SweetTrip

双傘

第1話 sweet trip


街灯の灯りが、疲れた心をじんわりと照らしていた。終電にはまだ少し時間があるが、今日は駅へ直行する気になれなかった。終業のチャイムが鳴り響いてから、机を片付け、上司や同僚に軽く会釈をして出たオフィスの空気から、どこかに漂いたかったのかもしれない。


コンビニで買った350mlのビール缶が、右手で軽く汗ばんでいる。冷たいアルミの感触が手に伝わるたび、心の中の重苦しさが少しだけ和らぐような気がした。プシュッと缶を開ける音が、静かな夜道に微かに響く。


一口飲む。炭酸が舌先を刺すたびに、胸の中のモヤモヤが少しずつ泡となって消えていくようだ。いつものように缶ビールの味が特別おいしいわけではない。それでも、仕事が終わった後にこの缶を開ける行為だけは、一日が確かに終わったという実感を与えてくれる儀式だった。


「今日は本当にきつかったな」

心の中でつぶやく。今日の会議、資料作成、上司の機嫌取り――すべてがひとまとまりの「仕事」という名の波となり、彼を押し流していく。その波に揉まれている間は、自分がどんな感情を持っていたのかさえ曖昧になる。ただ、終わった後に押し寄せる疲労感だけが現実味を帯びていた。


歩道脇の公園では、ベンチに座る年配の男性が一人、タバコを吹かしていた。どこか遠い目をしている彼の横顔を見て、少しだけ安心感を覚える。同じように夜の空気に溶け込む大人がここにもいるのだ、と。


「これでいいのか?」という疑問が頭をよぎる。毎日同じことを繰り返し、気がつけばただ生き延びているだけの自分。ふっと笑みがこぼれた。ビールをもう一口飲み干しながら、彼は空を見上げる。


都会の空には星は見えない。けれど、その黒いキャンバスの中に、彼は自分の思い描く何かを探しているのかもしれなかった。残りのビールが空になるまで、彼は静かに夜道を歩き続けた。



しかし、その煙が漂ってきた瞬間、胸が苦しくなった。鼻腔を刺激するタバコの匂いに混ざって、懐かしい香りがした。足が止まり、思わず深く息を吸い込む。懐かしさと同時に、頭の奥で何かがカチリと音を立てたような気がした。


立ちくらみが襲ってきた。目の前が一瞬暗くなり、思わず街灯の柱に手をつく。目を閉じると、記憶の底から浮かび上がってきたのは、小学生の頃の夏休みだった。


気がつくと、祖父の家の縁側に立っていた。蝉の声が耳を覆うほどに響いている。目の前には懐かしい庭が広がり、青々と茂った木々の隙間から真っ青な夏空が覗いている。


「おーい、何してるんだ?」

奥から祖父の声が聞こえた。顔を上げると、あの頃と同じ姿の祖父が、麦わら帽子をかぶって庭を歩いている。手には古びた剪定ばさみ。白いタンクトップと膝丈のズボンという格好が、田舎の夏そのものだ。


「何もしてないよ」

小学生の自分がそう答える声が聞こえる。懐かしい声だ。あの頃の自分がその場にいる。ありえないことに、自分自身がその頃に戻っているのではなく第三者になっているようだった。


祖父はにやりと笑って、縁側に腰を下ろすと、ズボンのポケットからタバコを取り出した。ライターの音が「カチッ」と響き、火をつける。漂う煙とともに、記憶の中で繰り返し見た光景が広がった。


「タバコ臭いよ、じいちゃん」

子供の頃の自分が顔をしかめて言うと、祖父はおかしそうに笑った。


「これは大人の楽しみってもんだ。お前も大きくなったらわかるさ」


その言葉が、今になって胸を刺す。結局、あの頃の自分は祖父の「楽しみ」が何だったのか理解できなかった。だが今、同じように夜道でビールを片手にしている自分は、あの言葉の意味がわかる気がする。


縁側に座り込んでいた自分を、祖父がじっと見ている。その目は優しくもあり、どこか寂しげでもあった。


「じいちゃん、何でタバコ吸うの?」

「何でだろうなぁ……」

祖父は煙をゆっくりと吐き出しながら、空を見上げた。


「こんなもん吸ってても、偉くもないし金持ちにもなれん。ただな、こうやって一服する時間があるから、また明日も頑張れるってわけだ」


その時の言葉の意味はわからなかった。ただ、「頑張る」という言葉が引っかかったことだけを覚えている。


祖父の言った「また明日も頑張れる」。その言葉は、今の自分に向けられていたかのようだった。


季節は冬のはずだか、あきらかに夏の匂いが漂っている。


蝉の声が鳴り響く中、縁側の木の感触を手のひらで確かめながら、男はぼんやりと庭を眺めていた。目の前には小学生の頃の自分がいて、その隣には祖父が腰を下ろしている。二人ともこちらに気づいていない様子だ。


男はそっと口を開いた。


「じいちゃん、久しぶり。」


祖父が煙草の煙を吐き出しながら、ゆっくりとこちらを振り返る。表情には驚きはない。むしろ、懐かしい友人を見るような柔らかい笑みを浮かべていた。


「おや、なんだか見覚えがある顔だな。……もしかして、お前は未来の誰かさんか?」


その言葉に男は胸が詰まるような思いがした。まさか祖父がそんなふうに自分を受け入れてくれるとは思わなかった。


「そうだよ。俺だよ、じいちゃん。大きくなった、って言ってももう30近いけどね。」


祖父は目を細め、タバコを指でトントンと叩きながら、再び庭に目を戻した。


「ほぉ、そりゃ立派なもんだ。じゃあ、その手に持ってるビールも、立派な大人の証拠か?」


男は思わず笑ってしまった。そういえば手に持っていたビール缶は、トリップしても消えずに残っていたのだ。


「そうかもね。でも、これがあっても、じいちゃんみたいにのんびり楽しむ余裕なんて全然ないよ。」


祖父は「ふぅ」と短く息を吐き出し、タバコを灰皿に押し付けた。そして、座り込んでいた少年――かつての自分――の頭を軽く撫でる。


「お前も大変なんだな。けどな、こうやって縁側に座って、風の音を聞きながら一服する時間を忘れるんじゃないぞ。人生はそんな余白があって初めて楽しいんだ。」


その言葉が、深く胸に染みた。大人になるにつれて忘れてしまっていた祖父の教えが、まるで一枚の絵のように鮮やかに心に蘇る。


「じいちゃん、ありがとう。今、すごく忙しくて、正直辛いって思うことばっかりだった。でも、少しだけ余白を作ってみるよ。」


祖父は満足げにうなずき、小学生の自分を横目で見た。


「こいつも、大きくなったらお前みたいに苦労するのかもしれんな。でもまぁ、大丈夫だ。ちゃんとここに戻ってくるだけの余裕があるんだから。」


男は静かに立ち上がり、縁側から庭に目をやった。蝉の声が一段と大きくなる。その音の中で、祖父の言葉が心の奥に深く刻まれていくのを感じた。


「ありがとう、じいちゃん。また、どこかで。」


そう言ってその場を後にした。

さあ、どうやって帰ったものか。

元の時代?それとも元の世界に。

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