その顔よりも雄弁な

黑野羊

その顔よりも雄弁な

 高校三年の一学期も、終わりが近づいてきた放課後。

 和都は保健室で、二学期から保健委員長になることが決まった二年生の保健委員・長谷川と、委員長の仕事の引き継ぎ作業をしていた。

「じゃあこの場合は、この書類がいるんですね」

「うん、そう。提出は定例の報告の時に生徒会に出しちゃえばいいから。その時は、こっちだけで大丈夫」

「……なるほど」

 保健室の中央にある大きな談話用テーブルで、和都と長谷川は頭を突き合わせて、委員活動で使用する様々な様式の書類や、委員長としての仕事のあれこれを一緒に確認していく。

 二年生の頃から諸事情により、保健委員の仕事を誰よりもやっていた和都としては、こうして引き継ぎ作業をするのも、なんだか感慨深い。

「……やっぱり、やること多いですね」

「あはは、まぁね。おれは一人でやってたけど、副委員長とかに振ってもいいからね」

「了解です」

 長谷川が自分用のメモをまとめているのを待っていると、保健室の奥から向けられるジトっとした視線に気付いてそちらを見た。

 視線の主は、保健室の奥、窓際にあるパソコンの乗った作業デスクの前に座った、白衣にメガネをかけた養護教諭・仁科である。

「せんせー、なぁに?」

「んーん、べつにー」

 仁科はそう返しつつも、何か言いたげにこちらを見つめる視線を変える様子がない。

 そんなに熱心に見られても、特になにも面白いことはないだろうに。

 ──なん、なんだ?

 眉をひそめて考えていると、長谷川が作成する書類の原本を持って立ち上がる。

「じゃあこれ、コピーとってきますね」

「あ、うん。少し多めにお願い」

「了解でーす」

 長谷川が元気よく返事をして、保健室を出ていった。

 和都は小さく息をつくと、広げていたファイルの一つを閉じて立ち上がり、変わらずこちらを見つめ続ける仁科へと近づく。そしてファイルを差し出しながら、呆れた声で言った。

「ちょっと先生」

「んー、なに?」

「なに? じゃないよ。おれのこと見過ぎ!」

「そーお?」

 仁科はいつも通りの顔でファイルを受け取ると、作業デスク横の本棚に差し戻す。しかし、その動きはもったりとしていて、普段よりもなんだか気怠そうだ。

「……なんかあった?」

「なんで?」

「いや、なんか疲れてる感じするから」

 座ったままこちらを見る仁科の顔は、よくよく見ると少しばかりやつれているようにも見える。

 和都の言葉に、仁科は少し間を置いて、

「……うん、疲れてる」

 そう言うと仁科の腕が伸びてきて、和都の腰の辺りを抱きしめるようにギュッと引き寄せた。

「わ、ちよっと!」

 慌てて仁科の肩を掴んで引き離そうとしたが、ぐるりと回された腕にガッチリと抱き込まれていて、逃げられるわけもない。

「もー、なんなのっ」

 頭にきて、仁科の黒い癖っ毛の髪をワサワサともみくちゃにしてやった。しかし向こうは全く動じず、和都の薄っぺらい胸元に頬をくっつけたまま。

「充電させて」

「はぁ?」

「……研究発表準備で疲れてんだよぉ」

 情けなくこぼれ出た仁科の言葉に、和都ははたと思い出す。

 養護教諭は年に一度地域ごとに集まって、交流と情報交換を兼ねた研究発表をする会合があるらしく、この辺りの地域では夏休みの前半にあるらしい。去年も保健室に入り浸り、その手伝いをしていた和都は、その大変さをよくよく知っている。

「あー、そっか。もうその時期だね」

 和都は癖っ毛の髪をもみくちゃにしていた手を、今度は大型犬にマッサージするような手つきに変えながら、少しだけ考えて。

「……また、手伝う?」

「受験生を手伝わせる気はねぇよ。お前は勉強してなさい」

「はい……」

 去年の夏休みは特にすることもなかったので、遠慮なくこき使われていたが、今年は受験も控えている上、新学期頭に長期間休んでしまったので、その分の補習もある。三年生となると、やはり去年のようにはいかないのだ。

 しかし、普段は飄々として、疲れていてもなんでもない顔をしているような人が、学校でこうして甘えてくるあたり、見た目以上に疲れているのだろう。それならなにか、してあげたいのだが。

