第2話:蘇りし翼
2024年4月26日、夕方16時過ぎ。長野県南佐久郡・金峰山上空。
雲の群れがいくつか漂う空が、黄昏時に向かって夕焼けに染まり始める。そんな黄金色に染まり始める漂う雲の手前に聳える整った美しい稜線を描く山が、言葉では表現しきれない威厳をもってそこにあった。
「――本当に美しいわね、富士山って」
この国の最高峰であり、この国に生まれ育った人間にとって象徴的な霊峰を、航空自衛隊百里基地・第3飛行隊所属のT-4練習機の後席から、ウクライナ空軍の戦闘機パイロット、リュドミラ・
幼い頃、両親から聞かされた『もうひとつの祖国』の象徴であり、浮世絵や童謡の中に何度も現れる敬われた存在、富士山。それを今、リュドミラはかつて父親も操ったことがあるのだろう、純国産練習機であるこのT-4の機内から眺めているのだ。
「本当、いつ見ても美しいです。これはちょっとした豆知識なのですが、海外にもよく伝わる写真や浮世絵などの多くは、今我々が眺めているのとは反対側、静岡県側から見たものなんですよ。……そちら側から見える
前席でこのT-4の操縦桿を握る第3飛行隊所属の戦闘機パイロットの五木一尉が彼女のその言葉にさり気なく返してきた。
「お気遣いありがとう、でもそちら側は一度浜松でT-4の中から見ることができたから、こうして反対側も見ることができて、本当に良かったわ」
リュドミラは富士山に視線を落とし続けながら、今まさに心に浮かんだ心情を素直に口にする。
「――あたまを雲の 上に出し」
不意にリュドミラの口から零れ落ちる日本の童謡。その歌声に前席の五木がキャノピーフレームのバックミラー越しにこちらの様子を機にかけてくるが、彼女は気にせず歌い続ける。
「四方の山を 見おろして かみなりさまを 下に聞く 富士は日本一の山」
ふじの山。古いこの国の童謡で、幼い頃訪れた祖父母の家で祖母が歌って聞かせてくれた『もうひとつの祖国』での懐かしい記憶が蘇る歌のひとつ。祖母は童謡を孫に歌って聞かせることが本当に好きだったらしく、彼女が覚えている童謡の多くが祖母が歌っていたのを何度も聞いて覚えたものだった。
童謡の他にも、桃太郎や鶴の恩返しなどの古くから伝わる昔話を寝付けない時に祖母が読んで聞かせてくれたことも多々あった。
一方の祖父は、普段は無口で少し怒ったような顔をしながら農作業に精を出している記憶が多くを占める。不器用で無骨な『昔気質』の人だったのだと思う。
そんな祖父からお盆の頃、唯一面と向かって聞かされた話が、この国でいうところの『太平洋戦争』末期、祖父自身が明け暮れていた特攻機の操縦士としての訓練の話だった。当時はまだ幼かったため、祖父が話す内容のほとんどを上手く理解できなかったが、普段の少し怒ったような表情とは違う、ただただ真剣な表情から零れ落ちた言葉だけは、しっかりと覚えていた。
『――ワシは特攻には征けんかったけど、そのおかげでこがん平和な日本を見ることができた。いつかワシが死んだ後も、この平和な日本だけは、何としても守らんといかんとよ。先に靖国で待っとる仲間たちも、きっとそう願っとる』
祖父を含めたこの国の先祖たちがあの戦争の中下した結論云々は別として、祖父がたった一度きり語った特攻兵訓練生の頃の話から感じ取った想いと、童謡や昔話などの記憶が混然一体となった結果醸成されたのが、今に至るまでリュドミラが抱える『もうひとつの祖国観』なのだと、今夕焼け色に染まる富士山を目にして理解ができたような気がした。
「こうして今、夕焼けの色に染まりつつある富士山を見て、それをただ『美しい』と感じる表面的な感情だけではなくて、何と言ったらいいのかしら……、まるで生まれ故郷の教会で礼拝を受けた時のような、神聖な感情が湧き上がってきて、何か大きな存在に護られているような、心強いような、そんな気持ちになるの。『ふじの山』の歌のメロディのように優しくて、それでいて日本一という揺るぎないものが両立している、そんな気持ちで胸がいっぱいなの」
「――なんだか、フジワラ中尉は日本人より『日本人らしい』ですね」
前席の五木の言葉に、リュドミラは思わずキョトンとした表情になってしまった。
「別に悪い意味ではないですよ? ただ、日本生まれ日本育ち、海外なんて合同演習で行ったグアムとアラスカ程度の自分より、よっぽど日本人としての『精神性』というか『価値観』というものを具体的かつ情熱的に語られているな、と思ったものですから。素敵な事だと思いますし、そういう故郷を愛する心こそ、祖国を護るために最も力強い支えになると思いますから」
『祖国を護るため』
五木が何気なく発したその言葉に、第一の故郷から遠く離れたもうひとつの故郷への郷愁に引き寄せられていた心が、瞬く間に現実へと引き戻される。
今回日本にやって来たのは、彼女がこの世に生を受けたもうひとつの祖国であり、今この瞬間も戦禍に晒されているウクライナに、平和をもたらす力を手に入れ、そして広めていくため。
多くの同胞にとって、『ひとつ』しかない祖国に平和を取り戻すため。
そのために、自分は今こうして飛んでいるのだ。
リュドミラは改めて、大きく聳える冠雪した富士山を見下ろす。周囲の山々よりずば抜けて背の高い、孤高の存在といった佇まいで稜線の先に伸びる陸地に暮らす多くの人々を見守る富士山の威容のような存在となるために。
彼女のそんな決意さえ、夕焼け色に染まり始めた富士山はただただ静かにただ受け止めるのであった。
◇
2023年4月23日、夜20時過ぎ。ポーランド共和国・ワルシャワ・ショパン空港。
地下にあるポーランド国鉄の駅からエスカレーターで上がると、壁面がガラス張りで解放感溢れたターミナルビルと、その中を行き交う多種多様な旅行客に出迎えられる。そこを行き交う人々の中に、全くいないわけではないが、『同じ境遇』であろう人の姿があまり見えなくなり、リュドミラ・
夜22時50分、リュドミラをはじめとした多くの乗客を乗せたLOTポーランド航空79便・成田国際空港行きのボーイング787は、ワルシャワ・ショパン空港の長い滑走路を存分に使って滑走すると、ポーランドの首都ワルシャワの地を離れた。次にこの飛行機の車輪が地面に降りるのは12時間45分後、成田国際空港の滑走路だ。窓際の席から見える、良くしなる翼の下に広がるワルシャワの街の灯りにぼんやりと視線を向けた後、エンジン音が程々に響く機内を見渡した。このワルシャワの地まで辿り着くために世話になったキーウ発ワルシャワ行きのウクライナ鉄道の国際寝台列車の車内とは異なり、非常に現代的な
今搭乗する成田行きの飛行機と大差ない約10時間もの間乗車したワルシャワ行き国際寝台列車では、二段式の寝台が二組備えられた4人用寝台の一室で過ごした。列車は満員のため、当然ながら他の3つの寝台には見ず知らずの他人が乗り込み、到着まで同じ部屋の中で過ごす。人付き合いはどちらかといえば好きな方であるが、他の乗客と会話が弾んで時間が経てば、やはり当然ながら身の上話が会話の俎上に上がってくるのが夜行列車の常である。もちろんウクライナ国外へ向かう列車であるため、乗り込んでいるのは徴兵のために出国を禁止された夫や息子などを国内へ残し泣く泣く避難する人々ばかりだ。そして何より、リュドミラの今回の『旅路』は祖国からの『密命』を帯びた旅である。下手に会話をすれば余計なことを口にしてしまう恐れもあるので、とにかくさっさと毛布をかぶり眠ったふりをして、『何も話す気はない』と言外にアピールするしかなかった。
当初空軍は彼女にこの密命を下命する際、ベッドの少ない個室の借り上げや成田行きでもビジネスクラスを手配すると言ってきたが、いくら祖国から密命を預かっている身とはいえ、自身だけが特別扱いされることをどうにも良しとできなかったため、そこにお金をかけるくらいならもっと最前線で戦う兵士や負傷した兵士たちに使ってほしい、と4人用寝台とエコノミークラスでの長旅となった。
しかし、エコノミークラスとはいえ最新鋭の旅客機であるこの便での居心地は寝台列車のそれとは段違いである。隣ふたつの席が空席であることも重なり、ようやく周囲への『警戒』をより一段緩められる環境となったことにリュドミラは安堵した。
ポーランドと日本では7時間の時差があるが、やはり寝るに寝れなかった寝台列車での疲労が眠気を誘う。リュドミラはいずれ向こうの時間感覚に身体が順応してくれることに期待して、その身体をエコノミークラスのシートに預けることにしたのだった。
2023年4月24日、夜19時過ぎ。成田国際空港。
半日以上その身を預けた飛行機から降機し、入国審査を無事にパスしたリュドミラは第一ターミナルから一歩外へ踏み出した。空軍士官を目指すと決めた直後、もう来ることができないかもしれないと訪れた高校生時代以来、約10年ぶりに辿り着いたもうひとつの祖国・日本には、既に春を通り過ぎたかのような暖かい空気が漂っていた。
