それはとても小さな、

しがない

ラ・カンパネッラ

1

 晴れの日が嫌いだった。青空は、何もかもを飲み込んでしまいそうな恐ろしさがあるから。容赦なく照らす陽光が、僕の欠陥を暴き立てている気がするから。

 そんなことを思いながらもこの街で最も空に近い屋上が好きなのは、ここが誰も寄りつかない、まるで世界から見捨てられたような場所だからなのだろう。改修されることもかといって取り除かれることもなく化石のように時の流れに置いて行かれた遊園地の遺骸を横目に見ながらそう思う。彼らに仲間意識のようなものを覚えるのは、流石に孤独に中てられた感傷主義が過ぎるか。

 ポケットからセブンスターを取り出して安物のライターで火を点ける。高等学校に所属している身分としては、というか高等学校に所属をしていなかったとしても年齢からして立派な法律違反だけれども見咎めるような人間はここには居ない。露見しなかった嘘が真実となるように、誰にも知られなかった罪は世界が何事もなかったように有耶無耶にしてくれる。こうして誰かに遠慮することもなく紫煙を吐き出すことが出来るというのも、この屋上の魅力のひとつだった。

 眼下にはつまらない街が果てしなく広がっている。いや、果てしなくなんていう言葉がレトリックに過ぎないことは分かっている。僕の目には届かないだけで、退屈で敷き詰められたようなこの街にも終わりはあって、目に見えない境界を跨いでその先へと続いて行く。けれど、その連続性が僕には不自然な空想のように思えて仕方がなかった。今も地球のどこかで行われているらしい戦争の実感が湧かないようなものだろう。所詮、人間なんていうものは手の届く範囲の事柄に対してしか思いを馳せることが出来ないものなのだ。

「山名漣君?」

 その声が聞こえたのは、煙草の灰を落とした後のことだった。まさかこの屋上に人が現れるとは、それも自分の名を呼ぶ人物が現れるとは思っておらず微かに動揺をしながら僕は振り返る。

 そこには制服を着た少女が居た。ブレザーに血のように真っ赤なマフラーを巻いて、窓の外の雪でも見るような瞳で僕のことを見ていた。高校生が制服を着ているという状態は特に何もおかしいものではないけれど、休日のうらぶれた屋上に制服姿の女子がいるというのは些か奇妙に思えて、ルネ・マルグリットの絵を見た時のような違和を覚える。あるいは、それは世界から独立したような彼女の持つ独特の雰囲気によるものなのかもしれない。

 彼女が着ているブレザーは僕の通っている学校で指定されているものであり、つまり僕と彼女は同じ高校に通っているはずだ。けれど他人に対する無頓着さに関しては自分でも呆れるほどに酷い自覚があって、その通りに彼女の顔をじっと見ても名前の一文字すら思い出せない。

「ごめん、誰かな」

「こちらこそ突然話しかけてごめんね。同じクラスの冬麻です。冬麻久々利」

 思い返してみればそんな名前のクラスメイトが居た、気もする。とはいえ、同じクラスの人間だという嘘を吐いたとしても金を借りれるわけでもないのだ。嘘を吐くメリットのなさから考えれば彼女の言っていることは真実なのだろう。

「話したことでもあったっけ」

「ううん、これが初めて。こんなところでクラスメイトを見かけると思わなかったからつい」

 それは僕の台詞でもあった。もうかなりの時間をこの屋上で浪費しているけれど、クラスメイトはおろか他の客すらまず見たことがないのだ。

 遅れて、僕は煙草の火を消して吸い殻を携帯灰皿に入れる。喫煙を隠すにはあまりにも遅すぎて、どちらかというと紫煙が苦手かどうかも分からない人の前でいつまでも煙草を吸うことに対しての抵抗感のようなものからの行動だった。

「どうして冬麻さんはこんなところに?」

「私は、練習のためかな」

 練習? 屋上で、それも廃れた遊園地の残骸が散らばっているような場所で何の練習を行うというのだろうか。微かに湧いた疑問は、しかし彼女の方からのクエスチョンで掻き消える。

