泥中

斯波

泥中

 アベラ=カサンドラには嫌いな男がいる。

 男爵令嬢という立場を、そして婚約者という立場を忘れて思い切り顔を歪めてしまうほどに嫌いな男が。


「アベラ。遠駆けに行こう!」

「嫌です」

「なぜだ?」

「昨日も一昨日も一昨昨日もその前も! 雨が降った日と予定が入った日以外ずっとそればっかり! そろそろ別のことがしたいんです!」

「だがアベラが庭で鍛錬しているのを見て過ごすのは暇だから、どこかへ連れて行けと言ったんじゃないか」

「出かけた先でも鍛錬、鍛錬。そんなんだから脳みそまで筋肉なんですよ!」


 アベラはウォレス=ポルタルが嫌いだ。

 自分勝手で、常に鍛えることしか考えていない婚約者が嫌いだ。常々、彼の脳みそまで筋肉に支配され、思考が凝り固まっているのではないかと思っている。


 なにせかれこれ三年近くほぼ毎日きまって朝六時にカサンドラ家を訪れて、アベラの肩を揺さぶるのだから。しかもアベラの拒絶などろくに聞き入れた試しがない。お前の頭と耳は飾りかと突っ込みたくなるほど右から左に流されてしまうのだ。


 たまに行き先が変わるのは彼なりの気遣いかもしれない。

 けれどアベラはそもそも毎日馬に乗って出かけること自体を嫌っているのだ。


 第一、数ヶ月後に夜会デビューが控えている令嬢が毎日自ら馬に跨がって出かけるなんて普通じゃない。


 アベラもおかしなことをしていると理解しているからこそ、お口にチャックを縫い付けていたというのに、最近では彼女が馬に乗るということがバレてしまったらしい。大方、乗馬姿のアベラを見かけた令嬢が噂を流したのだろう。

 気付いた時には乗馬趣味のある変わったご令嬢として認識されてしまっていた。


 事情も知らないくせに……。

 だが躍起になって否定をしても無駄なのだ。貴族社会とはそういうものだ。それを嫌というほど理解しているアベラは唇から血がにじむほどの悔しさを覚えた。


 ウォレスの前に乗せてもらえばまだ『普通の令嬢らしさ』というものを保てるのかもしれない。だがそもそもウォレスが普通の貴族令息ではないのだ。




 アベラがウォレスの婚約者になったのは六歳の頃だ。

 この頃はまだ二歳年上の彼は今よりもずっと頭が柔らかかった。いつも祖父からもらったのだという模擬剣を持っていたものの、婚約者よりも鍛錬を優先するようなことはなかった。


 婚約を結んでまもなくはお茶をしながらなんてことない話をし、ピクニックにだって行った。作ってくれた花冠はボロボロで、花びらのほとんどが作成途中に散ってしまった。けれど彼が自分のために作ってくれたという事実が嬉しくて、アベラは家に帰ってから両親はもちろん、メイド達にも自慢して回ったほど。



 けれどそんな日々も長くは持たなかった。

 一年と少しが経過したころだろうか、彼は鍛錬に没頭するようになった。

 いっそ婚約者であるアベラのことを放っておいてくれれば良かったのだが、義務感からか、婚約者を切り捨てることはなかった。アベラをポルタル家に招くか、カサンドラ家に来るかして鍛錬をするようになったのだ。


 そんな彼をもう五年近く優しい人だと勘違いしていた。

 けれど十二歳の誕生日。

 神様から与えられた『前世の記憶』という名の贈り物を開封したことで目が覚めた。前世の記憶の一部に『ウォレス=ポルタル』に関するものがあったのだ。



『私の推しはウォレス=ポルタル! 鍛錬と剣が命の脳筋キャラなんだけど、シナリオを進めていくと本当に主人公に一途で、わんこっぽさがいいのよね~』



 そう熱く語ったのは、前世の親友だった。脳筋とわんこ系がツボな親友はウォレスが攻略対象として登場するゲームを心から愛していた。乙女ゲームに興味がなかった前世のアベラに無理矢理押しつけ、感想を聞かせてほしいと約束を取り付けるほどに。


 これといった予定もなかったので、とりあえず全ルートを回った。そして何と話せばいいのかと頭を抱えた。


 ほぼ全てのルートに共感出来なかったのだ。

 そもそも婚約者のいる男が他の女の子とデートをする仲になることが受け入れられなかった。悪役ポジションにいる、王子様の婚約者に些か同情してしまったほどだ。


 確かに虐めは良くない。

 平民相手だから。公爵令嬢だから。

 そんな理由で誰かを傷つけてもいいとは思わない。

 だがろくに婚約者の話も聞かずに他の女の子と仲を深めて、その相手に危害を加えたと罪を告げる男もどうかと思うのだ。



 夏休みでなければ速攻で友人に『この王子は頭沸いてるの?』とゲーム片手に詰め寄ったことだろう。だが残念ながら夏休み期間中、それも友人は塾の夏季合宿に参加中である。勢いでメッセージ欄に入力した文字を全て消し、せめて親友の推しだけでも良いところを探さねばと努力した。



 努力『は』した。

 けれど、心から愛する女性を見つけたからと婚約者に向かって『君のことは大切に思っている。だが一人の女性としてではなく、妹として』なんて暴言吐くような男を好きになることなど出来なかった。

 さらにいえば捨てられたくせに彼に幸せになって欲しいから、と長年の恋心を押し込めて婚約解消を受け入れるアベラとセットで拒絶反応が出るほどだ。


 そして最終手段・インターネットで他の人の感想を見るという方法でなんとか乗り切ろうとした彼女は酷い頭痛に襲われ、そのまま生涯を終えた。


 記憶を取り戻した時点ですでにアベラはウォレスに惚れていたが、なにせ前世の記憶ではウォレスの好感度は最悪。悪役令嬢を断罪する王子に次いで二番目に嫌いなキャラだったのだ。


 一気に好感度が最低値に落ちた男を、なぜ今まで好きでいられたのかさえも一夜で忘れてしまった。


 そしてウォレスと少しでも距離をおくため、放っておいてくれて構わないと遠回しに告げた結果、遠駆けに連れて行かれるようになった。


 それが二年前。

 初めて一緒に馬に乗ろうと誘ってきた彼はアベラを自らの前に座らせーー爆走した。彼の馬が大人しいタイプではなかったというのもあるだろう。


 けれど一番の原因はウォレス本人が一切婚約者の存在を考慮しなかったことにある。

 胸と馬の間で押しつぶされながら半刻以上揺さぶられ続けたアベラは胃の内容物を盛大に吐き出した。


 汚いなんて感想すら湧くことはない。

 ただ口元までせり上がったそれを外に出すことで精一杯だった。喉に残った酸っぱさを押し流そうにも使用人ははるか後方。ウォレスの爆走に付いてこられなかったのだ。

 行き先だけは伝わっていたのか、遅れてやってきた使用人からお茶をもらうまで四半刻。その間にも口に残った胃液で吐き気を催し、何度も吐き出していた。


 こうして最悪な思い出となった婚約者との遠駆けだが、アベラの最悪な思い出はこれで終わりではなかった。むしろこの日はただの幕開けでしかなかった。


 一度アベラを乗せて遠くに出かけたウォレスは、彼女が文句を言わなかったことを『彼女を連れて行けば遠くに出かけてもいいのだ』と、自分に都合の良い解釈をしたのである。

 相手が出かけ先でずっと真っ青な顔で背中を丸めていたことなど無視である。


 それから毎日六時にカサンドラ家に馬を連れて来るようになったのだ。

 もちろんアベラは抵抗した。部屋に立てこもり、ウォレスが諦めて帰るのを待った。

 けれどあろうことか彼は木を伝って窓から侵入を計ったのだ。行こうと爽やかな脳筋スマイルを浮かべる彼から逃げ、布団の中で丸まれば布団ごと外に運び込まれる。そしてそのまま馬に乗せられ、遠駆けへ連れて行かれるのだ。


 そんなことが一ヶ月毎日続いた。もちろんアベラは向かった先で真っ青な顔をしていた。

 文句を言っても夕方まで帰してもらえず、馬に乗っている途中に気を失ったことも一度や二度ではない。


 そんな生活に耐えかねたアベラは「このままでは精神がおかしくなる!」と、婚約を解消してほしいと父に訴えた。


 けれどダメだった。

 カサンドラ家はポルタル家よりも格下。こちらから断ることなど出来なかった。

 さらに言えばウォレスの祖父、ガイアス=ポルタルは剣聖と呼ばれており、国中の人気者なのだ。彼の孫との婚約を解消すれば嫁のもらい手がなくなると父は首を振った。

 実際はただ単純に父がガイアスのファンなだけなのだが、爵位の問題を持ち出されれば、アベラは強く出ることは出来なかった。


 代わりにと、父はアベラ専用の馬を与えてくれた。


「前に乗せられるのが嫌なら自分で乗れるようになればいい」

 そう言って父が連れてきたのは真っ黒な毛並みをした馬だった。筋肉質で大柄。明らかに幼い令嬢が乗るような馬ではない。ウォレスと共に長距離を走ることを想定した上で選ばれたのだろう。


 馬を前に頬を引きつらせたアベラだったが、気に入らなかったのは馬も同じらしい。

 アベラが近づくやいなや思い切りフンっと鼻を鳴らした。馬の言葉は分からないが、馬鹿にされたことだけは分かった。


「せめて他の馬に変えてください」

「だが毎日三刻以上全力で走れてすぐ引き取れる馬となると彼くらいしかいなくてな……」

「性格に問題があるから余ってただけでしょう!」

「まぁそのうち慣れるさ」

「仲良くなれる気がしないわ!」

「アベラ」

「な、なんですか」

「何事もやる前から諦めるのはよくないぞ」

 アベラの両肩に手を置き、決め顔をした父だったが、彼も当然のように性格の悪い黒馬から嫌われていた。



 そして翌日、父が連れてきた乗馬の先生、レディアによる一ヶ月の猛特訓がスタートした。


 ろくに馬に乗ったことのないアベラにとって過酷な日々だった。

 正直、体力とスピードはなくとも乗りやすい馬を何頭か連れてきた方がいいのではないかと提案しようとしたことも一度や二度ではない。


 だがその度に鼻で嗤う馬にむかつき、そしてなんとしても背中に乗ってみせると躍起になった。


 そして三週間目にようやく彼の背中に跨がることが出来た。

 その間、ウォレスが一度もアベラを無理に馬に乗せて遠駆けに出かけなかったことだけが救いだった。代わりにカサンドラ家の庭の端っこで朝六時から夕方の六時までほぼぶっ通しで剣をふるっていたのだが。休むのは昼食時のみというストイックぶり。ほぼ言葉を発さない彼に恐怖すら抱いたが、それでも胃の中をシェイキングされる日々に比べたらずっとマシ。


 なんとか残りの一週間で黒馬ーー竹炭丸を乗りこなせるようになった。

 そしてアベラが乗馬練習を始めてから丸一月が経った日、再びウォレスは馬を連れてくるようになった。


「早く出かけよう」

 ウォレスはこの一ヶ月何事もなかったかのように爽やかな笑みを向けた。

 そして一ヶ月ぶりの遠駆けで何か話す訳でもなく、花畑に到着するや否や剣の素振りを始めた。初めて健康な状態で馬から降りたアベラは、その日、一日中彼の背中を眺め続けた。



 そして初めてウォレスと一緒にいる時間を暇だと思った。


 前世の記憶が戻るまでは一緒にいられるだけで幸せだった。

 記憶を取り戻してからはどうやってこの男と婚約を解消しようかと考えるか、ひたすら吐き気を耐えていた。暇な時間を噛みしめる余裕などなかったとも言える。


 けれどアベラ側からは婚約解消が出来ないと分かってしまった以上、これからお茶会の誘いがある日以外はずっとこんな日々が続くのだ。どうしたものかと深い息を吐いた。




 竹炭丸に跨がるようになってから二年近くが経過した今でもウォレスに対する好感度が上がることはない。むしろ彼のせいで変な噂が立ち、お茶会の招待状が減っている。


 毎日連れ回されるおかげで友人どころか手紙をやりとりする相手すら出来ず、今では立派なぼっち令嬢である。


 婚約解消される日に備えて教養くらいは身につけておきたいのだが、勉強する暇さえない。せいぜい遠駆けに連れて行かれる際、本を持参して読むくらいなものだ。


 帰ってからも刺繍やピアノ、一般教養などを学ぶことが優先される。

 だがそれでは後々文官として雇用してもらうレベルに達することなど出来るはずもない。本の角で殴りかかりたいほどにウォレスを嫌っているアベラだが、婚約者に殴りかかった過去があると知られてしまえば、彼との婚約解消後に嫁の引取先どころか働き口すらなくなりそうなので必死にこらえている。


 我慢我慢だと言い聞かせ、そしてせめてもの抵抗に「脳みそ筋肉野郎め」と溢す。


「アベラ……」

「なんですか、その目は。前言撤回なんてしませんからね」

「どんなに鍛えても脳みそまでは筋肉にならないんだ……。期待に答えられず、すまなく思う。だがアベラが筋肉好きなら、今後も精進することにしよう! ということで馬に乗れ!」

「だからそれが嫌だと……」


 ウォレスは全く堪えた様子はない。それどころか見当違いの方向に爆走しようとしている婚約者に顔を歪めて、本と共に部屋へと戻ろうとする。


 今年の誕生日プレゼントとして父にねだっていた歴史書が一昨日やっと届いたのだ。

 だからアベラは今日くらいゆっくりと読ませてくれとポルタル家に使用人を送ったのだが、見事なまでのガン無視である。


 だから脳筋は嫌なんだ。

 心の中で毒を吐き、アベラは「では」と部屋に戻ろうとする。けれど彼女の行く先は当家の執事長によって塞がれた。


「アベラ様、すでに準備は整っております」

「……行ってこい、と?」

「奥様が、今日はふっくらとしたお布団で寝たいと申されております」

「洗濯するから邪魔だと追い出される令嬢って何なんだろう……」


 記憶を取り戻してから年々、アベラの扱いは雑になっている。婚約を解消したいと言い出す娘はこの程度で十分だと思われているのだろうか。両親も当たり前のようにウォレスの肩を持っている。


 味方のいないアベラは半ば家から追い出されるような形で馬の元へと案内される。


 もちろん本は死守した。

 没収されてなるものか! と服の中に隠したのだ。執事長にもウォレスにも深いため息を吐かれたアベラだったが、今さら下着を見られたところで減るものなどない。そんな羞恥心は初めての遠駆けでとっくに吐き出している。


 しぶしぶ馬の準備をしたアベラはメイドが持ってきてくれたショルダーバックを受け取る。何も言われずとも分かる。この中に入れていけということだろう。

 すでにお弁当と水筒、ハンカチにちり紙までセットされている。隙間に本を滑り込ませてから肩に提げた。


「いつも通り夕方にはこちらへ送る」

「いってらっしゃいませ~」

 ふるふると手を振る使用人達に暴言の一つでも吐きたいが、何を言っても無駄であることはもう嫌というほど理解している。


 だから今日も今日とて『早くヒロイン現れてくれないかな~』と願い続ける。


 それはもう心の底から。

 そして婚約を解消された後に備えて、家から何時間も離れた場所で知識を蓄え続けた。



 だがアベラは失念していたのだ。

 他の令嬢に嫌われているということがどれほどのマイナスであるか。

 深く考えず、ただひたすらに馬に乗り、本を読みあさった。特にウォレスが学園に入学してからは、父に頼んで家庭教師を何人も招いてもらった。彼との年の差である二年という猶予のほぼ全てを勉強に当てた。