迎えにきてくれていた在日ウクライナ大使館の外交ナンバー付のクルマに乗って高速道路を一路東京都心・西麻布に所在する大使館へ向かって走っていく。
「明日は午後の14時過ぎより在日大使と共に『駐在武官侍従』という立場で首相官邸を訪問してもらう。先方が『是非ともお会いしておきたい』と熱望しているとのことなので、非公開という条件付きで承諾している。よろしく頼むよ、フジワラ中尉」
ハンドルを握る在日ウクライナ大使館所属の正規の『駐在武官』である陸軍中佐がそうリュドミラに声を掛ける。
「承知しました。今日は早く横になりたいから、大使館までの道すがらでのテイクアウトで結構なので、何か適当に料理を頂けるとありがたいわ」
「『適当』という言葉だけだと、本当に適当にメニューを選ぶなるが……、構わんか?」
中佐はこれまで終始真一文字に結んでいた口を緩めた。
「えぇ、これでも半分日本人ですから。和食でもなんでもお任せいたします」
そう言ってリュドミラは改めて後部座席のシートに身を委ねながら、窓の外へと視線を向けた。高速道路の壁越しに見える東京都心の夜の煌びやかさに、戦争の影など一切見ることはできない。
祖国ウクライナから東へ遠く8000kmの極東の地に存在する、リュドミラのもうひとつの祖国・日本。
24時間眠らないメガロポリス・トウキョウの眩いまでの明るさと喧騒に、ウクライナと日本、彼女にとって不可分なふたつの祖国の距離を、リュドミラは否応がなく実感することとなった。
◇
2023年4月25日、午前9時前。東京都千代田区九段北三丁目。
九段下駅で
巨大で現代的な高層ビルが立ち並ぶ一方、道路の向こう側にはお濠を隔てた対岸に建つ日本武道館の、まさに『武道者』のような威厳のある独特な印象を抱かせる建物が同居する街・東京。
そう自身の中で形容したところで、現代的な高層ビルと様々な宗派ごとに建築様式の異なる伝統的な教会が立ち並ぶキーウという街を比較すると、構成する『文化』というピースが異なるだけで、共に多様な文化をジグソーパズルのように組み上げた結果生まれた景色を持つ街であるという共通点にリュドミラは気が付いたのだった。
そのような些細な点であっても、日本とウクライナの両国にルーツを持つ身としては、双方の先祖代々から受け継がれた『血』が共に今もこの身体の中にあるのだ、という実感を得ることができた。
これからこの国で訓練を受けるにあたって、その点を事前に、より深く確認しておきたい。
そんなリュドミラの強い意向で、今日の午前中にぽっかりと空いていたスケジュールを使い、午前中の目的地へとやってきた。
靖国神社。
国家のために尊い命を捧げられた人々の
約80年前、この国が太平洋戦争という国家存亡にかかわる『国難』を戦ったという歴史と、その歴史に御霊をささげた人たちがいることを後世へと伝える、大切な場所。
鳥居をくぐり参道を進む。平日午前中の比較的早い時間帯ということもあり、周囲の人もまだまばらだ。
大きな木々が並ぶ参道を歩くと、幼い頃日本の父の故郷の神社で七五三のお祝いに合わせて、紅色のきれいな着物を祖父と祖母に着せられて参拝したことを思い出す。あの時は初めて目にした着物にワクワクしていたし、何より幼かったため神社という存在の意義など感じることなど一切なかった。
しかし、あれから二十年ほどの年月を重ねた今は違う。
もうひとつの祖国に仕える軍人へと成長しここを参拝したリュドミラ・
今は都合上私服ではあるが、リュドミラはいち軍人として心持ちを正し、事前に調べておいた通りに参拝する。本殿で玉串を供え、深く二礼・二拍手、そして一礼。
ウクライナでも、過去の戦争に命を捧げた人たちへの追悼のセレモニーがあり、リュドミラも参加したことがある。日本とウクライナ、国も文化も違えど、国を護るために戦った人への哀悼と決意の気持ちに違いはないように思えた。
参拝を終え、リュドミラは遊就館という施設へ足を運んだ。過去の戦争、特に太平洋戦争の歴史を伝えるべく展示された兵器や軍旗の数々。
「――もし祖父の手紙がここに飾られていれば、私は……」
その中で特に存在感を放つ、桜花・回天といった特攻兵器の数々と、その特攻兵器を駆り祖国を、大切な人を護るためと信じて命を散らした特攻兵の方々が遺した手紙の数々。
「私のもうひとつの祖国が、ここまでに追い込まれることのないように……」
今のリュドミラよりはるかに若い、まだ幼ささえ残る特攻兵の遺影を映す視界がじんわりと滲むのを必死に堪えながら、彼女は必死に、丁寧にそれらを自身の中へと焼き付けようと見入る。
「――そのために、私は今、ここにいるのだから」
約二時間、じっくりと見学を終えて遊就館を出たリュドミラの表情に、より強い決意が浮かぶ。
時計を確かめ、彼女は遊就館に背を向けて、本来の『任務』へ向かうべく参道を後にしたのだった。
◇
2023年4月25日、午後14時35分。 東京都千代田区永田町2丁目。
午前中に『私用』を済ませたリュドミラは大使館でウクライナ空軍の制服へ着替えると、正規の駐在武官である陸軍中佐の『侍従』として外交ナンバー付のクルマに乗り込み、西麻布から一路この国の中枢の中の中枢である永田町へと走り出す。これまで頭上を走っていた首都高都市環状線の高架が地面の高さまで下がり地下トンネルへと消えていく直前の交差点で左折して、次の交差点で右折すると、警備を行う制服警察官の姿があるゲートと、その奥に停まるパトカーと警視庁機動隊の青と白色の大型輸送車を横目に、首相官邸の裏口のひとつへとつながる道へゆっくりと進む。ゲート前で警備する制服警官が運転手の身分証等を照会し、確認後開かれたゲートを潜り、普段テレビや新聞の写真で目にする正面玄関とは別の裏口前の車寄せへクルマは止まった。
後部座席のドアを開いたリュドミラが車内から身を乗り出し、すぐさま周囲に視線を飛ばす。周囲にいるのは制服の警察官だらけ。報道関係者など『厄介者』の姿は見えない。それを確認した彼女がまず先に下車し、ドアを大きく開けて続けて下車する『上官』である陸軍中佐へ敬礼し、ドアを閉めた。
「本当は正面玄関から入るのが『礼儀』なのだろうが、まぁ、今はその『礼儀』をわきまえていられる場合ではないからな」
「心得ています」
ウクライナ語で会話するふたりの前に、スーツ姿の男が数人現れる。ひとりは首相の秘書あたり、スーツの前ボタンを開いた残りは警視庁警備部警備課のSPだろう。耳元に覗くイヤホンのケーブルがわずかながらに見えるし、素人には分からなくともスーツの内側に小型拳銃や特殊警棒などを備えている事くらい、軍人としてそれなりの期間生きていればそれとなくとも理解できる。
「お待ちしておりました。事務担当首相秘書官の中山です。それではこちらへ」
中山と名乗った秘書官が先導し、首相官邸の内部へと歩を進めていく。空軍の司令部へ赴いたことは数度あるが、まさか一国の行政の長であり『軍』の最高指揮官に、それも自身の所属する軍以外の最高指揮官と直接対面することになるなど、二年前、MiG-29を駆り警戒任務に従事していた頃には想像すらできなかった。
エレベーターから降りて絨毯の敷かれた廊下を静かに進んだところで、ひとつのドアを秘書官がノックして開いた。会議室の机についていた全員が起立しこちらへ視線を向ける。
「まもなく総理がいらっしゃいます。それまで少々お待ちください」
着席する椅子を案内した秘書官は深々と一礼すると慌ただしく会議室から去っていった。
リュドミラは着席し、この会議室に今並んでいる面々を見やった。
「――外務省総合外交政策局長に国家安全保障局長、一席空けて防衛省防衛政策局長、最後に統合幕僚長、か。ここに総理が加われば国家安全保障については粗方決定できる」
既に何年も日本に駐在している陸軍中佐がリュドミラへそっと教えてくれた。
そこでドアがノックされ、先ほどの秘書官が先に入室し、その彼が開いたドアの向こう側から、この建物の主である、日本国総理大臣その人が現れた。
既に待機していたこの国の重鎮とともに一斉に起立し、最敬礼で出迎える。総理の目配せを見た他の面々が着席するのに倣ってリュドミラも着席する。
「リュドミラ・トカーチ・フジワラ空軍中尉、戦禍の続くウクライナから、ようこそ我が国へ。我々内閣はフジワラ中尉を心より歓迎いたします」
「こちらこそ、貴国からの戦闘機操縦訓練支援に、心より感謝いたします」
総理直々の自己紹介に続いて、彼の口から官姓名で歓迎の意を示され、リュドミラは恐縮するしかなかった。
まさか、一介の士官がこんな舞台に立つことになるとは。
父が今この瞬間の出来事を知ったら、さぞかし驚くことだろう。
「まずはじめに、今回の戦闘機操縦訓練と戦闘機供与支援が『非公式』という形となったことを心よりお詫びいたします。本当ならば我々が貴国の安全保障に関してイニシアティブを取って、もっと表立って動かねばならないのですが、そうできない事情が我が国にはあることをご理解いただければと思います」