「山名君こそ何をしてたの?」

「何もしていなかったさ。ただ、この場所が好きで意味もなくぼうっとしていただけだよ」

「……この場所が好きなんだ」

「現代じゃ喧騒から逃れられる場所なんていうのは限られている。人も機械も、あらゆるものが活動をしていない場所というのは幾ら小田舎とはいえこの街では希少だよ」

「確かにそうかも」

 彼女は冬のように笑って一歩、僕の方に近寄る。

「煙草」

「ん?」

「一本貰っても良い?」

「ああ、別に構わないけど」

 そう言いながら僕はポケットに入れていた箱から一本の煙草を取り出して彼女に渡す。髪は夜のように黒く、アクセサリーと言えるようなものは付けていない。どれほどまで短くすれば校則で咎められるようになるのかは知らないけれど、何の間違いがあっても校則に違反することのないような長さのスカート。なんとなく偏見として真面目な生徒なのだろうと思っていたけれど、どうやらそういうわけでもないらしい。

「火はあるか?」

「ごめん、ライターも貸して貰っていい?」

「ああ」

 他人に貸すにしては貧相なプラスチック製のライターを渡す。冬麻さんはライターを受け取るとそれを左の手に持って、そして煙草を右の手の人さし指と親指で摘んで火を点ける。当然のように遮るものがなく吹き付けた風はライターの火をすぐに消し、煙草に火は点かない。

 しかし、問題はそれではなかった。一度でも煙草を吸ったことがある人間であれば、そんな不器用な火の点け方はしない。

「吸ったことがないのか?」

「あはは、実はね」

 非喫煙者に、それも未成年に煙草を吸わせるのは躊躇う部分があったけれどその感情が煙草を吸っている自分に対する自己矛盾であることは知っていて、止めようかという逡巡を切り捨てる。

「ライター貸して、煙草を口に咥えて」

 僕がそう言うと冬麻さんは言った通りライターを僕に返し、煙草を口に咥える。

「手で風を遮って」

 彼女の両手が煙草を覆うようにして被さる。それは世界から最後の灯火を守るような姿に見えた。白磁のように美しい、僕のそれよりも一回り小さい手が、大事そうに煙草を隠す。僕はその合間を縫うようにしてライターを煙草に近付け、火を点ける。真っ白だった煙草の端に灰色が灯ると、煙が少しずつ立ち上り火が点いたことが分かる。

 冬麻さんが咳込んだ。初めて煙草を吸う人間からすれば誰もが通ることであるけれど、今回に関しては銘柄の悪さもあると思う。初めて吸う煙草としてセブンススターはタールが重すぎるのだ。

「吸い込み過ぎないように、口の中に含んだらすぐに吐き出した方が良い。最初のうちはそうしないとろくに吸えない」

 畏まって煙草の吸い方を同級生に教えるなんて、俯瞰して見てみれば酷く滑稽な状況だと思いながら伝える。少しずつ吸い方のコツを覚えたのか、ゆっくりと、ぷかぷかと煙を吐き出してから冬麻さんははにかんだ。その笑顔がいやに魅力的に見えて、少しだけ意識的に目を逸らす。

「慣れてるんだね、山名君は」

「自慢出来ることじゃないがな。全くもって、無駄な知識のひとつだよ」

「でもそのお陰で私は煙草を吸えた」

「そんなに吸いたかったのか?」

「一回くらいはね」

 それなら別に今僕に教わらなかったとしても、法律に抵触しない年齢になってからだって吸うことが出来ただろう。やはり、無駄な知識であることに変わりはない。人生なんて所詮、そんなものの堆積なのかもしれないけれど。

 冬麻さんは煙草を手に持ちながらフェンスに手をかけて街を見下ろす。先ほどまで僕が眺めていた、耐久性のあるつまらない風景。どこまでも変わらないような味気のない灰色。

 同じ風景を見ても、きっと僕と彼女では見える世界が違う。彼女には、この街がどう見えているのだろうか。何を思って、彼女はここに立っているのだろうか。僕は箱から一本、煙草を取り出して火を点ける。彼女自身が吸っているのだ、僕が吸ってもさしたる問題はないだろう。