 ーーそして十五歳になってようやく問題と対峙することとなる。



 十五歳といえば、学園に入学する年頃にして乙女ゲームシナリオが開始するタイミングでもある。


 入学式を終えたアベラは周りの生徒達を眺めながら、自分にはおしゃべりをする相手すらいないことに気付いた。当たり前だ。お茶会に参加する数は少なく、マイナス面をカバーもしくは挽回する訳でもなく過ごしてきた。


 アベラはまだ彼女達に嫌われたままなのだ。

 だがそれ自体は婚約解消出来ないと知った時点である程度覚悟はしていた。


 問題はアベラが思っていた以上にマイナスが大きかったということだ。


 昼前の授業を終えたアベラは、一人で廊下を歩いていた。荷物を胸の前で抱えている彼女には当然のように友人などいない。学園に入学したくらいで出来る訳がなかった。

 早足で階段を降りながら、今日の昼ご飯はどこで食べようかと考える。食堂は一人で食事をするにはハードルが高く、中庭は最近カップルの数が増えつつある。


 だからといって教室内は飲食禁止だし……。

 人の少ないところでサンドイッチを口に突っ込み、明日以降の食事場所探しをするべきか。


 いっそ学園が馬通学ありであれば、昼になる度に学園の外に行って食事をするのだが、移動は基本馬車だ。それにゆったりと走る馬ならまだしも竹炭丸は国内屈指のスピード感を持っている。

 おそらく王家に使える騎馬隊の馬にも引けを取らない。そんな馬を学園で乗ったらどうなるか。それくらい深く考えずとも答えは出る。


 アベラに残された道は三年間、ゆっくりと食事の出来る場所を探し続けることだけ。

 乙女ゲームのポジションが日陰ならば現実の学園ライフも日陰なのか。鼻でフッと嗤えば、アベラの前にとある生徒が現れた。


「アベラ様、少しお時間よろしいでしょうか?」

 アベラは目の前の生徒の顔に覚えがあった。透き通るような金色の髪に紫の瞳。アリエス=ベルカ、乙女ゲームのヒロインである。


 本来、ヒロインであるアリエスとモブ令嬢が関わるのはシナリオも後半にさしかかった頃のはず。ウォレスへの思いを自覚したヒロインが婚約者に悪いと自ら身を引こうとした際に接触を果たす。


 けれど実際はまだ入学してから二ヶ月と少し。乙女ゲームシナリオでモブ令嬢の出番はまだまだ先であったはずだ。


 なのになぜかアベラの前にはカタカタと身体を震わせたアリエスがいる。

 自分から話しかけてきたくせに視線は泳いでおり、とてもではないが優雅にお話をしようなんて雰囲気ではない。


 確かに社交界では格上の相手に許しもなく話しかけることはあまり好ましくはないとされている。だがここは学園だ。爵位など関係ない。まぁそれは表向きであって、気を使うことには変わりないのだが、失礼さえなければ特に問題はないはず。


 それに彼女は元平民とはいえ、現在は公爵家に迎え入れられている。家格としてはアベラよりも上である。貴族の生活が慣れていないにしても、話しかけるだけでこの緊張とは……。今の彼女は誰が見ても異常だ。何かある違いない。


 それに乙女ゲーム内の彼女は、悪役令嬢に数々の嫌がらせをされてもその恐怖を誰かに見せることはなかったはずだ。だからこそ長い間、攻略対象者達は虐めに気づけなかった……と。


 もしや乙女ゲームに描かれていたよりも壮絶な虐めにあっているのだろうか。


 社交界でお見かけした悪役令嬢ことロザリーは気の強そうな方だったが、ゲームのように陰湿な虐めをなされる方には見えなかった。

 どちらかというとちょっと言い方がキツいせいで怖がられているだけで、普通に良い人のような? 少なくとも社交界で嫌われているアベラに何かしかけてくるような真似はしなかった。


 だがそれは王子の婚約者である彼女にマイナスを運び込む敵として認識されていなかったため、そこまで動く必要性を感じなかったという考えも出来る。


 アベラがロザリーと話すのは毎回決まった言葉で、それさえも一言二言で終了していた。

 お茶会デビューに二ヶ月ほどしか差がないというのに、家格の違いもあってろくに会話というものをしたことがない。だから完全に自分のデータと重ねるのも危険だ。


 それにヒロイン虐めの一環として、アベラを巻き込んでいる可能性もある。それが最も悪い事態である。


 どう転んでも被害をゼロに押さえ込むことは出来ない。とはいえロザリーの婚約者を奪い取る可能性が高い女性の味方をするというのも……。


 どうしたものか。

 アベラはきょろきょろと周りの様子を窺う。攻略対象者の一人でも見つかればその男に押しつけてしまおうと思ったのだが、見つけたのは柱の陰に隠れたロザリーとその取り巻き達の姿だった。



 あ、これは逃げられないやつだ。

 そう悟ったアベラだったが、理解した状況はほんの一部だけ。なにせ彼女達の目は好奇の視線ではなく、かといって男子生徒に告白する友人を見守るそれとも少し違う。初めてのおつかいに繰り出した我が子を心配する母の眼差しが一番近いように思う。


 だからこそアベラは自分の役割が分からない。


 なんと返すことが最適解なのか。

 アベラが考えている間も、アリエスは震えながらも返事を待ち続けている。会話をする以外、この状況から解放される方法はない。少なくともアベラには良案は思い浮かばなかった。


 本音をいえば逃げ出したい。変なのに捕まってしまったものだと心の中で盛大なため息を吐いてから、彼女は渋々貴族スマイル作り出した。


「どうかなさいましたか?」

「実は私、ウォレス様にこの封筒をお渡しするように先生に言われてまして」

「はぁ……でしたらウォレス様にお渡しすれば良いのでは?」


 もしかして届け物ごときでガタガタ言うような女だと思われているのだろうか。

 文句を言うどころか、今すぐ熨斗付けてあげたいくらいなのに! ご希望とあれば今後、年に二回、お中元とお歳暮を贈ってもいいくらいだ。


 脳筋と離れられるのならば何でも良い。さっさと引き取ってくれと念を送る。

 するとアリエスは視線を彷徨わせ、おずおずと口を開いた。


「男爵令嬢であるあなたを平民である私が使おうなんて不敬であることは重々承知しているのです! ですが、その……私ではウォレス様に認識して頂けませんので」

「は?」

「すみません、すみません。愚民の分際で、あなたのいない場所でウォレス様に話しかけてしまってすみませんんんんん」


 意味が分からない。アベラは首を捻ると、アリエスはそれを威嚇と勘違いしたらしい。

 深く頭を下げたまま凄まじい勢いで後退するという特殊技術を駆使して、アベラの前から立ち去ってしまった。そして彼女の後を追う悪役令嬢とその取り巻き。


 聞き間違えでなければ、彼女達は「アリエス様はよく頑張りましたわ」「ええ、頑張りましたわ会を開きましょう」とアリエスの頑張りを褒めている。

 嫌われ者に声をかけた友人へかける言葉としてはややおかしい。例えるのならばそう、ヤンキーの分の宿題を回収した時のような……。


 だがそんなにアベラが嫌ならばウォレスに直接話しかければ済む話だ。

 それに、認識してもらえないとは一体どういうことだろうか。


「意味分からないんだけど……」

 呟いたところで事情を知っている女子生徒達はすでに立ち去った後だ。残されたのはウォレスへのお届け物だけ。そう、アリエスはあれだけビクビクと怯えながらもちゃっかりアベラの抱えた荷物の上に封筒を載せていったのだ。


 衝撃のバランス感覚を褒めるべきか、了承していないのに置いていった図太さに呆れるべきなのか。アベラが無視したらどうするつもりなんだろうか。そもそも先生も託す相手を間違えている。


「仕方ない。届けてあげるか」

 いくら嫌いな相手とはいえ、一応はまだ婚約者なのだ。今日中に必要な書類だったと後で判明しても困る。アベラは大きくため息を吐き、アリエスには今度会った時に嫌みを言ってやろうと決める。


 貴族云々以前に、人として頼まれ事を引き受けのならば責任を持ちなさい、と。


 それにロザリーもロザリーだ。心配して見守るくらいだったら初めからロザリーがアベラに渡す、もしくはウォレスに届け物をすれば良かったのではないか。


 アリエスに自主性や行動力を身につけるためにしても、もっと適任がいただろうに……。



 それからウォレスを探して学園中を歩き回った。昼休みだからかなかなか見つからない。ロッカーでもあれば突っ込んでおくところが、乙女ゲーム世界にはロッカーも下駄箱も存在しない。そもそもが土足だし、荷物だってさほど多くはない。一日で必要な持ち物は胸の前で抱えられるほどだ。

 荷物が少なくてラッキーくらいにしか考えていなかった自分が憎い。


 それにろくに彼と会話をしていなかったことも仇となっているのだろう。

 昼間はどこで誰と過ごしているのかだけでも聞いておけば良かった……。



「本当にあの子、厄介な物押しつけてくれたわね……」

 はぁ……と本日八回目となるため息を吐いた時だった。

 柱の陰から探していた男がひょっこりと顔を出した。


「なぁアベラはなぜ学園中を徘徊しているんだ?」

「徘徊じゃないです」

「だがもうかれこれ四半刻は歩き回っているじゃないか。どこに行っても軽く覗くだけで移動し始めているし、徘徊と言わずして何という?」

「四半刻……」


 その言葉に懐中時計を確認する。

 今の時間は昼休みが始まってから四半刻と少しが経過している。アベラがアリエス達に封筒を押しつけられたのは、教室を出てすぐだったように思う。つまりウォレスは割と序盤からアベラを目撃していたということだ。


「そろそろ昼が終わるが、昼食は食べたのか?」

「っ! 食べられてないですけど!」

 気付いていたならもっと早く声をかけてよ! と文句を言いたい気持ちをグッとこらえる。アベラはウォレスと気軽に会話をするような仲になりたい訳ではないのだ。


 今日がイレギュラーだっただけ。あの時、届け物を断れていたならば『徘徊』なんてせずに済んだのだ。


「なぜ怒る?」

「あなたを探していて昼食食べれてないんです。これ、アリエス様が先生から預かったそうで、ってどの先生から預かったのか聞くの忘れてたわ……。まぁとりあえずあなたへの届け物らしいので受けとってください。何かあったらアリエス様に聞いてください」

「アリエスって誰だ?」

「アリエス=ベルカ様です」

「知らないな」


 ウォレスは素知らぬ顔で答えるがそんなはずがない。乙女ゲームで必ず発生する入学式イベントが現実でも発生したかどうかは別としても、彼女は特待生として入学生代表の挨拶をしているのだ。知らないはずがない。


 わざわざ隠したところで会話が滞るだけだ。嘘を吐くにしてももっとましな嘘を吐きなさいよ。アベラは空腹と苛立ちで彼をギロリと睨み付ける。


「……とにかく、渡しましたので」

「ああ、確かに受け取った。ところでアベラ」

「何ですか? 私、急いでいるんですけど」

「ガロワ=エダンとは一体どんな仲なんだ?」


 ガロワはアベラの推しである。伯爵家の三男で、家を継ぐことの出来ない彼は在学中勉学に励む。そして卒業後めでたく文官に内定が決まった彼は頭角を現し、わずか数年で宰相補佐まで成り上がる生粋の努力家である。自分の道は自分の手で切り開く姿勢が非常に気に入っていた。恋愛感情なんてものはない。一人の人間として気に入っていたのだ。


 だから入学してからゲームと同じように勉学に励む彼に声をかけ、顔を会わせる度に勉強をおしえてもらったり、意見交換を行ったりしていた。だが友人と呼べるほどの仲ではない。

 ガロワは社交界ではアベラに話しかけてこないし、逆もしかり。教室の中で完結した関係である。


 そんな限定的なものを、なぜウォレスが知っているのだろうか。

 脳筋のウォレスと頭脳派のガロワは受講科目が全然違って接点なんてほとんどないはずなのに……。


 なぜここで彼の名前が出るのか。あまりにも唐突すぎる。ウォレスの意図が分からず首を捻る。すると彼は言葉を続けた。


「最近仲良くしているそうじゃないか」

「仲良く、なんて……。勉強を教えて貰うことがあるくらいですよ」

「……そうか」


 ウォレスは短く告げると封筒の中身を覗き始める。興味の向き先が変わったらしい。また変な質問をし始めないうちにアベラは彼の前から立ち去ることにした。


 そしてちょうど人が少なくなり始めている中庭の木の下に腰を降ろし、サンドイッチを口に運んでいく。いつも通りアベラの好物が詰まっているが、今日の彼女にそれを楽しむ余裕などなかった。


 アリエスやロザリーの態度といい、ウォレスの質問といい、不思議なことばかりだ。


 アベラとウォレスの婚約をよく思わない誰かが、余計なことでも吹き込んだのだろうか?


 仲を引き裂こうとしてくれること自体は嬉しいが、ガロワの障害になりそうなことは止めてほしいものだ。頑張っている彼の邪魔はしたくない。


 アベラは最善の手を考えながらサンドイッチをお茶で流し込む。

 時刻はすでに授業開始ギリギリ。早足で次の教室を目指していると、視界の端に仲よさげに寄り添う男女が映った。人の少なくなった時間帯とはいえ、カップルの多い場所で食事をしていたのだ。


 ウォレスもアリエスとこんな関係になってくれないだろうかと考えてハッとした。教室内とはいえ、ガロワとだけ仲良くしているから彼との仲が疑われるのだ。今後彼が被害を受けないために自分が取るべきは、他の男とも仲良くすることではないか!


