サムライ・ヴァイパー ーF-2B/XR、ウクライナの空にてかく戦えりー

蒼崎一希

プロローグ:消えたF-2Bを探せ

『このアカウントが投稿している「5月21日深夜1時半ごろ、航空自衛隊岐阜基地を離陸して飛行していたF-2B戦闘機が御前崎灯台沖の太平洋上で突然レーダーから消えた」って話、本当なんだろうか?』

『仮に本当だとしても、民間機と違って軍用機は飛行航跡を常時トラッキングできる民間のシステムなんてないから、一般人には知りようがない。それに、もし何らかの異常が発生していたら、早急に防衛大臣が緊急記者会見しているでしょ。つい先月海自のSH-60Kが空中衝突事故起こした時も速攻で防衛大臣が深夜に記者会見してるし』

『というか、緊急着陸ならともかく、スクランブル機の配備なんてない岐阜基地からなんで深夜に戦闘機が離陸するんだ?』

『ただ、騒いでいる例のアカウントとは別の、長年岐阜基地ウォッチャーしている人が、「映像は撮れていないけど、拡散されている日時前後の深夜に明らかな戦闘機のエンジン音、それもアフターバーナーを炊いた時の爆音が聞こえた」って投稿しているのは気になるんだよね』

『確かこのウォッチャーの人、以前から何度か「深夜に戦闘機が離陸していく音を聞いた」って投稿しているんだよね……、なんだろ?』


「――『レーダーから消えた』は流石に与太話だとして、この岐阜基地のウォッチャーをしているって人の証言は……、ちょっと気になるな」

 PCの画面に次から次へと表示されるSNSに投稿された玉石混交、もしくは有象無象な投稿の中から救い上げられた気になる投稿に何度も目を通しながら、田中大輔はメタルフレームの眼鏡を外し、眉間を揉み、目薬を差した。

 確かに世のほとんどの人は『与太話』で一笑に付す話だろうが、『軍事ジャーナリスト』という肩書を掲げて、フリーではあるがこれでも一応なんとか食い扶持としている人間の持つ、おおよそ論理的ではない『カン』に、何かが触れてざわめきを感じ取れる程度の与太話ではあった。

 ジャンルがジャンル故に、先程のようにジャーナリストの『カン』が『そのネタを探れ』と叫んだとしても、探ることなど叶うはずもない事案やネタは今も昔もそこかしこに存在している。それ故、そこに『ネタ』は存在しているのは理解しているが、それを記事にすることは何らかの形でできないか、もしくはぼやかされた内容で書かれた小さな記事となる方向に帰結する。『防衛機密』『国家機密』、この四文字の効力はそれだけ強力だ。

 そんな状況下で辛うじて掬い上げることが可能で、かつ読者に信憑性を持って読んでもらえるような確度の高い記事を、いかに法律や倫理の範囲内に収めながら記事に仕立て上げ、雑誌や新聞、今ならネットニュースに売り込むか。それが上手い人間はメディアから気に入られ仕事が増え、そうでない人間はタブロイド紙のベタ埋め記者に成り下がれれば御の字で、最悪はこの業界の『売り込み先』に誰からも相手にされなくなり、この界隈から消えていく。

 そんな世界で、彼は一応何年も『軍事ジャーナリスト』として生きてきたのであった。


 今この国で起きている『真実』を知り、それを客観的に国民に伝えたい。

 軍事ジャーナリストという看板を降ろさざるを得ないことにならず、いかにこの仕事を続けていけるか。


 大手メディアや専門誌などで連載を持つような大御所御用聞きジャーナリストでもなく、かといって我が国の仮想敵国への利敵行為ともとられかねない情報の発信に躍起になる、本筋から外れたジャーナリストというわけでもない、単なる一兵卒のジャーナリストではあるが、先に述べた時に相反するふたつのポリシーは、絶えず守ってきたつもりだ。

 ただ、今回彼が感じ取った『カン』が伝えてくるざわめきには、ほんの微かにではあるが何か底知れない重大な『秘密』を抱えているような空気も、仄かではあるが感じ取っていたのだった。

 取材活動の起点としてはあまりにソースが希薄で、なおかつ荒唐無稽の香りが十二分に漂うネタではある。

 それでもジャーナリストの端くれとして、やはりこの『カン』には向き合わなければならない。

 そこには、SNSで勝手気ままに言いたいことを言える『自称』ジャーナリストたちでは辿り着けようもない、本来であれば国民が知るべきである『真実』が眠っているのかもしれないのだから。

「とりあえず、金曜日は朝イチで市ヶ谷に行ってみるとして……、この岐阜基地ウォッチャーをやっているって人に、ちょっと取材してみるか……」

 彼はSNSの該当アカウントにアクセスすると、ダイレクトメッセージのフォームを開く。数刻したためる内容を考えた末に、彼はメッセージ欄に取材依頼の文章を入力し始めたのだった。



 2024年5月24日、午前9時。東京都新宿区市谷本村町・防衛省A棟第一省議室。

 防衛省の定例記者会見は、週三回実施される。今週最後の定例会見となる今日の記者会見には防衛大臣および大臣官房報道官が出席する。

 田中大輔は大手メディア記者の後ろに潜り込むような形で、この第一省議室での記者会見を今か今かと待ち構えていた。

 会見開始の時刻通りに、紺色のスーツに茜色のネクタイを巻いた防衛大臣が省議室へ入室する。報道機関のカメラ向けの防衛省の名前と省庁のロゴマークが大きく描かれたバックボードが用意された壇上に立ち、まずは掲揚された日の丸に最敬礼をして、自ら手にした会見用資料を演台に置き記者たちにも一礼し、はじめましょうか、の一言でいつも通り会見が始まった。