 冬麻さんの持つ煙草の先から伸びた灰がふわりと風に舞い、そして重力に従い落ちて行った。

「あっ」

 彼女は短く、けれど鋭い声をあげてそれを見送る。灰がどこへ行ったかを確認するように、目いっぱい身体をフェンスから出して覗き込む。

「落ちるぞ」

「大丈夫だよ」

「起きた結果に考えや感情を挟む余地なんていうものはないだろ。漫画じゃないんだ、どんなに意気込んでいたって人は死ぬ時は死ぬ」

「……うん、そうだね」

 そう頷いて冬麻さんは身体を屋上の方へと戻した。落ちるとは思っていなかったけれど、それでも確かな安堵が心の底に現れたことを感じる。

 冬麻さんは再び煙草に口をつけて、それから小さく咳込んだ。吸い方を知ろうが初めのうちはそうなるもので、どうしてこんなものを吸い続けることになったのだろうかと思う。恐らく、大層な理由なんていうものはなくて、ただの安っぽい現実逃避のためだったのだろう。それ以上の理由なんて、あるはずもないか。

「ねえ、山名君。もし世界最後の日が来るとして、君は何をする?」

 あまりにも出し抜けに、脈絡もなく飛び出した質問に思わず冬麻さんの顔を見る。質問自体は、別におかしなものではない。よくあるくだらないもしもを想定する質問だ。けれど、今聞くべき質問なのかと問われれば違うように思える。何かの冗談かと思ったけれど、彼女はずっと変わらない表情で僕の方を見ていた。

 質問の意図は分からない。ただ、韜晦や諧謔で誤魔化すのも違う気がして、僕は出来る限り誠実にそのもしもを考える。世界最後の日に、何をするのか。

「……何もしない。何も、出来ないだろうな」

 一種の逃げにも思われるかもしれないけれど、これが僕なりに考えた誠実な答えだった。

 僕の中には何もない。狂おしいと言えるほどに好きな人も、ことも、何もない。突然世界最後の日だと言われたとしても、会いたい人も行きたい場所も成し遂げたいことも伝えたい気持ちも、何もなかった。

 自分の空っぽさに関しては嫌というほど自覚をしていたつもりだけれども、改めてその事実を反駁して突きつけられると虚しさと自己嫌悪がじくじくと内側から蝕む。分かりきっていたことのはずなのに、ああ、自分はどうしようもない人間なんだな、ということを再認識する。

「多分、いつも通り過ごして、それで終わるんだろうな。感慨らしい感慨を覚えることもなくさ」

 窓の外で起こる終末への不安や恐怖を横目に見ながら無感動にただその時を待っている自分が容易に想像することが出来て、嫌になる。死への恐怖くらいで良いから、せめて泣くことが出来ないだろうか。世界最後の日くらい、人間らしいことが、出来ないだろうか。

「君だったら何をするんだ?」

「私は、そうだね」

 冬麻さんは思案するように少しだけ沈黙を作ってから、ひと口だけ煙を吸った。今度は咳込むことなく、ゆっくりと、何かを噛み締めるように。

「山名君の逆かも」

「逆?」

「やりたいことが多すぎて困る」

「そりゃ、充実した人生だな」

 世界が終わる前にやりたいことが困るほどに多いのであれば、生きていることは楽しいだろう。無為な浪費の連続ではなくて、やりたいことをひとつずつこなしていけばそれだけで満ち足りた時間になるのだから。

「うん、だから大変だよ。もう時間がない」

「時間がないって、時間なら腐るほどあるだろ」

 この国の平均寿命から考えれば、嫌というほどに時間はある。空を飛びたいだとか、教科書に名前を残したいなんて言われてしまえばそれは無理だけれども、もっと小規模なやりたいことを為すには欠伸が出るくらいに、いつか飽きてしまうくらいに長い時間が。

 勿論平均寿命なんていう一般論が誰しもに通じるとは思えないけれど、それでもやりたいことを成し遂げるにしては人生という時間はあまりにも長すぎるように、僕は思えてしまうのだ。

 けれど、冬麻さんは「時間はないよ」と言った。

「もう、時間はないんだ」

 彼女は空を仰いだ。まるで何かが訪れるのを待っているかのように、じっと恐ろしいほどの青に見入っていた。

「一ヶ月後。十二月十六日。世界が終わる。私たちに残された時間は、もうそれだけしかないから」

 世界が終わる。それはあまりにも突飛で、陳腐で、馬鹿馬鹿しい話に思えた。終末論なんて、ノストラダムス以来もう流行っていない時代遅れのオカルトだ。今更そんなことを言われても、信じる人がどこにいるのだろうかというような妄言だ。