 乙女ゲーム内で複数人の男性と仲良くしているアリエスは、悪役令嬢を筆頭とした貴族令嬢達に嫌みを言われていた。悪女だの淫乱だの散々な言われようだったが、アベラはすでに変わり者認定された嫌われようだ。


 今さら不名誉なレッテルが一つ増えたところで気にしない。



 アベラは翌日から推しの平穏を守るための活動を開始しようとしたのだがーー現実は思い通りには進んでくれなかった。


「ここなのですが」

「いまちょっと時間が……」

「教科書を」

「こちらをどうぞ! 私は他の生徒と見ますので」

「あの落としましたわよ」

「お手を煩わせて申し訳ありませんでしたああああああああああ」

「先生ここの問題なのですが」

「すまない。急いでいるんだ。また今度!」


 アリエス全力後退事件を境に、アベラは多くの生徒や先生達から恐れられるようになってしまったのだ。誰もが遠巻きに見るだけで、どんなに生徒数が多い授業ですら彼女の両隣と前後は空いている。他の席はぎっちりと埋まっているというのに、アベラの周りだけぽっかりと穴が空いてしまったかのよう。


 ガロワとの会話だけではなく、事務的な会話すらもなくなった。プリントを渡す時ですら無言で、目が合えばスッと逸らされる。


 あの子が勝手に怖がっていただけなのに……。

 おそらくあの出来事を誇張し、意図的に広めた人物がいるのだろう。だがアベラにはここまでするような人間に心当たりがない。崖っぷちまで追いやられてもなお、敵が見えてこないなんて……。


 乙女ゲームばかり意識しすぎて腹黒貴族の巣窟に生きているという自覚が薄くなっていたのかも知れない。完全にアベラの落ち度だ。


 悔しさで唇を噛みしめ、図書館の蔵書でなんとか分からない部分を補っていく日々。

 それでも必死で耐えた。きっと時間が経てば誤解も晴れるはずだと。けれどダメだった。一向に誤解は解けることはなく、社交界でも婚約者のウォレス以外誰も話しかけては来てくれない。


 定型文の挨拶すらない。

 ハブもいいところだ。



 アベラの隣に残っているのは、超がつくほど鈍感で、脳みそまで筋肉で出来ているウォレスだけ。いや、彼にとっては今さらなのかもしれない。なにせアベラは記憶を取り戻してからというもの、ずっと雑な扱いしかしてこなかったのだから。


 先生ですらろくに会話してくれない状況下で勉強なんて出来るわけもない。独学で学ぶにしても、周りの人間ほぼ全員に距離を置かれているなんて噂が採用担当者の耳に入れば文官として働くことは難しい。だが年の離れた弟が家を継ぐことになっている家に居座り続けるのも申し訳がない。


 ただの婚約破棄なら修道院に入るのも手だが、この状態では断られてしまうのがオチだろう。


 アベラに残る道はただ一つ。

 卒業式で『妹にしか見えないんだ』と言って捨てるような最低な男に捨てないでくれと縋る。最悪だ。大嫌いな男に泣きつかなければいけないなんて……。後悔したところでもう遅い。


「やっぱりあの時、何が何でも婚約解消しておけば……」

「アベラ、どうかしたか?」

「何でもないです」


 馬車に揺られた二人が向かうのはとある公爵家が主催する夜会だ。今日も今日とて全員に無視されることが分かっていながら、アベラは夜会に向かうことを強制される。不機嫌を隠すことなく頬杖をついて窓の外を眺めた。


 けれどアベラとは正反対に、ウォレスはどこか嬉しそうだ。最近良いことが続いているらしい。頬が緩んでいる日も多い。


 きっとアリエスとの関係が進んでいるのだろう。

 婚約者がこんな嫌われものだったら婚約解消も楽でしょうね、とアベラは心の中で毒を吐くのだった。




 完全に孤立したアベラは図書館に通い詰め、ひたすらに本を読みあさった。そして一冊の本と出会った。本棚の一番下の段の端に置かれていたそれが魔道書だと気付くのにさほど時間はかからなかった。


 見た目は他の本と変わらない。けれど中を捲れば意味のない文字列が並んでいるだけ。

 この本、何かがおかしいぞと奥付を見れば表紙に書かれたタイトルとは別の文字が書かれていた。



『禁忌の書』



 その文字にアベラは息を飲んだ。乙女ゲームのとあるシナリオで登場するアイテムだったからだ。


 攻略対象者の一人が闇落ちするきっかけともなったこの書物は『孤独を知る者』の前にのみ現れる。優秀な兄や天才と呼ばれる幼なじみに囲まれて育った彼は常に孤独を感じて育ち、そして逃げるように向かった図書館でこの本と出会った。


 そういえばあのキャラは特定の曜日に必ず図書館に現れる設定で、いくつかのイベントは図書館内で発生していたはずだが、なぜか図書室で彼の姿を見ることはない。


 もっといえば天才と呼ばれる幼なじみ、つまりウォレスの幼なじみであるはずなのに彼と会ったのは片手の指で数えられるほど。ゲーム内よりも強いコンプレックスを感じているのか、ウォレスと話している姿さえもあまり見ない気がする。


 シナリオが狂いつつあるのか、本来孤立する予定などなかったアベラの元に魔道書は現れた。

 持ち主に選ばれたとでも言うべきか、それを魔道書だと認識した途端、それはピカッと光った。そしてバラバラだった文字を本来の位置へと戻していった。


 やっと読めるようになった本をペラペラと捲っていくうち、アベラの表情は明るくなる。


「これで、あいつに縋らずに済む!」

 アベラはそう呟くとバッグの中に魔道書を突っ込んだ。本来図書館の蔵書ではないそれは勝手に持ち出しても怒られることはなく、そもそも気付かれることもない。



 帰宅後、制服も脱がずに自室で魔道書に目を通していく。

 禁忌の書と呼ばれるだけあって、人間界では禁忌とされている魔法がいくつも載っていた。いや、そもそも人間の認識では『魔法』は魔族が使うものであり、魔法を使える者は人間ではないと考える者も多い。


 現在不可侵協定を結んでいるとはいえ、人間にとって魔族や魔物は悪しき存在なのだ。

 だが乙女ゲームのシナリオで彼らを知っているアベラは特に悪いイメージを持っていない。むしろ悪役令嬢を断罪するこの国の王子や、脳筋ウォレスの方が嫌なくらいだ。

 だから魔道書を手にすることも、ましてや魔法を使うことに対してもためらいを感じなかった。



 だが魔法を使う素質を持たぬアベラはすぐに魔法を使うことは出来なかった。魔素を有した触媒を用意する必要があるのだ。


 翌日からアベラは魔法や魔素について書かれた本を片っ端から読むことにした。国内有数の蔵書を誇る学園図書館ですら文献は少なく、内容もさほど濃いものではない。それらを全て脳みそに叩き込んだアベラは着々と計画を進めていく。


 そしてウォレスが家の用事でカサンドラ家を訪問出来ない日を狙ってとある森に向かうことにした。


 竹炭丸と一緒に出かけると宣言しても止める者はいなかった。行き先さえ聞かれず「夕食までにはお戻りください」との言葉と共に水筒と昼食の入ったお馴染みのバッグが渡された。


 アベラも年頃の令嬢だというのに、誘拐されるかもしれないとは考えないらしい。呆れつつも好都合だとこくりと頷いて竹炭丸に跨がった。


 目的の森はあまり人が立ち入らない場所ではあるものの、ウォレスとの外出で何度も足を運んでいる。



 薄暗く、じめじめとした場所まで来て剣を振る意味があるのか。

 本の状態が悪くなりそうだ。

 その時は眉間に皺を寄せながら不満を溢していたアベラだが、おかげでどの辺りにどんな植物が生えているかおおよその予測が付く。


「それにしてもあの森が魔素溜まりになっているって、ウォレスは知ってたのかな?」

 魔素耐性を取得する方法は謎に包まれているが、一説によると幼少期から少しずつ魔素の溢れ出している場所で過ごすことにより徐々に耐性が出来ていくと言われている。

 王族なんかが幼い頃から少しずつ毒を飲んで毒耐性を付けるのと同じ原理だ。

 同様の方法で魔素耐性が構築されるかは未だ実証されていないが、遺伝ではないことから何かしらの規則性は見つけられそうではある。


 彼が知っていたかどうかは別にしても、もしもその方法で魔素耐性が出来るとすれば、アベラとウォレスの体内にはすでに耐性が出来ている可能性が高そうだ。

 そこまで考えたアベラだったが、脳筋で猪突猛進タイプのあの男がそこまで考えているわけないかと首を軽く振った。


 一人でいる時間が長いからか、最近、考え込んでしまうことが増えた。

 どうせ考えたところで答えなどでるはずがないというのに……。

 暗くなった気持ちを振り払い、わざと明るく声を上げる。


「さてと、採取に励みますか!」

 竹炭丸から降りたアベラは身体をそらせて伸びをすると、目的の薬草の採取を始めた。

 スコップは用意出来なかったので、近くに落ちていた手頃な枝で土を軽く掘る。魔素を保有している薬草でも、その量によって根っこの太さや光具合が異なるのだ。

 光が強ければ強いほどいいらしいが、強い光を放つ物ならなんでもいいという話ではない。使用する魔法によって必要な属性が異なるのだ。同じ種類の薬草でも魔素属性が異なることがあるため、こればかりは見て判断するしかない。



 それからアベラはひたすら薬草や花の根を確認するために土を堀った。

 疲れを感じれば一度手を止めて水分補給。そしてまた掘り進める。単純作業とはいえ、中腰のまま続ければ腰が痛くなる。枝は途中で何本も折れ、爪は割れてしまった。それでもアベラは掘ることを止めなかった。


 途中で帰宅すれば次はいつこの場所にやってこられるか分からないからだ。


 日が暮れるまで掘り続けたアベラは掘り当てたものからより光の強いものを五十束ほど厳選し、それらを持って川へと向かった。軽く土を払っただけのそれを川の水に付けながら擦って綺麗にしていく。川の水は冷たく、割れた爪にはよくしみる。だがそんな痛み、幼少期の吐き気や苦しみと比べたら些細なものだった。

 全ての根から土を洗い落とし、ハンカチで軽く拭くとそれらをバッグに詰め込んだ。



 薬草採取が終わったアベラは竹炭丸の背中で揺られながら屋敷へと戻る。真っ先に自室へと戻り、薬草を机の引き出しに隠した後で、ふうっと息を吐いた。


 普段ならバッグを使用人に預けるところだが、想像以上に底が濡れてしまっている。さすがにハンカチでは水分を吸い取ることは出来なかったようだ。

 どうしたのだと聞かれても厄介だ。仕方なしに窓を開け、近くにバッグを放置することにした。窓からはそよそよと気持ちの良い風が拭いている。夕飯時までには乾いてくれるだろう。


「これでよし」

 そう呟いたアベラが引き出しから魔道書を取りだそうとした時だった。外から聞き覚えのある音が聞こえてくる。パカラパカラと、毎朝耳にする少し早めの馬の蹄の音。


 今日は聞かずに済むと思っていたのだが……。


 アベラは引き出しを閉じ、窓から外を見下ろす。すると想像していた通りの人物がそこにいた。


「どうしたんですか?」

「アベラが外に出かけたと聞いたから帰りに寄ったんだが、帰ってきていたんだな」

「竹炭丸とお散歩してきただけですよ。学校に行き始めてから運動不足になりがちですから」

「そうか。なら明日は遠駆けに出かけよう」

 心底ホッとしたような顔をするウォレスは一体何を考えているのだろうか。アベラには分からなかった。だから余計に気持ち悪さが勝る。


「ウォレス様は」

「ん?」

「いえ、何でもありません」


 アベラはウォレスから目を逸らす。


『ウォレス様は私を妹だと思っているのですか?』なんて聞いたところで何になるというのだ。その答えがイエスだろうとノーだろうと、ウォレスに対する感情が今さら変わる訳でもない。


 急にやってきたウォレスは本当にアベラの姿を確認しに来ただけらしく、すぐに馬に跨がって帰って行った。彼は婚約者にして、もうすぐで赤の他人になる相手だ。もしもアリエスが彼と親しくならずとも、アベラさえ魔界に行けば関係なくなる。


 脳筋の相手をせずに済む。なのになぜだろう。アベラは彼の背中があったはずの場所をじっと見てしまう。孤独な期間が長すぎて、唯一今までと変わらず接してくれる相手に心惹かれているというのだろうか。


 幼い頃とは違い、気遣ってくれる優しさがあるから?

 吊り橋効果ともいうべきか。アリエスとウォレスの接点が思っていたよりもずっと少なかったことも要因の一つかもしれない。


「いや、あれはただの脳筋。視野が狭くて状況理解にタイムロスがあるだけよ」

 アベラは小さく呟いて自分に言い聞かせる。ここで作戦を中止にしたところで後悔しか残らない。アベラは馬鹿な考えを振り落とし、部屋へと戻る。



 そこから何日もかけて触媒となる薬草丸を生成した。ただ丸めるだけと簡単に考えていたが、結合部分の見極めが思いのほか難しかった。綺麗に丸くなったと安心していてもしっかりと馴染んでいなければ乾かしている段階でヒビが入ってぱっかりと割れてしまう。

 材料が足りなくなって、学校を抜けだそうとしたこともある。けれどこの作戦が誰かにバレる訳にはいかなかった。


 硬貨ほどの大きさの薬草丸が十個揃った日、アベラはそれら全てを触媒とし、ベッド下に魔界へのゲートを開いた。アベラが身体を滑り込ませてやっと入ることの出来るサイズだ。場所が場所のため、屋敷の者が気付くことはないだろう。


 唯一の心配は王族が所持している魔力センサーに引っかからないかということだが、その時はゲートを閉めてそしらぬ顔で突き通すまでだ。


 学園でも社交界でも孤立しつつあるアベラが魔族に目を付けられたかもしれない、と怯えるシナリオは頭の中に準備してある。兵士の前で怯えるくらいの演技はしてみせよう。


 いっそ見つかる直前にゲートに身体を滑り込ませて、誘拐されたということにしてもいいかもしれない。乙女ゲーム内で誘拐されるのはどのルートでも決まって攻略対象者に大事にされているアリエスだが、何とでも言い訳は出来る。


 アベラとしては魔王が攫う人質を間違えてしまったため、殺してしまったというシナリオも全然ありだ。もちろん本当に殺されかけたら抵抗するつもりだが。

 けれどアベラは人間が思うほど魔族が恐ろしい存在ではないことを知っている。



「魔物にだけ注意しないと、ね」

 お気に入りのバッグを肩から提げ、懐中時計で時刻を確認する。短針も長針も真上を向いている。滞在は長くても一刻程度がいいだろう。こまめに時間を確認しなければ、とポケットの中に時計を突っ込んだ。そしてアベラは身体を滑り込ませるようにゲートに入った。


 ゲートなんてものを通るのは初めて。身体が分離するなんて恐ろしいことはないだろうと思っていたが、まさか長い滑り台を降りることになるとは……。お腹の前でバッグを抱えつつ、アベラはらせん状の滑り台を下っていく。


 帰りは逆再生になるのだろうか、なんて考えながら、満天の夜空のような空間を眺めた。そしてどのくらいが経過した頃だろう。体感としては十数分くらいの滑走を経て、魔界の地面を踏んだ。


 到着したと同時に滑り台は姿を消し、ぽっかりと空いた穴だけが残る。入った穴と同じ状態だ。誰かが通過したタイミングで入り口と出口が変わるパターンなのか、はたまた出口と入り口は同じ形なのか。不思議と帰れなかったらどうしようかと不安になることはなかった。


 それよりも目の前に広がる光景に心奪われている。


「やっぱり現地は違うわ! 魔素を含んだ植物ばっかり!」

 どこを見ても光を放つ物ばかり。人間界の森とは比較にならないほどの魔素量だ。魔界なので当然といえば当然なのだが、数少ない材料でせっせと触媒を作っていたアベラからすれば楽園のようだった。


 採取や薬草丸の生成を経て、アベラは魔素含有量が多いものほど薬草丸の生成が難しいと知った。確かに魔素含有量が多い方が良いものが出来る。だが今後どのくらいの触媒が必要となるか分からない以上、多少スペックが劣ったとしても量が欲しいところという結論に至ったのだ。


「あ、そうそう始めに時間を確認しなくちゃ……ってあれ?」

 ポケットから取り出した懐中時計の針は先ほど確認した時と同じ場所で止まってしまっている。滑り台に着地したタイミングで壊れてしまったのだろうか。様々な角度から確認してみたものの、全く外傷は見られない。電池切れという可能性もあるが、どちらにせよ今は時間の確認を諦めるしかあるまい。


「体内時計に頼りながら早めに切り上げることにしよう。ということでレッツ採取!」

 今回は魔素含有量が多いため、わざわざ根っこを掘るということはしない。ふふふ~んと鼻歌を歌いながら、アベラは手近な葉をちぎってバッグの中に入れていく。


 属性はとりあえず気にせず、バッグを山盛りにすることが目標である。だが薬草を求めて遠くに行くことはしない。


 魔物に警戒しつつ、ゲートを見失わないように。

 また初めての魔界ということで健康面も気になるところだ。今のところ、息苦しさなど体調不良の影は見えないが、吐き気なんか出てきたら帰りが最悪だ。

 魔物も体調不良もやってきてくれるなよ、と願いながら手早くバッグをパンパンに膨らませ、速攻で魔界を後にした。



 魔界から帰ったアベラはバックの中身を引き出しの中に隠した。それからは毎日授業が終わると帰宅し、部屋で追加の薬草丸を作った。


 幸いにもゲートを開いたことを誰かに気付かれることもなく、アベラの変化に気付いたのは竹炭丸だけ。手に残った薬草の香りに、自分を置いてどこへ遊びに行ったのかと不満げに顔を歪める彼に少しだけ申し訳なさがあった。