「総理、私の父は元航空自衛官でございます。子どもの頃から、この国に関する様々なことを教わって育ってまいりました。我々としては、先ほど述べた感謝の言葉では足りないほどの気持ちを持っております。どうかその点、お気になされないでいただきたい」
リュドミラは平静を装ってはいるが、内心では冷や汗が幾筋にもなって流れ落ちている。仮にも
「フジワラ中尉のお父様は、航空自衛隊の精鋭パイロットだったと、航空幕僚長より伺っております。日本語と英語、そしてウクライナ語に長け、優れた操縦技能をお持ちのあなたこそ、我が国からの支援の鍵であります」
そう述べた首相の顔色がスッと変わっていく。
「先月、私も自らウクライナを訪問いたしました。列車での入国の際、途中の駅で多くの避難民の姿も見ることがありました。貴国の大統領と会談させていただき、さらに私からの強い希望で市民の虐殺が起きたブチャも訪問し、その実情をこの目で確かめ、亡くなられた方へ哀悼の意を捧げてまいりました」
そう述べた総理に、より鋭さや深刻さが増す。
「――中尉もご存知かと思いますが、我が国では原爆によって広島・長崎で、そして大空襲によってこの東京だけでなく多くの都市で一般市民が犠牲となった苦い経験を継承してきました。その上で断言したいのは、今のウクライナに、そしてその領土内でごく普通に暮らす市民に対して、あれほど惨い最期を強制される謂れはないということです。我が国は法の秩序と平和を希求する民主主義国家として、これ以上ウクライナでの戦禍が続くことを断じて容認いたしません。今回のこの計画は、貴国の防空能力だけでなく、反撃能力も含めた能力向上を行っていくうえで、最も重要なものになると私は確信しております。我が国が供与するF-2戦闘機で、西側諸国が供与する予定のF-16戦闘機とそのパイロットを率い、ウクライナに恒久的な平和をもたらしてくれることを、心より祈っています」
総理の言葉が終わった次の瞬間、リュドミラは無意識のうちに席から立ち上がってしまっていた。総理の周りを固める面々が呆気にとられ見上げる中、リュドミラは深々と総理に向かって頭を下げていた。
「そのようなお言葉を頂けて、至極光栄でございます。わたくしリュドミラ・トカーチ・フジワラ、全力をもってそのお言葉にお応えしてみせてまいります」
そう言い切ったリュドミラの顔は、
◇
2023年4月26日、午前8時。航空自衛隊浜松基地。
浜松基地を拠点とする航空自衛隊航空教育集団・第1航空団の庁舎内にある、第31教育飛行隊のブリーフィングルームで、航空自衛隊から供与されたフライトスーツを身に着けたリュドミラが、目の前のテーブルに並べられた多数の資料に目を通している。
周囲からたまにちらりと視線がこちらへ向かってくるのは彼女も察していた。無理もない。半分日本の血が入っているとはいえ、透き通るような白い肌に目鼻立ち通った小顔、そしてなにより染髪ではない本物の金髪をポニーテールにまとめた俗にいう『スラブ系』の特徴が強いリュドミラの容姿は、年下であろう周囲の面々と比較しても、どうしても『浮いた』存在だ。中には何名か女性も同じフライトスーツを身にまといプリブリーフィングに臨む者もいるが、かえって彼女たちの視線の方が多く注がれているような気もしていた。
ただ、だからといってそれを咎める気持ちはリュドミラの中になかった。
リュドミラが生を受けたウクライナに暮らしているのはスラブ系の人たちだけではない。多くのルーツを持つ人たちが暮らしているからこそ、いろんな容姿を持った人がいる。それでもどうしても、『マジョリティー』ではないルーツが入っていると、幼い頃に何かしら『出来事』を経験して、そして大人になっていく。
その『マジョリティー』の分子が、この国では大きいだけ。
それがウクライナと日本にルーツを持つリュドミラがこれまでの人生経験で得たマインドだった。
しばらくして、ブリーフィングルームの面々が一斉に起立する。組織は違えど『軍隊』であることは同じである。リュドミラも周囲に倣って起立し、ブリーフィングルームに入ってきた吉松英二二等空佐へ腰をきっちりと曲げ『10度の敬礼』の姿勢で飛行隊長を出迎える。吉松二佐の手振りで他の隊員が着席しブリーフィングを続行する中、リュドミラのみ起立したまま、吉松を背筋を伸ばして待ち構え、しっかりと『45度の敬礼』で今日の教官を出迎えた。
「おはよう。早速今日の技量確認飛行のブリーフィングを始める」
双方着席して早速飛行前ブリーフィングが始まる。
コールサイン・離陸時間・ブリーフィングルームの退出時間・使用滑走路・飛行経路・使用訓練空域・搭載燃料・万が一の際の
軍民問わず、パイロットが飛行前に図上で確認する項目はとにかく多い。飛行コースや注意点、機体の燃料搭載量など些細なことでも頭の中にしっかりと叩き込まれていなければ、いざという時にあっという間に致命的なトラブルに陥りかねない。
戦車や艦艇はまだしも、飛行機は離陸して着陸するまで常に何かしらの操作を行い、機体のコントロールを握り続けなければ即墜落だ。特に戦闘機は機動性を高めるために安定性を犠牲にして成り立っている。シンプルな訓練飛行であっても針の穴を通すような慎重さを常にどこかに持ち合わせていなければならないのだ。
「――以上、何か質問は?」
細かい打ち合わせを何十分と続けたところで、吉松がリュドミラにそう訊ねる。
「――僭越ですが、飛行中、隊長のことをどのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」
「ほぉ、どういう意味かね?」
リュドミラから出た質問に、真面目な表情だった吉松が不敵な笑みを浮かべる。
「隊長のコールサインを、まだお伺いしておりませんでしたので」
「そういうことか……。フジワラ中尉、確かに君は母国では優秀な
そう言って吉松は自身の左胸に付けられたワッペンを拳で叩いてみせた。
「それはあくまで君の母国での話だ。正規ルートよりだいぶ省かれているとはいえ、まだ君は航空自衛隊の
「はっ、失礼いたしました」
吉松からの返答に、出過ぎたことを口走ってしまったとリュドミラは思わず席を立ち深々と頭を下げた。
そう、ここは基本操縦の訓練部隊なのだ。今彼女の周りにいる若者たちは、ほんの数年前までごく普通に高校などへ通っていた学生の身から入隊した、未経験からスタートした者たちばかりなのだ。
そんな部隊で最初の飛行訓練が行われるということは、今のところ、ここでの扱いは未経験の新米パイロットと同じということなのだ。
リュドミラは改めて自身の謙虚さを叩き起こすと、ブリーフィングを終えた隊長の後について、装備品保管室へと向かうことにした。
午後9時30分。愛知県豊橋市沖30km、遠州灘上空。
浜松基地の滑走路を離陸して、遠州灘上空に設定された自衛隊の演習空域に到達し、リュドミラの技量確認飛行が始まってそろそろ20分が経過しようとしていた。
「――
高度12000フィートを飛行中のT-4の後席に座る教官の吉松二佐から、鋭く次の操縦科目の指示が飛んでくる。丁度機体が積乱雲の中へと飛び込む。地上の水平線を頼りにはできない。頼れるのは、このT-4の操縦席に並ぶ計器だけだ。
「ネクスト45度レフトレベルターン・HDG180ラジャー。レフトレベルターン……、ナウ」
リュドミラが『ナウ』と号令を後席の教官へ掛けた直後、リュドミラはT-4の操縦桿を左に傾け、同時に足元の左側
(――初めて飛ばしたジェット機の
リュドミラは視線をT-4操縦席の主計器盤に並ぶ計器のひとつである姿勢指示器に視線を当てる。
操縦特性の観点において、基本的な部分ではウクライナ空軍をはじめいわゆる東側の空軍で
唯一明確な違いがあるとすれば、飛行機の今の姿勢をパイロットに知らせる姿勢指示器という計器だ。ロシアなど東側諸国で開発された機体では背景が固定されており、自機のシンボルマークだけが回転することで姿勢を表現する。つまり『水平線』は常に計器盤に対して水平となっているのが常識だ。
一方西側諸国では全く逆で、自機のシンボルマークは常に計器盤上の一点に固定され、計器盤の中に収められたまるで小さな地球のような球体の計器がグルグルと前後左右に動き回ることで現在の機体の姿勢が表現される。つまり西側では自機のシンボルマークが固定されていて、旋回・上昇時は計器盤の中で水平線が傾き上下するのが常識となっている。
最近ではロシアなど東側の航空機でも西側諸国と同様な姿勢指示器を導入する新型機も現れているものの、基本的には東側の計器思想でパイロットとして育ってきたリュドミラにとって、この『常識の切り替え』が唯一かつ最大の問題となっていた。
(――バンク角、バンク角……、45度! あとは旋回Gを3Gに――)
操縦桿とラダーを細かく操作し、旋回時に掛かる
(HDG250……、210……、190……、180ッ!)