 けれど、それを言う冬麻さんの表情はその妄言とは反比例するように真剣なものに見えた。本気で世界が終わることを信じているような、けれどそれをどこか諦念混じりに認めているような、脆い寂しさを携えた表情だった。

「世界が終わるって、何かの比喩か?」

「比喩じゃないよ。本当に、世界が終わるの」

「終わるって、どうやって」

「悪魔が訪れて、世界をずたずたに引き裂く」

「悪魔ってな」

 大洪水が起こるとか巨大隕石が落ちてくるとかの方がまだ現実的だろうに、今時悪魔が世界を引き裂くなんて子供でも信じないようお伽噺だろう。少なくとも、高校生が大真面目な表情で話す内容じゃない。

「世界は終わらないだろ」

「どうしてそんなことが言えるの?」

「この世界が終わるくらいの大規模な何かがあれば、今頃科学者たちは大騒ぎしてるだろ。それを予見することが出来るくらいには今の科学は進歩している」

「既存の科学で説明のつかないような世界の終わりが訪れるのであれば、いかに優秀な科学者たちでも気付かないんじゃないかな」

 科学とは最も信仰されている宗教だ、という言葉を思い出す。あらゆる物事を科学で説明づけることなんて出来るはずもなくて、もっともらしい反論を捻り出せるわけがない。

「太陽が明日も昇る、というのは仮説に過ぎないんだよ。今までもそうだったから明日も昇るだろうという期待に過ぎない。私たちは、当たり前のように明日があることを前提として生きてるけど、もしかしたら明日なんていうものはなくて、来なくて、今日が終わった瞬間にぷっつりと何もかもが終わってしまうかもしれない」

「……それは思考の遊びに過ぎないだろ。この現実が蝶の見ている夢かもしれないと言うようなものだ。可能性として有り得ることは否定しないが、だからと言って常にそこまで疑いながら生きていれば何も出来なくなる」

「そうかな」

「そうだよ」

 あらゆるものに懐疑の目を向けた結果、自分という存在だけを信じた哲学者が居たけれど、彼は不幸だったのだろう。誰も、何も信じられない人生なんていうものは虚しいだけだ。独りよがりの果てにあるものは死だけで、いざ空漠と広がる黒を目の前にした時、きっとその人は後悔をする。後悔のない人生なんていうものが不可能だったとしても、世界すら信じることが出来なかった自分の人生の虚しさを、見つめることになるのだと思う。

 けれど、彼女の言葉は懐疑というよりもむしろその真逆である信じるという気持ちから出た言葉である気がした。世紀末に終末が訪れることを恐れた人々のような、不定形なものに対する不安定で歪な信仰。

「……大体、どうして十二月十六日に世界が終わるんだ。その理屈で言うなら、明日世界が終わるかもしれない」

「予言があったの」

 その言葉は短く、けれどこれ以上ないほどの威力を持った銃弾のような言葉だった。

「十二月の十六日。十五日が終わるとともに、世界も終わる。そういう予言」

「予言って――、馬鹿馬鹿しい」

「聞け。わたしは諸君に超人を教える。超人はこの稲妻だ、この狂気だ――」

「……ツァラトゥストラか?」

「うん。彼は、人間を超えた存在だった。人間では手の届かない真理を人間に伝えるために山から下りて、その教えを伝えようとした。けれど、彼を迎えたのは憧憬や尊敬ではなく嘲笑だった」

 彼女の言う通りだ。ツァラトゥストラは、山から下りまず嘲笑を受けた。彼の吐血にも似た熱弁は道化の前座だと一蹴された。真理は、人間には届かなかった。けれど、それはニーチェの著したフィクションの中においての設定に過ぎない。ツァラトゥストラの言っていることには間違っていることもあり、その全てが真理というわけではない。戯言を紡ぐ狂人として扱われるのもひとつの必然だ。

「地球が太陽の周りを廻っていると言った人は、かつて処刑された。新たな事実は大抵の場合そうすんなりと受け入れられない。既存の価値観を破壊してこそ、生まれるものじゃない?」

 間違っていることではない。理屈としては、納得することが出来る。ただ、言葉に出来ない違和感が胸の中で疼いて仕方がない。見逃すことの出来ない違和を、けれど言うことが出来ないもどかしさが自らに軽い苛立ちを突き立てる。