 アベラには友人と呼べる相手がいない。大事な相手は竹炭丸だけだった。

 もしも魔界に移住するとすれば竹炭丸も連れて行きたいと考えている。だがそれは本当に最後。


 竹炭丸も通れるほどのゲートを作れば、速攻でゲートの存在がバレてしまう。それに触媒の量も現在使用している物の何倍も必要になるだろう。特大ゲートを作るのは人間界を完全に去る日と決めていた。


 そのためにも今は竹炭丸には我慢してもらいつつ、触媒作りに励まねばならない。

 朝は竹炭丸のブラッシングとお散歩、昼は学校、夜は薬草丸作りか魔界での材料採取と忙しい日が続いた。社交界の参加は本当に最小限で、授業中は寝こけていても注意さえされないことが救いだった。



 手持ちの薬草丸が増えていくに当たって、使用人にバレてしまうことを恐れたアベラは触媒を使用して、魔界にあるゲートを囲むように小屋を建てた。


 今のところ魔物との遭遇はないが、念のため小屋を囲む結界魔方陣も小屋の中に設置し、家具も置いた。全て禁書に書かれていた錬金術でいっぱつだ。想像以上に触媒使用量は多かったが、後々魔界で暮らす拠点になると考えれば必要な出費とも言える。

 また家具と一緒に出した金庫に薬草丸を保管しておけば、いつかこれらの存在がバレるかもと怯えることもなくなる。手持ちには最小限だけ残し、後は金庫の中に入れた。


 本当は薬草加工も全てこの場所で出来るのが一番だが、身体の問題はもちろん、時間の把握が出来ないことが一番の痛手だ。


 初めて魔界に来た日、止まっていた時計の針だが、人間界に戻るや否や、正常に動き出した。

 それから何度も同じ物を持ち込んだが結果は同じ。魔界では時間を刻んでくれないらしいという結論に至った。アベラの感覚も当てにならない。わずか半刻ほどの滞在だと思って人間界に戻れば一刻半経過していたり、少し長めに滞在してしまったと急いで戻れば使用人が起こしに来るほんの少し前だったりするのだ。



 もしや魔界で人間が生きられない理由は魔素ではなく、時間の流れの違いにあるのではないか。



 そう考えたアベラだったが、面白い考察を思いついたところで話す相手すらいない。

 最低限の作業だけ魔界で過ごし、残りの作業は人間界で行うことにした。それから作った薬草丸で家具を増やしていったり、想像以上に効果があった結界の周りに落ちていた魔獣の死体を集めて新たな触媒を生成したり。卒業式直前には移住を済ませられれば、と小屋を屋敷規模に拡張したりと楽しい日々を過ごしていた。



 馬小屋を作った段階でふと竹炭丸はこちらの世界で生きていけるか心配になり、乗馬の講師であったレディアに手紙を出した。

 久々の手紙と質問の内容に彼女は驚いていたようだが、学校の授業で興味を持ったのだと告げれば竹炭丸は特殊な馬だから生き抜くことが可能であること、また魔核を飲ませればどんな動物でも魔界に対応出来ると教えてくれた。



 魔核ーーそれは呼んで時の如く魔法の核であり、人間界では入手困難な品である。

 普通の令嬢なら一生見ることないであろうそのアイテムをアベラはすでに入手していた。魔獣の死体を解体した際に手に入れたのだ。さすがに人間界には持って行けないが、後々何か使いようがあるだろうと金庫に入れて保存してある。


 アベラは今まで集めた魔核の選定を行い、錬金術を用いて竹炭丸の身体に入れるに相応しい魔核を作り出すことにした。


 今まで手に入れた魔核は葉や根っこと同じく属性ごとに色が異なっている。たまにグラデーションの物があったり、二色の色が混じっていたりするが基礎となる色は五色。おそらく最終段階で残っていた色の属性が魔核および魔獣の属性となるのだろう。

 そう考えたアベラだったが、竹炭丸に相応しい属性とは何かを決めかねていた。


 なにせ生涯の相棒である。気軽に決められるものではない。それに材料が尽きたらまた回収してくればいい。まだ時間にも猶予があると、いろいろこねくり回した結果、漆黒の魔核が完成した。今まで手に入れたどれとも違う。けれど今まで見てきたどれよりも竹炭丸に相応しい。


「この艶と気品のある色、竹炭丸の毛と同じ色だわ」

 アベラはほおっと息を吐き、小指ほどの大きさしかないそれを角度を変えて眺める。そして来る日に備えて金庫に仕舞い込んだ。


 結構な時間を消費してしまったアベラはゲートに戻ろうとして、ふと足下に広がった残骸に気付いた。手の中にある魔核にばかり気を取られてしまっていたが、足下には試行錯誤の結果が残骸として残されていた。


 負荷に耐えきれずに割れていった魔核が散乱していたのだ。あの魔核は数多の魔獣の屍の上に君臨している。そう考えると自然と口角が上がった。だが同時に割れたものが価値なきものだとは思わない。数多の屍があってこその漆黒の魔核だ。


 効果は半減するがこれらも後で触媒として使おうと、箒とちりとりを取り出す。

 ある程度床を綺麗にした後で人間界に戻ろうとした時だった。ドーーンと凄まじい音と共に強大な力が押し寄せた。


 屋敷は大きく揺れ、この世界にも地震があるの!? なんて見当違いの考えが頭を過る。前世からの習慣で、すぐさま机の下に潜り込んで足をぎゅっと掴んだアベラは身体を丸めながら、混乱状態の頭を必死で働かせる。


 揺れはすぐ収まった。視界に映る範囲では被害はなさそうだ。けれどおそらくそれ以外の場所の被害は甚大だろう。


 アベラは小屋から屋敷にする段階で、二重に結界を張ったのだ。

 ベース部分、つまりは彼女が今居るゲート付近に一つ。そして屋敷の敷地内を囲むために大きめのものを一つ。大きさを重視するあまり、外側の結界は内側のそれより強度がやや劣る。


 すでに今日は魔核作りに没頭したため、かなりの時間が経過してしまっている。アベラに屋敷内の損傷確認をする時間は残っていなかった。おそらく馬小屋にも被害はあるだろう。そう考えると唇を噛みしめずにはいられない。



 アベラは金庫の中から薬草丸をいくつか取り出し、先ほど割れてしまった魔核と共に触媒として活用する。割れてしまったため効果は薄いが、それでも小屋を囲むほどの強化結界を張ることくらいは出来る。二重では心配なので、三重に結界を張り、さらにゲートと人が一人立てる範囲分は特別小さな物で覆うことにした。


「とりあえず今晩だけでももってちょうだいよ」

 完成した結界の中で両手を合わせて神頼みをする。計画はまだ未達成。ここで誰かに邪魔をされる訳にはいかないのだ。


 こうして一時帰宅を果たしたアベラだったが、一日中魔界の小屋のことばかり考えていた。ウォレスに話を振られても生返事で、遠駆けをしようという約束を取り付けてしまったと気付いた時にはもう遅かった。



「今日のアベラは機嫌がいいな」

「そ、そうですか?」

 それでも鈍感を極めたウォレスがアベラの異変に気付くことはない。機嫌がいいなんてどこをどう解釈したらそうなるのか。

 少しでも好意に似た感情を抱き始めていた自分が馬鹿だったな。アベラは冷水のシャワーを浴びたように気持ちが冷えていく。


 同時にやはり魔界行きを決めたのは間違えではなかったようだとの気持ちを強めた。自分の味方は竹炭丸だけ。あの子さえ居てくれれば他には何もいらない。余計なことを口走らないように窓の外を眺めたアベラはひたすらに夜になるのを待った。



 そしていつものようにゲートをくぐった先で一人の男と出会った。人型ではあるものの、耳の少し上から立派な角が左右に生えている。この世界ではまだ魔族という存在に出会ったことはないが、前世の漫画で見たそれによく似ている。

 黒いマントを羽織る彼の背中からは羽根が生えており、マントにスリットでも入っているのだろうかとどうでもいいことを考えてしまう。目の前に立つ男を座りながら見上げていると、彼の眉間に皺が寄った。


「お前がこの屋敷の主か」

「あなたは?」

 イエスともノーとも答えず、代わりに自己紹介をしろと告げる。

 この男が人間だろうとそうでなかろうとも、不法侵入した上に名乗りすらしない相手と会話を続けるつもりなどない。


 アベラの身体はまだ滑り台の上にある。無理に退いてもらわずとも、彼女が身体を反転させてしまえば人間界まで戻ることが出来るのだ。


 それに結界が張ってあるのは何も屋敷の外と部屋の外だけではない。男とアベラのちょうど真ん中辺りにはゲートを守るための小さな結界が設置してある。それも一番強力なものを。


 相手の力次第では壊されてしまうかもしれないが、それならそれで良かった。だが相手が力を公使する様子はない。代わりにこちらが答えるまで口を開くつもりがないのか、男は未だに顔を顰めたままだ。だんまりを決め込んで見下ろしてくる男相手にアベラは小さくため息を吐く。


「あなた、名前は?」

 答えなさいよ、と睨み付ければ男が観念したように息を吐いた。


「俺は魔界を統べる王だ」

 魔王、か。もちろんアベラとてその話を鵜呑みにするつもりはない。見た目はアベラよりも二つか三つ上くらい。だが人間を基準とした感想などあてにならないので、年はウンと上かもしれない。


 けれど威嚇のためにわかりやすいトップの名前を使っている可能性もある。アベラは魔王の顔を知らないのだ。信じてびびってくれれば儲けものだろう。ここで嘘言うな! とひと睨みして種明かしさせるのは簡単だ。けれど下手に煽るのも面倒な上、正直相手が何者でも良かった。


 とりあえず礼儀として名乗らせただけ。魔界での立場を探るよりも彼の用件を知る方が大切だ。


「私の名前はアベラ。それで魔王さんが何のご用かしら?」

「繕っても無駄だろうから単刀直入に聞くが、お前は一体何を企んでいる?」

「何って?」

「しらばっくれるな! お前のことは少し前から報告を受けていた。こちらが様子を窺っているのをいいことに俺の魔力でさえも破壊出来ない結界を作り出して!」

「もしかして昨日の揺れってあなたの襲撃?」

「残念ながら内側は破れなかったがな」


 魔王は恨めしそうにアベラを睨み付けると、間にある結界を指先でコンコンと叩く。

 どうやら部屋を囲んだ結界も突破は出来ても破壊は出来なかったらしい。そして最後の一つは突破も破壊も出来ない、と。

 アベラは想像以上に高性能な結界を眺めながら「この結界って意外と凄いのね~」と感嘆の声を漏らす。


「それで、なぜあなたは私の屋敷を攻撃したのかしら? 結界を作っているだけで攻撃するなんていくら何でも過激すぎない?」

「お前がしたことに比べれば過激でも何でもないわ! 神聖な森に勝手に屋敷を立て、植物や魔物の乱獲。挙げ句の果てに魔獣錬成まで……」

「神聖な森だったのね……。それはごめんなさい。知らなかったのよ」

「仮にも魔界に住まう者が歴代の魔王達が眠る森を知らぬ訳がないだろう!」


 声を荒げる魔王に、アベラは今さらながら自分のやらかしに気付く。知らなかったとはいえ、墓地に住居を構えようとしていたとはバチ当たりもいいところである。それも偉い人が眠っているとなれば怒るのも当然。屋敷を破壊したくもなるだろう。


「本当に知らなかったのよ。人間界には魔界についての書物は全然ないし……。それに魔獣錬成っていうのもよく分からないんだけど、多分無自覚のうちにしちゃってたのよね。屋敷は近々別の場所に移動させることにするし、魔獣錬成っていうのはどれのことを指しているのか教えてくれれば今度からやらないようにするわ」

 謝罪にしてはやや言い訳じみている。だが知識はなかったが、同時に悪気もなかったことを示さねばなるまい。深く頭を下げれば、魔王は素っ頓狂な声を漏らした。


「は?」

「ごめんなさい。私、まだまだ知らないことばっかりで。正式に移住する時までにはなんとか最低限のルールは覚えておくから!」

「まさかお前、人間か?」

「え? ええ」

「不法渡航している魔族ではなく?」

「人間だけど?」

 墓地に屋敷を立てられたことへの怒りよりも、アベラが人間であることの驚きが勝ったらしい。顔を白黒させながら「あり得ない。だが普通の魔物がここに滞在できるはずもないし」とブツブツと呟く。


「わかった。お前を人間だと認めよう。だがなぜ人間がこんな所にいる? いや、そもそもどうやってきた? なぜ魔法を使える? 過去に魔界に来た剣聖とその仲間ですら魔法なんて使えなかったぞ」

「聖女は癒やしの魔法を使っていたと思いますけど?」

「あれは神の祝福だ! 魔法とは仕組みが違う!」

「そうなの?」

「力の源が違う。だがお前が使っていたものは間違いなく魔法だ。人間がどうやって使った!」

「そもそも人間には魔法が使えないという考えが間違っているんですよ。禁忌とされているだけで使用することは不可能ではない」

 アベラはそう断言し、魔王を見上げれば彼は目を丸く見開いた。


「禁忌の書を使ったのか?」

 さすが魔王を自称するだけのことはある。飲み込みが早くて非常に助かる。舐められないようににっこりと笑みを作れば、彼はそれを否定するように左右に小さく首を振った。


「だがあれは普通の人間に使えるような代物じゃ……」

「使えるのよ。だから私はここにいる」

「……普通じゃない」

「社交界どころか学園中からハブられ、友達は愛馬だけ。近々婚約者に捨てられる未来を背負っているだけの普通の女の子よ」

「なんか、可哀想だな」


 魔王はアベラに哀れみの視線を向ける。正直、屋敷が破壊された時よりも精神的に堪えるものがある。可哀想な人生だと自覚していたが、指摘してくる人物なんて今までいなかったのだ。


 我ながら最悪なポジションの人物に転生してしまったものだ。

 頭の中で可哀想という言葉がぐるぐると周り、アベラの胸を締めつけていく。だが可哀想な自分とももう少しでおさらばするのだ! 顔の前で手をブンブン振って悪い考えを吹き飛ばす。


 考えるべきは悲惨な未来ではなく、明るい未来でなければならないのだ。

 前を向くために今、ここに立っているのだから。


「でも魔界に移住したら可哀想も何もないわ! 愛馬の竹炭丸と一緒に平穏に暮らすの! そのために準備してるんだから」

「お前はただの準備で、昨日、あんな膨大な魔力を操ったのか?」

「昨日? 昨日は部屋で竹炭丸に飲ませるための魔核を作っていただけよ?」

「馬に飲ませるため? 四天王全員を倒せるくらいの魔力の塊を?」

「力はよく分からないけれど、愛情は存分に込めたわ!」


 だって竹炭丸は唯一の味方だから。彼がいなければここまで頑張れていない。ウォレスの前で揺られながら精神と身体のどちらもが壊れていたことだろう。


 きっと彼がいれば魔界でも幸せに暮らせる。いや、悪の根源から離れた魔界でならきっと人間界以上に幸せになれるはずだ。


 馬小屋も立派に作り直して、結界を張らないと。

 すぐそこまで迫った魔界ライフを想像すれば自然と頬は緩んだ。


「確認だが、お前は馬と共に魔界に害をなすつもりはあるか?」

「言ったでしょ。平穏に暮らすんだって」

「それは確定なのか?」

「確定!」


 一度掴んだチャンスを簡単に手放してなるものか。

 住みやすい場所から移動してでも、アベラは魔界に残るつもりだ。何枚もの不名誉なレッテルを貼られている彼女にとって、社交界は、人間界は息が苦しくてたまらないのだから。


