芽生え始めるもの

 有ヶ丘で薫ちゃんと語り合い眠りについたあの日から眠れない日々と悪夢から無縁の生活へと戻ることができた。翌日からも直接会うことはなくて電話越しに薫ちゃん、それから哲希も加えて課題をこなしたり雑談してゲームをしたりしたことが大きな要因だったのだろう。日が経つにつれて薫ちゃんの笑顔も増えていった気がしていて非常に明るい未来への兆しを感じていた。口にすれば誰目線の何様だとツッコミが飛んでくるかもしれないがこれからは思うがままに人生を歩んで欲しい。

 夏休みも残り七日を切り残された罰ゲームの期日が刻一刻と迫るなか何処に行こうかと未だ決められずにいた時だった。罰ゲームも何も科されていない薫ちゃんからお呼びがかかったのは。

 夏もそろそろ終わりを迎えるというのにお天道様は今日も燦々さんさんと頭上に君臨しておられ、家を出て数歩進んだだけで汗が額を伝い始める。早くも足を百八十度回転させクーラーが効いた部屋へと引き返したくなった。気まぐれの散歩だったなら太陽が傾いて涼しくなってから再度出直しといきたいところだ。しかし集合時間は決められており炎天下だろうが進むしかなく、非弱なこの身に鞭打って時間に遅れないよう目的地へと邁進した。



「すみません、少し遅れちゃいました。最近ずっと家にいたせいかすぐに疲れちゃって」


 待ち合わせ場所として伝えられていた旧展望台に先に到着し木陰で寝そべりながら涼んでいると声がかかった。後頭部をさすりながらてへぺろという効果音が聞こえてきそうな可愛い謝罪を前にしては許すしかない。そもそもが遅刻といっても五分すら経っておらず誤差の範囲に等しく気にしてはいなかったが。

 道すがら自販機で購入し保冷剤として眉間の上に乗せていた冷たさが感じられないペットボトルを手でどかすとワンピース姿の薫ちゃんが膝に手をつき覗き込むように立っていた。腹筋に力を入れ上体を起こすと僕も道中で何度ぶっ倒れそうになりここに来るまでに溶けてしまいそうだったと冗談まじりに返す。紫式部も歌っていたではないか夏は夜と。夏の昼間に外を出歩くなど愚の骨頂とも言える行為なのだ。


「枕草子は紫式部じゃなくて清少納言ですよ滝野瀬さん。最近は勉強に身を入れていたのではなかったでしたっけ」


「さすが薫ちゃん勤勉だね。わざと間違えることで試してみたんだよ」


 いらぬことを言って浅知恵を披露してしまったと羞恥心を抱きながらも、あえて間違いを口にしたのだと見栄を張った。


「はいはい、そうでしたか。それだったら次はもっと難しい引っ掛けを用意しておいてください。そんなことよりこれ、どうぞ」


 全てお見通しと軽くあしらわれると、今なら何本でも飲みたい缶ジュースを手渡され気遣いができるところまで差を見せつけられる始末だった。僕なんかには身に余る後輩で引け目を感じなくもないが、友人としては軽口を叩けあえるほどに素の姿を晒してくれているので嬉しい限りだ。


「買ってから結構時間が経ってるので早く飲んじゃう事をおすすめします。遅れて来ておいて図々しいですが私もすぐには動けそうにないので少し休憩してから作業に取りかかりましょうか」


 手に握られた冷たさが失われていない缶ジュースは賄賂だったかと気が付くも受け取ったからにはもうしばらく休憩するしかなく缶の蓋を開ける。薫ちゃんは開けましたねと言わんばかりの悪戯な微笑みを浮かべながら僕の隣に腰を下ろした。てっきり自分の飲み物も一緒に買っているものだと思っていたが薫ちゃんが飲み物を取り出す気配はない。真横で自分だけ冷たい飲み物をいただくのも悪い気がしてまだ半分以上残るジュースを差し出してみた。


「お気遣いありがとうございます」


 懇切丁寧に感謝を口にし受け取りこそしてくれたが、その後手にした缶ジュースは唇に触れる一歩手前で急停止する。石像のように固まってしまい何事かと覗き込むように様子を伺うと薫ちゃんの顔は暑さにやられてか真っ赤になっていた。