 今日は防衛省側からの発表事項はなく、メディアやジャーナリストからの質疑応答のみに絞られていた。はじめに記者クラブに所属する幹事局からの質問から始められる。

 最初は中国軍の台湾近海における軍事行動について。次に話題が先日退職した幹部自衛官に発覚したパワハラ問題に関する事実確認となり、記者と大臣のやり取りに若干ではあるが熱が籠る。かといって、その場が紛糾するほど加熱するわけではなく進むかと思われた。しかしそこから話の本筋から離れた頓珍漢な質問を繰り出す、この界隈で悪い意味で有名な記者とのやり取りが始まってしまい、田中は俄かに不安を抱き始めた。記者会見も多忙な大臣が無限に時間を割いてくれるわけではない。我々報道には報道の都合があるが、防衛省にも防衛省の都合というものがある。タイムリミットが迫る中、記者クラブ非加盟ではあるものの、これまでの雑誌等への寄稿経験等によってなんとか参加を認められた程度のジャーナリストに質疑応答の順番が回ってくるのは大抵最後の方で、件の記者のようなことが起こり始めると我々のような立場はタイムオーバーとなって質疑すらできずに無駄足を引きずって市ヶ谷から帰ることとなる。

 頼む、そろそろ切り上げてくれないか。

 そんな彼の願いが誰かに届いたのか、渋々といった表情で質疑を終えた件の記者より数列後ろから田中が勢いよく挙手してアピールする。それは他の取材陣も同様なので、あとは指名する報道官次第だ。

「――では、そこの方」

 報道官の手が田中を指し示す。今だ。今しか正々堂々『あの件』を聞き出す機会はない。

「軍事ジャーナリストの田中大輔と申します。防衛大臣へご質問があります。三日前、SNS上の一部界隈で以下のような真偽不明の情報が出回りました。内容としては、『5月21日深夜1時半ごろ、航空自衛隊岐阜基地を離陸して飛行していたF-2B戦闘機が御前崎灯台沖の太平洋上で突然レーダーから消えた』という内容です。流石にレーダーから消えたという点はデマであるとは私でも容易に想像できますが、その時間帯近くに岐阜基地の方角から戦闘機と思しきエンジン音が聞こえたという、岐阜基地近辺住民からの証言を私は得ています。私が記憶する限り、岐阜基地には対領空侵犯措置、俗にいうスクランブル任務のために24時間体制で待機している部隊は配備されていないはずです。こちらについて、大臣の見解をお伺いしたいと思います」

 彼の口から飛び出た『レーダーから消えた』という文言で一瞬報道陣の顔色が変わり、ほぼ全員が彼の顔を振り返るも、続いて出た『デマ』という一言で彼らは急速に興味をなくして、省議室はいつも通りの空気へ戻っていった。

「――ご質問にありました岐阜基地の件でありますが、私も詳細な配備部隊の任務実施状況等の資料を持ち合わせていないため、明確な回答は致しかねます。しかし、岐阜基地から離陸したF-2戦闘機が飛行中にレーダーから消えた、という事実は当然ございません」

 彼はそう言い切り、直後若干表情を和らげながら言葉を続ける。

「既にご質問のジャーナリストさんから『デマ』という言葉が出ておりますので、他の記者の方々も誤解はされないかと存じますし、万が一にも墜落に至るような重大事故が発生した場合は直ちに、今回の記者さんののご質問の内容に関してですと航空幕僚長から、続いて私からその都度緊急で会見を行います。が、現時点でそのような会見を行うに値する情報は、在日米軍司令部を含め防衛省の方には上がってきておりません」

 事前にある程度想定はしていた通りの質問が返ってきたところで、田中は別の角度からさらに質問を投げかけた。

「しかし、現に5月21日の深夜帯に近隣住民が岐阜基地から戦闘機が離陸する音を聞いたという証言を私は得ております。岐阜基地でも夜間に試験飛行や訓練飛行を実施することは私も存じてますが、これらの飛行計画は基本事前に所在する自治体等へ実施日を広報して実施され、基本深夜帯の飛行は設定されていないと認識しています。しかし、問題の5月21日に実施される試験飛行は夜18時以降とスケジュールされており、証言のあった深夜1時という時間帯の夜間飛行が実施される旨の広報はされておりません」

 質問が長くなっているのは承知の上。聞き出すなら今しかない。田中はさらに質問を投げかけ続ける。

「また、先ほどの証言者を含め近隣住民へさらに取材を行ったところ、5月21日だけでなく、他にも別の日の同じ時間帯に戦闘機の離発着が実施されていたという証言を複数得ています。岐阜基地は近隣に市街地の広がる立地のため、このような事前通告のない深夜帯の戦闘機の飛行というものは、周辺住民と自衛隊の協力関係に悪影響を与えかねない事象だと思われますが、これらについて、大臣の見解をお伺いできますでしょうか」

 さぁ、この問いに防衛大臣はどう答える? 田中は壇上の大臣の表情の変化を伺いつつ、その回答を待った。

「先程も回答いたしましたが、私は詳細な配備部隊の任務実施状況等の資料を今持ち合わせていないため、明確な回答は致しかねます。岐阜基地での夜間飛行任務については、あくまで一般論的な回答となってしまいますが、基本的には周辺自治体へ事前に広報した日時に任務を実施するよう徹底をしておりますが、飛行試験空域や基地周辺の天候、ならびに試験を実施する装備品の機材都合や試験項目等の関係で、当初予定していた日時以外の時間にやむを得ず実施する場合はございます」

 判を押したような回答を顔色ひとつ変えずに口にしたのを目の当たりにして、想定されてはいたものの、田中はこの『筋』からのネタ取りが失敗に終わりそうであることを察した。

「防衛省といたしましても、周辺自治体の理解あってこその基地ということは承知しておりますので、ご質問の深夜帯の戦闘機の飛行に関しては、極力事前に広報した時間帯で任務を完遂するよう部隊には徹底させます。しかし、質問されたジャーナリストさんもご存知ではあると思いますが、岐阜基地に配備されております飛行開発実験団は、自衛隊が装備する航空装備品の試験評価を実施する部隊でありまして、装備品の試験の都合上、やむを得ず深夜帯に試験を実施しなければ必要なデータを収集できない事例も考えられます。防衛機密に関わりますので具体的な内容に関して回答は差し控えますが、昨今の厳しさを増す国際情勢に自衛隊が対応し、我が国だけでなく周辺諸国の主権と平和を維持することができる部隊と装備を整備していくためにも、国民の皆さまに対しましては、改めてご理解とご協力を賜りたいと思います。――以上で、よろしいでしょうか?」