「なら俺はお前が敵にならないように尽くすだけだな」

「意地悪されなければ敵にはならないわよ。今回だって私が知らなかったとはいえ、魔族にとって大事な場所に勝手に家を建てたのが悪いわけだし」

「それなんだが、良かったらこの屋敷ごと魔王城に引っ越してこないか?」

「そんなこと出来るの?」

「ああ。魔王城の敷地に運べばいいだけだからさほど難しいことでもない」

「このゲートも動かせる?」

「可能だが、出来れば塞いで欲しい」

「でもこれがなければ私がこっちに来られないわ」

「移住するなら必要ないだろ」

「まだしない」

「屋敷の整備なら魔王城に移ってからでいいだろ」

「まだあなたを完全に信用した訳じゃないのに同居は無理」

「危害なんて加えられる訳ないだろ。心配なら結界でも張っとけ」


 呆れ顔の魔王に、アベラはそれもそうかと納得してしまう。魔王城にいる魔物や魔族がどれほどの力を持つのかは定かではないが、ある程度の魔物であれば結界に触れただけで殺せることは確認済みだ。

 それに正式に魔界に住むことになれば、アベラは禁書に書かれていた『魔族化』というものを試すつもりだ。


 二度と人間に戻れなくなる禁忌中の禁忌。

 だが魔族化をしてしまえばその名前の通り、魔族へと変わり、魔法も使えるようになる。今まで触媒の無駄使いをしたくないと使ってこなかった魔法の練習だって気軽に出来るようになることだろう。それに、暮らす場所が魔王城だろうとそうでなかろうとも一定の危険はつきものである。


 アベラは頭の中で魔王城ライフを描き、そしてある場所で思考をピタリと止めた。


「魔王城に引っ越すのはいいけど、まだゲートを閉める訳にはいかないわ」

「まだ何かあるのか?」

「竹炭丸の移動がまだなの。あの子を置いて移住は出来ない」

「それなら待ってるから今連れてこい」

「今のゲートの大きさだと竹炭丸は通れないわ。お偉いさん達にバレないように拡張しないと」


 いや、一瞬だけだったら大きめのを開いても感知される前に移動出来る? 触媒となる魔核なら手元に大量にある。足りなければストックしてある薬草丸を全て使って今出せる最大出力でゲートを……。

 ぼそぼそと呟きながら計画を練っていく。

 だが無理にこじ開けて竹炭丸の身体に異常が出たらと思うと一歩を踏み出すことは出来なかった。ウンウンと唸りながら最適解を探す。すると魔王は「はあああああ」と物凄く長いため息を吐いた。


「何よ」

「……お前、馬以外に人間界に心残りはないのか?」

「特にないわね。家族にも手紙残しておけば十分よ。都合が悪かったら燃やして死亡届けでも出して置いてくれるでしょ」

「なら手紙を書け。今から竹炭丸を迎えに行くぞ」

「どうやって?」

「俺は魔王だ。人間にバレないように一時的にゲートを開くくらい出来る」

「本当に!? 魔王様最高!」


 朗報にアベラは立ち上がり、魔王に飛びついた。彼はもう一度深いため息を吐いたが、それ以上質問を投げかけることはなかった。


 アベラは魔王からもらったレターセットに家族への別れを書き、そしてすぐに彼が開いたゲートを通過した。


 魔王が開いたゲート内には長い滑り台はなく、代わりに大きな箱があった。エレベーターのように紐もなければ内部にボタンもない。中へと入り、再びドアが開いた時にはアベラと魔王はカサンドラ屋敷の前に立っていた。


「ここで待ってるから早く手紙を置いて竹炭丸を連れてこい」

「見つからないようにね!」

「そんなヘマはしない」

 魔王に背中を押され、アベラは駆けだした。


 誰かに見つかったら全てが台無しになる。バレませんようにと心の中で祈れば心臓はバクバクと激しい音を立てた。荒くなる息で自室に辿り着き、机の上に手紙を残す。後は竹炭丸を連れて魔王の元へ行けば本当に人間界とはお別れすることとなる。


 けれどアベラの胸に寂しさなんてなかった。むしろ楽しさで胸がいっぱいだった。

 彼が魔王であるという確証はない。けれどアベラにとって久しぶりのまともに会話してくれる相手だったのだ。また明日もお話してくれるかな。そう考えると心は浮き足だった。馬小屋へ向かう足取りは自然と早くなる。


「竹炭丸、起きて」

 まだ竹炭丸の起床には早い。けれど彼は起こされることが分かっていたかのように、スッとまぶたを開いた。そして仕方ないなとでもいうように軽く首を振ってから立ち上がった。

 静かにスタスタと歩く竹炭丸を連れて、魔王の元へと帰れば彼は何も言わずに再びゲートのドアを開いた。そのまま二人と一頭で魔界へと降りていく。



「グッバイ、人間界」

 小さく呟けば、竹炭丸もまたフンっと鼻を鳴らした。



 ◇◇◇


「この剣は大切な人を守るために使いなさい」

 剣聖と呼ばれた祖父はその言葉と共に一本の剣を託してくれた。剣先が丸められている模擬剣だが、ウォレスにとっては唯一の剣だった。


 祖父のようになりたくて、その日からずっと剣を振るうことが日課となった。

 その時はまだ『大切な人』が誰のことかは分からなかった。いずれ妻となるであろう婚約者がそうかと考えた時もあったが、いつもニコニコと微笑んで自己主張をすることのない彼女を守る自分がどうも想像が出来なかった。


 その時の彼にとってアベラは付き人のような存在だったのだ。いるのが当たり前で、何かしら特別な感情を持つことはない。

 目の前に不審者が訪れたとき、ウォレスは迷わず彼女の前に出て剣を構えることだろう。けれどそこにいた相手が婚約者ではなく、他の令嬢だろうと当家の使用人だろうと同じ行動に出るに違いない。


 騎士貴族の一員として、そして憧れの祖父の、ポルタル家の名に恥じるようなことをしたくないからだ。

 ベッドに入る時ですら剣を抱えたまま、『大切な人』と巡り会える日を夢見た。


 そしてあの日、ウォレスの前に『大切な人』が現れた。


「これだから脳筋は嫌なのよ」

 周りの使用人を凍り付かせる言葉を言い放ったのは間違いなく婚約者のアベラだった。

 少し前から剣ばっかり振っていて飽きないかだの、他の場所に連れて行けだの彼女らしくない言葉ばかり吐いていたが、この日、初めて明確なまでの拒絶の言葉を吐いた。


 それがとても嬉しかった。

 アベラと分かれ、家に帰ってからも何度と頭の中で彼女の台詞が繰り返される。


 アベラはウォレス個人を見て、そして拒絶したのだ。

 そのことを理解した瞬間、涙が溢れた。嬉しかった。鋭い言葉だが、今まで聞いたどの言葉よりも温もりがあった。


 剣聖の孫に向けられたものではなく、紛れもなくウォレスに向けられたものだから。


 彼はその日から剣を抱きしめて眠るのを止めた。代わりに彼女の歪んだ顔を思い浮かべながら眠る。するととても安心して深い眠りにつくことが出来た。



 その日からアベラはただの婚約者ではなく、ウォレスの大切な人に変わった。

 そして彼はいっそう鍛錬に励むようになった。同時にアベラを誰にも取られないように守りの体勢を強化するようにもなった。だがウォレスはまだ幼かった。彼が取れる手段など数少なかった。



「今すぐに彼女と結婚させてください」

 カサンドラ家に行き、当主である彼女の父親に頭を下げた。真っ直ぐにそう告げれば、彼は微笑ましいものを見るような優しく笑った。


「君はまだ十二歳だろう。婚約はしているんだ。あの子の卒業まで待ちなさい」

「それでは誰かに取られるかもしれない」

「なら君が守ればいい。君はあの剣聖の孫なのだから」

 目を細めた彼が見ているのはウォレスではなく剣聖の孫である。だが他の大人達とも少し違う。ポルタル家や剣聖に媚びた目ではない。孫なら出来て当然だろう、と笑っているのだ。剣聖を尊敬しているからこそのもの。


 アベラと婚約してからもう六年も経過しているというのに、今まで気付かなかったとは……。勿体ないことをしていたようだ。ウォレスは自分が思っていたよりも周りの人間がつまらない存在ではないことを知り、嬉しくて頬が緩んだ。


「俺が彼女を守るために何をしても、婚約解消はしないと誓ってくれますか?」

「ああ、もちろん」

 アベラの父はその言葉通り、ウォレスが何をしても婚約解消を言い出すことはなかった。


 たとえ自分の娘が食べたばかりの物を吐き出していようとも、ウォレスが意図的にアベラの悪い噂を流しても、お茶会の招待状を目の前で破り捨てても、彼はニコニコと笑い続けた。


 異常なまでの剣聖への執着だ。だがウォレスにとってはありがたかった。

 そして何より、そこまでしてもアベラの精神はまるで壊れなかった。かといって変に媚びることもない。


 彼女はあの日のまま。ずっとウォレスを嫌い続けていた。

 婚約者がしたことに気付いているのかもしれない。それでも構わなかった。社交界から遠ざかり、年々読書量が増えていく彼女に友人と呼べる者はいない。



 唯一の不安と言えば貴族の義務である王立学園への入学。

 療養中として回避することも可能だが、アベラには乗馬趣味があるという噂はすでに広がっている。ウォレスが流したのではない。たまたま目撃したどこかの令嬢が流したのだ。そしてウォレスが止める間もなく凄まじい早さで流れていったため、止めることはしなかった。


 止められないのならば拍車をかけるまで、と話を盛ることで彼女の悪評へと変換した。

 だがアベラが馬に乗れるほどの健康体だと周知されてしまったからには学園入学は不可避である。それにどうにか回避したところで後でバレてしまえばその時に入学をさせられることとなる。


 どうせ入学するならばたった一年とはいえ、在学期間が被っている方がマシだ。そう考えたウォレスはアベラが不在の間、学園でひたすらに草の根運動を行った。


「お可哀想に……」

「変わり者だという噂は耳にしていたが、それほどとは……」

「私の方から父に進言して」


 ウォレスの演技の甲斐あって、誰もが『アベラ=カサンドラ』を変人から最低な婚約者だと思い始めるようになった。


 ウォレスは被害者なのだと。

 けれど彼はアベラの話をした後に必ず付け加えるのだ。


「けれど俺にとって彼女が大切な婚約者であることには変わりない」

 その一言で、彼らはいっそうアベラに対する心証を悪くしていく。さしずめウォレスは健気な婚約者というところか。真の被害者はアベラだというのに、誰一人として真実に気付く者はいない。知ろうともしない。


 このまま計画を進め、彼女には孤独な学園生活を送ってもらう予定だった。

 だがウォレスはあまりにも周りを排他することに注力しすぎた。視界が狭まりすぎていると気付いたのはアベラの入学を間近に控えたある日のことだった。



「王子、用事とは一体」

 折角の休暇にわざわざカサンドラ家以外に足を運んだのは、王子直々の呼び出しだったからだ。手紙を渡された時はいっそ使用人を切ってしまえば見なかったことに出来るのではないかと考えたが、そんな考えを父は見通していたらしい。


 わざわざ念押しのためにウォレスの部屋に足を運び、しまいにはカサンドラ家にこの日ばかりはアベラを外に出さないでほしいとの手紙まで出した。


 ウォレスの父には祖父のような剣の才はない。だが息子の行動を先読みすることは出来る。父はウォレスに、指定された日に登城しなければ一ヶ月間のアベラとの交流を禁ずると言い放った。それが一番ウォレスが堪えると理解しているからこその言葉だ。ウォレスは唇を噛みしめながら、仕方なく城に向かった。



「ウォレス。君に紹介したい人がいる。癒やしの力を持った娘で、来月にはベルカ家の養女に迎えられる予定だ」

「はじめまして、ウォレス様。私、アリエスと申します」

「君の婚約者にどうかと思ってな」

「ベルカ家……」


 ベルカ家といえば名家の一つである。公爵家ともなれば血統を重んじる家系も多いが、ベルカ家は特殊な血や能力を持つ者は率先して自らの家系に加えたがる。同時に野心も強く、政治以外の分野でも頭角を現している。

 今でこそポルタル家が剣術分野のトップに君臨しているが、その場所も彼らは虎視眈々と狙っていると耳にしたことがある。まさかポルタル家の者を直接取り込むことで成り上がろうとするとは思わなかった。その上、王子まで動かすとは……。本当に手段を選ばない者達だ。ウォレスは呆れを隠そうともせず王子に視線を注ぐ。


「俺にはすでにアベラがいます」

「彼女とは最近上手くいっていないのだろう。君の家にもカサンドラ家にも話を通してある。君さえ了承すればそれで構わないとのことだ。どうだ、アベラ=カサンドラとの婚約を解消し、この娘との婚約を結んだらどうだ?」

 王家から直接言われてしまえば拒むことなど出来ないだろう。

 この話だって問いかけているようで、受け入れてしかるべきだとの圧を感じる。もしもこの場に呼ばれたのがウォレスでさえなければ話を受けていたかもしれない。だがここにいるのはウォレスだ。アベラを手元に置くためなら何でもしてしまうほど、彼女に強く執着している男である。


「お言葉ですが、王子は先ほどから一体誰のことを言っているのですか? そこには誰もいないじゃないですか」

「何を言っているんだ?」

「俺とアベラの邪魔をする者はいません」

「ウォレス?」

「王子には幻覚が見えていらっしゃるに違いない。きっと疲れていらっしゃるのですよ。そう、ですよね?」


 ウォレスは剣に手をかけながら王子に問いかける。王子の隣には誰もいない。

 幻影と認めれば、アベラとの仲を引き裂こうとしたことを不問にしてやろう、と。彼の冷え切った視線に、王子はヒュッと喉を鳴らした。彼が望んだ答えを返さなければ、この男は簡単に命を奪うことだろう。この男は目の前にいる相手が王族であろうと関係なく、敵と認識する。自分はその狭間に立たされているのだと理解した王子はコクコクと首を縦に振った。


「す、すまない。私が疲れていたようだ」

「王子は国を担うお方だ。弟君がいらっしゃるとはいえ、王子の身体はただ一つ。これからはお疲れなど残しませぬよう」

 王子の答えに納得したウォレスは剣から手を離し、そしてにっこりと微笑んだ。王子はウォレスが去り際に残した言葉をこの先一生忘れることはないだろう。



 二年間の種まきの結果、学園に入学してきたアベラと積極的に関わろうとする者はいなかった。だが想定外のことが起きた。今まで積極的に誰かと関わろうとすることのなかったアベラがたった一人だけ積極的に関わろうとする相手がいたのだ。


 エダン伯爵家の三男、ガロワ=エダンである。

 今まで何度も同じお茶会に参加していたはずだが接触はほぼなかったはず。不思議に思ったウォレスはそれとなく周りの生徒や教師に二人の様子を報告してくれるように頼んだ。二ヶ月ほど報告を聞き続けた結果として、二人の仲は特別な者ではなく学友程度であることが分かった。


 ウォレスがアベラのことを嫌っていると思い込んでいる彼らは、上手くやっているようだから気にすることはないだろうと口を揃えた。だがウォレスには不思議でたまらなかった。


 学友程度であろうともあのアベラが友好関係を築けているのか。

 ガロワは決して馬鹿な男ではない。授業以外での交流を見かけないところから立場をわきまえているとも言えるだろう。だがそれは今、ウォレスが学内にいるからではないか。そう考えると怖くなった。


 嫌われることに極振りした自分と、学友として友好な関係を築いているガロワ。

 今はまだアベラの心の大半を占領出来ている自信はある。だが何かが起きてしまえば、その割合は一気に逆転してしまうだろう。それは例えばウォレスの卒業である。結婚出来るまでまだ二年もあるのに……。考えれば考えるほど息が苦しくなった。