指示された方位へ旋回が完了する直前に操縦桿と
(45度レフトレベルターン・HDG180
リュドミラが自信をもってインコムで後席の吉松へ報告する。
「――雲の中、計器のみが頼りの中で綺麗なレベルターンだ。なかなかやるじゃないか。よし、次は宙返り系に移るぞ。ネクスト、
「ネクスト、インサイドループ、ナウ」
リュドミラが自信をもって操縦桿を引き、T-4が機首を上げる。早くも感覚を掴み始めたT-4のエンジン推力特性に合わせてスロットルを微調整し、リュドミラの駆るT-4はきれいな正円に近い宙返りの機動へと入っていった。
◇
2023年5月8日、午前10時過ぎ。航空自衛隊浜松基地。
例年より強い日差しに照らされる駐機場では、第1航空団司令兼浜松基地司令である空将補と第31教育飛行隊隊長の吉松二佐が、誘導路へと進入しこちらへ向かってくる1機のT-4に対して直立不動で待ち構えていた。駐機場へ進入してくるT-4の垂直尾翼に描かれた部隊マークは、黒と黄のチェック帯に青のストライプという第31教育飛行隊の部隊マークではなく、上から見て赤・黄・青三色のシェブロンで象られた部隊マークが描かれておいた。さらに操縦席のキャノピー後席部分には、空将補が搭乗していることを示す「青色に金色の桜星2個」の識別標識が掲示されている。このT-4は埼玉県の入間基地に所在する中部航空方面隊司令部支援飛行隊の所属機であり、キャノピーに掲示された空将補の階級章の持ち主こそ、このT-4を入間から浜松まで操縦したパイロットその人、防衛装備庁長官官房付航空機装備開発官・福井晴二空将補であった。
整備小隊の合図に従ってエンジンを停止させた福井は、キャノピーを開けて酸素マスクを外し、ヘルメットを脱いでキャノピーの淵へ引っ掛けると、射出座席に身体を括りつけているハーネスを外し、続いてフライトスーツから操縦席へ接続されているコードやホースなどといったものを手際よく外していく。整備小隊が準備していたラダーをキャノピーの淵に取り付けた時には、早くも降機準備が完了している慣れた身のこなしであった。
通常、階級が一佐以上の高級幹部となってくると、
しかし、福井空将補は別格だった。航空自衛隊どころか防衛装備庁へ出向の身であり、既に50は優に超えているのだが、短く整えた灰色の髪と鋭い眼差しを湛えた瞳、そして高身長で堅固な肉体はある程度の機動飛行にすら耐え抜く強靭な
そんな彼こそが、今この浜松基地で飛行訓練に従事するリュドミラ・
「お待ちしておりました。ようこそ浜松基地へ」
「彼女は、今ちょうど飛行訓練中かね」
浜松基地司令の空将に合わせて挙手の敬礼で福井を出迎えた吉松へそれぞれ挙手の敬礼で答礼した福井は、駐機場を見回すというが早いか本日の『用件』を訊ねてきた。
「はっ、
彼女の訓練の責任者である吉松がキビキビと返答する。
「そうか、まだ飛行中か……。この後の彼女のフライトは?」
「はっ、
福井の問いに、吉松は彼の訪問が知らされた直後から抱いていた『予感』が的中したことを理解した。
吉松にとって福井は第6飛行隊でF-1支援戦闘機のパイロットを務めていた時の隊長と部下という間柄であった。同じ飛行隊で飛行していただけあって、彼の考えることはある程度は予想が付く。
要は、彼女が航空自衛隊の
「わかった。――君、この機体をサードピリオドまでに機動飛行でフライトできるよう点検と燃料補給を行っておいてくれ」
整備小隊に福井はそう声を掛ける。丁寧に挙手の敬礼を返した整備小隊たちが蜘蛛の子を散らすようにT-4の各部を点検に掛かる。それを確かめた福井は、第1航空団の庁舎へ向けて歩き出していった。
◇
2023年5月9日、午前11時半。宮城県東松島市上空。
〈アポロ41、
最終着陸態勢に入ったT-4の後席では、左を見渡すと長閑な片田舎の風景が、右を見渡すと穏やかな海岸と海の風景を交互に眺めることができる。リュドミラはこれから少なくとも半年はお世話になる土地を確かめるように見渡しているうちに、T-4は誘導灯の上を飛び越え滑走路に着陸する。
「ようこそ、松島基地へ」
前席のパイロットから歓迎のあいさつを受けたリュドミラの視線は、駐機場にずらりと整列する青い戦闘機の群れに釘付けとなっていた。
「――あれがF-2戦闘機ね」
「えぇ、いい機体ですよ」
リュドミラを乗せたT-4はあっという間に駐機場へ進入し、F-2の列の隣へ誘導されて停止した。イヤホンのコードや酸素マスクやGスーツのホースを切り離しているうちにキャノピーが機体右側へ手動でクルリと開かれる。ヘルメットを外すと、浜松よりほんの少しだけ涼しい風がリュドミラの髪を撫でる。ヘルメット等の装具の補助に上がってきた整備小隊の男性が、ヘルメットの中からはらりと広がる金髪に驚いた表情を一瞬浮かべるも、すぐさま仕事の顔に戻りヘルメット一式を預かってくれた。ハーネスを外しT-4の後席の上に一瞬立つ。その姿がまるで馬上の女騎士のような精悍さで、T-4の周りを取り囲んで着陸後の点検に入ろうとした整備小隊の人間や、隣のF-2を整備する者たちをも釘付けにした。
そんなリュドミラのフライトスーツの左胸には、『L.T.FUJIWARA』の名前の上に、大きく翼を広げた鷲とその胸に輝く桜のシンボルが刺繍されている。
自身への視線など露とも気にせず、リュドミラはキャノピーに掛けられたラダーを軽快に駆け下りていき、整備小隊が預かっていたヘルメット一式を受け取った。リュドミラの後に降りてきたT-4のパイロットはすぐさま機体を一周し異常の有無を確認すると、この機体の機付長が手にするログブックに今回のフライトが完了したことを示すサインを済ませ、庁舎に向かって歩き出した。隣で整備小隊の点検を受けるF-2の前を通りかかる。機首の目の前でふと立ち止まり、リュドミラはしばし機体をじっくりと眺めると、まるで愛馬を愛でるようにノーズコーンを撫でる。
「――とても、美しい飛行機ね。今まで乗ってきたMiGとは違う、美しいラインと色。写真で見るのと実際で見るのはやはり違うわね」
「我々は世界で最も素晴らしい戦闘機だと思っていますよ」
先ほどのT-4を飛ばしていたパイロットが自慢する。彼はこのF-2が所属する第21飛行隊でF-2の教官を務めているパイロットのひとりだ。
リュドミラに今できることは、そんな彼らの『自信』に全幅の信頼を置き、一刻も早く彼らの背中が見えるまで追い付くこと。
「――改めて、よろしくお願いいたします。教官」
リュドミラは彼へ挙手の敬礼をする。
「浜松から聞いている君の操縦技量とやらを、楽しみにさせてもらうよ」
そういって彼も答礼した。
◇
その日の午後から、早くもリュドミラのF-2戦闘機機種転換訓練はスタートした。
といってもいきなり実物のF-2を飛ばすわけではない。まずは基地内に設置されているフライトシミュレーターで徹底して操縦方法に慣れることから始まる。
リュドミラがこれまで飛ばしたことのある航空機は、
しかしF-2の操縦席の真ん中に操縦桿は存在しない。代わりに操縦席右手側に操縦桿より小さい、まるでアーケードゲームの筐体に付いているようなサイドスティックというもので操縦する。そしてこのサイドスティックの扱い方が、従来の操縦桿方式に馴染んできたパイロットにとって中々の難所なのである。
通常『戦闘機の操縦』と聞いて多くの人がイメージするのは、急旋回する時は倒れるまで、急上昇する際は操縦桿が自身の身体に触れるほど目いっぱい引き寄せる、といった大きな動きをイメージをする人が多いだろう。しかし、F-2をはじめとするサイドスティック式のデジタル
このようなデジタルFBW方式の戦闘機は、操縦桿を倒した『量』ではなく、前後左右にどれだけの『時間』倒したかを機体姿勢制御用のコンピューターが計算し、与えられた『スティックを倒した時間』という『情報』を基に理想的な動作を演算して実行する仕組みになっている。これも東西によって姿勢表示器の表示方法が異なるという点と同様、航空機の機種転換訓練において最も『障壁』となりやすい点だ。
「――いいか、これまでの操縦桿を握る感覚は一旦全て忘れろ。初めて操縦桿を握る感覚で、肩の力を抜いて細やかな動きを実践してみろ」
「
「よし、もう一回行くぞ」
