第39話 恐れていたこと
ロッシはクラウスを、二階の部屋に閉じ込めた。
「やつを逃がすなよ、先生」
帰りがけ、きつくギルベルトを睨み、彼は凄んだ。
「3年近く、宮廷にいたんだ。その間、連絡を取っていなかったんだろう? 今あいつが何を考えているか、あんたには、全くわかってないはずだ」
「クラウスのことなら心配いらない」
ギルベルトは言った。彼は余裕を取り戻していた。
「さっきも言った通り、あいつには、革命のことは何も話していない。従って、宮廷の連中も知りようがない。俺はむしろ、あいつが宮廷を追われた理由を知りたい」
「とにかく、しっかりと閉じ込めておくことだ。今、ここで情報が漏れたら……」
ロッシは、辺りを見回した。ため息をついて、首を横に振った。
「クラウスは友達だ。俺だって、彼をひどい目に遭わせたいわけじゃ、決してないんだ」
「クラウスは仲間を裏切るような人間じゃない。あいつは優しいやつだ」
「その優しさが問題なんだよ!」
苛立たし気にロッシは、歯と歯の間から声を絞り出した。
「自分より他人を優先する優しさが、最終的には破滅に繋がるんだ。革命は、そんな生易しいもんじゃない」
「俺に任せろ」
ギルベルトは揺るがなかった。
「クラウスのことなら、子どものころからよく知っている。何しろ、この手で育てたのだからな。大丈夫だ。あいつのことなら、この俺が保証する」
ロッシの眼光が、ふっと和らいだ。
「頼んだぜ、ギルベルト先生。俺だって、殺したくなんかない。わかるだろ?」
「クラウスを殺させはしない。ロッシ、それは、許さない」
「昔からあんたたちは……」
ロッシは何か言いかけて、やめた。
「しばらくの間、あんたの手元に留めて、様子を見ててくれ。頼むよ、先生。あんたにしかできないことだ」
クラウスは、足を長く伸ばして床に座っていた。両手を後ろに回されて、ベッドの脚に縛り付けられている。他に縛り付ける家具を、ロッシは見つけられなかったようだ。
「かわいそうに、クラウス」
ベッドの前の丸椅子に、ギルベルトは腰を下ろした。
「革命を起こすのか?」
垂れ下がった前髪の下から、クラウスが睨んだ。
「この国に、革命を?」
「ああ、そういうことになるだろう」
「ユートパクスのように、王族をギロチンにかけるのか?」
「……
前世紀末、ユートパクスで革命が起きた時、王や王妃をはじめ、多くの皇族・貴族が断頭台の露と消えた。
そのうちのひとりが、マリア・アンナ王妃だった。ウィスタリアから嫁いだ皇女だ。エドゥアルドの大叔母に当たる。
うっそりとギルベルトは笑った。
「だが、クラウス。これは、止めることはできない。戦争で、俺は、俺だけが生き残った。そのツケを、今から俺は払わなければならない」
「ツケ?」
「国のために死んだ奴らへの
「あなたが生き残ったのは、ゲシェンクに助けられたからだ。あなたは、彼を殺してやった。瀕死の重傷だった戦友を。彼への義務は、すでに払い終えたはずだ」
「そうだ。だが、死んだのは彼だけじゃない。びっくりするほど多くの若者たちが、あの戦争で死んでいった」
「……今になって、何ができる?」
「さあな。何もできないかもしれない」
ギルベルトは笑った。
ふっと笑いやんだ。
「でも、なさずにはいられない」
投げ出した足で、クラウスは床を強く蹴った。
「とにかく、この縄を解いてくれ」
ギルベルトの目が、すうーっと細くなった。
「そしたらお前は、宮殿へ帰るんだろう?」
「宮殿へは帰らない。プリンスは結婚する。僕は、彼の邪魔をしたくない」
「結婚……? だから、ここへ帰ってきたのか?」
クラウスは言葉に詰まった。だが、すぐに反抗的な目で、ギルベルトを見上げた。
「違う。さっきも言ったが、僕は、あなたのところへ帰る気なんか、毛頭なかった!」
ギルベルトはクラウスに近づいた。しゃがみ込み、床に座り込んでいる彼に目線を合わせる。
「おい、クラウス。お前は、まだ、お前たちは……?」
「違う」
クラウスは首を横に振った。
「僕は、ゲシェンクではない」
「そうか」
ほっと、ギルベルトはため息をついた。そんな彼を睨むようにして、クラウスが続ける。
「今度は僕から質問だ。ハンナから聞いた。ギルベルト。彼女とは……
ギルベルトは答えなかった。クラウスの質問に質問で返した。
「彼女は契約を破ったのか? 絶対に秘密にすると約束したのに……特に、クラウス、お前には」
「この家を見れば、すぐにわかる。この家には、彼女の気配がどこにもない」
「お前が帰ってくることはないと、思っていたんだ。怪我をしたお前を、ここに連れてきたのは失敗だった。でも幸い、お前はすぐに帰っていった。だから……」
ギルベルトを遮り、クラウスは叫んだ。
「なんでそんなことを!」
「なんで?」
