ワイパー

@kujira_23

雨なんて降って欲しくない

 雨が降ると、あの人ことを思い出す。あの日、彼は私の部屋に来るなり、「プレゼント」と言って微笑み、妙に細長い箱を3つ手渡した。「なに、これ?」と言うと、彼は「ワイパー」と言ってウインクした。

 その日は誕生日でも記念日でもなんでもなかったし、私はちょっと面食らった顔をして、あっあーと変な返事をしてしまった。だって、今までワイパーをプレゼントしてくれた人なんていなかったから。とっさのことで、ありがとうって言えなかったことを今でも悔やんでる。

「自分で交換できる?」って聞かれた。そんなことしたことないから、んーんと首を横にふった。彼は私の手から箱を奪って玄関を出た。

 後ろのワイパーが使い古した歯ブラシのようにボロボロになってた。知ってたのかな?私も慌てて駐車場に降りた。

「前に交換の仕方を教えてもらった気がするけど、よく分からない。いつもお店任せだし」と私は声をかけた。そんなもんだよ、と彼は振り向かないで笑った。

 手際のよい作業で、ワイパーの交換は数分で終わってしまった。残念。私はなんだか、彼が車をいじる姿を永遠に眺めていたい気分だった。

「ワイパー交換できるって、なんかいい感じじゃない?」と彼が微笑んだ。うん、そうかも。なぜか体の芯からじわーっと暖かくなった。

 それから、部屋に戻って、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、歯磨きして、エッチした。ありふれた営み。さっきのワイパー交換、ありふれた日常に挿入されたなにかのよう。ご褒美とも違うし、なんだろ?

 彼が突然、正座をして、私の目を見詰めた。急にそんなことをされて、私はうろたえぎみに、「ど、どしたの?」と言うのが精一杯だった。

 ありふれた日常に終止符を打つ言葉。私は彼の言葉がよく聞き取れなかった。いや、感情が思いだすことを拒んでるのかもしれない。ごめん、とか、もう会えない、とか、そんな言葉だったと思う。突然の、想定外のことに、私は混乱して、訳も分からず涙を流すことしかできなかった。

 なにも言えなかった。別れたいって言うから、ただ頷くしかなかった。


 あれから半年。雨が降るたびに彼の顔を、車をいじる姿を思いだす。それは彼の置き土産なのか、呪いなのか分からない。思い出とは違うなにか。

 あの出来事のあと、彼は都会に出たと聞いた。なにかしたいことでもあったのかな。地方暮らしに飽きたのかな。なぜ私に理由を言ってくれなかったんだろう。都会で一緒に暮らしてもよかったのに。

 自分勝手な奴。

 雨。エンジンをスタートして、ワイパーをかける。体の芯からじわーっと暖かくなる。

 半年ぶりに摩弓からLINEが入った。しゃぶしゃぶが食べたいって。失恋か。摩弓は失恋すると食欲が増すようで、そのたびに私を食べ放題に誘う。前回はたしか焼肉だったな。

 週末、私たちは駅前で待ち合わせをして、食べ放題のしゃぶしゃぶ屋に入った。コロナの影響か、19時なのに席は半分くらいしか埋まってなかった。

 席につきマスクを外し、パッドのメニューを物色した。

「今日はさ、私が誘ったんだし、奢ってあげるから、遠慮しないで食べて」と摩弓が笑顔で言った。「なにも聞かないで。察しの通りだから。一番高い牛肉、頼んじゃおっか。なに飲む?ハイボールでいいよね」と一方的にまくし立てながら、メニューをとんとんクリックする。

 あなたのぶんも作ってあげるからと、摩弓は立ち上がってアルコールのコーナーへ向かった。

「私のぶんは薄くしてね」って背中に向かって声をかけると、摩弓は大きくお尻を振った。フレアースカートが可愛げに揺れた。

 イエス、なのか、ノー、なのかは飲んでみないと分からない。ジョッキを2つ、肘を大袈裟に張りながら戻ってくる。

「はい、こっちが多佳子のスーパーストロング」と笑いながら、どんとテーブルに置いた。

 カンパーイと摩弓がジョッキをぶつけてきた。私も小声でカンパイと言った。

 私は恐る恐るジョッキに唇を近づけた。アルコールのキツい匂いはしないから、リクエスト通りに作ってくれたのだろうか。摩弓がこっちを見て微笑んでる。私はジョッキに唇をつけて、ゆっくりと傾けた。濃くはなかった。

