カニカニズム
ファレン2th
『仮死ニゼーション』その①
ある朝、私――楓・ステファニー――が二日酔いの頭痛に目ざめたとき、自分がソファの下で一匹のそれなりの大きさのカニに変わってしまっているのに気付いた。酒瓶を抱えていた腕は鎌のような形の、寸詰まりな平たい鋏になっていて、茹でてもいないのに嫌に赤い。太い腹から複数生えた脚は同様に平たく、頭頂には三叉の角。それら全てをドーム状の甲から生えた、眼柄に乗った複眼で見つめていた。
楓「私はどうしたのだろう」
夢ではなかった。飼い主の部屋、広々としたまともな部屋が、よく知っている四つの壁のあいだにあった。
飼い主というのは、私は、対外的にいえば酒浸りのヒモで、この家は私を養っている友人、嵐の持ち家ということである。
人間誰しも人生には何度か絶望するものだが、私は三回目当たりで耐えかねて近所の岩礁から入水した。
予定では海水の冷たさが数分で意識を奪い、程なくして藻屑となるはずだったのだが。
間の悪いことに、通りかかったトビウオ漁船にその嵐が乗り込んでいたのだ。
彼女の職業は教授である。
なにかの調査で相乗りしていたようで、ともかく引き上げられた私は嵐に引き取られ、こうして与えられた食事と勝手に持ち出した酒を流し込んで生きてしまっていた。
今は肉を剥ぐような波の感触も、水面に砕けてばら撒かれた月明かりの怪しさも、それら全てが恐ろしい。
結局、あの日以来海に足が向くことは無かったし、この部屋から出ることもなかった。
楓「ああ、なんと非生産的な。私は元々消費して、古臭い孤独を訴えるようなのろまな山椒魚だったが、ついぞ食われる側に回ってしまったらしい! エビか蛙か、もちろんカニであろうと、その顎に砕かれるべきだ!」
こういう類の、止めどない思考には酒が一番よく効く。厳密には泥のように眠ってしまうという結果が一番良く効いて、つまりヒトの求める幸せとは忘我を指すのだろう。
床に何本か転がしていた缶ビールを掴もうとして、力加減の効かない鋏がそれを砕いた。
楓「ままならない」
断裂面から吹き出した炭酸と、溢れ出る中身が床を湿らせる。
楓「泣きたいのはこっちだ」
ヤケクソになって何本か鋏で叩き潰したあたり、別にもうヒトではないのだから手で持って口を付けて飲む、ということにこだわらなくていいと気がついた。
もう全てが遅い気がしたが、ひしゃげた缶ビールの残骸に直接口を入れて、浴びるようにそれを飲み干す。
今私はカニで、大きいと入っても初戦カニであり、大きめのぬいぐるみくらいの大きさしか無い。
だから、ヒトと同じようなペースで飲めば自然、すぐに潰れてしまう。
楓「おひゃすみ」
しばし幸せが訪れた。
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