「アベラに見向きされなくなれば、俺の価値はなくなる……」

 そう呟けば、息を吐き出した分だけ首が締めつけられるような感覚に襲われる。

 ウォレスにとってアベラは酸素と同じなのだ。彼女がいなければ生きていけない。誰かに取られる前になんとかしなければ……。


 剣に手をかけ、いっそガロワを殺してしまおうかと頭を過った。けれどウォレスは一度大きく息を吸い込んで考えを改める。ガロワ=エダンは優秀な男だ。彼さえ上手く使いこなせれば、この先二年の心労は一気に減ると言っても過言ではない。そう考えたウォレスはガロワとの接触を計った。


「君には俺とアベラが一生を添い遂げるために協力してほしい」

「……悪事に手を染めろというのですか?」

「いや、アベラに害虫が付かないように見張っていて欲しいんだ。俺が駆除をしなくてもいいように、必要とあれば追い払って欲しい」

「今の私も害虫としてカウントされていますか?」

「候補といったところか」

「つまり私自身も彼女と距離を置きつつ、他者を遠ざけろということですか」

「理解が早くて助かる」

「……彼女は私の良き学友でした」

 短く息を吐いたガロワはそれから周りを軽く追い払うための方法を教えてくれた。アリエス=ベルカという名の女子生徒を使えばいいと言われた時は理由が分からずに首を捻ったものだが、その生徒はウォレスの想像以上の行動をしてくれた。


 なぜかウォレスを極端に恐れているアリエスはアベラの前で過剰反応したらしい。その現場をたまたま目撃していた生徒が噂し、そして今まで流してきた彼女の悪評と相乗効果を生み出していく。残った害虫候補の掃除はウォレスとガロワが行った。

 なぜ王子とその婚約者までもが協力してくれたかは分からなかったが、おかげでアベラの周りにはウォレスを残して誰もいなくなった。


 社交界でも学園でも完全に孤立した彼女の会話相手はカサンドラ家の者を除けばウォレスだけ。


 ウォレスは完全にアベラの居場所を管理下におけた、と思い込んでいた。

 けれどある日、幸せな未来を確信していたウォレスの計画にはなかった自体が発生した。



「アベラと竹炭丸がいなくなったってどういうことですか?」

「メイドがあの子を起こしに行った時にはすでにベッドにはいなかったらしい。代わりにこの手紙が」

「手紙?」


 アベラが忽然と姿を消したのだ。

 ウォレスは彼女の父から手紙を受け取り、そして目を通していく。真っ白な便せんに書かれたそれはひどく簡潔なものだった。


『私がこの家にいても不利益しかありません。なので竹炭丸と共に家を出ることにしました。帰ってくるつもりはないのでどうかウォレス様との婚約は解消してください』


 ただそれだけ。家族に一生の別れを告げる手紙とは思えない。けれど彼女が本当に帰ってくるつもりがないことが理解出来た。おそらくアベラにとって大切だったのは竹炭丸だけだったのだろう。


「他になくなっているものは?」

「服も本も、靴ですら減っていない」

「アベラは以前から家を出ていくことを考えていた?」

「どうだろうな。だが最近は独り言が増えていたようだ」

「独り言……」

 確かに馬車に乗っている時も彼女はぼそぼそと何か呟くことが増えていた。どうせ自分の手の中から逃げ出すことは出来ないからと気にしていなかったが、思い出すといつも似たような言葉を口にしていたような気がする。



『屈してたまるか』


『泣いて縋るくらいだったら……』


『足を止めたらその場から移動出来ない』


『私には竹炭丸がいる』



 ウォレスが思い出せるのはこの四つ。冷静になってみると不穏な言葉ばかりだ。

 けれどアベラが誰にも見つからずに家を抜け出すことが可能だろうか? カサンドラ家の使用人は誰一人として物音に気付かなかったという。彼女一人ならば可能かもしれない。けれど他の馬よりも体格の良い竹炭丸を連れていたのだ。静かな夜に跨がれば竹炭丸が地面を蹴る音がよく響くはず。


 考えられる可能性の中で一番簡単な方法は、完全に日が暮れる前に竹炭丸だけを先に屋敷の外に連れ出しておき、アベラは屋敷中の人間が寝静まった後に単身で抜け出すこと。だがこの方法を取るには竹炭丸を宥めることが可能な協力者が必要である。


 気位が高く、自分よりも『上』と認識した者にしか従おうともしないあの馬を手なずけることが出来た存在。ウォレスには一人だけ心当たりがあった。



「すみません。ちょっと出てきます」

「どこへ行くんだ」

 カサンドラ家当主の問いに答える余裕などなかった。今のウォレスにとっては一瞬でさえも惜しい。


 愛馬・シュバロに身体をピタリとくっつけ、全速力で駆け抜けた。向かう先はカサンドラ屋敷から半日以上離れた田舎村。シュバロと竹炭丸の故郷でもあるその村は、彼女の乗馬講師が住んでいる。竹炭丸を乗りこなせる数少ない女性だ。


 あの人ならばなるべく静かに竹炭丸を外に連れ出すことが可能であり、アベラと定期的に連絡を取っていても不思議に思われることがない。


「令嬢・令息だけではなく、他の手紙もチェックしておくべきだったか」

 ウォレスは舌打ちしながら、さらに速度を上げろと愛馬に命令を下す。相棒と呼ぶに相応しいシュバロもまたライバルの行く先が気になっているらしい。風と一体になりながら野を越え山を越え、通常の半分以下の時間で村へと到着することが出来た。


「レディア! レディアはいないか!」

 彼女の家のドアをダンダンダンと大きな音を立てて叩く。周りの馬達が怯えてしまっているが、ウォレスにはどうでも良かった。早く出てきてくれと願いながら、ドア以外の侵入経路を探す。いっそこのドアを蹴破ってしまえばいいかと考えた辺りで中から足音が聞こえてくる。顔を出した彼女の髪はびしょ濡れ。どうやら風呂でも入っていたらしい。


「はいはいここにいますよ、ってポルタル家の坊ちゃんじゃないですか。どうしたんですか? シュバロが怪我でもしましたか?」

「違う! アベラの行方を知っているなら話せ!」

「アベラ様ですか? 知りませんが」

「黙っていると良いことはないぞ」

「本当に知りませんって」

 レディアには威圧は効かない。ウォレスとシュバロが出会う前から知っているからだろう。見た目よりも年上の彼女はワガママを言う子どもを見るような目をしている。そして相変わらずですね、とケラケラ笑うのだ。それが面白くなくて、ウォレスはキッと睨み付けた、すると今度は呆れたような表情に変わった。


「アベラ様に異常な愛情を向けている坊ちゃんに隠し事なんてしたらどうなるかくらい想像がつきますよ。私が死んだらここにいる子達の世話をする者がいなくなります」

「それも、そうだな」

「アベラ様の行き先は知りませんが、以前、手紙で妙なことを聞かれましたね。馬は魔界で生存することは可能かどうか、って」

「……あなたは何と答えたんだ?」

「通常の馬なら長くは持ちませんが、竹炭丸なら別です。剣聖の愛馬の血を引くあの子には魔素への抗体がありますから、と伝えました。心配なら魔核というアイテムを飲ませ、身体を適応させてしまえばいいのです。ただし魔核を持った者はこの先、人間界で生き抜くことが難しくなる、と忠告も加えておきました」

「その手紙が届いたのはいつだ?」

「二ヶ月ほど前ですかね。でもさすがに魔界に行くなんてありえないでしょう?」

「アベラ一人なら、な。だが協力者が魔界にいるなら別だ」


 レディアが顔をしかめるのも無理はない。魔界には人間に害をなす魔物や魔族と呼ばれる存在で溢れている。さらに通常の人間には魔界で生き抜けるだけの抗体がない。魔素を身体に取り込み続ければ、体内から犯されて死んでいくこととなる。

 だがごくごく稀に魔素抗体を持った人間が存在する。それがウォレスの祖父であり、その仲間たちだった。遺伝的要素は未だ発見されておらず、どこの家系にも一定確率で存在すると言われている。


 運命にも近いその確率をアベラが掴んでいる可能性を否定する材料をウォレスは有していない。


「もしも協力者がいたとして、どうやって魔界に行ったというの? 今は王都にあるゲートを除く全てが塞がれているんですよ?」

「確か申請書類作成には当主の印と国王の承諾が必要だったはず。けれどカサンドラ家の当主はそんなこと一言も言っていなかった……」

「もしも申請を出したとしても魔族側の動きが活発化している今、許可が降りるはずがないわ」

「魔族の動きが活発化している? どういうことだ?」

「私も詳しいことは知らないんですが、魔王が代替わりをしたのではないかとのことで、王都では魔界に派遣する者を探しているらしいですよ。私の元にも少し前に王家から魔界に連れて行ける馬はいないかとの手紙が届きましたし。この手の話って剣聖の孫である坊ちゃんに一番に声がかかりそうですけど、そんな話聞いていませんか?」

「なぜ俺がアベラを連れて魔界なんぞに行かなければならないんだ?」


 奪われないようにずっと近くに置き続けてきたというのに、魔界で誰かにさらわれたらどうしてくれるのか。人ならば剣で斬れば終わりだが、魔物は斬っても回復してしまうかもしれない。


 もちろんウォレスの中にアベラを人間界に置いていくという選択肢はない。

 もしも魔界行きが逃れられないものだとしたら、彼女を縄にくくりつけてでも背負って連れて行くことだろう。ウォレスは真顔で答えれば、レディアは諦めたように遠くを見つめた。


「愚問でしたね」

「それにしても魔界、か……。シュバロなら何日間滞在が可能だ?」

「その子は他の馬よりも強いですから十日はいけるとは思いますが……魔界に行けば、シュバロも坊ちゃんも寿命をすり減らすことになりますよ」

「アベラがいない場所で生き続けることに何の意味がある?」 

「本当に坊ちゃんの愛は揺らぎませんね。一直線で大きすぎて、まるでアベラ様には伝わっていない」

「俺はアベラに愛されたいんじゃない。彼女の頭を占拠したい。唯一であり続けたい」


 ウォレスはアベラを愛している。この先もその愛が変わることはない。

 もしも彼女に向ける感情を同じかそれ以上のものを他者に感じることがあれば、ウォレスは迷いなくその対象を殺すだろう。アベラを失わないためなら何でもする。この愛を知った日にそう誓ったのだ。


「……それが嫌で逃げ出した可能性は」

「じゃあ俺は行く。いきなり来て悪かったな」

 ウォレスはレディアの言葉など聞こえていないフリをして、シュバロに跨がった。すると彼女は「ちょっと待ってください」と言い残すと家の奥へと向かった。馬から降りてしばらく待機すれば、彼女はナップザックを手に戻ってきた。


「どうせ家には戻らないんでしょうから、これ」

 紐を緩めれば、中には彼女が作ったのであろうサンドイッチと二本の水筒、そして乾燥させた牧草が入っていた。

「ありがとう、レディア」

「お元気で」

「ああ」


 レディアはこれがウォレスとの一生の別れになるような気がして、彼の背中が見えなくなるまで手を降り続けた。振り返ろうともせずにただ真っ直ぐ魔界を目指す子どもの背中を。そして一人になったレディアはぽつりと呟いた。


「逃げたところで何にもならないのにね……」

 レディアがウォレスと会ったのは彼が四歳の時だ。

 アベラと婚約者になるよりも、彼の歪んだ愛情が芽生えるよりも以前から知り合っていた。そして少しずつ変わっていくウォレスを目にしてきた。だからこそ分かるのだ。魔界に逃げたところであの子から逃げることなど出来ないのだ。


 きっとウォレスはアベラを見つけることだろう。そして今度こそ自分の手の中から逃げ出さないように今よりもずっとずっと彼女を強く縛り付けるのだ。

 惚れられた時点でアベラの未来は決まっていた。可哀想だがレディアは彼女を助ける術を持たない。


 かつて剣聖と呼ばれた男に「負けました」と言わせて膝をつかせた子どもに一介の馬飼いが勝てるはずがいのだから。


 ◇◇◇


 魔界に来てすぐに竹炭丸には魔核を飲ませ、アベラは魔族化を済ませた。

 そして案外すんなりと魔王城に馴染んでいた。


「アベラ様。今日のお昼は何がいいですか?」

「ハンバーグ!」

 魔王の計らいで来客ではなく重役扱いになったアベラと竹炭丸の扱いは想像していたよりもよかった。さらにいえばほどよい距離感を保ちながらも変に萎縮することはなく話しかけてくれる魔族らは人間達よりも身近な存在に思えた。


 とどのつまり魔王城はアベラにはとても過ごしやすい環境だったのだ。


 一日中魔法の練習をしたり、竹炭丸と共に森に行っても魔王以外は小言を言ってくることはない。唯一文句を言う魔王だが、彼はなんというか目線が完全に保護者なのだ。


『運動不足は脳の働きを悪くするぞ。竹炭丸と出かけてきなさい』

『肉ばっかり食ってるそうだな! スムージーを付けるように命じておいたからちゃんと飲むんだぞ!』

『水分はちゃんと取っているのか? 魔族の身体が強いからといって健康をおろそかにするんじゃないぞ!』


 アベラが魔族としてはまだまだひよっこだからか、ただの世話焼きなのかは分からない。けれど人であった頃よりもずっと人間らしい対応を受けている気がする。

 また魔界に来てから変わったことといえば竹炭丸の見た目だろうか。


「竹炭丸様はいかがなさいますか?」

「後で森に食いに行くからいい」

「承知いたしました~」

 魔核を飲ませたことで上級魔獣となった竹炭丸は人化出来るようになった。おかげで一方的に話しかけるだけではなく、会話まで出来るようになったのである。


「森、一人で行くの?」

「お嬢も行くに決まってんだろ。引きこもってばっかだと魔王にまた小言言われんぞ」

「それは嫌」

「運動不足になるようだったら歩かせろって言われてんだから気を付けろよ」

「まだこっち来てから一週間と経ってないのに、魔王って私のこと犬かなんかだと思ってるのかしら?」

 アベラの問いに竹炭丸は何も答えない。けれど竹炭丸はアベラが心地よさを感じていることを理解してくれている。

 魔獣になろうとも、言葉を交わせるようになろうとも、彼はアベラの一番の理解者であった。


 けれどそんな竹炭丸には困ったところはある。

「ウォレスとシュバロはいつになったらこっち来るんだろうな」

 彼は魔界に来た日からずっとウォレス達も遅れてやってくると思い込んでいるのだ。


「だから何度も言ってるけどあいつが来る訳ないでしょ。一緒に散歩する相手が欲しいっていうなら私がこっちで良い子探してあげるから」

「ウォレスがお嬢を放っておくわけないだろ」

「あの男は私に関心ないわよ。いなくなったらいなくなったで、今頃聖女様なり他の令嬢なりと婚約しているんじゃない? 剣聖の孫なんて引く手あまただろうし」

「人間界にいた時から思ってたけど、お嬢って凄い鈍感だよな……。なんであんなに長い時間一緒に居て気付かないんだよ」

「まぁあいつが私に関心があろうとなかろうともどちらでもいいわ。どちらにせよウォレスがこちらの世界に来ることはないんだから。ビバ魔界ライフ!!」


 魔界万歳!! と両手を掲げれば、小屋の入り口で「用意出来ましたよ~」とランチデリバリーの声がする。

 アベラはソファから腰を上げ、玄関までハンバーグの回収へと向かった。人間界にいる元婚約者なんかよりも昼食の方が大切だったのだ。だから部屋に残された竹炭丸が「時間がかかってるだけだと思うがな」と不穏な呟きをしていることなど気付くはずもなかった。




