迷い蛾

見切り発車P

第1話 迷い蛾の伝承

 ひらひらと、大きな翅が揺れている。微かに鱗粉を散らせながら、仄かに光を返している。

 男は蠱惑的な美しさに目を細めたが、こちらに向かってくる蛾を咄嗟に手で払った。すると、蛾は方向を変え、飛び始めた。

その様子に一度は安堵した男だったが、不意に強い不安に襲われた。

 追いかけなければ。

見失ってはいけない。

 立ち上がり、その虫の後を追う。大きく羽を広げたその姿が、蛾だということに気付いても、心臓を掴まれたような感覚は消えなかった。

 翅に広がる目玉模様が、渦巻いて見えた。

 足は次第に駆け足へと変わる。あの異常な美を持つ蛾の姿が遠ざかっていく。どこへ向かっているのか、ふらふらと横に振れるような動きは、ゆったりとしているようで非情にも距離を空けていく。

 息を切らして、もつれた足を無視して転がるように走る。何かに急き立てられている。この蛾を見失えば、何かが失われる。男はそんな気がしてならなかった。

 息を吐いているのか吸っているのかすら分からなくなるほど、がむしゃらに追いすがると、ふと蛾が何かに止まった。

 翅を休ませている蛾へ恐る恐る近づくと、それは女の頭に乗っていた。男は女を見て安堵した。女は男の恋人だった。

 声をかけ呼び止めると、女がこちらを振り返った。それと同時に、蛾が女の頭から飛び立っていく。

 飛び立っていく蛾を見つめて男は気が抜け、不思議に思った。自分はどうして、あんな虫けら一匹に不安になっていたのだろう。あんな焦らなくても何もありはしないのに。

 肩の力を抜いて、男が恋人を見ると――

「――男の前には知らない女が立っていた」

 語り手、倉光李一は大仰に声を潜めた。先ほどまで、訥々とした語り口とは打って変わって、神妙そうな口調に不安が煽られる。雨の日特有の静かさも相まって、教室には薄気味悪い雰囲気が漂っていた。

「知らない女って?」

 ごくり、と喉を鳴らして、大きな図体に似合わないか細い声で栗田浩司が聞き返した。あからさまに怯えている栗田に気をよくして、李一はさらに脅かしてやろうと抑揚をつける。

「言葉の通り、別人が立っていたんだ。本来、愛しい恋人がいるはずだった場所に、顔も、体格も、声も、性格も、何一つ違う女が。あの蛾が飛び立つまでは居たはずだった彼女は、もうどこにもいなかった。彼女ではない女が、彼女として生きている。周囲の人びとも口をそろえて、その女こそ自分の恋人だと言う。でも、違うんだ。男は誰にも理解されない喪失感で、ただ茫然とするしかなかったのさ!」

「ひえぇ……」

「えぇ? それで終わりか?」

 栗田が小さく悲鳴を上げる横から、柿崎京弥が異論を唱えた。理屈屋の柿崎に話を止められ、李一はぎくりと肩を震わせた。

「なんだか怪談としては中途半端じゃないか。普通恋人が入れ替わってからが本番な気がするけどな」

「そ、それは、だね……えーっと」

 しどろもどろと言葉を濁す李一に、柿崎が怪訝そうに視線を投げる。上手い言い訳が思いつかず、李一が黙り込んでいると、苛立たしそうにもう一人が口を挟んだ。

「うるせーな。水を差すようなこと言うなよ、柿崎」

 柿崎とは犬猿の仲である梅野謙吾だ。あからさまに売られた喧嘩に、柿崎も語気を荒げる。

「はあ? 気になったこと聞いただけだろ。何だよ、その言い草。お前のその態度の方が水差してるだろうが」

「あ? 俺は親切で言ってやってんだけど?」

「ちょ、ちょっと、二人とも! ストップストップ!」

 あわや喧嘩か、といったところで、李一が強引に割り込み、大きく手を振って仲裁した。論理的で皮肉屋の柿崎と、感情的で兄貴肌の梅野は非常に相性が悪い。常日頃から、小競り合いばかりしている。

 李一に止められ、二人が渋々と浮かせた腰を落とす。しかし、二人とも気が収まっていないのだろう。視線は相手を睨み付けたままだ。気の小さい栗田は青い顔をして、そんな二人の様子を見守っていた。

 李一は三者三様の友人たちへ内心ため息を吐きながら、消していた教室の電気をつけた。蛍光灯がぱっと明るい光を放った。教室が明るくなると緊張感も薄れ、栗田がほっと胸をなでおろすのが分かった。

 栗田、柿崎、梅野は李一の同じクラスの友人たちだ。仲良くなったきっかけは、『出席番号が近かったから』、これに尽きる。

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