 この対局はもう投了するしかない。

「――以上です、ありがとうございました」

 田中が着席すると、報道官が記者会見を終了に向けて進行させていった。



 あの防衛省での一件から数日後の夕刻。田中はとある雑誌から依頼された記事の執筆に一旦の決着をつけ、自宅の書斎から台所へとトボトボと歩く。冷蔵庫の中から牛乳を取り出しマグカップに注いでラップを雑にかけて電子レンジに入れスイッチを入れる。

 このようなご時世ゆえに、一兵卒の軍事ジャーナリストである田中にもそれなりに執筆などの依頼は来る。依頼されていた原稿入稿日は迫っているが、週末通して徹夜明けのこの身体に一旦仮眠を与えてから校正を行うだけの時間的余裕はある。これから小休止を挟んで校正を行っても、どうせ先ほどまで執筆にフル回転モードだった徹夜明けの頭では、脳みそが勝手に誤字を補完して読み飛ばしてしまう。ならばひとまず仮眠をとってからにしてしまおうといつものようにホットミルクを用意し、その間にスマートフォンに何かメールを受信していないか確認しようと、リビングテーブルに放置したままにしていたスマートフォンを確認する。メール画面を開いて未読メールと迷惑メールを選別しようとしていたその時、一通の未読メールがスクロールするその指を止めさせた。

『先週金曜日に開催された防衛省の定例記者会見において、貴殿が防衛大臣に質疑された件について情報を持っております。下記日時に指定場所でお待ちいただきたい』

 今まで受信したことのないメールアドレスから届いた、中々に不審な内容のメール。普通なら迷惑メール設定をしてゴミ箱に移動すれば済む話だ。

 しかし、田中の知識とカンに引っかかったふたつの点が、そのメールを安易に削除してはならないと警告を発していた。

 ひとつ目は、送信元のメールアドレスのアカウント名として設定されている"musashi"という文字。

 もうひとつは、待ち合わせ場所として指定した場所だった。

「赤坂氷川神社、か……」

 もしその『カン』の通りならば、あまりにも見え透いた誘導が過ぎる。しかし……。

 田中はすぐさま台所に入り、ミルクを温め始めたばかりの電子レンジを止め、中に入れていたマグカップを取り出すと一気に渇いた喉に流し込み、書斎に置いていた取材道具一式が入った手提げ鞄をひったくると、急いで玄関から飛び出していった。


 自宅の最寄り駅から電車と地下鉄を乗り継ぎ、東京メトロ・六本木駅の改札へと向かう。既に勤務先からの帰宅時間帯に差し掛かっているが、この駅で乗降する人の比率はどちらにも偏らない。今日は平日ではあるが、会社勤めの装い以外の人々も多く見受けられる中、彼は地上へ上がる階段を登って繁華街・六本木へと躍り出た。首都高の高架下・六本木通りからすぐに脇道に入り、麻布警察署の前を右折して交差点を抜けると、そこはもう赤坂と呼ばれるエリアである。しばらくマンション街を歩くと、進行方向右側に頑丈な門扉とその奥に続くうっそうとした木々の緑の鮮やかさがこちらに自己主張をしてくる。我が国最大の同盟国であるアメリカの大使館は、この鮮やかな緑の木々の向こう側だ。青々しい木々に背を向ければ、そこには『氷川神社』と刻まれた石碑と鳥居が、彼を静かに出迎えていた。この都市が『東京』ではなく『江戸』だった時代からこの場所でこの土地の行く末を見守ってきたとされる由緒正しきこの神社であるが、日没間近のこの時間に訪れるものはほぼなく、本殿の前へと立った田中は、ここが日本の首都のそのまた中心に近しい場所に位置していることを忘れさせる荘厳さに圧倒されていた。

「――軍事ジャーナリストの田中大輔さん、ですね?」

 不意に背後から自身の名前を耳元に低い男性の声で囁かれ、田中は背筋に冷たいものが流れるような思いがした。

 これだけ周囲に人がいないのに、声をかけられるまでまるで存在に気がつかなかった。いくら彼がこの光景に呆けていたとはいえ、存在感を他者にほとんど感じ取らせなかった男に対して振り返る。

 そこに立っていたのは、眼鏡をかけた中肉中背の黒いスーツを普通に着こなす、中年に差し掛かりそうに見える男性。何も意識せず街中ですれ違えば、何ひとつ意識に残ることなくすれ違っただけで終わってしまいそうなほどに、傍目にはごく普通のサラリーマンに『見えた』。

 しかし、今こうして一対一で、しかもこの男に不意を突かれる形で初めて遭遇して初めて、今目の前に立つ男の『異常性』に、否が応でも気が付かざるを得なかった。

 今まで長年軍事をネタに飯を食ってきた田中だが、この男は人生で初めて遭遇するタイプの男であり、また同時に軍事ジャーナリストとして『一番遭遇してみたい男』であろうことは疑いようがなかった。

「――あなたが、例のメールの?」

 季節外れの冷や汗を手の甲で拭いつつ、田中は目の前の男に問いかける。

「えぇ、確かに」

 男の回答は端的かつ説得力に溢れていた。

「この神社、とてもいい神社でしてね、こう見えて私結構信心深いものでして、何か大きな仕事がある時には、ここでよく参拝するんですよ」

 そう言葉を続けた男は田中の表情を読み取り、サッと表面に張り付いたような笑みを浮かべていた。

「あぁ、どうせ訊かれるんですから先に断っておきます。私、職業柄本名や所属先について一切明かせないことになっていまして」

 一方的な流れを変えるべく官姓名を訊ねようと口を開いた途端、またもや先読みされてこちらの言葉を封じられてしまう。まるで内面をつぶさに覗き見られているようで、気味の悪さより恐怖感の方が勝り始めていた。