「んー……今週末の予定は?」

「家で資料整理のつづきぃ」

 不貞腐れたような声が返ってきて、和都は小さく笑った。

「じゃあ、ごはん作りに行ってあげる」

「……来れんの? 春日クンと約束してなかった?」

「勉強教えてもらうの、日曜だし。だから、土曜なら平気」

 以前は週末ごとに仁科の家に行っていたのだが、ここ最近の休日は、学年首位の成績を誇る友人の春日と一緒に勉強していたので、暫く遊びに行っていない。

 けれど、たまには息抜きをしたっていいはずだ。

「じゃあ、金曜夜に迎えに行くから、抱き枕な」

「もー、しょーがないなぁ」

 土曜の昼間だけ行くつもりだったが、仁科は自分を抱き枕にして眠りたいのだろう。結局泊まるのは避けられないらしい。

「ごはん、何食べたい?」

「んー、最近食べてないから、中華かなぁ」

「中華かぁ……」

 和都は変わらず自分の胸元にくっついたままの仁科の、本来の癖っ毛以上にボサボサになった頭をさらにわしゃわしゃとしながら考える。

「あ、じゃあ一緒に餃子つくろ。余ったら冷凍しておけるしさ」

「……お前がいるのに余るとかあんの?」

「あ、わかんない」

 どうせなら息抜きに一緒に作れるものを、と思いついたのだが、己が大食漢であることをうっかり忘れていた。

 でもそれならそれで、たくさん作ればいい話。

 なんだか可笑しくて、二人してくすくす笑い合ってしまった。

「ほら、そろそろ離れて。長谷川も戻ってくるし」

「……んー、やだぁ」

「やだぁ、じゃなくてぇ」

 まるで駄々っ子のように、腰に抱きつく力が強くなる。

 妙に甘えたになった仁科を、なんとか胸元から引き剥がそうとしていると、不意に保健室の引き戸がガラガラっと開いて。

「戻りましたぁ!」

 元気な声と共に一歩だけ室内に足を踏み入れた長谷川が、その場でピタリと固まった。

「あ、ほら! 戻ってきたから! 離れて! こら!」

「やだぁ」

「もー! やだじゃない〜〜〜!」

 しがみつく仁科の肩を掴んで抵抗するも、和都の力で敵うはずもなく、全くもって離れてくれない。

 出入り口で固まったままだった長谷川は、ハッと我に返ると、そろそろと談話テーブルに近づいて、コピーしてきた用紙と原本をそっと置く。そして、すぐに保健室の出入り口へ戻ると、

