い表情でこちらを見ていたが、自分の計画で頭がいっぱいだったわたしは、そのことに気づかなかった。



 ✻✻✻



 予想はしていたけれど、オリアンヌは手強い相手だった。


 まずわたしは、宮殿の使用人たちに聞き込みをしてみた。

 オリアンヌ・ド・リールについてどう思う? と。

 けれど返ってきた答えはどれも、彼女を褒めそやす言葉だけ。


 二百年に一度の聖女。清楚で奥ゆかしい美人。貴賤の差なく病人を癒す慈母。彼女こそ王太子妃にふさわしい――


 どこにでもついてきてくれる忠義な近衛騎士リシャールの前で、わたしはギリ、と奥歯を噛んだ。

 彼女が美しいのは知っている。

 でも、彼女が人を癒やしているのは神聖力によってではない。禁じられた闇の魔法の力を使っているはずだ。


 リシャールにも同じ質問をしてみたけれど、「わかりません」というそっけない答えが返ってきただけだった。




 わたしは作戦を変え、オリアンヌが聖女として病人を癒やしている現場で証拠をつかむことにした。

 魔法には「呪文」と「代償」が必要だと言われている。

 もしも彼女がひそかに魔法を使っているなら、わたしに魔法を使ったときのように呪文を唱えるだろうし、どこかで魔法行為の代償を贖っているはずだ。


 彼女の近くへ行くには勇気が必要だったけれど、わたしの隣には王国屈指の近衛騎士がいる。

 オリアンヌの滞在する宮殿の侍女長から教えてもらった場所へ、わたしはリシャールとともに向かった。


「神の御心がなされますように」


 王宮内の大聖堂で、オリアンヌは癒しの儀式を行っていた。

 後方の椅子にはお兄様が座り、儀式を眺めている。

 わたしは建物の外から背伸びをして、窓の中の様子をのぞいていた。

 当然のような顔をしてオリアンヌがお兄様と一緒にいるところを見ると、胸の中に、暗い嵐が吹き荒れる。


 広い礼拝堂の中には、溢れんばかりに人々が詰めかけていた。貴族が多いけれど、王宮の使用人もいるし、一般市民も多い。

 この大聖堂からは、ほとんど神聖力が感じられない。大聖堂はあの木立の中の古い聖堂とは違うと、以前お兄様も言っていた。古い聖堂が建てられたときは人々の信仰の力が強かったけれど、この大聖堂は出世をもくろむ貴族が領民から搾り取った金を寄進して建てたものだから、と。

 魔法を使うオリアンヌが聖女としてこの大聖堂の中にいられるのも、この場所には神聖力がほとんどないからなのかもしれない。それでも、彼女の顔は少し青ざめているように見えるけれど。


「ジョゼット様、用件はお済みですか」

「リシャール……ごめんなさい、もう少しだけ待って」


 少しだけ急かすようにリシャールが問う。

 窓からこっそりと中をのぞくなんて、およそ貴族令嬢らしからぬ行為だ。

 わたしがリシャールを連れて怪しい行動を取っていたらお兄様の評判にも傷が付くから、お兄様の近衛騎士としては、こんなことはさせたくないのだろう。

 申し訳ないが、お兄様のためにも早く証拠をつかまなくてはいけない。

 目をこらし、窓ごしにオリアンヌの行動を見張る。


 でも、怪しいところは何もない。

 列をなす信者を前に、彼女が口にしている言葉は「神の御心がなされますように」だけだ。呪文のようなものを唱えている様子はまったく見られない。

 そして「神の御心がなされますように」という一言だけで、本当に、信者の傷も病気も治ってしまうようだった。


 もしかして、オリアンヌは本当に聖女なの?