「――では、あなたをどうお呼びすれば?」

「田中さんのお好みで結構ですよ。職業柄仮名なんて結構考えられることもあるでしょう?」

 男はそう表情筋を動かすことなく、さらりと何事でもないように言ってのける。同時に、彼があのメールで提示した、田中の知識とカンに引っかかったふたつの点、『ムサシ』と『赤坂』が線となり、目の前にいる男の正体の輪郭を、微かにではあるが明確にさせたのだった。

「――では、以後は『ムサシ』さん、で……。よろしいですか?」

「もちろんですよ、田中さん。では、立ち話も何ですし――」

 そう言って『ムサシ』と仮称された男は、スーツのポケットの中からクルマのキーを取り出した。

「しばし私とドライブに付き合っていただいても……、よろしいですよね?」



 『ムサシ』に案内されるまま、神社の駐車場に停められていた一台の紺色のクラウンの後部座席に田中は腰を下ろした。『ムサシ』は助手席を進めてきたが、どうにも彼の隣に座ることへの恐怖感が勝ったため辞退した。

 アメリカ大使館の敷地横を通り過ぎ、首都高直下の大通りに合流したクラウンは、少し走った先の霞が関出入口から首都高へと入る。

「このクラウン、実は結構気に入ってまして。ハンドルやアクセル、ブレーキの操作に機敏に動いて、走りに無駄がない。今どきないんですよ、こういう『自分が走らせていると感じられる』クルマが」

夕刻の帰宅ラッシュと重なり、滑りこんだトンネル内部のクルマの流れは良くなかったが、クラウンのハンドルを握るムサシは、口にする言葉と裏腹に流れの悪さを一向に気にする素振りもなかった。

「それに、ご自身のクルマなら常に『検索済』だから盗聴等の心配もない、と。それだけ口にすることに気を遣う話を、何故私に持ち掛けたいと」

 互いの間合いを探るような会話を、田中はようやく本題へと切り込んでいく。

「それは単純です。『F-2戦闘機が消えた』、SNS上に突如拡散した真偽不明のこのワードに強い興味関心を抱き、なおかつ自身の足と目と耳で情報の裏取りをした上で、記者クラブ制度によるハンデさえものともせず、質疑応答の記録が残る定例記者会見の場で大臣にその『ネタ』について質疑まで行えた人が、あなた以外ひとりもいなかったから、それだけです」

 ゆっくりと流れ始めたクルマの流れに合わせてムサシがアクセルを踏み、クラウンがゆっくりと動き始めた。

「あなたが追いかけている『深夜の闇夜に消えたF-2』の件ですが、あれは大臣の言う通り『装備品の試験の都合上やむを得ず』意図的に行われた任務で飛行していたのは事実です」

 案外あっさりとネタの核心を放り込まれたと理解した田中は、虚を突かれたような表情を浮かべる。

「――既に後継となる次期戦闘機G C A Pの開発が具体的に動き始め、もうあと十年かそこらすれば退役を始めるF-2戦闘機に、『見せたくないモノ』がある、と?」

 田中は少々オーバーなリアクションでそう疑問を投げかけつつ、この男が一体何を自身にさせたいのかに思慮を巡らせる。

「いくら日米共同開発でF-16とは別の機体と言っていいレベルに改造開発された『日本固有種』とはいえ、あくまで戦闘機としての基本的な評価はF-16と同じ『第四世代戦闘機』であることに変わりはない。何十年とアメリカによって世界各国に売りさばかれた機体を原型とした機体に、秘密がどうも――」

「もちろん秘密なのは『技術』という点もありますが、『彼ら』が一番秘密にしたいのは、その『存在』そのもの、なんですよ」

 また話の核心を突くような、それでいて雲を掴むようなワードが投げかけられ、田中の思慮が振り出しに戻る。

「『存在』そのものを秘密にしたいって、もう何年空自で運用していると思っているんですか、F-2を。数の正確性はともかく、どの基地のどの部隊にどれだけの数のF-2が配備されているかなんて――」

「確かに、今公表されていて実任務へ就役しているF-2の実数など、仮想敵国側も重々承知でしょう。ではもし、その実数に含まれていない機体が存在して、それが表沙汰になっていない任務に就いているとしたら……?」

 またもや投げつけられた言葉に、田中は三度虚を突かれることとなった。

「申し訳ありませんが、私も自由気ままに情報全てを渡すわけにはいかない立場なもので、これ以上は田中さん、あなたのお仕事、ということで」

 そうムサシが言ったところでクラウンは首都高の地下トンネルを抜け、衆議院憲政記念館、そしてその奥に国会議事堂の威容を望みつつゆっくりとした流れで走り続ける。

「最後に付け加えるとすれば、その『幽霊のようなF-2』とそれを使う『任務』について一番隠したがっているのは――」

 そこで言葉を一瞬切り、彼が視線を進行方向左側へ向けた。その一瞬の視線誘導に沿って田中が目にしたものは――。

「『あそこ』で一番偉い人、とだけ」

 夕闇の中、ライトアップされ鈍く白く輝く国会議事堂を目の当たりにした田中は、先ほどの短い言葉を脳内で必死に咀嚼し、無意識のうちに唾を飲み込んでいた。

「――なぜ、この事を私に? これって――」

「えぇ、『我が国の安全保障に関する情報のうち特に秘匿することが必要であるもの』と規定された保護されるべき特定秘密に十分該当するでしょう。万が一リークした事実、あるいはリークされた存在そのものが露見してしまえば、ただでは済ませてはもらえないでしょう。ただ――」

 なんてことに首を突っ込ませたのだ、と激高しようとした田中の言葉を遮るように、彼はさらに言葉を続ける。

「今では我が国の安全保障体制史上最大のトップシークレットとして丁重に扱われているこの計画だが、元々は空自のごく一部が大臣どころか幕僚長に諮ることもなく、極秘裏に進められていた計画だった。それが政治的に活用できるからとなし崩し的にここまで来たが、その計画を知る人間すべてがこの現状を肯定的に思っているわけではないのも事実だ。我々の立場上、表立って事を公表することは組織の立場を危うくする。しかしまがりなりにも民主主義国家である我が国において、その国家を防衛することを主目的とする組織が、仕えるべき国民の総意を蔑ろにしたまま非常に重大な行動を起こすことを放置していいと割り切ることもできない程度には、これでも公僕としての良識が残っている自覚があるものでしてね、意外に思われたかもしれませんが」

