初対面の小学生女児から「お父さんと結婚して」と言われた35歳、無職。

坂東さしま

第1話 「女性」になった小学生、「人生」を諦めた35歳

「お父さんと結婚して!」


 佐藤まつり35歳、転職活動中の春のこと。


 生きるには邪魔でしかない正義感のせいで、良縁にも恵まれなければ、職場で諍いを起こして退職したまつりは、初めて会った小学生女子からそう告げられた。


◇◇◇◇◇


 まつりは起床してから夕方まで寝間着のまま、パソコンで求人サイトを眺めたり、飽きたら家庭用ゲーム機でオンラインRPGのサブクエストを進めたり、配信ドラマを見たり、充実している友人のSNS投稿を目にして嫌な気分に浸ったりしていた。


 朝から無糖ヨーグルト以外口にしておらず、さすがに空腹を覚え始めた。冷蔵庫をのぞくと豆乳しか入っていないし、お菓子類のストック箱には塩せんべいが1枚だけ。


「ああ~面倒~」


 と声に出すも、食べないと頭も体もおかしくなりそうだった。夕飯の買い出しのため、薄い色のジーパン、黒の長袖ワッフルTシャツにのっそりと着替え、まつりは17時ごろにマンションを出た。


 買って6年は経つママチャリを2、3分ほど転がして、駅前のスーパーにたどり着いた。買い出しといっても一人暮らしだから簡単なものだ。レタスとトマト、卵、納豆、豆腐などをカゴに入れつつ、お菓子の春の新商品を探すなど、スーパーをぶらぶらしてから帰宅の途に着いた。


 無職になってそろそろひと月。次の仕事はまだ決まらないうえに、辞めた理由を面接で繕うのが辛くなってきた。適度な嘘、いや「良い感じ」に事実を包み込めば美談になる。しかしその美談を口にするたび、吐き気がした。


 どうして自分はこんなにも正直で頑固でおせっかいなのか。少しでもおかしいことがあれば、戦ってしまう。かばってしまう。どんな理不尽も無視をするほうが、自分は安全に過ごせるのに。子供のころから、そして自転車を漕ぐ今も悩んでいた。


 まつりの住むマンションの目の前には、滑り台と砂場だけの小さな公園がある。いつもならこのまま部屋に帰るところ、まつりは通り抜けたくなった。


 住宅街の小さな公園とは言え、過ごしやすい陽気になると、子連れや犬の散歩の人たちがちらほらといるものだ。しかしこの日に限っては人っ子一人いない寂しい雰囲気だった。


 誰もいないなか自転車を降りて公園に入ると、ベンチの前に子供がしゃがんでいた。体格からして小学校5、6年生くらいの女の子。ベンチの上にはラベンダー色のランドセルが置いてある。


 俯いて、お腹を押さえているように見えた。もしかしたら具合が悪いのだろうかと、まつりは自転車ごと少女に駆け寄った。


「大丈夫?お腹痛いの?」


 女の子は答えなかったが、何かあったような雰囲気が醸し出されていた。まつりは自転車をとめ、彼女に合わせてしゃがんだ。


「もしかして、いじめとか」


「……違う」


 その声は震えていた。


「もしかして、変な男の人に何かされた?」


 女の子はゆっくりと首を振った。ポニーテールがゆるく揺れる。これも違うようだ。


 しかし、何かあるのは確実。まつりは女の子をよく観察した。


 少女は肌が浅黒く、薄紫色のハーフパンツから細い足がのぞく。うつむき加減で元気がなさそうで、やはりお腹を押さえているようだ。


 まつりは彼女の背中側に目をやる。お尻の方に視線を移すと、ハーフパンツに赤みが見えた。


「生理?」


「……わかんないけど、多分」


「なるほど、初めてか。お家までどのくらいかかる?」


「歩いて……10分くらい」


「私の家、目の前のマンションなの。私ので申し訳ないけど服貸すから。立てそう?」


 少女は弱く頷いた。まつりは彼女の手を取り、一緒にゆっくりと立ち上がった。


 まつりは少女の後ろを歩き、周りを気にしながらマンションへ入っていった。


 


