第四章 蝕まれる現実

第1話 本社からの圧力

 月影澪の意識が朦朧としている中、スマートフォンの執拗な振動音が耳に飛び込んでくる。半ば無意識のうちに手を伸ばし、枕元で震える端末を掴む。画面に映し出された発信者名に、澪は目を見開いた。


 高野プロデューサー。


(こんな朝早く……何かあったのかな?)


 時計を見ると、まだ午前五時三十分を指している。不吉な予感が背筋を走る。震える指で通話ボタンを押す。


「はい、月影です」


 澪の声は、眠りの名残でかすれていた。


「澪、今すぐ東京に戻ってこい」


 高野の声は、普段の穏やかさを欠いていた。


「えっ、どういうことですか?」


「上からの指示だ。かげみ町の取材は中止」


 高野の言葉に、澪の頭の中で警報が鳴り響いた。


「でも、ここまで来て……真相が見えてきたんです!」


 必死の思いで反論する澪に、高野の声は更に厳しさを増す。


「いいか、澪。これは仕事だ。個人の興味で勝手なことはするな」


 澪は唇を噛んだ。これまでの取材の成果が、目の前で崩れ去ろうとしている。頭の中で、取材で出会った人々の顔が次々と浮かんでは消えていく。山田やまだ幸子さちこのおどおどした表情。鶴見つるみ千代ちよの深い皺の刻まれた顔。そして、あの不可解な少女、雨宮あめみやほたるの虚ろな瞳。


「町長から直接、会社に抗議があった。このままじゃ会社が潰れる」


 高野の説明に、澪は思わず息を呑んだ。


「町長……? あの五十嵐いがらし正志まさしのことですか?」

「そうだ。彼は地元の有力者だ。政界にも影響力があるらしい。我々には手に負えない」


 澪は、数日前の町長との出会いを思い出していた。町の図書館で「影美」の森に関する古い文献を調べていた時のことだ。町長は彼女を見るなり、急に警戒的な態度を取った。


「余計なことには首を突っ込まない方がいい」


 その言葉は、まるで脅しのように聞こえた。町長の態度、何かを隠そうとする様子。全てが繋がり始めていた。


「もう少し時間をください。何かつかめそうなんです」


 澪の懇願に、高野はため息をついた。


「澪、君は優秀だ。だからこそ言うんだ。身の安全を考えろ」


 沈黙が数秒間流れる。その間、澪の心臓は激しく鼓動を打っていた。


「わかってます……ただ、今回の取材で、とんでもない事実が発覚しそうなんです」

「――四十八時間だ。それ以上は無理だ。分かったな?」

「はい……ありがとうございます」


 電話が切れる音と共に、澪は深いため息をついた。窓の外を見つめながら、独り言を呟く。


「引き下がるわけにはいかない。ここまで来て、真実から目を背けられない」


 決意を固めた澪は、荷物をまとめ始めた。カメラと録音機をチェックする手が、わずかに震えている。恐怖と興奮が入り混じった感情が、全身を駆け巡る。


 カバンの中から、取材ノートが滑り落ちた。開いたページには、影河かげかわげんからの謎めいた情報が走り書きされている。


(影河さん……あなたは一体何者? 実在するの?)


 澪は首を振り、思考を現実に引き戻した。今は、目の前のことに集中しなければならない。


 早朝の旅館のロビーは静寂に包まれていた。フロントに向かう澪の足音だけが、かすかに響く。


「こんな早くから、どちらへ?」


 女将の声に、澪は振り返った。


「少し取材に……」

「そう……気をつけてね。この町は、朝霧が深いから」


 女将の表情に、一瞬悲しみの色が浮かんだように見えた。その目は、何か遠くを見ているようだった。


「あの、女将さん。この町について、何か知っていることはありませんか?」


 女将は、ゆっくりと首を横に振った。


「ごめんねえ。私にはよく分からないよ。ただ……」


 女将は言葉を濁した。澪は息を潜めて待つ。


「ただ、この町の霧には気をつけなさい。霧の中に入ったら、もう二度と戻れないかもしれないからね」


 女将の言葉に、澪は背筋が凍る。


(この町の霧の向こうに、何があるのか。これが最後のチャンスかもしれない)