 ムサシの最後の一言にまんまと乗せられてしまっていることに嫌悪感はあるものの、少なくとも、この男が持つと主張している『良識』に、いっそ乗っかってみようじゃないかと決意が粗方固まりつつあることも、田中は自覚していた。

「いい点悪い点双方を俯瞰してこの国の安全保障問題について論じる文章を、ジャーナリストの信念に沿って、過度な忖度などせずに世に送り出す。そんなあなたの『ジャーナリズム』に、私の中に微かに残る『良識』を託したい。協力してはもらえないでしょうか」

 そう言うと、ムサシはクルマの流れが戻り始めた首都高を走ることに集中するかのように、黙々と前を向いてハンドルを握り続けていた。

 この男は不思議な男だ。田中はそう思った。

 普段はどこにでもいる、世間の中に溶け込むような擬態をしつつ、それでいてその筋の人間に対しては、一度印象に残れば一生忘れることなどないであろう、不気味で底の知れない何かで主導権を手放さない。しかし、それでいて、公僕として本来持ち合わせているべきである、仕えるべき国民に対する『良識』を手放せていない。そんな不思議な男が、ただの一兵卒のジャーナリストに、とんでもない役割のバトンを握らせようとしているのだ。

 しかし同時に、そんな男の語る『良識』とやらを、いっそ背負ってしまってもいい。そんな気にもさせてくる。

 つくづく不思議な男である。だが、悪くはないとも思えた。

「――ここまで乗り掛かった舟から、今更降りると言っても、どうも無事には家に帰してもらえなさそうですし……。わかりました。引き受けましょう」

 田中のその言葉に、ムサシの表情へようやく受動的な感情らしい何かが浮かんだように見えた直後、ハンドルを握る手のうちの右側が離れそうになるのを、田中は見逃さなかった。

「ただし、あなたのそのスーツの裏ポケットに入っているであろう『モノ』は、受け取りませんのであしからず」

「――いりませんか? ラムネ。こう見えて、結構甘党でしてね。医者に大概にしろと怒られているんですが、どうにも習慣というものは染み付けば染みつくほど抜けないもので」

 ムサシはそう言って、スーツの裏ポケットからピルケースを取り出し、その中に入っているラムネ菓子を何粒か手に取り、口の中に放り込む。

「貴方がご想像されたものはお渡ししませんよ。受け取らないのは承知の上です。ではこの件について『話し合い』はここまでということで。ご自宅近くまでお送りしましょう」

 最後の最後まで、彼の思うツボだったな、と防衛大臣に続き再び『投了』の二文字が田中の脳裏を過る。田中は言葉なく頷き、クラウンの後部座席にその身を預けることにしたのだった。



 数日後、深夜零時頃。スウェーデン王国・ハザスリウ西近郊。

 北極圏の境界線からある程度距離はある南デンマーク地域とはいえ、夏至まであと一か月ともなると、北欧のこの地は陽がとても長くなる。21時ごろにようやく陽が沈んで、辺り一帯が暗闇に包まれるのは日付を跨ごうかという頃まで待たなければならない。

 そんな土地に所在する、スウェーデン王国空軍・スクリュズストロプ空軍基地。ここは、デンマーク王国の首都コペンハーゲンが所在するシェラン島ではなく、ユーラシア大陸と地続きでドイツと国境を接する西部でも特に国境寄りに所在する。この滑走路から離陸して南に少し飛べば、あっという間にドイツ領空へと到達できる。そのような場所である。

 いわゆる『国境の護り』を担うこの基地には、スウェーデン王国空軍で現在主力戦闘機の座を担うF-16AM/BMが二個飛行隊分配備されており、基地内にはF-16の整備部隊も構えている。今配備されているF-16AMは、幾度かに渡るバージョンアップ改修を受けた『機体寿命中近代化改修プログラムM  L  U』という機体ではあるが、全世界に向けておよそ4600機以上生産されたF-16の中では相応に初期のモデルである『ブロック20』の仲間に属する。導入から長いもので既に40年を迎えようとするため、2016年にスウェーデン王国は後継機としてF-35を発注し、機体数が一定数まで揃い次第F-16AM/BMは主力戦闘機の座を譲り渡すこととなる。

 その後スウェーデン王国空軍のF-16AM達は、良くて中古機として南米や東南アジアなどといった空軍力に多額の予算を充当することのできない国へ売り飛ばされるか、あるいはまだリサイクル可能な部品を売り払ったのち、静かに解体の時を待つ……、はずだった。数年前、少なくともパンデミックが発生した直後くらいまでは。

 しかし、冬の『平和の祭典』であるオリンピックが北京で閉幕した直後である2022年2月24日。冷戦状態の終結、そしてソビエト連邦の崩壊とその後のロシア連邦の低迷によって、数百年いやそれ以上の単位でユーラシア大陸のどこかで燻り続けていた『大戦』という名の篝火を支える柱の多くはポッキリと折れてしまっており、戦火という火種は大地に転がりとっくに消え失せ、民族紛争や『テロとの戦い』レベルの戦闘はともかく、大国同士による『全面戦争』などもう起こらないだろうという専門家も含めた多くの民の考えが、ただの幻想であったことがウクライナからリアルタイムで世界中へ伝えられ、証明されることとなった。

 長年ソビエトの脅威に怯え、北大西洋条約機構N A T Oという国家安全保障の枠組みの中で生きてきたここデンマーク王国、そしてその国民は再び大国・ロシアの脅威への備えを強めるとともに、今この時もロシアによる侵略と戦っているウクライナへの連帯を強めていった。

 そんなウクライナから西側諸国へ届いた、『西側製の戦闘機』という軍事支援のリクエスト。この条件に合致し、なおかつ支援国の財政を極端に圧迫せずに供与できる機体としてF-16の名前が浮上し、該当機体を保有する国が複数国加盟するNATOと、その機体の開発・製造元であるアメリカとの協議が始まった。

