蝉時雨

FUDENOJO

私と蝉と

 校舎を夏が包む時期になった。


 この時期になると、私の高校は太陽の指す限り蝉時雨が鳴りやまなくなる。裏手に山があるからとかそういう理由もあるが、他の学校よりもやけに蝉が鳴いているように私には感じられた。


 そもそも私とは何かと言う話だが、日本のどこか、あるいはここではないどこかにいる何の変哲もない存在だ。自分のことを語ろうとするとうまくできない。これと言って夢も目標もなければ、それと言って趣味もない。ただ漠然と学生を生きていた。その中で強いて語るとすれば、私は夏が嫌いだ。今まではそこまでではなかった。小さなころ、と言っても私はまだ子供だし懐かしむまでは短すぎる気もするが、まだ無邪気に何も考えず昆虫採集などに明け暮れていたころは夏が好きだった。夏は格好の遊び場。夏以外の季節がなければいいのに、なんて考えたこともあった。冬は寒くなるから嫌いだった。だが今を見てみよう。太陽は獰猛にこちらを焼いてくる。地面も太陽を反射して容赦なくこちらに地獄をもたらしてくる。最近では夏以外なら何でもいいなんて考えてしまう。高校でも、熱中症に気をつけろだの、誰かが熱中症で倒れただの、そんな言葉をよく耳にする。だが、気をつけろと言われてもさすがに限度がある。根本的に解決するなら、暑くても体育は外でやるという私の学校の姿勢を改善する必要があるだろう。灼熱地獄に問答無用で投げ出されたら、熱中症になる輩は必然的に出る。だがこれは主に私のことである。何度か熱中症で倒れかけた。私が憤慨したような口調を使っているのも、何度も暑さにやられて頭に来ていたのである。もちろん暑さに耐えられる人もいるし、ある程度備えれば何とかなるのかもしれない。が、人には向き不向きと言うものがある。室内と言う盾を使わず、どう暑さと言う剣を防げと言うのか。暑さは当然ながら不可抗力だ。それゆえにやり場のない怒りが湧いてしまう。私はそれを時々学校へと向けてしまうという最悪の状態に陥っている。治さねばと思っているが、どうにも夏の病とも言えるもので、早々に治すことはできなさそうだった。


 そんな夏の時期は、私は図書室にこもるのが好きだった。


 灼熱地獄である外と反発するように、室内の空間は冷涼天国と成る。勉強に励むにしろ一人で落ち着くにしろ、静かな図書室は格別に適した場所であった。基本的に私は本を読むタイプではないので図書室以外でも涼めるのならどこでも良いのだが、私はなぜかいつもこの図書室を選んでいた。得も言われぬ心地よさが、ここにはあったのだ。唯一不満を言うなら、蝉時雨で室内まで喧騒に包まれてしまうことぐらいだ。だがそれくらいならば許容範囲内であった。今日もいつものように、放課後私は図書室にこもり、勉学にいそしんでいた。


 ワークにペンを走らせて少ししたころだった。いつも座っている椅子の正面にある窓に何かが颯爽と飛んできてくっついた。部屋に入ってきそうな勢いで飛んでいたが、幸いにも窓のおかげでそれは防がれた。何が飛んできたのかと窓を凝視する。


 そこにいたのは、一匹の蝉だった。


 恐らくミンミンゼミだ。図鑑に載っていた写真を子供のころ再三見ていたので、脳裏に焦げ跡ができるくらいその姿が焼き付いていた。落ち着かない様子でテケテケと窓を歩く。私は構っていられないと思い、視線を外して勉強に戻った。少し恐れていることはあったが、恐らくそうはならないだろうと考え、勉強に集中することにした。


 だが、私の恐れていたことは起きてしまった。


 ミンミンゼミが窓で部屋中に響き渡る勢いで鳴き始めたのだ。ミンミンゼミの名も伊達ではなく、ミンミンと文字通りの鳴き声で鳴いた。耳をふさごうにもこれでは歯が立ちそうになかった。ちっこい一匹だけでよくもまぁここまで鳴けるものだ、と妙に感心すらしてしまった。だが、これでは勉強に集中できない。何かして追い払おうとも考えたが、追い払える術もさして思いつかなかった。何も数時間連続で鳴くことはまずないだろう。頑張って数分くらいで飛び立つはずだ。そう思いながら私は無気力な眼差しで蝉を少し睨んだ。蝉はこちらをまるで気にせずうるさく鳴き続けた。