 3階建てのワンルームマンションの角部屋、201号室がまつりの住居だ。


 少女はお腹を押さえながら消え入りそうな声で「おじゃまします」と部屋に上がった。


「こっちきて」


 まつりは玄関をあがってすぐ左の扉を開け、少女をいざなう。洗面所と風呂だ。


 少女は見知らぬ女性への警戒心よりも、初めての出来事への戸惑いが大きく、素直に言うことを聞く。


「お風呂の方入ってて。パンツとナプキン持ってくるね」


 まつりは風呂の隣にあるトイレの扉を開け、戸棚の上からナプキンの入ったプラスチックケースを降ろし、薄型の30センチ羽根つき夜用を一つ取り出した。


 次に、10畳の洋室にあるクローゼットを開ける。下段の衣装ケースから、比較的新しく装飾のないシンプルな黒いショーツ、部屋着用のベージュのハーフパンツを手にし、風呂へ戻った。


「お待たせ。まあまあ新しいパンツだし洗ってあるから」まつりは少女の目の前でナプキンをショーツに装着し、ショートパンツとともに少女に渡した。「じゃあ、着替え終わったら声かけて」


 そう言い、まつりは洗面所から出ていった。


 少女は渡された着替えを風呂蓋の上に乗せ、お腹の痛みと闘いながら着替え始めた。




 まつりは一口コンロの台所の蛇口をひねり、ケトルに水を入れた。電子レンジや炊飯器を置く80センチほどのレンジ台の一番下の電源プレートに置き、スイッチを入れる。ケトルが軽く揺れはじめ、ぼこぼこと湧き上がる音が聞こえて、スイッチがかちりと落ちた。あっという間に湧いた合図だ。


 まつりがケトルを手に立ち上がると、少女が風呂場の扉から顔を出した。


「あの、着替えたんですけど……その、汚れた服」


「そうだね、なんか袋」と、クローゼットの隅にためておいたショッパーから茶色の紙袋を出し、「これに入れて持って帰りな」と渡した。


「ありがとうございます、助かりました」


「いやいや、これはね、女性としては当たり前っていうか。どんな嫌いな女でも助けてあげなきゃセンサーが働くのよ、これに関しては」


「そうなんですか……」


「散らかってるけどさ」


 足の踏み場はあるものの、ベッドは掛布団がひっくり返りぐしゃっと固まり、その上にはこんだままの洗濯物が投げ出され、ゴミに出していない通販段ボールが隅に積まれている。