 旅館を出る澪の背中に、女将の視線が突き刺さる。朝もやに包まれた町へと足を踏み出す澪の心に、不安と期待が交錯していた。



 彼は、古びた研究室の中で深いため息をついた。目の前には、月影澪から送られてきた最新の取材データが広がっている。


「まさか、あの伝説が……」


 教授は眉間に皺を寄せながら、ノートに走り書きを続けた。かげみ町に伝わる古い言い伝え。炭鉱の閉鎖。そして一九八〇年代の大規模失踪事件。全てが、不可解な形で繋がり始めている。


「月影さん、あなたはどこまで真実に迫れるのか」


 教授は、机の上に置かれた古い新聞の切り抜きに目を向けた。そこには、「かげみ町で再び不可解な失踪事件」という見出しが躍っている。日付は、ちょうど二十年前。


「歴史は繰り返す……か」


 教授はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見やった。東京の喧騒が、遠くに聞こえる。しかし、教授の心は今、霧深いかげみ町にあった。


「月影さん、くれぐれも気をつけて……あの町には、私たちの想像を超えるものが潜んでいるんだ」


 教授の呟きは、誰にも届かないまま、薄暗い研究室に吸い込まれていった。



 かげみ町の朝霧の中、月影澪は慎重に足を進めていた。カメラを構えた手に力が入る。


(町長が隠そうとしているもの。女将の悲しげな表情。そして、この不自然な朝霧)


 全てが何かを指し示しているような気がしていた。しかし、その「何か」の正体は、まだ霧の向こうに隠れている。


 澪は深く息を吸い込んだ。残された時間は、わずか四十八時間。その間に、かげみ町の秘密に迫らなければならない。


 カメラのシャッター音が、静寂を破る。その瞬間、澪の背後で枝を踏み折る音がした。振り返る澪。しかし、そこには誰もいない。ただ、濃い霧が渦を巻いているだけだった。


(気のせい、かな?)


 澪は首を振り、再び歩き始めた。しかし、背中に感じる視線の感覚は、なかなか消えなかった。


 ふと、目の前の霧が晴れたような気がした。そこに立っていたのは、あの少女——雨宮蛍だった。


「雨宮さん? どうしてこんなところに……」


 蛍は澪を見つめたまま、口を開いた。


「見えますか? 霧の向こうに」


 澪は思わず霧の彼方を見やった。そこには……。


「何も……見えません」


 振り返ると、蛍の姿は消えていた。代わりに、地面に何かが落ちている。澪は屈んでそれを拾い上げた。古びた懐中時計。しかし、不思議なことに針は動いていない。


(これは……?)


 澪はポケットに時計をしまいながら、辺りを見回した。霧の向こうに、かすかに人影が見える。


「待ってください!」


 澪は叫びながら、その影を追いかけた。霧の中へと駆け込む。周囲の景色が歪み、変容していく。



 気がつくと、澪は見知らぬ場所に立っていた。そこは、まるで時が止まったかのような古い町並み。道端には錆びついた看板が立ち、「影美炭鉱」の文字が薄れかけている。


(ここは……過去? そんなはずが……)


 澪の頭の中で、様々な疑問が渦巻いていく。しかし、それ以上に強く感じたのは、ある確信だった。


(過去でも未来でもどうでもいい。ここに全ての謎を解く鍵があるはず)


 澪は深く息を吸い込み、懐中時計を強く握りしめた。そして、霧に包まれた不思議な町へと、一歩を踏み出した。


 かげみ町の朝は、まだ始まったばかりだった。そして、月影澪の四十八時間のカウントダウンも、静かに、しかし確実に進んでいった。時計の針は動いていないのに。

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