未来

成瀬哀

23:30

腕時計が示したのは23:30。今日は大晦日。つまりあと30分で年が明ける。

 けれど、あと30分でこの世界の何が変わるだろう。実際、今私はここでこうしてライフルを手に身を潜めている。スコープの先に暗い人影が映ったらすぐさま行動を起こせるように、引き金に指をかけたまま。じっと息を殺して、冷たい地面と一体になり、蟻が身体をよじ登るのも気に留めなかった。

 迷彩服に初めて身を包んだ時は、身の引き締まるような思いになった。まるで映画の主人公になったような気持ちで、仲間を守り領地を護り、数日か数ヶ月後には家に帰って家族を抱きしめられるだろうと思っていた。

 それがただの淡い幻想だと気がついたのは、こうしてライフルを手に戦場に一歩踏み入れたあの時だった。聞いていた情報では、一般市民が身を隠すための時間を稼ぐ援護の任務。時間は5分間だけだった。たった5分間。カップラーメンが茹で上がる時間。ポップス1曲の再生時間。日常で起こる変化はただそれだけ。ここでは幾人もの命が消え、幾数もの爆音や射撃音が響き渡る。一つ数えるうちに3人死ぬ。そんなことも当たり前だった。

 23:30。あと30分で年が明ける。今宵は大晦日。暗く冷たい空気の中、悴んだ手が震える。感覚のなくなった指先は、それでも引き金を離さなかった。

 聖夜と呼ばれるクリスマスも。先祖を尊び敬う日でさえも。この地には乾いた鋭い音の往来と、射撃された誰かの悶える声が木霊していた。土の匂いはいつの間にか血生臭くなり、雨が降った日には泥が赤黒く染まった。

 23:30。あと30分で新しい年になる。大晦日という今日になってから、何故か銃声は鳴り止んでいた。代わりに緊迫した空気が辺りを包み、刺すように冷たい空気と一緒にピンと張り詰めた緊張感が覆っている。ここは戦線。如何なる時でさえも相手を見据え睨んでいる。

 不意に視界の片隅で誰か人影が動いた。こちらの気配に気づいていないのか、キョロキョロと周囲を見渡して。闇夜の中を駆けていく。

 時は大晦日の23:30。あと30分で年が明ける。けれどもここは、5分先の未来も見えない戦場で。私の狩るべき的はスコープの先にいた。

引き金に掛けていた指先に力が入る。5分先の未来を。新しい年を迎えるのは相手か私か。30分という時は、この地で刻むには長すぎる。

 23:30。まだ時は変わらない。30分先の未来を。新しい年を誰もが欲していた。

30分先の未来で、もしも私も相手も生きていられたのなら。迎える新しい年は少しだけ平和になるのかもしれない。国籍が違うだけの同じ人間を敵と見做す恐ろしい習慣から解放されて、また自由になれるのかもしれない。

 23:30。今宵は大晦日。あと30分で新年を迎える。寒さに震える指先を引き金から外した。30分先の未来に平穏がなかったとしても、30分経った未来で私もあなたも無事だったら、長すぎる夜が明けるかもしれないから。


23:31。

乾いた音が静かな戦地を駆け抜けた。

戦地に於いて銃声は稀ではない。

されど睨み合っていた戦線は活発に動き出した。

23:32。

地面に伏せていた男は頭から血を流していた。肩に乗せたライフルは使われた痕もなく、指は引き金から外れていた。

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未来 成瀬哀 @NaruseAi

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