影の教室

蟾兎 燕

第一章 一年生編

第1話 影の囁き

 プロローグ




 4月。新しい制服に袖を通し、柊 勇人(ひいらぎ はやと)は緊張した面持ちで校門をくぐった。名門とされるこの高校に入学できたことは、家族にとっても誇りだったが、勇人自身はまだ実感が湧いていなかった。普通の家庭に生まれ育った彼にとって、名門校という響きはどこか非現実的に感じられたのだ。




「俺がこんな学校でやっていけるのかな…」




 思わず呟く。周りは同じく新入生たちで溢れているが、皆どこか自信に満ち溢れた表情をしているように見える。早く自分も馴染まなければ——そう考えた時、背後から軽く肩を叩かれた。




「よう、勇人!」




 振り向くと、そこには親友の三井 直也(みつい なおや)が立っていた。中学時代からの付き合いで、お互いの家庭環境も知っている。明るくて社交的な直也は、勇人とは対照的だが、なぜか気が合う友人だった。




「お前、そんなに緊張すんなよ。高校デビュー、楽しもうぜ!」




 直也の軽口に勇人は苦笑した。いつものように適当な言葉で励まそうとしているが、直也の明るさに勇人は少しだけ肩の力が抜けた。






 入学式を終え、新しいクラスメイトたちと初対面を果たす。勇人のクラスは、全員が初対面で、ぎこちない空気が流れていた。しかし、そこでふと気になる噂が耳に入ってきた。




「なあ、聞いたか? この学校、影の教室があるって。」




 隣の席に座っていた高槻 遼子(たかつき りょうこ)が低い声で言った。彼女は、ミステリアスな雰囲気を纏った女子で、クラスメイトと積極的に話すタイプではなかったが、目つきが鋭く、どこか知的な印象を与える。




「影の教室? なんだそれ?」




 勇人は首を傾げる。遼子は少し微笑んだが、その表情にはどこか不気味なものが含まれていた。




「噂よ。この学校には、存在しないはずの教室があるらしいの。そこに迷い込んだ生徒は二度と戻ってこないって。」




「なんだそれ。都市伝説みたいなものか?」




 直也が興味深そうに話に加わった。彼はオカルト話に目がない。




「都市伝説かもね。でも、過去にこの学校で何人かの生徒が本当に行方不明になっているらしいわ。そのうちの一人は、影の教室に入ったって言われてる。」




 遼子の言葉に、勇人は一瞬背筋が凍る思いをした。そんな馬鹿げた噂が本当にあるのか、と心の中で否定しつつも、何か得体の知れない不安が彼の胸の奥に広がるのを感じた。






 放課後、勇人と直也は校内を探索することにした。新しい環境に慣れるために学校の全体像を把握しておこうという軽い気持ちでの行動だったが、二人の足は自然と校舎の奥の方へと向かっていた。




「こんなところ、普段はあまり来ないだろうな…」




 廊下は人の気配がほとんどなく、薄暗い。長く伸びた影が壁に映り、勇人の不安が膨らんでいく。




「まあ、興味本位だよ。どうせ影の教室なんて嘘だろ?」




 直也は笑いながら、歩を進める。その時だった——。




「……!」




 二人の耳にかすかな物音が聞こえた。まるで誰かが机を動かしているような音。勇人は立ち止まり、音のする方に目を向けた。そこには、鍵がかかっているはずの教室のドアが、僅かに開いていた。




「なあ、直也。あれ……」




 勇人が指差す先を見た直也は、眉をひそめた。




「おいおい、マジで何かあるのかよ?」




 二人はお互いの顔を見合わせ、緊張感が走る。勇人は思わず喉を鳴らし、ドアに手を伸ばそうとしたが、その瞬間——。




「ちょっと、何してるの?」




 背後から声がかかった。振り返ると、そこには遼子が立っていた。冷静な表情で、二人の行動を見つめている。




「遼子、どうしてここに?」




「あなたたちが何かを探しているのが見えたから、ついてきただけよ。それより、あまり深入りしないほうがいいと思うわ。」




 遼子の言葉に、勇人と直也は顔を見合わせる。直也は苦笑しながら肩をすくめた。




「ただの噂だってわかってるけどな。でも、気になるだろ?」




 遼子は静かに首を振った。




「本当に、深入りしないほうがいいわ。何か……良くないことが起きるかもしれないから。」




 その言葉に、勇人は不安を感じつつも、もう一度開かれたドアに視線を向けた。しかし、何も起こらなかった。ドアの向こうには、ただの空っぽの教室が広がっているだけだった。






 その晩、勇人は自宅のベッドで眠れずにいた。遼子の言葉が頭の中で何度も反芻される。「良くないことが起きる」——彼女のその言葉には、何か確信めいたものが含まれていたように感じた。




 しかし、そんな考えを振り払うかのように勇人は目を閉じた。明日からは本格的な授業が始まる。そんな馬鹿げた噂に気を取られている場合ではない、と自分に言い聞かせながら。




 だがその夜、勇人は奇妙な夢を見た。




 夢の中で、彼は学校の廊下を歩いていた。誰もいないはずの校内に、どこからともなくかすかな笑い声が響いてくる。その音を追って歩いていくと、突然目の前に現れたのは見覚えのない教室のドアだった。




 そのドアの上には、はっきりとこう書かれていた。




「影の教室」




 勇人は、ドアに手を伸ばそうとする。しかし、その瞬間、背後から何者かに強く引き戻される感覚があり——。




「はっ……!」




 勇人は目を覚ました。心臓が激しく鼓動している。冷たい汗が額を伝っていた。




「今の……なんだ……?」




 勇人は、自分が見た夢がただの悪夢なのか、それとも何か意味があるのかを考えずにはいられなかった。そして、その夢が彼の運命を大きく狂わせるきっかけとなることを、この時点ではまだ知らなかった。

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