ギルベルトは椅子から立ち上がった。机の上から、ナイフを取り上げる。クラウスの両手を縛めていたロープを切り離した。
「こうすることを恐れていたからだ」
両手で彼を抱き上げる。
「何をするんだ! ギルベルト!」
クラウスは叫んだ。
抱き上げられ、ベッドに落とされた。ベッドの脚に縛り付けていたロープは、切り落とされた。だが、クラウスの両手は拘束されたままだ。
「暴れるんじゃない」
叱責するような声で、ギルベルトが言った。
幼い頃、いたずらをすると、よくこんな声で叱られた。思わず、クラウスの抵抗が弱まった。
その隙にギルベルトは、両手を繋いでいるロープを、器用にベッドの柵に結び付けた。
「お前は縛られたままだった。抵抗できなかった。だったら、彼への言い訳も立つんじゃないか?」
「何言って……」
クラウスは茫然とした。ギルベルトの言っている意味もわからなければ、自分の身に起こっていることも信じられなかった。
仰向けに投げ出したクラウスの上に、ギルベルトが馬乗りになった。
シャツの襟元に手を掛け、一気に開く。
ボタンが飛んだ。
「お前のことは、知っている。隅から隅まで、知っているんだ」
理解不能だった。極限状態の中で、クラウスは自分を放棄した。考えることを。自分が自分であろうとすることを。
◇
濡れた布が、丁寧に体を拭いている。力なく、クラウスはされるがままになっていた。何度も濯がれ、固く絞られた布が、体の隅々まできれいに清めていく。
「みず……」
つぶやくと、汗ばんだ背中の下に手が回された。そっと抱き起され、唇に、コップの縁が当てられる。
喉を鳴らし、クラウスは飲み干した。
「お前が戻ってきたからだ」
ギルベルトは、ベッドの縁に腰を下ろした。クラウスの頬に指で触れる。
「戻ってきたりするからだ」
「……」
ギルベルトは、クラウスの手をつかんだ。白い肌に残る赤黒い縄目の後を、そっとなぞる。
「お前の負担になりたくなかった。お前が俺を……殺す時、」
はっと、クラウスが息を飲んだ。
「こんな風になったら、きっとお前は、俺を殺せなくなる。そう思った。でも、お前はやり遂げようとするだろう。そしてそのことは、一生、お前の中に心の傷として残る。……そんな苦しみを味わわせるくらいなら、俺のこの思いは……お前への思いは、隠し通そうと思った」
「……」
クラウスは無言だった。頑なな拒否の気配が感じられた。
「でもお前は、ここに戻ってきた。ここに。俺のところに! だめだ。もうだめだよ。クラウス、お前は俺から逃げられない」
「……」
「なあ、クラウス。なにか、言ってくれ」
「……」
「わかってる。あの子のことを考えているんだね?」
クラウスの裸の肩にガウンを被せ、ギルベルトは言った。
「お前があの子を助けたいと思っているのは、よくわかってる。オーディン・マークスの息子を。メトフェッセルの籠の鳥を。でも、ゲシェンクの本能を、恋愛と勘違いしてはいけない」
「ゲシェンクの本能?」
「お前は見つけたんだ。ゲシェンクとなった自分を委ねることができる者を。それが、彼だ。これは決して、恋愛などではない」
「違う!」
クラウスは叫んだ。
「勘違いなんか……恋愛なんか! あなたは、プリンスの資質を勘違いしている。あの人は、人の上に立つ王だ。あの人こそが、真の帝王なんだ。僕の手に届く人ではない」
「わかっているなら、いいじゃないか」
ギルベルトは嘯いた。そして、被せたガウンごと、クラウスをそっと抱き寄せる。まるで、少しでも乱暴にしたら壊れてしまう、とでもいうように。
「このあいだ、あの子は俺に言った。自分にはお前は殺せない。そんなことをするくらいなら、自分が死んだほうがずっといい、って。俺はその時……」
クラウスの頭を自分の肩に乗せた。ぐったりと凭れ掛かった黒髪の上に、自分の頭をもたせかける。
「死ねなくてもいいと思った。お前に殺してもらわなくて構わない。永遠に苦しみ続けても、それはそれで仕方がない。クラウス。お前と一度でも、体を交えることができたなら。お前への思いを、現実にすることができるのなら!」
「馬鹿な」
がばと、クラウスが頭をもたげた。
「そんな、そんな心配、永遠に苦しむなんて心配は、……、」
無用だと、言えなかった。
……殺せない。
自分に、この人は、殺せない。それは、こうして寝たからではなく、もっとずっと前から、クラウスの前に立ちはだかってきた恐怖だった。
「好きだ、クラウス。お前には迷惑かもしれないが、これが、俺の愛の形なんだ」
ギルベルトが、クラウスの顎をつかんで引き寄せた。
きつく閉じられた唇を舐め、静かに割り入っていく。
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