 しかし、西側諸国最強の軍事力を誇り、かつてはソビエト連邦と冷戦という名の核兵器同士で恫喝しつつ睨み合う主導権争いを続け、『世界の警察』を自称していたアメリカは、それ故に二国間での軍事侵攻が世界大戦へエスカレートすることを危惧し、経年機とはいえF-16という強力な戦力をウクライナへ供与することに中々首を縦に振らないでいた。

 結局アメリカ合衆国大統領がF-16のウクライナへの供与を正式に承認したのは、ウクライナからの『リクエスト』の発覚から半年以上経過した2023年5月末。日本の広島で開催され、ウクライナ大統領も直接参加したG7広島サミット直後のことであった。

 2022年2月に始まったウクライナへのロシアによる軍事侵攻に対して、西側諸国はF-16の供与を決めるまでにも、対戦車ミサイル・榴弾砲をはじめとする重火器類・各種ミサイル・装輪式自走多連装ロケット砲H I M A R S・パトリオット地対空ミサイルシステム・さらにはレオパルト2やチャレンジャー・エイブラムスといった西側諸国の主力戦車までを供与しており、彼らもただ手をこまねいていただけではない。

 しかし、陸海空の各軍が保有する装備品の中で、戦闘機をはじめとする軍用機の供与には、陸海以上に克服する必要があるハードルが無数にあり、そのうち最も高いハードルが、『東側諸国の軍用機で飛行経験を積んだパイロットを西側諸国の戦闘機の操縦技量に適応させる』ことであった。

 そこでNATO諸国とウクライナは交渉の末、ウクライナ空軍が抱える空軍兵のうち、F-16を操縦するパイロットのうち、実戦経験豊富なパイロットを少数デンマークで訓練し、それ以外の大多数は東側諸国の軍用機で飛行経験を重ねる前の若いパイロットの新規育成で賄うこととし、そんな半人前な彼らはイギリスやアメリカなどでイチから『NATO規格の戦闘機パイロット』として育て上げられることとなった。

 こうしてNATO諸国空軍でのウクライナ空軍F-16パイロット養成プログラムが始まり、広大なこのスウェーデン王国空軍・スクリュズストロプ空軍基地にも6名の元MiG-29戦闘機パイロットと数十名の戦闘機整備兵が派遣され、全く設計思想の異なるNATO規格の装備と言語に四苦八苦することとなる研修が始まった。

 そんな困難を極めた訓練プログラムの最終盤を迎えた5月の終わりに、『彼ら』はやって来たのだった。

 スクリュズストロプ空軍基地の緑豊かに覆われる広大な敷地の中に点在する掩体壕のひとつ、11番掩体壕の中で6人のウクライナ空軍戦闘機パイロットたちが、彼らにとって『最後の教官』となるパイロットの乗機が到着するのを勢ぞろいして待機していた。

 そのうちのひとり、イゴール・コザチェーンコ大尉は、これからやってくる『最後の教官』のうちのひとりに、特別な感情を抱いていた。

 突如サイレンが鳴り響き、11番掩体壕の分厚い防爆仕様の扉が開く。真っ暗な誘導路から、この半年近くの期間で聞きなれたエンジン音が近付いてくるのを、イゴールは感じていた。彼の右手が、フライトスーツ左胸に貼られた『ファルコン』を描いたワッペンに触れる。ワッペンとフライトスーツ越しでも、イゴールは、自身の心臓がポジティブな意味で高鳴りつつあることを自覚していた。

「――いよいよここからが、最終局面、か」



 防衛省の記者会見へ単騎乗り込んでから約半月後。東京都内、某月刊雑誌編集部。

「――いやね、結果としてうまく記事執筆の穴埋めが出来そうな人を見つけてきて、スケジュール押さえられたからよかったものの、田中君、キミ一体どうしちゃったのよ、本当に」

 校正される原稿や企画書などがうず高く積まれたデスクを挟んで、ひげ面がチャームポイントな編集長が困り果てに果て切った顔をこちらに向ける。

 ここは田中がまだペーペーのジャーナリストもどきだった時代から長年に渡り、定期的に原稿等の執筆依頼を出してくれていた月刊雑誌の編集部だ。今まで長いこと、『ジャーナリストとしての信条』に合わないとして執筆依頼を断ったことは何度かあったものの、向こうしばらくの定期的な執筆依頼のほぼ全てを断ったことはなかった。

「昔何度か確度の低い粗いネタで執筆依頼をして、それに対して『読者の注目を引くためだけの文章は書かない』と言い切ったことあったよね? そのキミの信念、僕は結構尊敬してんのよ? どうしてもね、本を売ってナンボの側に立つとね、そういう精神よりも売り上げ目標の方が勝ってしまうからね」

 そういうと、編集長は電子タバコをケースから取り出すと一口吸い、特徴的な香りを含んだ深いため息を吐き、言葉を続ける。

「その信念を尊重して、それ以降は確度も高く、正当性もあり、ジャーナリズムの精神に則った記事を書けるような依頼をしてきたつもりだし、それで色々とお褒めを頂いたこともあるでしょ? そんなキミのいう『ちゃんとした』仕事をすべて断って、あろうことかこんな……、こんな荒唐無稽なネタで記事を書きたいって言い出したら……、そりゃ色々と心配しない方がおかしいでしょ、人として」

 軍事ジャーナリストとしてある種『育ての親』である編集長も、田中の尋常ならざる様子を察して、改めて何とか説得を試みようとするものの、田中の決意の固さに、三度ため息を付くことしかできなかった。

「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ございません。でも、コレは、この記事は、今私にしか書けない、国民に伝えるべき重大な問題なんです! 今回掛けてしまった多大なるご迷惑も、全てその問題を提起する記事の力でお返ししますので!」

