第61話 決めては何やったん?
昨晩の杏樹さんの涙や態度を思い出して、俺は頭を抱えながら言い過ぎたと悔やんでいた。
「珍しいですね、悩みごとですか?」
目元を覆っていた手を退けると、仕事が休みで自室でダラダラしていた崇がリビングに入ってきていた。時計を見ると九時を回ろうとしていた頃合だった。
「珍しいな、こんな時間まで寝坊助か?」
「色々と考えていたら、つい夜更かししちゃったんですよ。そう言う絋さんも目の下にクマが出来てますけど、大丈夫っすか?」
互いに苦笑を浮かべながら、深い溜息を吐き合った。互いに悩んでいることはパートナーのことだろう。
「デキたことはおめでたいことだと思うんだけどさ……。正直に言うと崇はもう少し計画的に考えていると思ってたよ。実際大丈夫なん?」
「辛辣っすね。まぁ、ぶっちゃけ不安の方が大きいですよ。俺も安月給だし、夜勤もあるから不規則だし、貯金だってある方じゃないし」
つい最近まで無職だった俺にも、共感できるよくある悩みだ。千華さんもフリーターで貯金は多くはないだろうし、何よりも若い。よく生む決意をしたなと感心する状況である。
「授かりものだから堕ろす選択は毛頭なかったし、実際千華さんが家族に対して強い憧れがあったんで、近いうちにこうなるとは思ってたんで」
この時、俺は初めて千華さんの元カレや生まれ育った境遇を聞くこととなった。
独占欲が強い彼氏のせいで自尊心を削がれて生きてきた青春時代。そして、千華さんの母親の早過ぎる死——……。
「千華さんが幼い頃に亡くなったんですよ。今のお母さんも優しい人なんですが、血の繋がりがないから、どこか遠慮気味で。そんなこともあって人一倍家族に憧れがあったらしいです」
あの明るい性格からは想像できない過去に、かける言葉も思い浮かばなかった。きっと崇は、そんな彼女を丸ごと引っくるめて決意をしたのだろう。
「偉いな、お前……」
「あはは、いやいや。単純に俺にとって千華さんは勿体無いくらい高嶺の花だったんで。千華さんがいなかったら俺はきっとダサ男のままで、不貞腐れて生きていたと思うんです。だから彼女が願うことなら、何でも聞いてやりたいんです。彼女が俺と一緒になって良かったと思い続けてくれるように」
俺が思っていた以上に、二人の間には確固たる理由が存在していた。それに比べて俺は……。
「実は杏樹さんも、事故でご両親を亡くしているんだよ。だから千華さんのように家族に対して憧れを抱いているみたいでさ」
「——え? ってことは、絋さん達も結婚を考えているんですか?」
「いやいや! 流石にお前のように決断はできねぇよ! むしろ俺は、杏樹さん一人でも生きていけるように力をつけてほしいと思っていて」
「………? どういう意味っすか?」
俺は初めて自らのコンプレックスを吐き出した。
高卒でブラック会社に勤めて地獄のような社畜時代を過ごしたことの後悔……。結果的に今の仕事に就けたのも経験と積んできたお陰なので、一言で無駄だと言い切ることにはならないが、それでも自分と同じような苦しみを味わってほしくはないと切実に願いっている。
「俺が傍にいれるうちはいいんだ。でも、人生って何があるか分からないだろう? その時に後悔をして欲しくないんだ。俺との未来を選んだせいでと後悔して欲しくないんだ」
この言葉は崇と千華さんの選択すら否定するものかもしれないが、俺の言い分に変わりはなかった。
しばらく黙り込んでいた崇は、眉間を指でトントンとしながら掛ける言葉を考えていた。
「いや、絋さんの考え方は素晴らしいと思いますよ? 思うんですけど……何でそこまで卑下するんですか?」
「卑下?」
「杏樹さんが可哀想過ぎますよ。絋さんの考え方って、全体的に暗過ぎて。そもそも付き合う時もそうっすよ。さっさと付き合えばいいのに『無職だから』とか『俺よりももっといい男がいると思うから』とか言って、先延ばしにして」
そ、そんなに酷いことを言っていたのか、俺? 大切だからこそ誠実に、彼女の幸せを願っていただけなのに、なぜここまで貶されなければならないんだ?
「他の男が杏樹さんに近付いたら許さないくせに、逃げ道を作っておくなんてズルい大人ですね、絋さんも。そんな考えてる暇があったら、彼女の幸せを考えてあげてくださいよ」
コイツ……っ、自分が成功してるからって生意気な。だが、反論はできなかった。何よりも俺自身が崇の行動に憧れていたのだ。
コイツのように彼女を幸せにしてあげれたら、どれだけ達成感を得ることができるだろう。彼女を笑顔にしてあげることができるだろう……。
「——って言いつつも、ちゃんとビジョンを持っている絋さんのことが羨ましいとも思ってるんですよ。何だかんだで俺の場合は、千華さんのペースに巻き込まれてるだけのところもあるんで」
苦笑しつつも、どこか幸せそうな崇を見て、やっぱり敵わないと痛感した。
それでも決意した彼を尊敬する。きちんと彼女を守って、実行していることが素直に凄いと思う。
「幸せになってくれよ……千華さんと一緒に」
「ありがとうございます。絋さんも、もっと自信持ってくださいよ? 俺は昔からずっと、貴方のことを尊敬してるんで。これからもずっと、カッコいい先輩でい続けてください」
こうして俺も、やっと決意が出来た気がした。
———……★
千華の設定ですが、若干明日花の設定が入ってます。
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