浜松から松島へ移動した当日午後から、他の訓練生の隙間を縫って、とにかく飛べるだけシミュレーター上でF-2を飛ばし、まずはGの感覚以外の操縦感覚を理論と感覚で徹底的に叩き込む。ただ、操縦桿がサイドスティックに変わったのは大きな変化だが、実戦経験を積んでいるパイロットの利点は、それまでに積み上げたキャリアで身体が勝手に覚え込み、身体が勝手に考える能力による補完スピードが上がることである。さらに、通常のウクライナ空軍パイロットなら慣れ親しんだウクライナ語やロシア語以外の言語である英語や日本語での教えを、まずはその言葉を慣れ親しんだ母国語へ『変換』する余計なワンステップが入ってしまうが、ウクライナ語にロシア語だけでなく、英語も日本語も問題なく扱えるリュドミラにはその余計なワンステップが不要だ。そのため、実機飛行までにこなさねばならないシミュレーターで行う訓練項目は、当初機種転換教育を担当する第4航空団第21飛行隊の教官たちが計画していたスケジュールより相当早く進行し、瞬く間に初の実機による訓練飛行の日を迎えた。
2023年5月25日、午前8時45分。宮城県東松島市、航空自衛隊松島基地。
松島基地の駐機場の列線にずらりと並ぶF-2B戦闘機の1機・33-8118号機の前席に座ろうとするリュドミラの姿があった。リュドミラに続いてラダーを上がってきた整備小隊の女性隊員からヘルメットを受け取ったリュドミラは、ポニーテールにまとめたロングヘア―の金髪をヘルメットの中に収め、酸素マスクや耐Gスーツのホースやヘッドセットのコードを接続する。
「フジワラ中尉!」
ラダーを降りようとした女性隊員に突然声を掛けられたリュドミラが操縦席の左側コンソールのスタートエンジン前チェックを行っているパネルから顔を上げる。
「F-2Bでの初フライト、ご武運を!」
そういって彼女は右手を握り拳にして力を込めてリュドミラの胸元へ突き出す。
「ありがとう、『貴方たち』の機体、預からせてもらうわ!」
そう返してリュドミラも握り拳をで彼女の拳にコツン、とグータッチする。彼女が地上へ降り、他の地上要員全員がエンジン始動時の安全ラインまで退避したことと、事前にスタートさせた自動点検システムが異常なく完了している事を確認して、リュドミラはメインパワースイッチを前方に弾いてキャノピー開閉スイッチに触れる。頭上から透明なキャノピーが動作音と共に降下し、キャノピーハンドルを下げてロックすることで、コックピットと外界がピタリと切り離される。
「
彼女のスイッチ操作に一瞬の遅れもなく、搭載するF110エンジンを始動させるための
「エンジン
F110ターボファンエンジンの唸りが高まり、エンジン回転数が安定域まで上がっていく。同時に、リュドミラの視線はインパネの各種計器を行き来し続ける。
「――
エンジンを始動後に確認が必要となる試験項目や、異常を示すランプの点灯等がないかを確かめ、予備制御系統が作動するかを確認する。
「
万が一飛行中にエンジンが止まり、
「
機体の位置の特定は、今ではGPSが主流だが、戦闘機に限らず航空機は、今でも慣性航法装置も併用して自機の位置を必ず特定できるようになっている。INSのアラインが終わるまでにレーダー高度計や
「
リュドミラがほんのわずかにサイドスティックを傾けるだけで、F-2のシステムはその入力された時間通りに主翼・尾翼、そして垂直尾翼の動翼をスムーズに動かす。パイロット自身での目視確認だけでなく、周囲を取り囲む地上要員があわせてチェックする。
「燃料計チェック――、
リュドミラは機体外部のインコムで繋がっている地上要員に対して、フットバーを踏んでタイヤのブレーキが動作するかをチェックする。
「ブレーキチェック、
次から次へと現れるチェックリストの項目。リュドミラはフライトスーツの太ももの部分にある地図などを固定しておくバンドに挟み込んだチェックリストを目で追いながらこれらの無数にあるチェックリストを確認し、問題がないかを確かめる。このような行為は古今東西普遍的なものではあるが、コンピューターによる制御などが格段に増加した第4世代以降の戦闘機のチェックリストを素人が見たらその膨大な数に頭が爆発するかのような感覚を覚えるに違いない。
無数のチェックが完了し、地上要員がタイヤにはめていた車輪止めを外し、『前身せよ』と合図が出れば、いよいよ滑走路へ
誘導路をゆっくりとした速度で走り、滑走路端が目前に迫ったところで誘導路が駐機場のような広さになり、また別の地上要員が待機している。ここで離陸前の最終点検を行うのだ。地上で静止している場合は問題なくとも、誘導路を走り出した途端油圧系統からオイル漏れなどといった警告灯や自己診断プログラムに現れない細やかな異変がないかを確認する、文字通りの『ラスト・チャンス』だ。さらにここで射出座席を
「
そのラスト・チャンスをクリアしたことを管制塔に連絡する。ほどなくして管制塔からリュドミラの機に指示が飛ぶ。
〈アポロ31、
「アポロ31、クリアード・フォー・テイクオフ、ウインド・スリー・ゼロ・ゼロ・アット・ファイブ」
リュドミラが管制塔の離陸許可を復唱し、誘導路から滑走路へと進入したF-2B・118号機を一旦停止させる。前後左右を振り返り、周囲に支障がないことを確かめると、リュドミラはブレーキを踏んだまま左手で握っているスロットルレバーを前へ押し出す。一旦手ごたえを感じスロットル位置が
「ブレーキ
リュドミラがナウッ! の号令と共にブレーキを離し、F-2Bはバネで弾かれたかのように離陸滑走を開始した。スピードメーターがあっという間に上昇していく。スピードメーターが160ノットを超えたところでほんのわずかにサイドスティックに上昇の入力を行うと、F-2Bは何事もなくフワリと前輪が地上を離れ、次いで主脚が完全に離れ離陸する。機体が問題なく上昇コースに入ったのを確認したら直ちに
これまでリュドミラが駆ってきた機体はいずれも今となっては古臭い第三世代戦闘機に分類される。操縦桿・トリム設定・
しかし、このF-2は違う。サイドスティックという魔法の杖で機首を向けたい方向を指し示し、
「――まるで魔法みたい」
そんなF-2の操縦性能に、思わずリュドミラの口から感嘆の言葉が漏れる。
「――離陸しただけで感激している場合じゃないぞ。気合い入れて飛ばせ、まだ『若葉マーク』なんだぞ」
「
後席の教官の叱咤にリュドミラは夢見心地から一瞬で現実へ帰還する。
しかし、この操縦特性はこれまで飛ばしてきた
例えるならば、今まで古いマニュアルのバスに乗っていたのを、最新鋭のセミオートマのスーパーカーに乗り換えたくらいの隔絶がある。
こんな機体がウクライナ空軍に多数配備されれば――。
そこでリュドミラは完全に意識を飛行訓練に切り替え、一刻も早くF-2を自分のモノとすることに全力を注ぐことにした。
◇
2023年6月下旬、午前10時30分。航空自衛隊松島基地。
「――しかし隊長、あのウクライナから来た中尉、ウクライナで実戦経験済み、とは聞いていましたが、物凄い順応性ですね。もう今日から三沢に
第4航空団の飛行隊のひとつ、第21飛行隊庁舎の「シー・フォグ」と愛称が付けられた待機室で、この飛行隊で教官を務める弓島三等空佐がマグカップでコーヒーをひと口含むとそうつぶやく。
「――彼女の父親はどうやら
弓島の向かい側に座って窓の向こう側に広がる駐機場を眺めながら、第21飛行隊隊長・満島龍一二等空佐がそういうと応接セットから立ち上がり、自身のマグカップへコーヒーを注ぎに歩いていった。
「しかし、あと一年足らずでなんとかなるものなのでしょうか……? いくら直近の戦闘機実戦経験者とはいえ、実戦経験があるのはMiG-29、アナログ制御のMiG-29からいきなりデジタル・フライ・バイ・ワイヤのサイドスティック機であるF-2に乗り換えるだけでも一苦労だろうに、NATO基準の用語や行動規範の習熟込みでF-2での戦技を一通り教えろ、しかもその途中に米軍の訓練が挟まるなんて……」
「でも我々は我々でやるしかあるまい。先月のサミットでF-16の供与についてアメリカを頷かせることに成功して機体は用意できたとしても、その機体を実戦で使えるよう一人前に育てるための技量を持ったウクライナ人『教官』パイロットの育成は『表向き』にはこれからスタートする話だ。彼女が一人前になるのが遅れたら――」
満島はコーヒーを注いだマグカップを手に弓島の向かい側へと戻ってくると、同じ椅子にどっかりと腰を下ろした。
「ウクライナ空軍のパイロット全員がフジワラ中尉のようにマルチリンガルであれば話は別だが、今は敵同士とはいえ、かの空軍の機体思想や
満島はそこで一旦言葉を区切る。窓の向こう側からF-2とは異なる、それでいて聞き馴染みのあるエンジン音が幾重にも重なる。遠くに見える滑走路を4機の白地に青いストライプの入ったT-4が編隊を維持しつつ、白いオイルスモークを牽きながら離陸していく。