 そう言い切って頭を深々と下げた田中の頭頂部を、編集長はただ見つめることしかできなかった。


 あの日の『首都高車内密談』以降、田中は先の雑誌のようにキャンセルできる限りの仕事全てを断ると、すぐさま日本各地の航空自衛隊の基地のある街を飛び回りはじめていた。

 田中の『ムサシ』に対する見立てはどうやら正解だったようで、『その筋』からでないと彼の手元に届くことは決してあり得ない程度には確実な『ある特定秘密の尻尾の捕まえ方』を網羅した文章を手掛かりに、これまで軍事ジャーナリスト、特に軍用機を専門にした取材という稼業で培ってきた『コネ』を頼りに、『消えたF-2』の正体を探りにかかった。とはいえ、いくら確度の高い情報の断片を握って狙いを定めピンポイントに取材しているとはいえ、早々容易く尻尾を掴ませてくれるほど相手も間抜けではないし、下手にピンポイントに取材攻勢をかけ続ければ、あちら側に意図が筒抜けになってしまうのは火を見るより明らかである。そこで、『計画』に関わる人間を支援する人間を支援する立場の人、つまり日頃高度な防衛機密等と直接相対することのない裏方の自衛隊員や基地への納品業者、さらには基地の周辺住民や各自衛隊基地に出没する自衛隊ウォッチャー等に対しても取材を粘り強く取材していくうちに、朧気ながらこの『消えたF-2』に関わる主要人物のうちのひとりの輪郭が見え始めてきていた。

 『金髪で比較的長身な女性のF-2パイロット候補生』である。

 彼女こそ、田中が追い求めている『消えたF-2』の主要人物に違いない。長年のジャーナリストとしてのカンが、そう強く主張するのだった。

 一昔前までは夢のまた夢だった『航空自衛隊女性戦闘機パイロット』という存在も、最初は主力戦闘機F-15Jから、次いで昨年2023年にF-2戦闘機にも、実戦部隊に配属となる女性戦闘機パイロットが出現し始めた。故に『女性』というだけでイレギュラーと判断するのはあまりに航空自衛隊の現状に対して不勉強過ぎるし、実際福岡県の築城基地に配属となった女性F-2パイロットに、田中自身も航空専門誌の取材で実際に相対している。

 それに加えて国際化も進んだ令和の今では、いわゆる『ハーフ』という出自を持つ若者の自衛官入隊志願者も、多数派マジョリティーではないが実際に存在する。もちろんそのためには本人が日本国籍を有しているだけでなく、いわゆる『身辺調査』もあるにはあるが、全く入隊できないわけではない。

 故に金髪が特徴な家系の流れを持って生まれた日本国籍の女性が、戦闘機パイロットを目指して航空自衛隊に入隊し、訓練を受けていても不思議はないのである。

 しかし、それが『正解』となると、ある疑問が浮かんでくる。

 いくら自衛隊の中でも男女雇用機会の均等が全職種に対して図られるようになってきたとはいえ、戦闘機のパイロットや護衛艦の艦長などといった、幹部自衛官の中でも『エース級』の人材として女性が登用される数はさほど多くない。そんな彼女たちには我々のような報道関係者からの視線だけでなく、防衛省の広報担当からの視線も漏れなく向けられている。自衛隊の広報を行う上で、女性の戦闘機パイロットやイージス艦の艦長などといった『主人公』のような存在を放っておくわけがなく、そこに『金髪ハーフの女性戦闘機パイロット』という素人目にも興味を惹きやすい『主人公の中の主人公』とでもいうべき輝かしい人材がいるなら、とうの昔に自衛隊側から報道各位へ猛プッシュされているはずなのである。

 しかし、そのようなことは一切ないのはその方面に日頃アンテナを張っている田中当人が一番理解していることであるし、各地で取材した多くの人たちが彼女に対して共通して抱く、ある印象が『消えたF-2』のパイロットにジャストフィットしてしまうのである。

「――こんな防衛省にとってダイヤモンドよりも価値のある人材を広報面でプッシュしないどころか、基地内でも極力接触する人間を限っているとか、もうこれ答え合わせみたいなものなんだよなぁ……。でもなぁ……」

 記事の骨格となるような文章をある程度くみ上げつつあった田中が、自宅書斎で頭を抱えていた。

 田中の地道な取材の結果、『消えたF-2』のパイロットらしき人物は朧気ながら姿を現してきた。

 しかし、肝心の『消えたF-2』本体の消息が、5月21日以降一切掴めなくなってしまったのである。例の岐阜基地ウォッチャーとも連絡を取り合っているが、あの5月21日深夜に轟いた轟音を最後に、岐阜基地を離発着する機体は全て事前に公開しているスケジュール通りに飛行しているというのである。

 件のF-2が忽然と姿を消してから約一月半が経とうとしていた。じわじわと焦燥感に駆られだしたある日の昼下がり。一本の電話が田中の下へ入った。

 それはあの日『ムサシ』から渡された書類に添えられていた、非常用のプリペイド式携帯電話に対してだった。



 田中の下に一本の電話が入る半月前の深夜、スウェーデン王国・ハザスリウ西近郊。

 スウェーデン王国空軍・スクリュズストロプ空軍基地では、駐機場をはじめとして極力照明の数が減らされた状態となっていた。

 そんな薄暗い駐機場で、小さなスポットライトに照らされる7つの戦闘機の機影が、ゼネラル・エレクトリック製F110ターボファンエンジンが作り出す陽炎の中に佇んでいた。そのうちの6機は世界的によく知られた、西側諸国ベストセラー戦闘機であるF-16の姿であった。しかし、残り1機のシルエットはF-16のようではあるが、それはF-16とは似て非なる戦闘機だった。

「――いよいよこれらのワッペンともひとまずはサヨナラ、か」

 F-16とは似て非なる、三分割式のキャノピーを持つ戦闘機の操縦席後席に座る男・岩崎昇平三等空佐は酸素マスク内部に仕込まれたマイクにそうつぶやき、自身が着用しているフライトスーツにマジックテープで留めてあるワッペンのうち、まずは日の丸のワッペンを、次いで"FLIGHT TEST SQ GIFU AIR BASE"と書かれた飛行開発実験団の部隊ワッペンを、最後に黄色と黒のツートンカラーに塗り分けられたダーツの的を象ったマークを取り囲むように"GRADUATE US AIR FORCE WEAPONS SCHOOL"と刺繍されたアメリカ空軍兵器学校卒業生を意味するワッペンと、イタチのキャラクターを取り囲むように刺繍された"WILD WEASEL"そして"YGBSM"の文字が入ったワイルド・ウィーゼル搭乗員を意味するワッペンを外し射出座席の間に突っ込まれた道具入れの中へ詰め込み、今度はウクライナ国旗を象ったワッペンと、『ファルコン』を描いたワッペンを張り付けた。

