第18話 第一回勉強会
食事が終わると、私達はそのままこの部屋で勉強するよう言われ、国王ご夫妻は退室された。
ステファンがベランダへ私達を誘う。
「僕はここから見る庭園の景色、好きなんだ」
なんとなくぞろぞろとベランダに出た。日差しが眩しい。
「これから勉強だけど、途中の休憩で庭園を散歩しようよ」
ステファンは私の心を読んだかのように言ってくれる。というより今からでもいい。
「聖女様、お待たせいたしました。どうぞ中へ」
誰だ私の邪魔をする奴はと振り返ると、今日この部屋へ案内してくれた女官だった。
引きつった顔をしている。
ヘレンが進み出てその女官に話しかけた。
「申し訳ありません、聖女様は今、頭の中がお花畑になっていまして。ほら、殿下の腕にしがみついてるでしょ」
「は、はあ」
「ほら、聖女様、謝んなよ。困ってらっしゃるでしょ」
私はやってしまったらしい。
「ごめんなさい、あなたはお仕事をされただけですよね。本当にごめんなさい」
「いえ、気がきかず申し訳ありません」
ヘレンがさらに口を挟む。
「女官様、私はローデンのヘレンです。お名前を伺えないでしょうか」
「様はおやめください。フォーゲルヘネのエリーゼと申します」
「聖女様、エリーゼ様にちゃんと謝んなよ」
「エリーゼ様、私はこのように気が利きません。どうか失礼をお許しいただき、至らぬ点をお教えいただけないかしら」
エリーゼはなんと言えばわからないようで、目が泳いでいる。
ステファンが助け舟を出してくれた。
「エリーゼ、心配要らないよ。この人は考えた通りのことしか言わないし、嘘も言わない。教えて欲しいと言っている時は本当に教えてほしいだけだから」
「は、はい」
「エリーゼ様、これからお世話になることも多いと思います。よろしくお願いいたします」
「では、私相手に様はおやめください」
「えは、エリーゼさん」
「さんもいりません」
「うーん、無理です」
「しかたないですね」
エリーゼさんは笑ってくれた。
「しかたないんですよ」
これはフィリップの声である。この野郎と思ってそっちを睨むと、ヘレンにつねられていた。
ステファンが話を続ける。
「エリーゼ、この人はいずれ僕の奥さんになる人だ。だから僕にしてくれたのと同じように仕事して欲しいし、できれば宮廷で彼女の味方になって欲しい」
「将来の奥方になると、断言されるんですね」
「うん、それだけはまちがいない」
「わかりました」
そしてエリーゼは私の前に跪いた。
「奥様、私フォーゲルヘネのエリーゼは、命ある限り奥様に忠誠を誓います」
「あ、ありがとうございます。ですがまだ、奥様ではないのですが」
「殿下がああおっしゃっているのです。少なくとも私にとっては奥様です」
ステファンが言う。
「エリーゼは僕が赤子の頃から尽くしてくれているんだ。だからそう言う言い方になるんだろうな。だが奥様と呼ぶのは他の者がいないときだけにしたほうがいいだろうな」
するとエリーゼは、
「承知いたしました。ですが殿下、どうして殿下は奥様をお名前でお呼びにならないのですか? 奥様は待っておられますよ」
と言った。私はいっぺんにエリーゼが大好きになった。
ベランダから室内に戻ると、テーブルの上はすっかり片付けられていた。片付けられているだけでなく、テーブル上には筆記用具や計算用紙、さらにはお茶、お菓子の用意もある。ゼミ室を思い出してうれしくなったが、部屋の四隅にはレギーナ達が警備として待機しているし、エリーゼも壁を背に立っている。なにか申し訳ない気がして、レギーナのところに行った。
「レギーナ、おわかりと思いますが、これからの私達の話は相当退屈なはずよ。だから楽にしていいし、お茶とかお菓子とかも適当につまんでね」
「はい、わかりました」
口ではわかったと言っているが、絶対にわかっていない。困ったなと思っていたら、エリーゼが言った。
「奥様楽にしてお茶とお菓子を食べるよう命じないとだめだと思いますよ」
さすがである。
「レギーナ、ラファエラ、エリザベート、ディアナ、私達に遠慮せずお茶とお菓子を楽しみなさい。あ、ちがうわ。毒見もしなさい。そのように命じます」
「は、毒見いたします!」
エリーゼは笑っていた。
勉強を始めた。というより正確には、女子が7年間かけて明らかにしてきたことをステファン、マルス、ケネスに説明する作業だった。私達の計算してきた紙をまとめたものを前に、私が代表して説明する。
「最初に手をつけたのは、力学というか解析力学ね。一応ざっとだけど一通りはやった」
解析力学というのは、ニュートン力学を高度に数学的にしたものである。ミクロな世界を支配する量子論を理解するには必要なのだ。はやくも化学出身のケネスが絶望的な顔をしている。
「ケネス、そんな顔しない。あんたには無機・有機の化学の知識を期待してるから。ただ化学反応がからむ統計力学ではケネスの知識を借りる必要があると思う」
統計力学は、たくさんの粒子を扱うには必要なものだ。マルスはため息を付きながら計算の書かれた紙をめくっている。
「量子力学については、正直言って学部レベルしかできてない。理由は特殊な関数の知識がないので、水素様原子ですら苦戦している。相対論も、電磁気学から特殊相対論の入口くらいしかできてない。これはこれからフィリップに活躍してもらうことになると思う」
ミクロな世界を支配する量子論は概念は案外シンプルなのだが、具体的に計算しようとすると数学的知識がたいへんだ。そして相対論だが、ブラックホールからこの世界にやってきた私達には相対論の研究が必須。残念だけど私達女子は全員物性だったのでこのあたりは不得手だった。
「とにかくさ、戦争があったとはいえ7年かけて大学の4年レベルくらいしか勉強できてない。物理も数学も教科書も文献もないから仕方ないと思う。だからこの先の研究は何年かかるかわからない。でも私としては、何年かかっても、私一人になっても研究は続けていく。でも本当は、この8人で力をあわせてやっていきたい」
続いてヘレンが発言した。
「女子は4人ともその覚悟はできてる。それと聖女様はいい忘れてるけど、私達の知識を活かしてこの国に貢献していきたいと思ってる。聖女様とフィリップとマルス以外は全員実験系だから、ものづくりや医療面、農業などいろんなことに貢献できるはず。とりあえず今回の戦争では、大砲の製造はできなかったけど、大砲の弾、それから迫撃砲については生産できた。あと、戦争以前から医療面ではそれなりに貢献してきたと思う」
フローラとネリスは目を合わせて、それからフローラが言った。
「とりあえず女子はそんな感じかな」
ずっと私の話を腕を組んで聞いていたステファンは、発言を始めた。
「僕もフィリップと中等学校で勉強してきたが、解析力学と相対論に注力してきた。実質的にはフィリップに僕が教わりながら、やっと一般相対論の入口にかかったあたりかな。だからみんなで一般相対論を勉強し始めるのは、今がいいタイミングだと思う」
それについては私は異論はない。
「だけど、物理は自然科学だ。机上の空論で終わってはいけない。実証を伴わなければならない」
その通りである。私自身も振り子の等時性を確かめようとしたりした。
「それでね、ヴァイスヴァルトに天文台を作ろうと思うんだ」
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