「俺も一度彼女の後席に乗って指導をしたが、こうなんというか……、目つきといい予備動作の早さといい、俺の中でピンとくるものを感じて、な……?」
「――それは、元ブルーインパルス隊長としてのカン、でしょうか……?」
残る2機のブルーインパルスが展示飛行訓練へ離陸していく姿を見送りつつ、弓島がそう訊ねた。
「それは何とも言えん。ただ――」
満島は手にしていたマグカップからコーヒーをひと口含み、こう続けた。
「俺のそういう『カン』にピンときた若い奴は、大抵
◇
2023年7月初旬、午後1時45分。青森県三沢市沖約80km、太平洋上・航空自衛隊射撃訓練空域・R-129。
「――どこだッ!? どこにいる……ッ!?」
リュドミラはF-2Bの操縦席にハーネスで括りつけられた状態で動かすことのできる範囲で身体を動かし、前後左右に鋭く視線を飛ばす。
自機の数km先にいるはずである『
「――
自身に有利な位置に
近年、空軍の中には戦闘機の能力向上に伴い、
しかし、2022年2月、ロシアが『特別軍事作戦』と称してウクライナへ侵攻した際、ウクライナ空軍は大量のロシア空軍の攻撃機や戦闘爆撃機に
その結果生まれたのが『キエフの幽霊』といった一種の『神話』に代表されるような存在であり、ウクライナ・ロシア両空軍のパイロットの経歴に複数の
戦闘機や武装ががどれだけ進歩し、長射程空対空ミサイルによる
攻撃・防御とも進化が進めば、最終的に互いを肉眼で視認することが可能な距離まで間合いが詰まることになる。
そうなれば究極的に
その点についていうと、空自で西側諸国の戦闘機にはじめて触れたリュドミラは、
空自は常日頃
冷戦終結を機に一旦減少に向かっていたホットスクランブルの回数は、中国の軍事的躍進やロシア軍の組織再編に伴う行動変化に伴い再び増加の一途をたどり、冷戦時代を超える回数を数えた年も出てきており、その邀撃対象には当然戦闘機も含まれている。
陸海とは違い警察の役割を担う組織が存在しない空で、警察官と同様の『正当防衛』という法的な大義名分を厳守して対象軍用機の行動を阻止しようとするならば、警察官が逮捕術といった武術を叩き込まれるのと同様に、
午後3時過ぎ。航空自衛隊三沢基地。
「――いいか? いくら君が上空で
「はっ!」
リュドミラは先ほどの
「今の君の機動では
デブリーフィングの主導権を握る『
「――この事態を回避するためには……、速度エネルギーを
リュドミラは必死になって、就寝時間ギリギリまで齧りつくように読んだ
「そうだ、その『
そういって先ほどまで指導されていた機動の一瞬より前の機動を映したカメラ映像を、リュドミラは目を皿にして指導に喰らいついていた。
戦闘機の空中戦は、得てして『三次元に展開する譜面で行われるチェス』と例えられることが多い。前後左右の二次元に駒が動くチェスと異なり、空中戦には高さという要素が入ってくる。その三次元の譜面を頭の中にイメージして、相手の動きを予測し、その機動を先回りできるようにするためには、どの時点でどの譜面上にいるべきか。それがイメージできてようやく、戦闘機パイロットとして認められるようになってくる。
これまでリュドミラが操ってきたMiG-29は、その性能上
しかし、現在リュドミラが訓練を受けるF-2を始め、現在の主要国の空軍で主力の座を張る戦闘機の多くは、強力なターボファンエンジンの推力により、いかなる高度からでも十分に高度というアドバンテージを回復できるだけの推進力を持ち、その推進力を使ってあらゆる方向へ機動可能な制御システムを備えている。そうなるとこれまで骨身に染みるレベルで身に付けてきた戦術では戦闘機の能力を活かしきれなくなってくる。今リュドミラが克服しようとしているのは、そんな骨身に染みるまで教え込まれてきた戦術を完全に上書きする必要があるほどに重要かつ困難を伴うものであった。
その後、この日の午後の
◇
2023年10月中旬、午前11時。青森県三沢市沖約80km、太平洋上・航空自衛隊射撃訓練空域・R-129。
「
リュドミラが自身のF-2Bを右60度バンクで旋回させながら、約4Gが全身に圧し掛かる中上体を思い切り捻ってF-2Bの垂直尾翼右後方に視線を飛ばす。約数キロ先で同じく緩やかな右旋回を掛けてリュドミラ機の
このままでは
次の瞬間、リュドミラは右旋回するF-2Bのバンク角を後方の
アンロード加速。ハイG機動の代償として失った速度という運動エネルギーを極短時間で回復することのできる
速度を回復したリュドミラは、ほぼ真後ろで機動する
インメルマン・ターン。第一次世界大戦初期に活躍したドイツのエースパイロットの名を冠したこの機動は、複葉で機動力もパワーも低いレシプロ機から、デジタルフライ・バイ・ワイヤと大出力エンジンによるによる人体の限界を超える機動性を備えたジェット機に至るまで通用する。
高度を取ったリュドミラ機の前方下方から、
シザーズ。2機のラインを可視化するとまるでハサミを開いたり閉じたりするような動作に似ていることからこう呼ばれる。この状態が二度三度と続けば、双方共に運動エネルギーを使い果たし、2機の間隔や位置エネルギーの差までないとなると、いよいよ操る人間の体力共々膠着状態となってくる。
現在リュドミラ機の方がわずかに前方を飛行しており、敵機が右ラダーを蹴って横滑りするように真後ろに入り込もうとしているのが見える。間合いは完全に
刹那脳裏にある機動が浮かぶ。
シミュレーターでは試しにやってみたことはある。しかし、実機かつ空中戦機動中に出来るかは分からない。
しかし、やらずに
一瞬で腹をくくったリュドミラは、
90度急速
あっという間に前方に『空の天井』が広がり、減速Gがリュドミラを射出座席に圧しつける。
その瞬間、後方にいた
この一連の動きこそプガチョフ・コブラ。1989年、パリ航空ショーに出展された旧ソ連製戦闘機・Su-27『フランカー』をデモフライトしたテストパイロット、ヴィクトル・プガチョフに由来する、あまりに有名なロシア製現代戦闘機の十八番とも呼べるアクロバット機動だ。
元々ソ連系の戦闘機で育ってきたリュドミラだが、MiG-29にこの機動を行える高度な飛行制御システムは備わっていない。さらにこのF-2はSu-27やMiG-29と異なり単発機だ。いくら余剰推力があるとはいえ、まさにイチかバチかの賭けだった。
「
リュドミラがやや興奮気味に無線で
「――訓練、終了。
「――長年教官の仕事をやっているつもりだったが、まさか、単発の
そういうと後席の教官パイロットがヘルメットのバイザーを上げ、目の周りを流れる汗の粒をグローブで何度もぬぐっていた。
「我々も帰投しよう。プリブリーフィングは覚悟しておけ」
「
リュドミラは平然な声色で帰投する旨無線に吹き込むと、ヘルメットのバイザーを上げて額の汗を拭い、翼を翻し三沢基地への帰途に就いた。
◇
2023年12月下旬、午後1時半。アメリカ空軍・三沢基地。
「――それで、彼女の訓練の方は順調かね?」
この日、三沢基地の米軍側の部隊を指揮する第35戦闘航空団司令の司令官執務室には、この部屋の主であるパトリック・デイビッドソン空軍大佐、本来は百里基地を拠点としている第3飛行隊隊長の瓜生義一二等空佐、そしてこの日に限っては、防衛装備庁長官官房付航空機装備開発官・福井晴二空将補の姿があった。
「F-2の機種転換訓練に関しましては、空将補が事前に想定されたスケジュールを大きく上回るペースで進行しております。既に
瓜生二佐の報告に、福井空将補がほう、とほんの少しの驚きを含んだ声を上げる。
「機体の主攻撃目標は艦艇への
「そうか……、それならば、
「――しかし、SEADは相当に遂行に対するリスクの高い任務です。通常より一日あたりの飛行訓練時間を長く設定しているとはいえ、彼女にはまだ時期尚早ではないか?」
リュドミラの予想を上回る練度向上を非常に前向きに捉える福井とは対照的に、彼女に施す予定の訓練の中で最もリスクのある部分を担当することとなる第14戦闘飛行隊を隷下に置くパトリック大佐の考えは非常に慎重、あるいは消極的であった。
「パトリック少佐の心配はごもっともです。F-16が担う任務の中で最もハードであるが故に、万が一の事故やそれに伴う機材の損耗、仮に機体を全損させた際、その後の機体や人員の補充に関するリードタイム等、司令官として憂慮すべき点は山ほどあるのはこちらも理解しております。しかし、これは部隊間でのローカルな問題ではなく、非公式ではあるが日米両政府の『合意』に基いて行っている国際共同作戦であることをお忘れなきよう」