「ようこそ、ウクライナ空軍へ。ROCKYロッキー

 そんな岩崎の前の正操縦席に座るパイロットから、凛とした女性の声がインコム越しに聞こえてきた。

「歓迎感謝するよ、スナイパー、いやснайперスナイペラ

 снайперスナイペラと呼ばれた彼女こそ、田中が追い求めていたターゲット本人、リュドミラ・Tトカーチ・フジワラ空軍少佐である。

「スクリュズストロプ基地管制塔へタワー、ファルコ01、地上滑走を許可願うリクエスト・タクシー

「ファルコ01、滑走路28Rへ地上滑走せよランウェイ・トゥーエイト・ロメオ・タクシー

「ファルコ01了解ラジャー

『02』

『03』

 この編隊の編隊長であるリュドミラのコールに、後続の6機のF-16AMパイロットたちがそれぞれに割り振られた番号のみを復唱し、地上滑走許可が下りたことを認識していると意思表明する。

「行くわよ、ROCKYロッキー

「よろしく、снайперスナイペラ

 リュドミラが岩崎にTACネームで呼びかけ意思疎通を図り、左手に握られたスロットルレバーをほんの少しだけ前に押し出す。地上グラウンドスタッフの誘導に合わせ、F-2B/XR・通称『サムライ・ヴァイパー』がゆっくりと駐機場で動き始める。

 微かなスポットライトの灯りが、その機体に刻まれた黄色と青のウクライナ空軍の国籍識別標ラウンデルを照らし出す。

 田中たちが追い求めていた『消えたF-2』が、ウクライナ空軍所属F-2B/XR戦闘機"самураї гадюкаサムライ・ヴァイパー"へと変わった瞬間であった。



「――店仕舞いって、どういうことですかムサシさん」

 あの日渡されて以降初めて着信音を鳴らしたプリペイド式携帯電話を耳に当てると、明らかに変声機を通した声だが、明らかにあの『ムサシ』らしいまだるっこしい口調でそう告げてきた。

「そちらも今我々の『お上』がどのような状態であるか、知らないわけではありますまい? 今下手に動けば、ふたり揃って仲良く路頭に迷ってからのブタ箱行きになりかねない。おたくさんはまだ釈放後でも、タブロイド紙辺りでライターとしての食い扶持があるでしょうが、こちらはどうも『カタギ』の世界では長生きできそうにないものでしてね。公僕としての良識が残っている自覚は確かにあるが、今この身分と職を失うわけには、少々いかないものでしてね」

「――ほぉ、調別や別班といった血筋の末裔であろうお方も、やはり食い扶持失うのは怖い、ですか」

「そりゃまぁ、一応私も人間ですから、まずは無事に生きてこそ、ですよ」

 田中は最初にメールをもらった時からずっと頭の片隅に居座っていた二種類の漢字二文字をぶつけてみた。

 調別。正式名称は陸上幕僚監部調査部第2課別室。まだ自衛隊を所管するのが防衛庁だった時代から活動していた情報機関の略称であり、現在は防衛省情報本部の電波情報部という部署がその流れを汲む人材を抱え込み、継承しているとされている。その調別が所在していたのがあの日の待ち合わせ場所である赤坂氷川神社に近い港区赤坂にかつてあった旧檜町駐屯地だ。彼がメールアカウントに使った『ムサシ』とは、この調別と別個存在していた陸上幕僚監部調査部情報1班特別勤務班、いわゆる『別班』が初期に用いていた秘匿名称だ。

 ムサシからの案外正直な返答にようやく、彼も一応我々と同じ人間、それも日本人のサラリーマンであることを思い出したような気がした。

「それに、私はあくまでこの問題が我が国の枠組みの中にあるうちに、と考えていたのですが、こちらについてもご存じだとは思いますが、我々の『上のウエ』が出席している会議で発表された内容を聞くに、もうどうやら我々が追いかけていた問題そのものは、我が国の中の内政問題だけでは済まないレベルにまで、文字通り『急上昇』したようでしてね」

 ムサシ、つまり防衛省情報本部の『上のウエ』が、参加している会議。

「――『消えたF-2』は、NATOが供与したF-16の中に紛れて……、と」

 ちょうどテレビで放映されていたニュースが、アメリカ・ワシントンで開催されている北大西洋条約機構N A T O首脳会議の内容を伝えていた。この会議には、NATOの『グローバル・パートナー国』である我が国の総理大臣も出席している。

 田中が投げかけた問いへの回答をせず、ムサシはこう切り出した。

「幸いなことに、我々のほうのここ最近の諸々のせいで上へ下への大騒ぎで、今のところ我々にはマークはついていない。こちらから引っ張り込んでおいてどの口が言うか、という話だが、田中さん、今なら比較的ダメージなく本職シャバに戻れる。だから文章と携帯は――」

 やはりか。田中はムサシの変声機越しの『退避勧告』を聞きながら、そう思った。

 表向きには職務を秘匿されているとはいえ、彼はやはり『国家公務員』である。公僕である以上、その組織から極端に逸脱することは許されない。だがそれ自体は概ね健全な事であり、彼を攻める謂れはない。

 しかし――。

「書類と携帯は、責任もってこちらで処分します。処分地はこの国の領土内ではない……、ですが」

 それだけを伝え、田中は電話を切り、携帯電話の電源を切った。

 公僕の身ではなく、ひとりのジャーナリストならば。

 ジャーナリストとして真実を追求し、正しく世に伝えるという信念を未だ捨てていないならば。

 どこまででも行くことができる。

 それが、例え最前線ウクライナであっても――。


プロローグ:消えたF-2Bを探せ 終わり

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