第二章 学校 ─ガッコウ─

第1話

 死にたくないっ。

 少年の目が大きく見開かれた。叫び声を上げ、その声に自分自身が驚いて目を覚ましたようだった。眼前には見慣れた天井が広がっていた。

 少年はひどい汗をかいていた。息も荒く、動悸が早鐘のように打っていた。少年が顔を左に向けると壁があった。ふたたび天井を見上げ、次いで右を見た。カーペットが敷かれた床に小さなテーブルが置かれていた。恐る恐るゆっくりと周囲に視線を巡らせると、そこが自分の部屋だと気がついた。

 常夜灯をつけていたので部屋の様子は確認できた。間違いない、ここは、自分の部屋のようだ。見慣れたモノがいくつもある。テーブル、その上に置かれているスマートフォンにノート・パソコン。壁際に置かれているタンス。そして天井。すべて見覚えのあるモノだった。少年は上体を起こしてベッドに座った。

 常夜灯がついているということは、今は夜中だと思われた。しかし、なにかがおかしく感じられた。つい先刻さっきまで自分は、車で父の実家へ向かっていたのではなかったか。いつもと異なり、中津川インターチェンジで高速道路を降り、木曽路を通って松本平へ向かっていたはずだ。古く歴史情緒のある宿場町で観光を楽しみながら。

 そのはずだ。途中で母と妹が車に酔ってしまって二時間程度の休憩を取り、谷あいを抜うように走る道を北北東へ向かっていたはずだ。そして、妹が血まみれだった。

 その情景が脳裏に浮かんだ瞬間、少年は気分が悪くなった。胃の内容物が喉にせり上がってくるような感じがした。急いで立ち上がった少年は、部屋を出て二階のトイレに駆け込んだ。

 我慢ができる嘔吐感ではなかった。夕食で食べたものをすべて吐き出すほどの気持ち悪さだった。胃が空になっても胃液が吐き出され、しばらくすると治まったものの、疲労感が普通ではなかった。少年は便器内の水たまりに目もくれずに便座のふたを閉じた。

 吐瀉物を水で流して、少年は足を階段へ向けた。一階へと降りて行く足取りが、いつもよりも、なぜかはわからなかったが重たかった。脚はある。階段を踏みしめている両足は、たしかにあった。そこに脚があることが気にかかった。

 少年の左側頭部に刺すような痛みが走り、顔をしかめた。おかしい、なにかがおかしい。思考の整理が追いつかなかった。

 やっとの思いで少年はキッチンに向かい、冷蔵庫からミネラル・ウォーターを取り出してコップに注ぎ、一息に飲み干した。深く息をついてコップをシンクに置いた少年は、ゆっくりと自分の部屋に戻り、ベッドの縁に座って前かがみになって考え込んだ。

 事故に巻き込まれたのではなかったか。

 フロントガラスに迫る対向車、たしかに記憶があった。その時少年の身体は、右カーブだったために遠心力で左のドアに触れていて、身体全体が助手席と後部座席との間に挟まれたわけではなかった。だが、隣に座っていた妹は運転席と後部座席との間に挟まって、血を流し、救けを求めるように左腕を伸ばしている場景は、たしかにこの両目でとらえられていた。父と母に救けを求めるために前を見た、はずだ。

 ふたたび激しい痛みを少年は、左側頭部に感じた。

 間違いない、たしかに事故に巻き込まれた記憶がある。先程脳裏に浮かんだ血まみれの妹の姿は、発作的、反射的に吐き気をもよおすほどの鮮やかさだった。

 瞳だけを動かして少年は、今目の前にある景色を眺め回した。ここが自分の部屋なのは間違いない。いや、部屋なのも間違いない。では、この事故に遭った記憶はどうなのだろうか。ただの夢として片づけるのは簡単だが、妙に生々しかった。身体の各所に感じていた痛みも偽りのものではなかった。父と母は即死だったように思えた。

 再度、少年の左側頭部に締めつけられるような痛みが生じた。

 そうだ。駆けつけた救急隊員と思しき彼らもそのように話していた。妹は事切れていると話していた。

 この記憶は鮮明であり過ぎて、とても夢とは思えなかった。しかし、今の少年は、自分の部屋にいて目の前にあるものはまがい物ではないと思っている。いつもの部屋と比べてみても、なにも疑わしいと思わせるような違いはなかった。自分の意識はここにあって、あの思い出したくもないあそこにはなかった。少なくとも、今は。

 スマートフォンに手を伸ばして、少年は時間を確認した。三時七分だった。明日、といってももう今日なのだが、平日で学校は休みではなかった。頭を振って不可思議な記憶を払いのけると、少年は布団をかぶって横になった。

 とりあえず今は眠ろう。朝になって目が覚めれば、またなにかがわかるかもしれない。そう自分に言い聞かせて、少年は眠りについた。

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