「そこ、テーブルんとこ座って。紅茶飲める?」


 テーブルの上は紙や雑誌類が散らばり、朝飲んだままの湯呑が置いてある。


「は、はい」


「OK」


 まつりはシンクの下からマグカップを二つ、ケトルの電源プレート横にある百均のプラケースから紅茶の個包装ティーバッグを二つ、取り出した。


 ティーバッグをカップに落とし、お湯を注ぐ。褐色に染まりながら、よくある紅茶の芳香があがる。


 長方形の小さな白いローテーブルの前に座る少女の元にも、かすかにその香りが届いた。


「はいどーぞ。砂糖とミルクは?」


「大丈夫、です、このままで」


「そ。お腹痛いのは?」


「治まってきました」


「よかった。えーっと、親御さんに電話は」


「親は七時すぎないと帰ってこないからしなくても」


「そう。心配だからお家まで送ってくよ、ってそうそう、いきなり知らない人んち来てびっくりだよね。私は佐藤まつり。怪しくないから安心して」


 まつりは多少作った大げさな笑い顔で、少女に名乗った。


 少女はくすりと笑う。


宇那木真冬うなぎまふゆです」


「う、うな」


「うなぎ、です。名字」


「随分、美味しそうな名前だね」


「うん、よく言われる。でも漢字は魚のウナギじゃありません」


 真冬はカップを手にし、ふーっと息を吹きかけた。唇にあたった紅茶はまだ彼女が飲めるほどには冷めておらず、カップをまたテーブルに戻した。


 テーブルの上には書きかけの履歴書が数枚、ノートパソコンの画面には求人サイト。真冬は珍しそうな顔で、それらを眺めた。


「ああ、私、転職活動中だから」


「お仕事、変わるってことですか」


「そーよ。探し中なの」


 まつりはまだ熱めの紅茶を渋い顔で、ずっ、と一口飲む。次の職場も、おかしなことがあれば戦って辞める未来しか見えなかった。


◇◇◇◇◇


 紅茶を飲み終えるころには、時計は18時40分を指していた。二人はマンションを出て、真冬の家を目指した。


「あのお、まつりさん。生理用品ってどこで買えますか?」


「ドラッグストアがいいんじゃないかな、たくさん入ってて安いし」


「どういうの買えば」


「それはお母さんと」


「私、お母さんいないから」


 まつりははっとした。当たり前のように「お母さん」と口にしてしまったけれど、いない子供もいるのだ。


 言い方、聞き方があったなと反省した。


「ご、ごめん」


「大丈夫です。慣れてます。お父さんと二人暮らしなんです」


「そっかあ、じゃあ生理のこと、教えてくれる人がいないよね。お父さん知ってるわけないだろうし……おばあちゃん近くに住んでたり」


「遠いです」


「わかった。その先のドラッグストアで買って帰ろう。あー、トイレに汚物入れもないのかな」


「汚物入れ……」


「ないね。ドラッグストアに売ってるかな」


 二人はそこから数分ほど歩いた場所にある、郊外型ドラッグストアに入った。


 真冬は生理用品コーナーを前に、とまどう。昼用、夜用、羽アリナシ……。


「いっぱいある……どれ買えばいいんですか」


「いやあ、こればっかりは体調や体質、好みの問題があるからなあ。いろいろ使って試して、自分に合う商品を探してくって感じかな。とりあえず、昼用と夜用買っとくか」


 ナプキンと汚物入れを購入し、まつりは自転車かごに入れた。真冬は初めての出来事、初めての買い物に頭がくらくらしながらも、まつりに礼を述べた。


「今日の事、お父さんに言えそう?」


 まつりは首をかしげ、何も答えない。


「言えないよなあ、ってかお父さんも困るのかな言われても……わかった、私から説明する」


「すいません」


「いいのいいの、大事な事だし、これからもお父さんと二人暮らし、かどうかわかんないけど、知っといてもらわないとね」




 真冬の家は、駅から徒歩約15分ほどの住宅街にある3LDKマンションの502号室。部屋の前にやってくると、電気は付いておらず、まだ親は帰宅していないと思われた。


 真冬はランドセルから鍵を取り出し、玄関を開ける。やはり家の中は真っ暗で、入ってすぐ右手の電気のスイッチを押した。


「どうぞ」


「おじゃましまーす」


 まつりは久々の他人の家の匂いを新鮮に感じながら、短い廊下を進む。その先のリビングは12畳ほどの広さで、床に足の踏み場はあるものの、ダイニングテーブルの上は雑誌やお菓子の箱、調味料、学校のプリントやちらしなどで散らかっている。40型の液晶テレビの前にソファもあるが、ソファの上は洗濯物の場所になっていた。


 他人の家に口出しするものではない。あくまで、今日だけの出会い。そう自分に言い聞かせるも、まつりは体がうずいてきた。


「真冬ちゃん、夕飯は」


「お父さん帰ってきたら。多分そうめんかなあ」


「毎日そんな感じ?」


「うん。あと納豆とご飯だけとか、たまにお弁当とか」


「野菜は」


「給食で食べる」


「ごめん!」


 まつりは対面キッチンへ駆け込み、奥にある冷蔵庫を開けた。

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