「飲み物買ってきまーす!」

 そう言ってガラガラとドアを閉めていってしまった。

「もー! ちょっと、先生! 絶対なんか変なふうに思われたじゃん!」

 和都は耳まで顔を赤くし、微塵も離れる様子のない仁科の頭を叩く。しかし仁科は「へーき、へーき」とどこ吹く風。

「大丈夫だよ、長谷川は『仁科派』だから」

「はぁ?」

 意味の分からないことを言う仁科に、和都はただただ呆れた声をあげた。



「今日はなんかごめんね。その、後半、とか……」

 委員活動を終え、電車通学のため駅に向かうという長谷川と一緒の帰路についた和都は、ため息と一緒に謝った。

 その後結局、もう数分ほどはくっついていた仁科が満足したような顔でようやく離れ、そろそろいいですか? と再び戻ってきた長谷川と、引き継ぎ作業を再開した。

「いえいえ、大丈夫ですよ! 気にしないでください」

 長谷川は笑って許してくれるが、どうしようもないタイムロスに、申し訳ない気持ちしかない。

「……やっぱ変、だよね」

 仁科とは、お互いに好きだと想い合っているけれど、ここは男女での恋愛が当たり前の世界だ。男子校とはいえ、同性同士の色恋を許容できない人がいてもおかしくない。

 幸い今の友人やクラスメイト達に否定的な人はいないけれど、違う学年となると分からないので、和都は少しだけ気になった。しかし、長谷川はきょとんとした顔をするだけ。

「え、なんでですか? 先輩、先生のこと好きですよね?」

「へっ!?」

 あまりに直球に返されて、思わず声が上擦った。

「えと。いや、その……」

「それに、仁科先生も先輩のこと大好きですもんね〜。ご親戚だとは聞いてますけど、実は付き合ってたりするんですか?」

 取り繕うことも出来ないまま笑顔で畳みかけられて、ここはもう観念するしかない。

 和都は顔を赤くして、長谷川の質問に正直に答える。

「つ、付き合ってるわけじゃない、よ。……先生と生徒で付き合うのは、やっぱダメだし」

「なーんだぁ」

 長谷川が残念そうな声を上げた。

 仁科とは正式に付き合っているわけではない。ただ、卒業した後の『約束』はしている。

 だから今は、親に放置された子どもと、それを保護者の代わりに面倒を見ている親戚、という関係のままでいようと決めた。

 けれど、そう簡単に気持ちまで切り替えられるわけはなく、時々どうしても、それ以上の気持ちが溢れてしまう。

「……おれ、そんな顔に出てる?」

「んー、顔というか、視線が」

「視線?」

「先輩、気付いたら先生のこと見てるし、そん時の目が、やっぱちょっと違うんですよね」

 長谷川が、夕焼けにはまだ少し遠い夏空を見上げて、どこか楽しそうに言う。

「先生も、今日はなんか露骨に見てましたけど、やっぱり先輩見てる時は、どこか違う感じしますし」

「……そっか」

 そんな話をしているうちに、駅と和都の自宅に向かう道との別れ道がやってきて、長谷川は「また明日」と駅の方へと行ってしまった。

 一人、自宅へと続く道を歩きながら、和都は長谷川の言葉を噛み締める。

 確かに『目は口ほどに物を言う』とは言うけれど。

 ──無意識、だったなぁ。

 感情が顔に出やすいのだと、春日に指摘されてから気を付けるようにしていたつもりなのだが、視線の制御ばかりは難しい。

 ──先生も、おれのこと見てるんだな。

 それも、他人が違うものだと分かるくらいの視線で。

 ──……熱い。

 和都は夏の暑さだけではない熱に焼かれた首筋を、そっと撫でた。



「二年一組でーす、観察簿持ってきましたぁ」

 翌日、保健委員の日課である健康観察記録簿を一番に持ってきたのは、次期保健委員長の長谷川であった。

「おー、ご苦労さん」

 はいどうぞ、と渡された観察簿を仁科が受け取ると、長谷川は少し楽しそうな顔をする。

「先生、最近遠慮しなくなってきましたね」

「ん? ああ、昨日の? だってお前は『仁科おれ派』でしょ?」

「もちろんです!」

 長谷川が歯を見せて笑った。

 眉目秀麗で背も小さく、華奢な印象の強い和都は一年の頃から『狛杜高校の姫』と呼ばれていて、本人もうんざりするほどファンが多い。

 そして当たり前のように告白され続けてきた彼がついに、『好きな人がいるから』と断るようになったところ、その相手が誰かと予想し合うようになり、クラスメイトで常に一緒にいる友人の『春日派』と、保健委員として一緒に活動するこの多い『仁科派』でほぼ二分しているのであった。

 ちなみにこの予想は基本的に願望も含まれており、和都本人は知らない。

「だからまぁ、いいかなぁって」

「まぁ、相模先輩の色んな顔が見られて役得なんで、全然いいですけどね」

 ご多分に洩れず、長谷川も和都のファンである。仕事が多くて不人気の保健委員を二年になっても続けた上、委員長まで引き受ける筋金入りだ。

 ふと壁にかけたカレンダーが目に入る。七月ももうすぐ後半に入り、そろそろ夏休みだ。

「でも、あと半年もしたら、先輩に会えなくなるんですよねぇ」

「そうねぇ」

 夏と秋で猛勉強して、冬の受験戦争を乗り越えたら、春近い季節になって、三年生は卒業してこの学校を旅立っていく。

「……先輩に会えなくなるの、寂しいなぁ」

「まぁ、俺は全然会える予定だけどね」

 その先の約束をしている男は、ちょっとだけ自慢げに言って笑った。

 和都の一ファンでしかない後輩にマウントを取っても仕方がないのに、彼が関することはどうしても、牽制せずにはいられない。

 大人げない仁科の言動に、長谷川はくすくす笑う。

「いいなー、先生。ちゃんと近況教えてくださいね」

「わかってるよ」

「やった」

 嬉しそうに手を振って保健室を出ていく長谷川を、仁科は笑って見送った。


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