傾国の判事

十二月

序章 Alea jacta est.

 大陸暦1860年3月2日、晴れ。


 東方の伝統的大国・ヴィーチェ帝国を東西に結ぶ大陸横断鉄道の一等客車に、アンゼリカ・フランセルは揺られていた。父であり、法務卿も務めた名判事(裁判官)フランセル侯爵の使者として、彼女は、帝都ラブルンスクに向かう途上であった。


――この辺は地元とあまり変わらないな。


 車窓から郊外ののどかな田園風景を眺め、アンゼリカはため息をつく。16歳になったばかりで、古郷から200キロも離れた帝都へのはじめてのおつかいである。緊張するなというほうが無理であろう。……しかも、不安の種はそれだけではない。


 ふと、膝の上に置いた一葉の手紙に視線を移す。帝国の印璽が捺された封蝋を外し、封筒を開けて中からコレを取り出したのが2か月前。それから現在に至るまでに、彼女は何度もその文面を読み返しては、こみ上げる感情を抑え、精神的に疲弊するのを繰り返していた。


 もし帝都で”あの人”に会うことができれば、8年ぶりの再会になる。幼少期にはともにフランセル侯爵領で育ち、年齢も社会的地位も近かったことからすぐに仲良くなったものの、”あの人”との別れは突然だった。誰もが羨む高貴な身分は、その身の居場所さえ自由に決めることができず、ノブレス・オブリージュの精神のようなもので簡単に連れ去られていった。それからというもの、アンゼリカはただ行き場所を失った淡い気持ちを胸に秘めて、今日までぼんやりと生きてきたのであった。


「お客様、間もなく終点ラブルンスク中央停車場に到着します。降車のご準備をお願いします」


 鉄道の走行音に紛れてアンゼリカの客室の扉が三回ノックされ、車掌にそう告げられた。気が付くと、車窓からの景色は徐々に、どこまでも続く小麦畑のそれから、背の高い建物でいっぱいの市街地の風景へと変化していた。


 手許の手紙を仕舞うため、傍に置かれた旅行鞄を開いた彼女の体は、自然と窓に背を向ける形になる。その刹那――。


 彼女のものとは異なる大きな影が、視界に映り込んだ。何者かが、客車の真上から勢いよくダイブし、閉じられていた客室のギロチン窓に張り付いて無理やりこじあけ、そのまま逆さ吊りの状態で侵入してきたのだ。侵入者は、客室の床に着地しないうちから、携帯していた刃物を瞬時に取り出し、アンゼリカの首筋めがけて大きく振るう。それに気付いて振り返った頃には、彼女の首は既にその胴体から切り離されていた。


 宙を舞う首。限りなく死に近く朦朧とした彼女の青い瞳にも、侵入者の姿が薄ぼんやりと映し出されていた。アンゼリカと同じくらいの背丈、同じくらいの年齢の女の子だろうか。顔は逆光でよく見えないが、影の中でも色鮮やかに輝く相手の瞳は、これまでアンゼリカが出会った他の誰よりも綺麗な”青”だった。自由落下の最中、彼女はその瞳に引き込まれ、半ば放心状態だった。


 数秒もたたないうちに、アンゼリカの頭部は床に打ち付けられる。これにて、客室は侵入者の支配下となった。侵入者は、まずアンゼリカの旅行鞄を物色し、彼女の身分証明書を発見するとそれを懐中に納めた。血飛沫に塗れた他の遺品には大した関心を示さなかったが、胴体が最期に指に挟んでいたあの手紙に気づくやいなや、抜き取り文面を目で追い始めた。


――やめて!読まないで!


 もちろんアンゼリカの想いが伝わるはずもなく、読了した侵入者はニヤリと口角を上げた。ちょうどその頃、列車はラブルンスク中央停車場に到着したため、完全に停止する。侵入者は立ち上がって扉を開け、まるで何事もなかったかのように客室を後にした。


 アンゼリカ・フランセルの意識は、ここで途絶えている。

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