「なーにビビってんのよ」と摩弓がジョッキを上げたまま笑った。「あんたが強くないことくらい知ってるわよ。何年付き合ってるの」

 摩弓はそのまま半分ほどハイボールを飲み込み、ぷはーっと音を立てた。

「だって、今日の摩弓って、なんか勢いがあるっていうか」私は二くち飲んでジョッキをテーブルに置いた。口紅がジョッキに付かないか気になったけど、大丈夫だった。

「あらあら、ビビらせちゃってごめんなさいね」一瞬うつむき、それから顔を上げた。「だってさー、飲まなきゃやってられないわよ」というと、残りのハイボールを一気に流し込んだ。

「ちょっとちょっと、そんなことして大丈夫?もう若くないんだから」

「若くないってなによ?私が若くないからなんだっていうのよ」と真顔で言った。

「そういう意味じゃなくて」と私は言い訳のような抗議のような口調で言った。

 陽子は笑顔になると、ごめんごめんと言ってジョッキを片手に席を立った。「注いでくるわ。薄めにしとく」と言い、スカートを揺らしながらアルコールコーナーへいった。

 今回の失恋、そんなに効いてるのかな。私はなんだか落ち着かない気分になり、野菜を取ろうと席を立った。美味しそうな野菜たち。お皿に白菜と大根とキノコと水菜を乗せた。それからタレを運ばなければ。色んな種類のタレがあるけど、とりあえず普通にポン酢とゴマでいいでしょう。

「遅かったじゃない。寂しかったよ」と摩弓がジョッキを片手に言った。

「なに言ってるのよ。もしかして情緒不安定?」

「そう。今夜の私はヤバいかも」そう言って大げさに頬を上げた。

「不自然な顔だよ」

「どーぜあたしゃ不細工ですから」

「今日はやけに突っかかるね」

「どっかにいい男いないかなー」摩弓はスマホを取り出すと、マッチングアプリを立ち上げた。「みてみて、アプリ始めてみたの。なんかさー、アプリのなかにはこんなにたくさん男がいるのに、どして私のまわりにはいないのかしら」

私はあえて摩弓の事情には触れなかった。

 スタッフがお肉を運んできた。この店では最上級の和牛だ。

「とりあえず食べよ」そう言って摩弓は鍋の中にお肉を全部入れてしまった。

「固くなっちゃうから一枚ずつ入れようよ」

「なーに固いこと言ってんの。胃の中に入れば同じだよ。野菜も入れちゃって」

 私はあまり食欲がなかったから、箸で肉を突いてみては野菜だけ拾ってタレにつけた。摩弓は色が変わるとすぐに牛肉を拾い、ポン酢とゴマを交互につけて美味しそうに食べていた。

「なに多佳子、食欲ないの?」

「いや、そういう訳じゃ」

「じゃあどういう訳で肉を突いてばかりいるの?」

「いや、熱いかなって思って」

「あれ、猫舌だっけ?そうだっけ」と言うと、また肉をすくい上げた。

「ほら、今日は摩弓にたくさん食べてもらう日だからね」

 私は困り顔で微笑んだ。

「まっいいわ。自分のペースで食べて」

 そう言われてほっとした。でも、まるっきり食べないのも摩弓に悪いから、ちょっとずつお肉を拾ってくちに運んだ。

 私がお肉のおひつを一つ食べる間に、摩弓は四つくらい食べてる。すごい食欲だ。それなのに全然太ってない摩弓が羨ましい。私なんてちょっと油断するとぜんぶ贅肉になっちゃう。