 不安になってきたときに、礼拝堂の向こう側の窓に、何かの影が見えた気がした。


「リシャール、反対側へ回り込みましょう!」

「……では、私が先に」


 彼も怪しい影を見たのだろう。さっと周囲の安全を確認し、わたしを置いて先に行っても大丈夫と判断すると、長い足でたちまち大聖堂の向こう側へ走って行った。

 さすが精鋭の近衛騎士だ。足が速いだけでなく、リシャールは金髪と灰色の瞳の塩顔美形で、ひそかに宮廷女性からの人気も高い。クールな性格も高ポイントだ。

 一生懸命リシャールを追いかけながらも、わたしはそんなことを考えていた。


 だが、リシャールに追いついた途端、浮ついた考えは霧消した。


 彼の足元――先ほど怪しい影がいた辺り――に、大量の小動物の死体が散乱していたからだ。


「……これは……」

「ネズミですね。私が来たときには、他には誰もいませんでした」


 顔色ひとつ変えずに足元を見下ろし、リシャールが言う。

 古い聖堂でよく会うあのネズミを思い出し、胸が悪くなった。あの子は無事だろうか。

 魔法の代償、という言葉が頭をよぎる。


 やはりオリアンヌは聖女などではない。

 おそらく彼女の父親の辺境伯が、彼女が聖女として「癒やしの儀式」を行っている間、癒やしを望む信者へ、ここから密かに魔法をかけていたのだ。魔法では傷病は癒やせないと言われているから、おそらくその場しのぎの、鎮痛や体力増強といった魔法を。

 死んだネズミの数はきっと、オリアンヌに「癒やしの儀式」を受けた人数と同じはずだ。


 リシャールが物問いたげな顔をわたしに向ける。

 でも、わたしはこのことに関して何も言うことができない。もどかしくてたまらないが、オリアンヌの魔法はいまだにしっかりと効いている。

 それに、このネズミの死体だけでは状況証拠にしかならないだろう。

 わたしはリシャールを見上げた。


「……他にも行きたい場所ができたの。一緒に来てくれる?」

「ご随意に」


 礼拝堂の中のお兄様が、ちらりとこちらを見たような気がした。




「聖女オリアンヌ様のお言いつけで、部屋から替えの上着を取りに参りました」


 わたしはリシャールを連れ、オリアンヌが滞在している離宮へやってきた。

 離宮の侍女に「聖女の言いつけ」だと伝え、聖女のために用意された部屋へ通される。

 オリアンヌはまだ「癒やしの儀式」の最中だし、終わったあとには王太子も交えて大司教との食事会が開かれる予定だ。まだこの部屋には戻らない。

 リシャールとともにオリアンヌの私室に入ると、わたしは小声で言った。


「怪しいものを探して」

「承知しました」


 リシャールが寡黙なだけでなく察しのいい騎士で助かった。

 手袋を嵌めてチェストの引き出しを検めはじめた彼に背を向け、わたしは部屋の反対側を探すことにした。

 クローゼットを開ける。中には女性ものの衣服がどっさり入っている。とくに不審な点はない。

 その横の本棚に目を移す。半年前に聖女として認定され、ひと月前にこの離宮へ迎えられたばかりの客人だから、本はあまりない。あっても一般書ばかりで、魔術書の類は、当然ながら人目につくこの本棚には見当たらない。


 でも、整然と並んだ本の列に、一冊だけ、微妙に本が飛び出しているところがあった。

 その分厚い本を抜き出すと、地のページの下部が、四角くくりぬかれていた。

 わたしは本の入っていた本棚の奥をのぞいてみた。

 小さな箱がある。

 取り出して開いてみると、中身は指輪だった。禍々しい黒い石が嵌めこまれている。見ていると気分が悪くなってきた。

 魔塔の魔法使いは、メンバーになった証として、魔石の指輪を身につけると言われている。

 これがその指輪だろう。


「リシャール!」


 興奮して後ろを振りかえる。

 なぜか、わたしの背後に彼が立っていた。

 布のようなものを手に持っていて、わたしの顔に、それを伸ばす。


「何を……」


 しているの、という部分は声にならなかった。

 布で口をふさがれ、体を押さえつけられたからだ。

 強い薬品臭がして、意識が遠のく。


 気を失う前に、扉のところに誰かが立っているのがわかったけれど、逆光で顔は見えなかった。



 ✻✻✻ ✻✻✻



 目を覚ますと、そこは見慣れたわたしの部屋のベッドだった。

 天蓋は完全に閉じられていて、今が昼か夜かもわからない。


「わたし……痛っ……」


 体を起こしかけ、鋭い頭痛を感じる。

 わたしはオリアンヌの部屋を調べている最中に、リシャールに薬品を嗅がされたのだ。

 そのことを思い出すと、全身に悪寒が走った。


「……どうしてリシャールが……」

「ジョゼ。目が覚めたのか」


 天蓋が開き、お兄様が入ってきた。


「お兄様……?」


 なぜ、ここにお兄様が?