「こ……これ、やっぱり、返します。私は平気ですから、気にしないでください」


 所々つっかえながらの言葉と一緒に缶ジュースが返却される。現状を見るからに冷たい飲み物が必要なのは薫ちゃんであり受け取れないと拒む。無言の駆け引きが繰り広げられグッと力強く缶ジュースが押し付けられたことで意思とは反し僕は缶ジュースを握ってしまった。手が自由になると薫ちゃんは伸ばしていた足の上に置いていたポシェットを掴み顔に押し当てるとそのまま背中から倒れ込み寝転がってしまう。一連の動きにこれ以上ないくらいの可愛さが詰め込まれており緩みきった間抜け面を晒してしまっていた。だが今だけは薫ちゃんに他人を気にする余裕はなくお咎めは一切飛んでこない。

 ありがたい状況ではあったが現状を理解できていない困惑状態の頭は理解を求め視線を薫ちゃんから外し飲みかけの缶ジュースを見つめる。キンキンに冷えてこそいないが特におかしなところはなく、恥ずかしがる言動とは結びつかない。薫ちゃんはただ炭酸が飲めないだけだろうか。などと結論付けようとしたのだが遅まきながら頭の中に立ち込めていた霧が晴れるかのように奇行の原因に合点がいった。

 気遣いから何気なく飲みかけのジュースを手渡したが間接キスになるという事を忘れてしまっていた。完全に僕の落ち度ではあるが言い訳させてもらえるのなら小さい頃から哲希や麻衣子とは意識する事なく回し飲みを至極当然のようにしていたため配慮に欠けてしまったのだ。哲希と麻衣子しか深く関わりを持つ人物がいない人間関係の経験値の無さが新たな弊害を生んしまった。

 今回はたまたま僕が先に口をつける格好となってしまったが、逆の立場でもし薫ちゃんから手渡されていたらどうなっていただろうか。普通に飲んでいたと断言できる自信はなく意識したが最後、赤面し同じ末路を辿っていたかもしれない。要らぬ恥を掻かせてしまった浅はかな行いを悔いるのではなく、この後のフォローが肝心だと名誉挽回をはかり倒れ込んだ薫ちゃんに向き直ったのと同タイミング。心地よくも勢いのある風が吹き抜けた。

 急な突風は髪をはらい頬を撫でるだけでなく重石の役目を果たしていたポシェットを失った無防備なワンピースのスカート部分をもさらった。光の速さにも届こうかという速度で薫ちゃんは起き上がると顔を覆っていたポシェットで孔雀が羽を広げるかのように舞う裾を押さえつける。僕が座っている場所は薫ちゃんの腰の横辺りであり何がとは言及しないが見えてこそいないのだが流石に気まずさを禁じ得ない。こういうときどういう対応をすることが正解なのかなど知る由もなかった。できることがあるとすればこれ以上薫ちゃんの羞恥心を煽らないよう何も口にせず両手で目を隠すことくらいだ。

 心境は違えど二人共に固まったままで長閑のどかな時間だけが流れてゆく。先に動いたのは熟れに熟れた果実のように赤い顔をした薫ちゃんであり確かめるように僕を見つめた。どうして指先までしっかり閉じておかなかったんだと後悔しようともすでに後の祭り。指の隙間から涙目になる薫ちゃんと言い逃れのしようがないほどに目が合う。これはいわゆる詰みの状況だと全てを受け入れ、この後に飛んでくるであろう非難轟々あらゆる罵声を一身に浴びる覚悟を決めるとその時を待った。


「滝野瀬さんの馬鹿。今日はもう私が一人でやりますからあなたはずっとそこで休んでいるといいです。なんなら帰ってもらっても結構です」


 これ以上この場所には居座れないと遠ざかっていく薫ちゃんは捨て台詞だけを残し日の下へと飛び出して行ってしまう。馬鹿、さらにはあなたと後輩口調が抜け切った罵りは新鮮であり新たな一面に触れ表には出さないが歓喜の波が押し寄せていた。

 僕たちは人目を忍んで薫ちゃんと会うために旧展望台に集まった訳では決してなくやるべき事が明確にあったからだ。羞恥心に駆られ逃げ出してしまった薫ちゃんを放っておくことは悪手も悪手。これから僕たちがしようとしている事は力仕事であり男手は必要だ。捨て台詞を真に受けて木陰で薫ちゃんが戻ってくるのを待っていたら今後に軋轢が生まれてしまいかねない。本当に一人休んでいたら次は何が飛んでくるかわかったのではなかった。いつか冗談で指摘されたいたぶられたい系の人格に目覚めないためにも手に持つ気まずい空気を作り出したジュースを一気に飲み干す。地面に突き刺し木の根本に立てかけてあった二本のスコップを手に取ると缶ジュースと入れ替え薫ちゃんを追いかけた。




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