 蝉の鳴き声を聞いているうちに、なぜか知らないが私は思いはせてしまった。この蝉にも生き様と言うものはあるのか、と。蝉は一生涯ただうるさく鳴いてるだけではない。荒唐無稽に言ってしまえばそれで片付けることもできるが、それは違う。まず樹上に卵として生まれ、孵化したら自分で地面まで行き、地面を掘って深い地中まで潜る。子供時代はそこで過ごすのだ。長い月日地中で暮らすと、来る夏に地面から出てきて、甲殻類のような蝉とは思えない姿の幼虫から、脱皮して一般的な蝉の姿へと変貌する。やがて蝉はほとんど休むことなく鳴き続け、残りの生涯を鳴くことに使う。理由は単純、鳴けばメスとカップルになれるからだ。必死に鳴いて求婚し、カップルを成立させ子を作る。それが蝉の最終目標だ。それを終えればあとは安らかな死を、寿命の果てを待つのみである。典型的な虫の一生涯のテンプレートのようなものを、蝉は辿るのである。それが自然の定めた道であるなら、それに従うのは必然と言えるだろう。


 人間はと言うと、生誕し、学生を過ごしたのち、大人になって社会に出て、円満に暮らし、生涯を穏やかに終える。それが俗に知られる人間の生き方だ。蝉のように残りの人生を求婚だけに使うようなことはしない。自分の生きたいように生きれるよう努力する。ただそれだけを主に目指している。それぞれ生きたい道は違うし、蝉のように求婚だけしていればいいと言うわけにもいかない。それが人間だ。


 そんなことを頭に思い浮かべているうちに、なぜか蝉が人間と少し似てるような、あるいは一部逆さに生きているとも言えるのではないか。そんな考えが浮かんでしまった。


 例に挙げて分かりやすいのは、そのライフステージである。蝉は実に数年間、生涯の8割以上を地中で過ごす。子供の期間がとても長い。つまり蝉は地上へ出てきたころにはすでに年老いており、いわば終活として鳴いているとも形容できるのだ。人間はその逆で、子供時代より大人時代の方がずっと長い。老いるまで時間もあるし、むしろその間ずっと努力する必要があるのだ。


 私は長い子供時代を過ごせる蝉をうらやましく思ったこともある。だが、今ここで考えたのは、蝉は逆の思いを抱いているのではないか、ということだった。蝉は大人になる期間が短い。もしかしたら蝉はもっと長く外で生きたかったのかもしれない。そうであるなら、蝉にとって私たちは憧れそのものではなだろうか。求婚という使命に追われることもなく悠々と暮らせる人間は、まさに高嶺の花なのかもしれない。蝉の生きたい生涯を生きることのできる私たちは、もしかしたら高貴な存在であるのかもしれない。のうのうと生きているのは、その高貴を無駄にしているのではないか。私はそこまで考えてしまった。蝉はそれを、必死の鳴き様で暗に訴えているのか。この蝉も、私を羨み、そして自分の分まで生きてほしいと希求しているのかもしれない。この蝉の鳴き声に、私は心を感じずにいられなかった。


 蝉はひとしきり鳴くと、満足したように鳴くのをやめてどこかへ飛んでしまった。図書室は少し寂しくなってしまった。私の心にはある決意が生まれて来た。それは先ほどまで、私には欠けていた決意だ。だが、その決意を言葉にしようとするとどうにもうまくいかない。変換しようと脳内でいろいろと考えたが、蝉の分まで生きてやろうとか言う珍妙なものになってしまった。だが、これでも良いかもしれない。そう思った。私は椅子から立ち上がり、久々に図書室の本を読んでみることにした。


 蝉時雨は、私に風を運んできた。

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蝉時雨 FUDENOJO @monokaki-gamer

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