第四章 夢現 ─ウ・ツ・ツ─

第1話

 許さないっ。

 少年の目が大きく見開かれた。自分の周囲を取り囲む濃い闇が消え去り、瞳は像を結び、情報が脳に集積していく。少年が見たのは見慣れた天井だった。病院の無機質な白い天井ではなく、淡い乳白色の温かみのある天井だった。

 少年は起き上がり、ベッドの縁に腰かけた。

 ここは病院ではない。自宅の自分の部屋だとすぐに認識できた。今なぜ、病院のことが脳裏をよぎったのか、当初少年にはわからなかったが、次第に意識がはっきりしてくると、思い当たる節があった。

 今の今まで自分は病室で考えていたはずだ、事故のことを。お盆の休みに家族全員で、父の実家のある長野県の松本市に車で向かっていた。その途中で起こった多重事故で、家族全員を一瞬で失ったことを。加害者は意識を回復してどこかの病院で治療を受けていることを。しかし、ここは大阪にある自分の部屋で、目の前には見慣れたテーブルなどがある。この光景は現実のはずだ。なぜなら、自分の意識は、今ここにいる自分を自覚できているからだ。

 では、事故は夢なのか。

 前にもそんな疑問を自分自身に投げかけたことがあった。それも、ごく最近のことだ。その時は、事故は夢だと片づけた。片づけようとした。思い込むことにした。思い込もうとした。しかし、学校で友人と話をしている時に、その話に引っかかることがあり、頭に痛みを感じて気を失った、はずだ。

 少年は壁に掛けられている時計に目をやった。六時二九分だった。スマートフォンに手を伸ばしてアラームの設定を解除した。

 そろそろ妹が、兄が起きているかを確認するためにドアをノックする頃だった。少年はドアに目を据えた。しかしノックがなかった。横目で時計を見ると一分経過していた。少年はベッドから立ち上がり、ドアに向かって歩いて行った。ドアノブに手をかけたのと同時だった、ドアをノックする音が聞こえたのは。少年がドアノブを引くと、目を丸くした妹がそこに立っていた。

 お兄ちゃんどうしたの、いつもならベッドに座って気だるそうにわたしのことを見てるのに、妹はそう言って、いつもとは異なる行動をした兄を小首をかしげて不思議そうに見ていた。少年が、ちょっと気になることがあったんでねと言ってごまかすと、妹は興味深そうに瞳を輝かせてわけを尋ねてきた。またあとでと言葉を濁して、少年はドアを閉じた。

 妹が去ったあと、少年はベッドに座って口元に拳を添えて考え込んだ。

 妹の姿はいつもと変わらなかった。それに今、目で見えている光景はたしかなモノだ。掛け布団の手触り、枕、机、テーブル、その上に置かれているノート・パソコン、テレビ、壁際のタンス、いずれもここが自分の部屋を表す記号であり、なにか一つでも欠けていればそのことを疑えるのだが、おかしなところはなに一つなかった。やはり、これは現実としか思えなかった。

 電源が入っていないテレビを睨むように見ながら、しかし、と少年は考え込んだ。

 事故の記憶は妙に生々しく、救急車のサイレンの甲高い音も、赤色灯の煌々とした光も、切れた口の中に広がる妙な味も、鼻を突く嫌な刺激臭も、前後のシートに挟まれた際の鈍い痛みも、人々の慌ただしい話し声も、救急隊員の冷静なやり取りも、詳細且つ明確に覚えていた。あれを夢だと断定するには鮮明過ぎるのだ。

 ただ、一つ気にかかることがあった。事故に巻き込まれ、病院で目を覚まし、祖母と話し、刑事と話し、看護師と話し、週刊誌を読み、新聞を読み、テレビを見た、その時々の自分には、事故も、家族が亡くなったのも、自分の身体の状態にも、まったく疑問を抱いてはいなかった。あれを夢だと片づけた覚えがなかった。学校で友人と他愛のない話をした、今の自分が覚えている記憶が抜け落ちていた。

 事故に遭う夢を見て、学校へ行き、ふたたび事故の夢を見て、今、目が覚めた記憶の連続性は、ここにいる自分しか覚えていなかった。

 ということは、どういうことだろうか。

 少年は考えをまとめようとしたのだが、ふたたび妹が現れたので仕方なく返事をした。どうやら中々下りてこない兄を心配して様子を見にきたようだった。取りあえず学校へ行く用意をして少年は、一階のダイニングに下りて行った。

 家族でテーブルを囲むことが、これほど安心できるとは、今まであまり感じてこなかったが、今朝の少年は心の底から安堵していた。本当にいつもと変わらない日常がそこにはあったからだ。

 その時、少年は胸の奥底から込み上がってくる受け入れ難い衝動にとらわれた。もしかしたら、いや、本当はこちらが夢なのではないかという疑念だった。あまりにも凄惨な事故のために、病院で眠っている自分が家族を失ったことを受け入れられずに、生きていた頃の記憶をつなぎ合わせて夢を見ているのかもしれない、と。精神的に疲弊しているのはたしかで、脳が自我の崩壊を招かないためにバランスを取っているのかもしれない、と。

 少年にはカウンセラーの知見はないので、その考えが正しいかの判断はできなかった。ここは、他人の意見を参考にするよりほかなかった。

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