本国から遠く離れた極東に展開する部隊に配備された装備ならびに将兵全ての人命に関する責任を負っているパトリックに、福井は口調を強めて念を押す。
「瓜生君の報告を受けて、フジワラ中尉の訓練を年明け後より米軍主体のSEAD訓練に移行させる。なお、
「はっ、お任せください」
元からそのつもりだった瓜生の明確で端的な返答を確かめて、福井はパトリックに向き合った。
「パトリック大佐、年明け以降、可能な限り彼女にSEAD訓練のスケジュールを割り当てられるよう、早速訓練要員の選定やスケジュール策定を行っていただきたい」
最早腹を括った、という表情の福井の顔を暫しパトリックは見つめたが、
「承知いたしました。すぐに部隊へ手配させます」
彼の『覚悟』を表情に見たパトリックは降参といった表情を浮かべながらそう答えた。
「年が明けて、一体いつごろから『移送』ができるかまだ不透明ではあるが、我々はやれるだけのことをやる、それだけだ。瓜生二佐、パトリック大佐、ひとつ、よろしく頼む」
立ち上がった福井に、瓜生とパトリック双方が素早く起立して敬礼する。福井はふたりに答礼すると、悠々とした足取りで執務室の出口へ向かっていったのだった。
◇
2024年1月1日、午後四時過ぎ。宮城県東松島市矢本。
「二礼、二拍手、一礼……、と」
リュドミラが小さな神社の祠の前に立ち、作法に則って初詣を済ませる。こうして日本式の『宗教行事』に参加するのは、恐らく幼少期の七五三で祖父母らと共に故郷の神社を参拝したのが最後だった気がする。それでも、リュドミラは誰もいない神社の境内でも、誰かの動きをまねることなく参拝することができた。昨年5月に日本の地を踏んで以降、ほとんど休みらしい休みを取ることなく訓練に没頭していたリュドミラも、部隊が休暇に入ったため訓練が中断している年始の今は、訓練のことを一旦頭の片隅に置くことにしようと、教本を一旦本棚にしまい、基地の外へと踏み出したのだった。
航空自衛隊松島基地のすぐ近くにあるこの小さな神社には、元旦とはいえ人の姿はほとんどない。周辺住民に顔を覚えられるわけにはいかない彼女にとって、この神社に祀られている神様には申し訳ないが、今の状況は有難いものだった。
リュドミラが松島基地の敷地へ目を向ける。この神社からはレーダードーム程度しか見えないが、パイロットの訓練を主目的とするこの基地は、年末年始の僅かばかりの休息の時を過ごしており、とても静かであった。今も作戦可能な状態で詰めているのは航空救難団隷下の松島救難隊の捜索機と救難ヘリ程度である。
そんな静かな基地の姿も、ほんの一週間ほどで終わりを迎える。
これから年が明け、自衛隊や米軍の業務が通常業務に戻り次第、リュドミラの機種転換・練度向上・編隊長資格訓練は最終段階へと入っていくことになる。F-2だけでなく、ウクライナ空軍に供与されるF-16の操縦訓練も始められ、その訓練の中には
それらを速成教育で叩き込まれ次第、岐阜基地へ移動。岐阜基地で現在準備と試験飛行が実施されているウクライナ空軍へ供与されるF-2B/XRに乗り込み習熟訓練を実施。それが完了次第――。
無意識のうちに頭の中で渦を巻いていた今後のことについて、リュドミラは強く意識して蓋をして、ひとまずは何も考えないことに努力を振り向ける。
また次の年を生きて迎えることができるかどうかも分からない身である故、限りある新年の始まりの一日を満喫しようと、短時間の外出許可をもらい、こうして人気の少ない小さな神社へと初めての『初詣』へ来たことを思い出したリュドミラは、せっかくだからおみくじでも引いてみようとその在り処を探し始めたその時――。
着込んだジャケットのポケットの中に突っ込んでいた連絡用のスマートフォンが着信音を鳴らす。
『松島基地』と表示された画面に嫌な予感を覚えつつ、リュドミラは電話を取った
「――もしもし」
「能登半島で震度七の地震が起きたっ! まだどうなるかわからないが津波警報が出た。とりあえず基地に戻ってくれっ!」
「――了解しました。すぐに戻ります」
リュドミラはスマートフォンを上着のポケットにしまい、すぐに基地へ戻ろうと一歩踏み出そうとして、昔見たニュースの一場面を思い出し、思わず足が止まってしまった。
今では何事もなかったような閑静な田舎の一角を襲った、13年前の大津波。
大地震から一夜明け、報道や自衛隊のヘリに搭載されたカメラから届けられる想像をはるかに超えた惨状。その中で当時暮らしていたキーウの自宅のテレビでまだ中学生の彼女が目の当たりにした、津波に押し流されたF-2戦闘機が建物に突き刺さっているなどといった壊滅的な被害を受けた松島基地の映像を思い出したからだった。
今はごく普通の田舎の街を襲った、黒くて無慈悲な津波の『壁』。
この場所にあったもののほとんどを根こそぎ押し流し、基地の駐機場で逃げることも立ち向かうことも出来ないまま、ただ流されて建物に叩きつけられてしまった物言わぬF-2戦闘機の無残な姿。
この松島だけでなく、東北地方の無数の街で起きたそれに近いことが、今この国の別の地方で起きようとしている。
そう理解したリュドミラが次に思い出したのは、被災者救援にこの地を始めとする各地で捜索や救助、さらには復旧へ尽力する自衛隊員の姿だった。
そこでようやく、リュドミラの足が基地へ向けて進み始める。
自分に何ができるか分からない、何より自分はこの国を防衛すると誓った自衛官ではない。
自分はあくまで訓練を受けるために一時的に派遣されてきた『部外者』だ。
それでも、そんな自分にも何かできることがあるはず。
それに、窮地に陥ったウクライナに対して『必勝』という明確なメッセージを送ってくれた、もうひとつの『祖国』の窮地を、何もしないで指をくわえてみているのは、あの震災の惨状を目の当たりにして、ただ単に『父のように空を飛びたい』というだけだった空への憧れに加え、『祖国を護る』ために空を飛べるようになろうと決心した、あの日誓った自身の信念に反する。
例え被災地に直接赴くことはできなくとも、支援物資の準備でもなんでもいい。この半年以上この国が自身に施してくれた『恩』に、少しでも応える。
そう決意したリュドミラは、基地へと急ぐ足をさらに早めていった。
◇
2024年1月中旬、午後3時30分。アメリカ空軍三沢基地・
「
能登半島が大地震に見舞われた元旦から半月ほど、リュドミラの姿は三沢基地滑走路上で離陸待機する第14戦闘飛行隊所属のF-16DJのコックピット前席にあった。
結局あの後リュドミラに出来たことと言えば義援金を募金することと、松島基地から発送する支援物資等のトラックへの積み込みを支援する程度に限られた。本当はもっと具体的な手助けをしたかったが、教官からの「今与えられている任務の本分を忘れるな」という一言でようやく我に返るに至った。今も被災地のことが気がかりではあるが、今はその想いへ厳重に封をして、これから始まる訓練に完全に集中するよう自身に言い聞かせた。
〈サムライ21、
「サムライ21、クリアード・フォー・テイクオフ、ウインド・ワン・スリー・ゼロ・アット・セブン」
リュドミラは三沢基地管制塔から届く離陸許可を復唱し、前方へ続く3050mの滑走路の先へ視線を向け、スロットルレバーを
リュドミラは、口から心臓が飛び出してしまうのではないかというほどの緊迫感と必死に戦いながら、左手でスロットルレバーを細かく前後させエンジン出力を調整し、右手のサイドスティックに繊細なタッチで機動を入力し、フットバーをジワジワと少しずつ踏んで機体の機動を制御する。
三沢を離陸して十数分。低空飛行訓練の実施エリアに到達したリュドミラの駆るF-16DJは、彼女の操縦に従い山間部の稜線を這うように超高速で潜り抜けていく。
「地形が……ッ、地面に圧し潰されそう……ッ!」
次々と迫りくる複雑な山間部の入り組んだ地形を全力で脳内で処理し、その山肌の延長線上の一定のラインより上を飛ばないよう翼を左右に翻し、F-16DJは超低空飛行を続けていく。
ウクライナの空で約1年ほど戦闘経験のあるリュドミラも、進行してくるロシア軍の地上レーダーや
しかし、リュドミラが主に戦ったウクライナ東部にはいわゆる山地のような土地がない。それ故に侵攻したロシア軍が持ち込んだ移動式対空レーダー網を掻い潜るために極低空を飛行する必要に迫られたわけだが、当然山地の複雑な地形を追従する飛行は初経験である。