「常識から一歩踏み外せば天才で、二歩踏み外せばきちがいで。その一歩に大きな差異はないんじゃないかな。それに、君も言ってたでしょ」

「……何をだ?」

「起きた結果に考えや感情は挟めないって。信じるとか信じないとか、そういうのは関係なくて、どれだけ奇妙なものに聞こえても予言はただ存在しているんだよ。そして、世界は終わる」

 はは、と乾いた笑いを零しそうになった。澱みのない論理の展開、相手の使っていた言葉をそのまま返すことで反論をすれば自家撞着に陥らせる会話運び。それが善いものであれ、悪いものであれ、鮮やかな技術というものは人を感動させる。今の僕は、そのような状態だった。

「さっきの質問は世界が終わる前にやりたいことをやっておけっていう意味だったのか?」

「うん。物事において決着がつくことなんていうのは稀だけど、それでも何かをすることは出来るだろうし何かをしようとしたことに意味があると思うから」

 陰謀論じみた「予言」を根差している割に彼女の言葉はどこか軽やかで、個人的な好感を持つことが出来た。それがいかなるかたちのものであれ、確かな芯と強さを持って生きるということはそう出来ることではなくて、その強かさに何も持っていない僕は憧れただけなのかもしれないけれど。

「でも」と冬麻さんは笑った。

「多分、君は大丈夫」

「世界が終わるのに?」

「私が止めるから」

「世界の終わりを?」

「うん」

 どこまでも空想的で馬鹿馬鹿しい話を素面で展開することが出来るのは尊敬が出来ることだった。皮肉ではなく、本当に。どうしたって僕には彼女のように語ることが出来ない。それが幸福なことなのか、不幸なことなのかは分からないけれど。

「それは、すごいな」

「……別に、すごいことじゃないよ。単なる偶然」

「偶然でもすごいだろう、世界の終わりを止めることが出来るなんて」

「あはは、そうかな。そうだと嬉しいけど」

「ああ、そうだよ。頼りにしてる」

 なんてことのない冗談の応酬の一節。けれど、そのなんとなくの言葉が彼女にとってどういう意味を持つのかを理解することが出来たのは、もう取り返しがつかなくなった時だった。だから「……分かった」という彼女の微かな頷きの中にどれほどのものが隠れているのかを僕は覗き込もうとも思えなかった。

 いつの間にか、彼女の持っていた煙草はフィルターのギリギリまで短くなっていて、とても吸えるようなものではない。

「吸い殻、受け取るよ」と言って携帯灰皿を差し出すと「ありがとう」と言って冬麻さんはそれに限りなく短くなったセブンスターを入れる。

 彼女の表情は、ごく普通の、ありふれた女子高生と変わらないように見えた。一か月後の終末を信じる恐慌や狂信も、世界の終わりを食い止める英雄としての矜持もない、なんてことのない表情に。そのアンビバレンスな雰囲気にどこか死体のように危うい魅力があるように感じてしまう。突拍子もない終末論や自らを救世主とでも言いたげな話を信じるつもりはない。ただ、脈絡もなく電波な話を始めた同級生という記号的な切り取り方をしただけで得られる印象とは違う印象を、僕は冬麻さんに対して覚えたのだ。

「君は、困るほどあるやりたいことをやりきれそうなのか?」

「多分、無理だと思う。時間がないし、どうしたって出来ないことが多すぎるから」

「救世主にしては報われないな」

「そういうものだよ。何か特別な立場にあるからといって、特別なことを為すからといって、その見返りがあるとは限らない。努力は実を結ばないことが殆どでしょ?」

「言えてるな」

 どうにもならないというようなことが世の中には存在している。どれだけ足掻いても、手を伸ばしても、徒労でしか終わらない種類の物事は、多すぎると言えるほどなのかもしれない。そういう時は、諦めるしかないのだ。足掻いても虚しくなるだけだから。手を伸ばしても虚しさが増すだけだから。