 状況がまったく飲みこめない。

 でもお兄様のきれいな顔を見ると、波立っていたわたしの心は落ち着いた。

 昔からそうだった。

 どんなに嫌なことがあっても、お兄様がわたしに笑いかけてくれれば、すべて忘れられる。


 彼はわたしのベッドに腰を下ろした。

 親密な距離に頬が熱くなる。


「お兄様……あの……」

「ジョゼ、いけない子だ」

「え……?」


 言葉とは裏腹に、お兄様はわたしの手をやさしく握った。

 大きな手から体温が伝わる。

 さっきの落ち着きはたちどころに消え去り、心臓が壊れそうなほど激しく打ちつける。


 お兄様は顔を近づけ、わたしの目をのぞきこんだ。

 銀色の髪が、さら、と揺れる音が聞こえるほど、近くで。


「あんなことをしたら駄目だろう?」

「…………オリアンヌの部屋に入ったことですか?」

「そうだ」

「でも……」


 お兄様はオリアンヌがニセ聖女で、しかも魔塔によって王国を支配しようとしていることを知らない。

 あの部屋で見つけた魔石の指輪のことも、やはり、言おうとしても魔法のせいで言えなかった。


 けれども、彼の婚約者になろうという女性の部屋に、ただの妹のようなわたしが無断で入り、あまつさえ私物を漁っていたのだ。しかも王太子の近衛騎士をともなって。

 叱られるのは当然だ。


 ところが、お兄様はわたしを叱るのではなく、やさしくたしなめた。


「危ないから、二度と使になど入ってはいけない」


 わたしは大きく目を瞠った。


「……え……え? …………お兄様、知って………………」

「彼女が魔塔の魔法使いだということを? いや、知らなかった」


 お兄様が棒読みでしらじらと言う。

 いつもはわたしの目を見て話してくれるのに、今は不自然に視線をそらしている。絶対に嘘だ。でもなぜそんな嘘をつくのだろう。

 わたしはハッと気がついた。


「もしかして、お兄様も証拠を探しておられたのですか? わたし、お兄様の邪魔をしてしまいました?」


 お兄様は何も答えず、ほほえみを浮かべている。

 そうだったのね。お兄様はオリアンヌの正体を知っていて、わざと泳がせていた。

 それなのにわたしは勇み足で彼女の部屋に乗りこみ、お兄様の計画を台無しにするところだったのかもしれない。魔法のせいで相談できなかったとはいえ、一人で空回りをしてしまったわ……。


「ごめんなさい、お兄様……」


 しゅんとうなだれると、頬に彼の手が触れた。

 目線を上げると、お兄様の美しい紫の瞳とぶつかった。


「あの女に見つからないためとはいえ、手荒な真似をしてすまなかった」

「いえ、いいのです」

「……ジョゼ。俺の宮殿へ移ったのは、魔法使いから身を守るためだったのか?」

「あ……はい、そうです……嘘をついてすみません……」


 そういえばわたしもお兄様に「神様の啓示」などと嘘をついていたので、おあいこだ。


 お兄様の指が、わたしの頬をなぞる。

 かあっと全身が熱くなる。

 彼は愁いを帯びた表情で尋ねた。


「俺の近衛騎士を欲しがったのも?」

「……はい……ご迷惑をおかけしてしまい……」

「リシャールが良かった?」

「えっ?」


 見ると、お兄様は真剣な顔で質問の返事を待っている。

 リシャール……リシャールが良かった……?

 ええ、リシャールが良かったわ。


「はい。彼はすばらしい騎士ですから」

「……………………」


 なぜかお兄様は無表情で黙り込んでしまった。

 何か問題でもあるのかしら……まさか、リシャールにも魔塔の息が……?

 ……いいえ、そんなことあるはずがないわ。彼は誰よりも忠誠心に厚い騎士だもの。

 胸をかすめた疑いを打ち消すように、わたしはお兄様に言った。


「リシャールは強くて仕事ができて、無口だけど親切で頼りがいがあって、そばにいてくれて良かったと本当に心から思います」

「………………………………」


 お兄様は無言で聞いていた。

 気のせいか、さっきよりも顔が青ざめているように見える。具合でも悪いのかしら?