単純にウクライナ領空を防空したり、侵攻してきた敵地上部隊を空爆するだけならともかく、今後考えられるあらゆる作戦行動を想定して、このような山間部での
F-16の特徴である前方視界の中にフレームが一切ないキャノピーいっぱいに迫りくる地形の波に叫び声を上げそうになるのを必死に堪えつつ、リュドミラは機体を垂直近くまで、時には宙返りに近い角度までバンクさせて機体を稜線に追従させようと頭と身体を全力で反応させる。
一瞬現れたなだらかな盆地状のエリアにホッと一息をつく間もなく、前方に待ち構える周囲より二回り以上も標高の高い山の向こう側に沈んでいく西日が目を射し、一瞬その先の地形感覚の把握能力を狂わせる。リュドミラはすぐさま機体の高度を落として西日の射線を回避して周囲の地形を再度把握して、低い高度を保ったまま鋭く左旋回する。
実機での訓練に先立ち事前にシミュレーターで感覚を掴むための訓練は受けているが、いくらシミュレーターの再現力が向上しても、最終的にものを言うのは実機での飛行経験だ。
年も明け、ここ日本で飛行訓練を行える時間も終わりが見え始めるという声も聞こえるようになってきた。
F-16がウクライナ空軍へ供与されるのはいつになるのか。様々なチャンネルから流れてくる期限が何度も過ぎていく。
そんないつ終わるのか分からない訓練のタイムリミットの最後まで、リュドミラはとにかくF-2とF-16の操縦特性や任務遂行について、ひたすら訓練の質と量を稼ぎ続けるだけである。
政治のことは政治家に任せる。我々は、ただ忠実に与えられた任務を遂行できる能力を鍛え続け、いつその時が来てもいいようにするだけ。
起伏に富んだ大地と低く垂れこめる雲の狭間を縫うように飛ぶF-16DJのコックピットに座るリュドミラは、脳裏をわずかに過った邪念を振り払い、F-16DJのスロットルレバーを
◇
2024年4月26日、午後5時半。航空自衛隊岐阜基地。
リュドミラを降ろし、帰路の燃料補給と点検が完了次第慌ただしく百里への帰途に就くべく滑走路で離陸滑走する第3飛行隊所属のT-4練習機の姿を、リュドミラはその姿が夕焼けがかすかに残る空に紛れて見えなくなるまで、微動だにせず駐機場で見送り続けていた。
とうとうやってきた。
リュドミラの胸中にそんな想いが強く広がる。
これまで練習機や訓練用の複座式のF-2Bで僅かな時間をも惜しむように飛行訓練を続けてきたのも、この基地で準備が進められている、『私の機体』を受け取り、その機体で戦うためなのだから。
この機体の操縦桿を握り無事にウクライナまで戻り、リュドミラとは別のコースでF-16への機種転換訓練を受けている仲間と合流し彼らの練度を高め、そして『この機体にしかできない任務』を遂行し、ウクライナに平和をもたらす。
リュドミラに第一の祖国から与えられた『特命』を果たすためのスタートラインに、ようやく立つことができたのである。
ふと、先ほど百里へと帰投したT-4を駆る第3飛行隊の五木一尉の言葉を思い出す。
――日本人より日本人らしい。
――日本人としての『精神性』というか『価値観』というものを具体的かつ情熱的に語ることができる。
――故郷を愛する心こそ、祖国を護るために最も力強い支えになる。
『――これで、我々が心血を注いで君を一人前のF-2パイロットに育てた甲斐があるよ』
次に回想したのは、ウクライナ空軍へF-16の供与の日程が具体的に決まったとの報せを受けた際に百里基地・第3飛行隊の『
最後に、リュドミラの回想は機種転換訓練の最終盤を過ごした百里基地・第3飛行隊の『トップガン』たちから、岐阜行きのT-4に乗り込む前に送られた一糸乱れぬ敬礼の光景に移る。そんな彼らから送られた『ご武運を』という一言を思い返し、彼女は改めてこの『任務』への決意を新たにするのだった。
「――はじめて浜松基地でその顔を見た時は、まだまだ『若葉マーク』が取れていない脆さが影のように掛かっていたが、流石は『キエフの幽霊』という物語が生まれた空を戦い、一度撃墜されても生きて帰ってきた3機
リュドミラの背後からふと掛けられた声に、彼女は少しばかりの驚きを表情に浮かべつつ振り返った。彼女の背後にいつの間にか立っていた男に、当然のことながら見覚えはあった。襟に空将補の階級章を、左胸に"S.FUKUI"と刺繍されたネームタグをつけたフライトスーツを纏う、短く整えた灰色の髪と鋭い眼差しが印象的なこの『任務』の仕掛け人である、防衛装備庁長官官房付航空機装備開発官・福井晴二その人である。
「――空将補、失礼ですが、それはどういう意味、でしょうか?」
「意味も何も、事実をそのまま伝えたまでだよ」
福井から掛けられた言葉の意味を掴みあぐねていたリュドミラに、福井は表情をほとんど変えないまま、少しだけ声に笑いを含ませる。
「君も東日本大震災で被災した松島基地の写真や映像を、一度くらいは見たことがあるだろう?」
「はっ、もちろんであります。私が
「――そうか、それは実に奇縁としかいいようがない」
浜松ではじめて顔を合わせた時からほとんど表情の変化が起伏に乏しい福井の表情に、明らかな驚きと喜びの色が微かに浮かんだのを、リュドミラは見逃さなかった。
「何せ君にこれから乗ってもらうF-2B/XR 23-8114号機こそ、君がニュースで目にした、松島基地を襲った津波によって流され、建物に突き刺さるようにしてやっと止まったF-2そのものなものでね」
福井のその言葉を聞いて、リュドミラはこれまでの人生の中で体験したことのないような感覚を覚えるのを自覚した。
リュドミラとF-2B/XRを繋いだ、例え一度致命的に打ちのめされても、不死鳥の如く蘇り舞い上がる運命という名の『奇縁』。
リュドミラは、まだ一度も目にしたことのないその戦闘機に、今まで乗り込んできた全ての機体とは全く別物の『愛着』の気持ちが湧き上がってくるのを、抑えることができなかった。
深夜0時過ぎ。航空自衛隊岐阜基地・第9格納庫。
格納庫の巨大な横開きのシャッターが左右に動き開いていく。シャッターが全て開ききったところで、照明がすべて落とされた異様な駐機場から爆音が響いてくるのを感じる。しばらくすると、外同様照明が消された格納庫の中へ、見慣れたシルエットが轟音と共にスルスルと滑走してくるのを知覚する。機体がブレーキを踏んで停止し、エンジンの火が落とされたのを確認したら直ちに格納庫のシャッターが閉鎖される。シャッターが完全に閉鎖されたのを確認したところで、格納庫の照明の一部が点けられる。一部だけをつけたとはいえ、先ほどまでの暗闇に慣れていた目に突き刺さる光線に思わず腕を顔の前にかざしたリュドミラが次の瞬間目にしたものは、
「――これが、F-2B/XR 23-8114号機、通称『サムライ・ヴァイパー』……」
大半の見た目は既存のF-2Bと変わらないが、唯一エアインテークのみが異なる形状になっていた。機体上部が丸くコブのように膨らみ、インテークの入口も通常は垂直に切った断面のような開口部となっているものが、インテーク下部がスコップのように突き出した形状に、リュドミラは見覚えがあった。
「F-35のインテークのような作りね……」
「――一発で機体の特徴を見抜くとは、流石はウクライナ空軍の精鋭MiG-29パイロット」
リュドミラの口から不意に零れた言葉を知らない男の声が拾い上げる。声のする方へ視線を上げると、既に解放されていたキャノピーの向こう側から彼女を見つめる
「航空自衛隊飛行開発実験団・特種技術実証機試験隊隊長兼飛行班長、岩崎昇平三等空佐です。ようこそ、特種技術実証機試験隊へ」
目の前で踵を合わせ、美しい敬礼を見せる岩崎の姿に、彼女は彼に言葉で訊くまでもないほどのエースパイロットのオーラを感じ取っていた。
「ウクライナ空軍西部航空管区・第114戦術航空旅団より派遣されてまいりました、リュドミラ・トカーチ・フジワラ空軍中尉です。本日付で、航空自衛隊飛行開発実験団・特種技術実証機試験隊飛行班への着任を命ぜられ参りました。よろしくお願いいたします、岩崎隊長」
リュドミラも背筋を伸ばし踵を鳴らしながら合わせ、最もきれいに見えるように敬礼する。
その光景を、福井晴二は数歩下がったところで感慨深く見つめていた。
揃うべきピースがこれで揃った。
すべては今、ここからはじまるのである。
第2話:蘇りし翼 終わり
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