 今日も今日とて魔王城シェフが腕を振るったハンバーグを頬張るアベラの前で、魔王は難しい表情を作りながらポテトを突いていた。

 一緒に食事を食べたいとトレイを持ちながらやってきた時から何かあるだろうと思っていたが、アベラが想像していたよりもずっと口に出しづらい話題らしい。


 付け合わせの野菜を魔王の皿に移しても文句を言う気配がない。それどころか野菜スムージーと彼のお茶を入れ替えれば、気付かずに飲み干したほどだ。疲れているのだろう。

 竹炭丸がせっせと野菜をアベラの皿に戻すのに嫌な顔を作りながら、魔王へと問いかける。


「何か気になることでもあるの?」

「アベラ以外にも魔界に興味がある人間っているのか?」

「興味とは少し違うけど宮廷魔道師とかかしら? ゲートの管理を行っているし、常に同行把握に勤しんでいそうよね」

「宮廷魔道師以外には?」

「その枠に就職を希望する学生とか? でも人間界に好んで魔界に触れようとする者なんているかしらね」

「学生、か」


 乙女ゲームでも選ぶ攻略者によって魔界へと向かうイベントが発生する。

 それらは魔道書を獲得する予定の彼と、ウォレスルートに存在する。だが魔道書はすでにアベラの手の中にあり、彼が魔界へと進んでやってくる理由もない。

 となると残るはウォレスルートだが、こちらは魔王に誘拐されたヒロインを救出するという形で魔界へやってくることとなる。


「ねぇ、確認なんだけど近々人間の女の子を誘拐する予定とかあったりする?」

「なんだ急に」

「いいから答えて」

「しない。そもそも人間を攫うメリットがない」

「それが特別な力を持った人間でも?」

「特別な力を持っていようが人間は人間だ。それに自ら来た元人間にまともな生活を送らせるので俺は忙しい」

「私はまともよ!」

「じゃああれはなんだ!」


 声を荒げた魔王が指さしたのはアベラと竹炭丸の後ろに設置されたとあるスペースだった。

 この世界にある物しか出せないと思った錬金術だが、意外と使い方次第でどうにでもなるものである。お散歩の道中でゲットした大量の触媒を消費することとなったが、見事に畳とこたつの錬成に成功したのだ。

 もちろん座布団とどてらも錬成済みだ。


 異世界人には見たこともないであろうグッズの数々に、竹炭丸も初めのうちは眉間に皺を寄せていたものだ。そう、今の魔王のように早く片付けろだの力の無駄使いだと文句を言ってきた。


 だがそれは過去の竹炭丸の話である。


「魔王」

「竹炭丸からも何か言ってやれ」

「あれらは恐ろしい魔道具なんだ」

「魔道具?」

「一度使用したら最後、なかった頃には戻れない恐ろしい道具だ。かくゆう俺ももう手放すことは出来ない……。見逃してくれないか?」

「竹炭丸もすでに心を掴まれているのよ! 観念してあなたもどてら着込んでこたつに入りなさい!」


 アベラがトレイを持ち上げ、こたつの方に移動すれば竹炭丸も自分専用のどてらを着込む。魔王には彼用の物を手渡せば、しぶしぶながらも腕を通してくれた。その流れでこたつにも足を入れ、そして背中を丸くしながら「……悪くないな」と小さく呟いた。


「竹炭丸、お茶」

「はいはい」

 竹炭丸に注いでもらったお茶をずずずとすすり、ほっと一息つく。


「それで話戻すけど、なんで魔王は人間のこと知りたいの?」

「人間界からゲートに触れた形跡がある」

「それって魔界側からも分かるものなの?」

「既存の物であればな。そのための協定だ」

「そうなんだ。でも未だに剣聖が讃えられているってのに、彼の功績を壊すような馬鹿はいないと思うけど……。ただゲートはどれも厳重に管理されているの。偶然で触れるなんてあり得ないわ」

「初めの接触があった後すぐに、間違って落ちてこないようにとゲートの出口に結界を張ったんだが、昨日五度目の接触があった」

「いつから続いているの?」

「アベラと竹炭丸が魔王城に引っ越してきた数日後くらいからだろうか」


 正確な日数は分からないが、この短期間で五回の接触となると明らかに意図的なものであると見ていいだろう。だが魔道師達が正式な手続きを踏まずに強行しようとするとは思えない。それにもし誰か一人が仲間の隙をついていたにしても、さすがに五回も触れていればどこかで気付くだろう。


 だがそれ以外の人間となると触れる時点で難易度が跳ね上がる。それにもしバレた場合、かなり重い罪を科せられることだろう。

 つまり犯人は大きなリスクを負ってでも魔界に執着する理由を持った人間、もしくは魔界側との協定をぶち壊したいと考えている存在である可能性が高い。とはいえ現状では情報が足りなすぎる。


 ただ魔界に興味があるだけという可能性も捨てきれない。


「結界を強化しながら人間側と連携して犯人捜し出来るのが理想かしら?」

 事情を話せば人間側も協力せざるを得ないだろう。人間側もゲートに触れた者がいること自体には気付いているかもしれないし。先ほど竹炭丸に回収されてしまった野菜を口に入れながら、午後は結界用の触媒探しにでも出かけようかと考える。

 魔王も「それがいいか」とコクコクと頷いた。けれど竹炭丸だけは一人、窓の外を見つめていた。


「ウォレスだ」

「は?」

「ウォレスがお嬢を追ってこようとしているんだ」

 目を輝かせながら「後どのくらいで到着するんだろう」と空を見つめる。だがそれはあくまで竹炭丸の希望的観測に過ぎない。


「いい加減諦めなさいよ。あいつは来ないの」

「いや、ウォレスは絶対来る」

「来ない」

「ウォレスとは二人の知り合いなのか?」

「私の『元』婚約者よ」

「今も婚約者だろ」

「とっくに解消なり破棄なりしてるわよ」

「ウォレスが承諾するはずがない」

「アベラは相手から捨てられるんじゃなかったのか?」

「ウォレスがお嬢の周りの人間全員を切り捨てることはあっても、お嬢を捨てることはない」

「……聞いていた話と違うんだが?」

「竹炭丸はいろいろと勘違いしてるのよ。それにもしあの男が私に情を持っていたとしても、尊敬するお祖父様の功績を無にすることだけはしないわ」


 もしウォレスが乙女ゲームとは違う感情を持っていたとしても、あの男の一番は彼の祖父、ガイアス=ポルタルなのだ。

 婚約者に構わず剣を振るっていたのは全て尊敬すべき祖父の名に泥を塗りたくなかったから。剣聖の孫として相応しい人間になるために努力し続けたのだ。


 アベラはウォレスが嫌いだ。

 簡単に婚約者を切り捨てるような脳筋が嫌い。


 だが彼の努力は間近で見続けていた。一番近くとは言えないかもしれない。それでも知らんぷりなんて出来ないほどに長い時間を共に過ごしてきた。だからこそアベラはウォレスを信じている。


「あの男は来ない。この話はもう終わりよ、竹炭丸」

「お嬢……」

「私は情報提供には協力出来ないけど結界の強化くらいなら力になれるわ」

「助かる。俺は人間側と連絡を取ってみる。あちらで特定し、ゲートとの接触を止めてもらえるのが一番楽な解決法だしな」

「そうね」


 竹炭丸はアベラの言葉に納得いかない様子だが、それ以上食い下がることはなかった。



 魔王が城に戻ってからは二人で森へ触媒探しに出かけ、結界作りに明け暮れた。

 だが結界の設置が終わっても未だ魔王も人間側も接触者の尻尾を掴めずにいた。接触がある度に魔界側は結界を強化し、人間側はゲートの周りを強化する。特に人間側は魔王から連絡が来る度に焦っているらしく、ゲートの完全封鎖を提案してきたほどだ。だがゲートがあるということはつまり移動場所が限定されているということでもある。

 封鎖したとしても相手からの接触が止まる保証はない上、もし魔界に入ってきてしまったとしても対処が後手に回ってしまう。犯人が諦めてくれるのが一番なのだが、接触は止むどころか頻度を増している。


 あれからさらに二度ほど人間界側のゲートを突破した形跡がある。魔界側に張ってある結界のおかげでこちらに入ってくることは出来ずに引き返しているが、三度目で突破されないとも限らない。


「いっそ犯人を魔界に通過させて、ここで確保するのはどう?」

「相手がどうやって人間側の目をかいくぐっているのかすらも分からないのにか? 危険すぎる。せめて目的だけでも分かればいいのだが……」

「アベラを追いかけてきてるだけだからそんなに構えなくてもいいと思うがな」

「まだ言う?」

「よく考えてみろ。ウォレス以外にこれらが出来る人間がいると思うか?」

「なんでウォレスは出来る前提なのよ……」

「剣聖の孫というのは特殊能力を持っている存在なんだろ?」

「剣聖の、孫?」

「偉業を成し遂げた男の孫というだけで、ウォレス自体は普通の人間よ」

「ちょっと待ってくれ。そのウォレスってあのガイアス=ポルタルの血縁者なのか?」

「孫だけど?」

 それが何か関係あるの? と問おうとするも、魔王は頭を抱えてうずくまってしまった。


「もっと早く聞いておけば良かった……結界は全て回収してくる」

「え?」

「ウォレス=ポルタルを魔界に迎える」

「何言ってるの?」

「あの剣聖の孫なら拒み続けると後々面倒臭いことになる」

「でも確定事項では」

「違ったら捕縛して突っ返せばいいだけだ」

 そう言い残すと、魔王はスタスタとゲートへ向かっていってしまった。つい数分前と言っていることが違うじゃない……なんてアベラのぼやきが彼に届くことはない。


 代わりに竹炭丸は人から馬へと姿を変え、地面を思い切り蹴っている。ゲートの結界さえ取ってしまえばウォレスと共にシュバロがやって来ると思っているのだろう。ライバルがいなくて張り合いのなさを感じていた竹炭丸は鼻息をふんふんと鳴らしながら屋敷を後にした。来る日に備えてウォーミングアップでも行うつもりなのだろう。


 そんな日が来るはずがないと思っているアベラははぁ……とため息を吐いてからこたつに潜るのだった。




 それから三度ほど夜を迎えた後、久々の婚約者と対面することとなる。


 竹炭丸の予想が的中したのだ。

 剣を携えてゲートを通ってきたウォレスの頬はすっかりやつれ、心なしか目つきも以前よりも鋭くなっていた。魔王城にいる魔物や魔人よりも野生感溢れる彼からはやや殺気のようなものを感じる。彼はギロリと魔王達を睨むとアベラの手首を掴んだ。


「アベラ、帰るぞ」

「帰るってどこへ?」

 当たり前に言ってくれるが、すでにアベラは人間界を捨てたのだ。帰ることなど想定していないし、帰りたいと望むこともない。


 ブンッと手を振って振り切れば、ウォレスは眉間に皺を寄せた。彼から敵意を向けられたのは初めてかも知れない。背筋がゾクっとする。けれどアベラは彼から目を逸らさなかった。


 自分の意思でここにいるのだと納得してもらわなければ彼がここから引くことはないだろうことを理解しているからだ。


「人間界だ。学園には休学願いを提出してある。普通の生徒よりも少し長く在学することにはなるが、ちゃんと卒業させてもらえるように話はつけてある」

「学校に私の居場所なんてないわよ。先生ですら私の質問に答えてくれない」

「そんなに学校が嫌なのか?」

「嫌い。学校も社交界も屋敷もあなたも人間界も。竹炭丸以外の全てが嫌いだった。だから私は別の世界に来たんです。ここにいるみんなはちゃんと私を見て話してくれる。魔王と竹炭丸はお小言を言ったりするけど、でもそれは私と向き合ってくれている証拠だわ。あの家の人達やあなたとは違う」


 口にすればどんどんと人間界での不満が溢れ出す。

 魔王や竹炭丸には似た話をしたことがある。けれど彼らは魔族であり、馬である。アベラと同じ種族ではない。経験も考え方も全てが異なる。けれど目の前のウォレスは性格こそ違えど人間だ。人間貴族社会で生き抜いてきた同族。いくら彼が鈍感だとはいえ、アベラの心からの叫びが分からないほど馬鹿ではないだろう。


「あなたはなぜここに来たんですか? 誰かに連れて帰ってこいとでも言われたんですか? そんな訳ないですよね。あそこに私を必要とする人なんていなかったもの!」

「アベラ……」


 彼が何度も危険を犯してゲートを通過しようとする理由は何か。そんなことどうでも良かった。

 ただアベラは、彼の唯一好きになれるかもしれない部分を踏みにじられたことが許せなかった。


 これ以上、人間を、婚約者であった彼を嫌いになどなりたくなかった。

 乙女ゲーム上のウォレスよりもずっと変人で、けれど同じくらい鈍感で脳筋な彼の嫌な思い出など増やしたくないのだ。


 暴れ馬に乗せられたあの日の、過去の記憶が最悪でいいじゃないか。

 あの頃は酷かったと、他の誰かに熨斗をつけて贈った後で『私は私で幸せになったんだから』とドヤ顔をしてやりたかっただけなのだ。


「帰ってください」

「……ここにいる奴らがアベラを変えたのか?」

「あなたが知っているアベラ=カサンドラはもうとっくに死にました。人間界じゃ、生きていけなかったから」

 唇に歯を立てながら告げれば、ウォレスは泣きそうな顔で視線を下げた。


「また、来る」

 妹のように感じていた存在が変わってしまったことがそんなにショックだったの? だけどアベラとウォレスは本物の兄妹ではなく、赤の他人だ。婚約さえ失くなれば何も残らない。彼は剣聖の孫だ。彼の妻になりたいと願い出る家は多いだろう。だからアベラは彼女なりの最大限の別れの言葉をウォレスの背中に投げつける。


「もう二度と会うことはないので、あなたはあなたで勝手に幸せにでもなってください」


 その時、ウォレスがどんな顔をしていたかなんて知るよしもない。

 ただゲートへと向かう足取りは弱々しく、今にも倒れそうなほどに生気を感じなかった。




 ウォレスが人間界に戻ってからというもの、ゲートへの接触はピタリと止んだ。どうやら今までの接触全てが彼によるものであったらしい。魔王は人間界の王様達と連絡を取り、今後の方針について話し合っている。

 アベラは以前の生活に戻り、こたつに入りながらゴロゴロと寝転がっては竹炭丸に小言を言われる日々を送っている。


「ウォレスは本当に諦めたのだろうか?」

「私は死んだってことにして、今頃新しい女の子と結婚でもしてるんじゃない? いや、そもそも魔界と人間界は時間の流れが違うからあの時点で結婚している可能性もあるか」

「指輪がなかった」

「よく見てるわね~。でも既婚者全員が指輪をしている訳じゃない。特に騎士は邪魔になるからって首から提げてることも多いわ」

「お嬢はそれでいいのか?」

「ウォレスとは住む世界が違うのよ。私が人間界に居た頃から、ね」


 適応出来なかった理由の一つを作り出したのがウォレスだったとしても、もう恨む気すら湧かない。そもそも普通の男爵家の娘が剣聖の孫なんかと婚約したことが間違いだったのだ。


 案外ゲーム内のアベラの選択が最適解だったのかもしれない。だが今さら可能性を辿ったところでもう遅い。時間が戻る訳でもなければなかったことにもなりはしない。


 人間であろうと魔人であろうとも、現在から未来の一方通行システムに抗うことはできないのだから。


「暇ね~。城の書庫漁って新しい魔法でも覚えようかしら」

「これ以上強くなってどうするつもりだ……」

「竹炭丸のライバルになりそうな子を作り出すとか?」

「ライバルはシュバロだけでいい」

「そう」

「ああ」


 ぼんやりと空を眺めながらアベラはゆったりと流れる時間に身を委ねる。人間だった頃は時間が惜しくてたまらなかったというのに、今では暇でたまらない。平凡すぎて張り合いもない。幼い頃から勉強ばかりしていたため、趣味らしい趣味もない。