 結局、摩弓はお肉のおひつを八つ平らげた。

「満足満足。デザートデザート」と言うと、摩弓は席を立った。

 食べ過ぎた。内臓が絞られているように感じて、冷や汗がでてきた。私は失恋すると食べられなくなるのだ。なのに今日は無理して食べてしまった。動悸を感じる。私は目をつむり、鼻から大きく息を吸い込んだ。吐き気がする。顎を上げて背もたれに寄りかかり、そのまま目をつむっていた。

「多佳子、どしたの?大丈夫」

 薄目を開けると、摩弓がソフトクリームを二つ持ったまま私の顔を覗き込んでいた。

「んーん、大丈夫。ちょっと飲みすぎちゃったみたい」

「トイレいったほうがいいんじゃない」

「ありがと。ほんと、大丈夫だから。悪いけど私のぶんのソフトクリーム食べてくれる」

「仕方ないなあ」摩弓はそう言って席につくと、二つのソフトクリームを交互に突き始めた。

 私は摩弓が黙々とソフトクリームを食べる姿を見ていた。そしたらなぜか少しずつ楽になってきた。

「ごめんね摩弓」

「いいのよ、気にしないで。私は肉をたくさん食べて満足だから」

 気分が戻ってきたので、私は座りなおした。なるべく頬を上げるようにして、摩弓がソフトクリームを食べる姿を見守った。

「あんたのとこ、どうなの?」摩弓が言った。

「えっ?」私はふいに聞かれて、くちを開けないでいた。なにかの宣告のような残酷な響き。

「ごめん、悪いこと聞いちゃった?」

 私は答えられないでいた。タカオは私のもとを離れて都会へと出ていった。私はまだ心の整理がついていなかった。

「多佳子、大丈夫?」

 ぎりぎりのバランスで支えられていたつっかえ棒が外れたように、目から涙があふれてきた。

 摩弓は慌ててハンカチを出すと、私の目にあてた。

「なーんだ、そうなんだ。あたしだけじゃなかったんだね」そう言うと摩弓も目じりから涙を落した。無理に笑顔を作りながら、大粒の涙を流して指ですくっていた。

 私はバックからハンカチを取り出し摩弓に渡した。

「なんだか取り換えっこみたいだね」と摩弓が泣きながら笑った。

 私もつられて泣きながら笑顔になった。

「もう大丈夫だよ。トイレ行ってくる」私はそう言って席を立った。

 鏡を見た。涙の跡がめちゃくちゃに広がり、情けない顔だった。ハンカチを濡らして顔を拭いた。それから軽く化粧を整えて席に戻った。

「あたしも直してくる」と言って摩弓が席を立った。

 スマホを見た。タカオからのメッセージはなかった。来る筈のないメッセージ。もう終わったのに、なかなか気持ちを切り替えれないでいた。

 摩弓が戻ってきた。なんかキラキラしてる。バッチリ化粧直ししてきたみたい。

「摩弓、ありがと」

「な、なによ、急に」

「んーん、私、馬鹿だなって」

「知ってるよ。今日は私たち二人が生まれ変わる会」

「なんだ、知ってたの?」

「知ってるわよー。小さい町だもん。水くさいなぁ」

「私ね、まだ信じられないんだ」

「いいよ、信じなくても。思い出のなかに閉じこもってればいいじゃん。それもアリかもよ」そう言って摩弓は斜めから視線を投げつけた。

「んーん、ふっ切れたよ。摩弓のおかげ」

 摩弓が一緒に泣いてくれなかったら、いつまでも幻影という殻を破れなかったかもしれない。

「そうなの?一緒にマッチングアプリする?」

「私は止めとくよ。怖いもん」

「なーに言ってんの。いまどきアプリなんて普通だよ。アケミのこと覚えてる?彼女、アプリで知り合って結婚したってよ」

「えー、そうなんだ。意外」

「だからさ、一緒に新しい恋に向かって走り出そうよ。私たちもいい年なんだし、手遅れにならないようにさ」

「もう手遅れじゃない?」

「なに言ってるの。私たちの青春はこれからだよー」

「うん、そうだね。もう一件いこっか」

「そうこなくっちゃ」

 外に出ると雨が降っていた。もう大丈夫。ワイパーを見ても悲しみは襲ってこなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワイパー @kujira_23

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る