「でも山名君のお陰で今日はひとつ消化することが出来たから」

「何かしたつもりはないけど」

「喫煙」

「ああ、そんなことも入ってるのか」

「どれだけくだらないことでも、いざもう後がないってなると案外惜しくなるものなんだよ」

 確かに、そういうものなのかもしれない。どれほどくだらないように思えることでも、状況が変わればそれは大きな意味を持つ。それが最後であるのであれば尚更に。

「しかしそれなら本当にキリがないな」

「だから困ってるの」

 彼女は愚痴を零すように本当に困っていそうな顔で呟いた。改めて、ああ、本当にこの人は世界の終わりを信じているんだな、と思う。冗談や嘘ではなく世界が終わって自分がそれを救うんだと、それこそ僕たちが明日を信じるように自然に、彼女は信じているのだ。

「悪魔が世界をずたずたに、ね」

「馬鹿馬鹿しい話だと思う?」

「どうでもいい話だと思うよ」

「どうでもいいってことはないんじゃない?」

「いや、本当にどうでもいいんだ。言っただろ、世界が終わるとしてもやりたいことは特にないって。つまり僕は、世界に対する愛着みたいなものがそれほどないんだよ。それに、僕にはどうしようもないんだろ? だったら、はいそうですかと受け入れて諦めるしかない」

「……でも死ぬのは嫌でしょ」

「それに関しては頷くよ。死にたがりじゃないんだ、どちらかと言えば生きたい。でも、所詮どちらかと言えばの範疇だ。生きる実感も死に対する生きた感触も知らない以上、遺伝子が本能的に覚える恐れに従っているだけであって、本当の死にたくないみたいな感情とは違う気がするんだよ」

 いざ世界が終わるとして、いや、もっと小規模にいざ銃を突きつけられるとしてでも崖から落ちるとしてでもいい。つまり、死を目前にした時。僕はそれに対して抗うことが出来ないような気がする。死にたくはないけれど、生きようとするためのエネルギーもない。決定的で絶対的に、何かの部品が欠けているような感覚が、ずっとしている。

「強がり」

「そうなんだろうな」

 実際、僕は死にかけた経験なんてない。本当に死にかけた時、生が断絶しようとした時、どれだけ醜くてもみっともなくても生きようと縋るのかもしれない。

 吸っていた煙草が不味くなるくらいに短くなったところで火を携帯灰皿に押し付けて消し、そのまま中に捨てた。誰かと同じ場所に居る時、煙草は当てのない沈黙のやり場としてよく機能をしてくれる。その煙草も、それから話すようなこともなくした僕たちは茫漠とした空と退屈な街並みをずっと、眺めていた。

「じゃあ、私行くね」

 何の契機もなく、冬麻さんはそれだけを言って身を翻した。さよならもまたねもない、打ち切るような別れ方。僕にしてもそれらの言葉を慇懃に、あるいは儀礼的に言うのはどうにも気持ちが悪い気がして何も言わずにその背中を見送る。残ったのはあまりにも呆気ない、出会いなんてなかったのではないかのような空白。けれど、そのくらいの温度感が僕たちみたいな人間には丁度良いのかもしれない。

 煙草を一本取り出そうとして、辞める。それから冬麻さんをなぞるように彼女が立っていた場所に立ち、街を見下ろす。何も変わらない、ただの街の風景。結局、彼女は何がしたかったのだろうか。練習のためと言っていたけれどしたことは煙草を吸ったこととここから街を見下ろしたことくらいで、前者に関しては僕が偶然居たから行ったことに過ぎない。

 世界が終わるなんてことを言っていた人間だ。そもそもここに来たことに意味なんてなくて、適当に意味がありそうな言葉を並べて僕を揶揄っていたのかもしれない。その可能性は、確かに思考を忘却することが出来て楽だった。けれど、深く考えることすらなく分からないものを分からないものとして括ってしまうのはある種の暴力のようにも思えて立ち止まる。立ち止まるけれど、だからといって分かるわけではないが。

 どれほどの時間だろうか、何も見つからないことを意味もなく確認し続けてから僕は身を翻して屋上を出ることにする。今まで誰も訪れることのない、独りだけの場所だった屋上に現れた同級生。彼女の語る終末。意味もなく当てもなく揺蕩うように時間を浪費するために来ていたはずなのに、煩雑な情報が多すぎる。いつもとは違う屋上に紛れ込んでしまったのではないかと思い、振り返ってもそこにあるのは変わらず世界から見放された古びた残骸だけだった。

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