「お兄様? 大丈夫ですか?」

「…………俺はオリアンヌがニセ聖女だと最初からわかっていた。あの女は何があろうと決して古い聖堂には近寄ろうとしなかったし僅かな神聖力が漂っているだけの大聖堂でさえ入るのはつらそうだったから。だが魔塔を叩き潰す好機ととらえ聖女として受け入れたフリをして尻尾を出すのを待っていた」

「まあ……やはりお兄様は何もかもご存知だったのですね。ご慧眼と思慮深いご対応、さすがはこの国の将来を担う王太子殿下であらせられます」


 お兄様は長台詞で説明した。わたしは心底感じ入って称賛した。

 ようやくお兄様は普段通りの余裕に満ちた表情に戻り、口の端を上げて笑った。そのうれしそうな顔があまりに美麗で、目を奪われる。

 わたしの耳に顔を寄せ、お兄様が囁く。


「そのせいでジョゼに会えなくて寂しかった。魔塔との繋がりをつかむために、ずっとオリアンヌと行動をともにしないといけなかったから」


 あまりに近くてどぎまぎしてしまう。

 お兄様は単にわたしに事情を説明しているだけだし、顔を近づけているのは誰かに話を聞かれないよう警戒しているだけなのに。


「わ、わたしも、寂しかったです。聖堂に行ってもお兄様がいらっしゃらないから、とても……」

「ジョゼ……」


 思わず本心を吐露してしまった。

 貴族令嬢はいついかなる場合も、優雅で凛としていなければならない。弱音を吐くのはみっともないこと。どんなにつらいときも、微笑を絶やさずに生きるべし。

 十歳で王宮に引き取られてすぐに叩きこまれた教えを、いまだに実践できていない自分が情けない。

 でも。

 パッと勢いよく顔を上げる。


「でも、お兄様がそのおつもりでしたら、わたしもいくらでも協力いたします! しばらくお会いできない位、王家に仇なす魔塔を叩き潰せるのでしたらなんでもありません! なにしろわたしは、偉大なるグノー王家の王太子であるお兄様の、妹同然の従妹なのですから!!」


 気合いをこめて、宣言した。


 お兄様は、酒を注文したら薬草茶を出された人のような顔をしていた。

 そして、なぜか宙に浮かせた手をさまよわせていたが、やがてそれを下ろすと、穏やかに言った。


「……ああ。ジョゼが協力してくれたら心強い」

「はいっ!」


 わたしは笑顔で返事をしたが、お兄様の顔に笑みはなかった。きっと、これからするべきことを考え、気を引き締めているのだろう。



 ✻✻✻ ✻✻✻



 それからのお兄様の行動は迅速だった。

 前触れもなくオリアンヌとその父親である辺境伯を近衛兵たちに捕縛させると、あらかじめ国王夫妻と大司教、そして宮廷の要職にある大臣たちを呼び集めておいたあの古い聖堂へ、オリアンヌと父親を放り込んだ。


「やめて……この場所は嫌……あああああっ!!」


 禁術に手を染めた魔法使いの父と娘は、この聖堂に満ちる強力な神聖力に耐えられなかった。

 礼拝堂の床で苦しそうにのたうち回ると、二人とも、数分後には気を失っていた。

 その数分で、美しかったオリアンヌの黒髪は真っ白になり、肌には苦悶の皺が刻まれていた。

 父親の方も、二十は老けて見えた。

 まるで、身の毛もよだつほど恐ろしいものでも目にしたかのように。


 乳臭い小娘、などとわたしを蔑んだオリアンヌに何か言い返してやりたいと思っていたのだけれど、その姿を見たら、何も言葉が出なかった。

 お兄様は集まった方々に言った。


「これがオリアンヌと辺境伯ド・リールの正体です。ド・リールは魔塔のトップであり、娘のオリアンヌは魔塔屈指の魔法使いで、グノー王家の乗っ取りを目論んでいました。オリアンヌは魔塔のメンバーであるという証拠の魔石の指輪も所持していました。聖痕も癒やしの儀式も、ド・リールの魔法によるいかさまです。大司教、すみやかに聖女認定の取り消しをしていただけますね?」

「……これだけのものを見せつけられては、致し方ありませんな……」


 権威を重んじる教会が、一度発表したことを取り消すというのはかなり異例のことだ。けれどもこれだけお兄様にお膳立てをされ、ニセ聖女だと突きつけられては、否とは言えなかったのだろう。

 大司教は聖女オリアンヌから聖女の称号を剥奪し、父親ともども破門にした。

 オリアンヌと辺境伯の処刑も決まり、もちろん、オリアンヌとお兄様の縁談も、泡沫のように消えてなくなった。



 ✻✻✻ ✻✻✻ ✻✻✻



「なんだか、悪い夢でも見ていたようです」


 今日は久しぶりに、古い聖堂にお兄様と来ている。

 オリアンヌたちの処刑も執行され、辺境伯の領地は没収。領地内にひそかに建造されていた魔塔も王国騎士団の捜索によって発見され、現在は立ち入り禁止となっており、解体の準備が進められている。