 家具を増やしていくことが楽しみではあったが、アベラの部屋はすでに過ごしやすさを極めたものとなっている。これ以上増やす意味がない。


「暇なら散歩でも行くか? たまにはルートを変えて少し遠くまで」

「お弁当と水筒持っていくの?」

「それに本も。魔道書でも物語でも何でも良い。読書、好きだっただろう?」

「好きで読んでた訳じゃないわ。ただあの頃は知識を詰め込みたかっただけ」

「でもあの頃のお嬢の顔はキラキラしてたぞ」

「キラキラ?」

「ああ。川で泳ぐ魚のうろこみたいに綺麗だった」

「……書庫で選んでくる」

「なら俺はお嬢の弁当を用意してくれるように頼んでこよう」


 竹炭丸はふわりと笑うとアベラの頭を軽く撫でた。こんなのどこで覚えてきたのだろうか。たった一瞬で幸せな気持ちにしてくれるなんてさすがは竹炭丸だ。アベラは頬を緩ませながら書庫へと向かった。


 数冊の本を胸の前に抱えると王の間へと向かった。

 人間とのやりとりで忙しいらしい彼は、玉座に腰掛けながらも大量な書類のチェックに追われていた。けれどドアが開けば視線をアベラへと向けてくれる。


「どうした?」

「今日はちょっと遠くまで竹炭丸とお散歩に行くって伝えようと思って」

「そうか。竹炭丸と一緒なら大丈夫だと思うが、くれぐれも遅くならないうちに帰ってくるんだぞ」

「いってきます」

「気をつけてな」


 魔王はアベラが部屋を出るまで書類に視線を戻すことはない。そんな些細な気遣いが嬉しくて、ますます頬は緩んでいく。このままほっぺから中心に顔面が溶けてしまうんじゃないかと思うほど。

 るんるんと今にもスキップをしそうなほどに上機嫌なアベラは竹炭丸と合流し、バッグに荷物を詰めてから城を出発した。


 魔獣となった竹炭丸の全速力は人間界にいた頃とは比にならない。

 風を突っ切りながら矢のように駆け抜ける。凄い勢いで過ぎていく風景に不思議と笑いがこみ上げた。


「お嬢、楽しいか」

「ええ」

「そりゃあ良かった」

「海行きたい! 海!」

「あったかな? まぁ見つかるまで走ればいいだろ!」


 今日で見つからなければまた明日探しに出ればいい。時間ならたくさんある。

 アベラと竹炭丸にある制限は『遅くならないうちに魔王城に帰る』ということだけだ。


 他にも水分補給はこまめにしろだの、疲れを感じる前に休憩をいれろだのあるが、それらは制限にすらならない。魔王からの気遣いであり、親から子どもへの心配でもある。だから二人はそれに従ってちょくちょく足を休めては食事を摂り、水分補給をする。そして少し休んでからまた海探しへと向かうのだ。



 一日目は見つからず、城へと戻った。そして魔界に詳しい誰かに情報を求めることなく、翌日再び海を目指して出かけることにした。もちろんバッグの中身は昨日とほぼ同じ。違うのはお弁当の中身だけ。今日は魔王の助言により、野菜が大量に使ったハンバーガーらしい。小さめのをいくつか入れましたと告げられたが、中身はまだ見ていない。お昼までのお楽しみというやつだ。小さな楽しみを抱えつつ、竹炭丸に跨がった。


「今日は見つかるかしら?」

「さぁ。今日は南方向に走ってみるか」

「ええ」

 駆けて駆けて駆けて。途中で休憩をして、ハンバーガーも食べた。

 どろっと手に垂れるソースは少し塩味が強くて、たっぷりと入れられた野菜との相性は抜群だった。竹炭丸はデザートとして入れられていた魔界の果実が気に入ったらしく、これも探そうと目を輝かせていた。


 竹炭丸は走りながらも熱心に足下を探し、アベラは彼の上から木を見上げた。目的の果実は見つからなかったが、その代わりに美味しそうな新しい果実や木の実を見つけることが出来た。それらは採取し、バッグの中身に入れた。


 魔王達へのお土産にするためだ。

 本当に食べられるものかまでは分からない。けれど彼らはきっと喜んでくれることだろう。竹炭丸と顔を合わせ、ニッと笑えば楽しさはますます膨らんでいく。


 その日も海は見つからなかったが、好きな物は増えた。


 その次の日もその次の日も。二人は魔界を駆けた。

 海を探すという目的は据えたまま。けれども彼らの興味は海だけに留まらなかった。自由を肺いっぱいに取り込むように深呼吸をして、噛みしめるように大きな声で笑った。魔王は毎日出かける二人を止めることはなかった。ただいつからか魔王城の入り口まで見送るようになった。



「遅くならないうちに帰ってくるんだぞ」

 当然のように帰りを待ってくれている言葉が嬉しくて、アベラは笑顔で手を振った。そして城へ帰ってくると真っ先に彼の元へと向かった。子どものような行動だと、彼女自身も自覚している。けれど今世でまともな幼少期を過ごしていない彼女にはこの幸せを手放すことは出来なかった。



 ーーけれどアベラ本人が手放すまでもなく、生活は一変することとなる。



 それはいつものように出かけた先でお昼休憩をしていた時のこと。

 天気もいいし、昼寝でもしようかと空を見上げた。すると視線の先にぽっかりと空いた小さな穴を見つけた。魔人になったからこそ発見できたほどの小さな穴。人間では発見することさえ出なかっただろうそれはゆらゆらと揺らぎ、そして何かを吐き出した。


 そう、吐き出したのだ。

 アベラが空の穴を見たのは初めてだった。だがそれ以上に落ちてきたものへの衝撃が隠せない。


「竹炭丸、あれの落下地点まで急いで」

「了解」

 急いで竹炭丸に跨がり、落下予測地点まで急ぐ。穴から落ちてきたソレの正体は分からないが、確かに人の形をしているのだ。魔人であれば翼を使うなりして羽ばたくのだろうが、落下物は何か行動に起こす様子はない。ただただ真下に向かって落下しているのだ。


 加速度や落下時間なんて難しい物を導き出すことは出来ない。アベラに出来ることは間にあえ間にあえと強く願うだけだ。心臓はバクバクと忙しなく動き、そして落下予測地点に到着してからは魔力を編んだネットのようなものを辺りの木に結びつけた。触媒なしで即席で作ったため強度の予測すらつかない。


 ここに落ちてきたとして、そのまますり抜けて地面に叩きつけられるかもしれない。けれどアベラには祈ることしか出来ないのだ。


「もしあれが人間だったらどうするんだ?」

 額に汗を浮かべながら空を見上げるアベラに竹炭丸が問いかけた。視線を向ければ、彼は心底不思議そうな表情で立っていた。アベラが望んだから連れてきてくれただけで、彼女が焦る意味が理解出来ないのだろう。


 なにせ孤独を感じた彼女は人間界を捨て、魔界で魔人となったのだから。見ず知らずの相手に手を差し伸べる理由なんてないのかもしれない。


 実際、アベラ本人もなぜここまで必死になっているのか分からない。助けなきゃと脳が指令を送るからそうしただけ。ただ助かってくれとは思う反面で、助けた後のことなんて考えていない。


「人間界に連絡をとってからゲートに突っ込めばいいんじゃない?」

「帰すのか?」

「私みたいな人じゃなければね! っ来た!」

 竹炭丸と話しているうちにソレはどんどんとネットへと近づいていく。

 アベラは神に祈るように両手を組み、目を閉じた。そしてボフンっと大きな音に小さく肩を揺らした。助かっているだろうか? おずおずと目を開き、そして声を失った。


 ネットから解放されようと暴れる男はどこかで見たような顔をしていた。だが何よりも、彼の腰には見覚えのある剣が携えてあった。アベラがソレを見忘れるはずがない。忘れようと思っても忘れることなどできはしない。


「ウォレス?」

 喉から絞り出されたのはかつての婚約者の名前だった。

 男は抵抗することを止め、そしてアベラへと視線を向けた。目を大きく見開き、涙した。


「アベラ、ずっと会いたかった……」

 人間界と魔界では時間の経過が異なることは理解していた。けれど二歳しか違わなかったウォレスは、父ほどの年齢に達していた。髭を蓄え、髪には白髪が混じっている。


 あれから人間界では一体どれだけの時間が経ったのだろう。

 あの時に自らの口から出た『生きる世界が違う』という言葉はブーメランとなってアベラの胸を抉る。


「私は会いたくなかったわ」

「アベラは俺が嫌いだもんな」

 力なく笑ったウォレスは頬を掻いた。その手には指輪がはまっている。

 乙女ゲームで彼がヒロインに渡していたような可愛らしい物ではなく、いたってシンプルなシルバーリングだ。装飾すらなく、なんともウォレスらしいと言える品だ。


 きっと新たな婚約者は趣味の合う令嬢だったのだろう。それも社交界に上手く適応出来るような頭が回るタイプの。彼の隣に他の女性がいる姿を想像し、乾いた笑いが出た。


「そうよ。だからさっさと帰ってちょうだい」

「帰るといっても俺もどうやって来たのか分からなくてな」

「なら魔王城まで連れてったあげるからゲートを通って帰って。竹炭丸、二人乗せられる?」

「問題ない」

「アベラが、連れてってくれるのか?」

「別に徒歩でも結構時間かかるし、迷っても困るでしょ」

 だから早く乗って、と自分と竹炭丸の間にウォレスを座らせ、魔王城へと走った。


「昔と逆だな」

「私はあなたとは違っていきなり全速力なんて出したりしないわ」

「……俺のそういうところが嫌いだったのか?」

「別に」

 今さら聞いて何になるというのか。

 年と共に快活さを失ったらしいウォレスの質問に答えることなく、アベラは前を向き続ける。竹炭丸は口を挟むことはなく、ただただ足を動かし続けた。城に戻ってからは真っ直ぐに王の間へと向かい、魔王に穴とウォレスのことを報告した。


「穴か。以前読んだ書物に似たようなことが書かれていたが、あれは人間界から戻れなくなった魔人の子どもがこちらへ戻ってきた例だからな……。ウォレスは一体どんな状況で落ちてきたんだ?」

「シュバロの墓の前の前に立っていたら足下に穴が空いた」

「シュバロが、死んだ?」

「長く生きてくれた方だと思うが、八年前に寿命を迎えた。最後の一年は立つことすら出来なくなっていた」

「そう、か」

 竹炭丸は魔獣となったが、シュバロはただの馬だ。馬の平均寿命は二十五年から三十年。人であるウォレスですらも中年に足を突っ込んでいるのだ。息を引き取っていてもおかしくはない。


 それでも再びシュバロと共に駆けることを夢見てきた竹炭丸にはなかなか飲み込むことが出来なかったのだろう。プツンと糸が切れたようにその場にへたりこむと、ライバルの名前を呼んだ。返事が返ってこないことを知りながら何度も何度も。その姿をアベラは見守ることしか出来なかった。もし彼が人間界に残っていたならば、なんて考えるのは傲慢だと知っているから。


 ウォレスは竹炭丸の肩に手を置き「あいつの死を悲しんでくれてありがとう」と小さく礼を告げた。アベラ達が魔界に来る前も来た後も変わらず、ウォレスにとってシュバロは唯一の相棒だったのだ。空を見上げ、そして独り言のように呟いた。


「いっそ魔界ではなく、死の国に落ちてくれれば良かったのにな……。人間界に帰ったところで俺はもう生きる理由がない」

「奥さんは? 結婚してるんでしょ」

「俺がアベラ以外と結婚する訳ないだろ」

「剣聖の孫なんて引く手あまたでしょうに。周りが許さなかったでしょ」

「ああ、いろんな令嬢が連れてこられた。けど俺を剣聖の孫ではなく、ウォレス=ポルタルとして見てくれたのはアベラだけだったんだ」


 悲しげに俯くウォレスになんと声をかけていいか分からなかった。

 アベラとて乙女ゲーム攻略キャラのウォレスと重ねて見ていた期間がある。それは目の前の男を見ていたことになるかと聞かれると素直に頷くことは出来ない。


「俺、アベラに嫌われていても良かったんだ。結婚すればずっと俺のことを見てくれるって思ってた。だけど魔界から戻って、剣聖の孫という称号に縋っていたのは俺だったんだって気付いた。でも気付いたところで俺にはアベラにもう一度会う手段なんてなくて、日に日に会いたい気持ちで苦しくなる。この指輪は鎖みたいなものなんだ。自分勝手にならないための鎖。だがアベラに続きシュバロまで失って俺には人間界で生きていく理由はなくなった」

「脳筋なんだからそんな鎖、筋肉でどうにかしなさいよ」

「え?」

「剣聖の孫という生まれはどうしようもないけど、あなたは自分で磨いた剣があるの。剣聖とは違う人間なんだって分かるまで見せつけてやればいいでしょ! なんであんたが剣聖ファンのために折れてやらなきゃいけないのよ」

「剣聖ファン……」

「脳筋のいいところはね、空気を読まずに爆走するところなの。それなのにうじうじうじうじ悩んで、勝手にキャラ変えしてんじゃないわよ。前を向きなさい、ウォレス=ポルタル」


 アベラは脳筋ウォレスが嫌いだ。

 けれど周りをろくに見ずにうじうじと悩む男はもっと嫌いだ。


 だから彼の顔を両手で挟んで、言い聞かせる。


「あれは励ましてるのか? けなしているのか?」

「お嬢なりに励ましているんじゃないか?」

「遠回しに人間界に帰れと言っているような気がするんだが」

「別に魔界に残るのも一つの手段だろ。多分お嬢はうじうじしているのが嫌なだけだから」

「そんなもんか?」


 残りの二人の声など無視だ。魔界に残るも人間界に残るもウォレス次第。ただこれ以上無駄に悩むようだったら今度は顔を挟むだけじゃなくて、後ろから思い切り尻を蹴ってやるだけだ。ウォレスのことだ。多少年を食ったところで死にはしない。受け身だってちゃんと取れるだろう。変な信頼だけはある。


 こんなに頼りなくなってしまったけれど、ウォレスは脳筋なのだ。

 暗闇に溺れかけても、手さえ伸ばしてやれば後は勝手に這い上がる。


「俺は魔界に残る。そして今度こそアベラに好きになってもらう」

「剣の道はいいの?」

「騎士とは大切な人を守るものだ。俺はもうとっくに守るべきものを決めている」

「そう。でも私、お情けで好きになったりしないから」

「ああ知ってる」


 ウォレスは今までで一番真っすぐな瞳をしている。なんとも脳筋らしい。

 これでこそ、アベラが嫌ったウォレスである。




 それからすぐにウォレスは魔王の手を借りて正式な魔界の住人となった。アベラと同じように魔人となったのだ。


 魔道書を持たぬウォレスが一から魔法を覚えるのは苦労したが、元来真っ直ぐと突き進むタイプの彼がめげることはなかった。


 そしてやっと黒魔法と呼ばれる魔法を習得した彼はとある魔獣を召喚した。名前はシュバロ。彼の姿はアベラの記憶にある時よりもずっと老いていたが、竹炭丸は嬉しそうに彼を抱きしめた。


「シュバロもやってきたことだし、早速出かけましょうか」

「どこへ行くんだ?」

「好きな場所に向かって走ればいいわ。時間はいっぱいあるんだから」


 竹炭丸に跨がったアベラの左手にはウォレスと同じ指輪がはめられている。

 恋だなんて立派なものをした訳ではない。ただこれからも隣に居て欲しいとしてプレゼントされたそれを拒む理由などなかったのだ。


 アベラにとってウォレスは当然のように隣にいる存在となっていたのだから。

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泥中 斯波 @candy-bottle

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