 王宮にはいつも通りの日常が戻っていた。

 喜ぶべきことだけれど、わたしは少しだけ残念な気持ちで、お兄様に言った。


「わたしの部屋も、元の宮殿へ戻さないといけませんね」


 ずるずるとそのままで来てしまったけれど、元々わたしの部屋は、お兄様の宮殿とは別の宮殿にある。いつまでも居候していてはいけない。

 だけど、腕組みをして立つお兄様は、きれいな顔をこてん、とかしげて言った。


「元の宮殿? ああ、あそこは閉鎖した。老朽化が進んでいたから」

「えっ? 老朽化?」


 寝耳に水とはこのことだ。あの宮殿は、歴史あるこの王宮の建造物の中では比較的新しく、居住にもなんの問題もなかったように思えたけれど……。

 目を点にしているわたしを見て、お兄様は楽しそうに笑いかけた。


「だから、残念だが戻れないな。ずっと俺の宮殿にいるといい」

「……いいのですか? ありがとうございます」


 いきなり閉鎖と聞いて驚いたけど、お兄様のそばにいられるなら、その方がうれしい。

 ゆるんでしまう顔を誤魔化すように、持ってきたバスケットの中身を取り出す。

 厨房からもらってきたマフィンが三つと、マフィンの切れ端が一つ。わたしはきょろきょろと礼拝堂の中を見回した。


「ネズミさん、いるかしら……?」


 チュー、と返事をするような鳴き声がした。見上げると、壁の小さな壁龕へきがんに灰色のネズミがいて、こちらを見ていた。右耳にかじられた跡がある。あの子だ。

 わたしは笑顔になり、そっと壁龕に近づいた。


「無事でよかったわ! さあ、マフィンをどうぞ」


 そろり、と静かにマフィンの切れ端を置き、その場を離れる。すぐにネズミは夢中でマフィンを食べはじめた。

 お兄様が茶化すように言った。


「ずいぶん仲がいいんだな」

「ふふっ。お兄様の分もありますよ? 切れ端ではなく、ちゃんとしたものが」

「そうか。では、頂こう」


 王子様にネズミと同じマフィンなんて怒られないかしらと内心ドキドキしていたけれど、お兄様が寛大でよかった。

 そうだわ。それならせっかくだから……。


「お兄様、リシャールも呼んで、三人でマフィンを……」


 突然、視界が暗くなった。

 目の辺りに温かな感触がある。

 お兄様が、両手でわたしに目隠しをしたのだ。


「お、お兄様……?」

「リシャールを呼ぶことは許さない。姿を見るのも駄目だ」

「え? なぜ……」


 返事はなく、かわりに、ふわりと体に腕を回され、後ろから抱きしめられた。


 たちまちわたしの顔に血が昇る。お兄様に見られなくてよかった。いや、そういう問題じゃなくて。


「……お兄様……」

「ジョゼ」

「はい……」

「名前で呼んで」


 耳元に低く囁かれて、さらに体温が上がる。


 名前で?


 急にどうしたのだろう。もしかして、わたしがリシャールのことを名前で呼んでいるから、お兄様も名前で呼ばれたくなった?

 オリアンヌがお兄様を「エドワール」と呼んでいるのを聞いて、わたしが嫉妬したみたいに?


 口元がほころんだ。


 わたしも全然お兄様離れができていないけれど、完璧に見えるお兄様も、案外、妹離れができていないのかもしれないわ。


 わたしはお兄様の腕に触れ、想いを込めて、彼の名を呼んだ。


「エド兄様」

「…………………………」


 喜んでくれると思ったのに、なぜだろう。

 彼は、わたしの背後でぐったりと脱力した。


「………………ん。まあ、それでもいいか」

「どういうことですか?」

「なんでもない」


 不意に、頭のてっぺんにやわらかな感触が降ってきた。


 お兄様がわたしから離れる。

 してやったり、とでも言いたげな、麗しいほほえみを浮かべながら。

 その顔にうっとりと見とれてしまう。

 ああ、今日もお兄様はすてきだわ。

 でも。


 今……わたしに何をしたの?

 もしかしたらそれは、妹にするには、親密すぎるようなことなのでは……?


 聞きたいけれど聞けない。心臓が暴れる。その可能性で頭がいっぱいになる。

 ステンドグラスの美しい光が、祝福するようにわたしたちに降り注ぐ。


 その答えはきっと、お兄様と神様だけがご存知なのだろう。

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わたしのすてきなお兄様 岩上翠 @iwasui

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