第29話 2ー11 江戸に着いて

 それからしばらく時が過ぎ、宗徳が言った。


「さぁ、もう休まねばな。

 また明日と言う日がある。」


 静かに彩華も身を起こし、宗徳の目を見つめて頷いた。

 この人は信じられる。


 これまでもそうは思っていたが、今は強くそう確信していた。

 二人が立ち上がり、廊下に出た。


 宗徳の部屋の前でお休みなさいませと言い、宗徳は部屋に入っていた。

 彩華はご不浄を思い出し、用を足してから部屋に戻った。


 お咲は静かな寝息を立てて寝ていた。

 今、お咲はこの船が海の中を走っていることなど知らずに良く寝ているはずである。


 彩華も静かに寝台に入りすぐに幸福感に浸りながら寝入った。


 ◇◇◇◇


 夜明け前には彩華もお咲も目覚めており、周囲の様子を確認するために操船する部屋に二人で上がってみると、船は海上に出ていた。

 船には昨日までなかった帆柱が立っていた。


 中央より前に立っているように思われた。

 帆柱とは言っても木製ではなく金物でできているように見える。


 但し、白い色であるので傍目には木の柱に見えるかもしれない。

 船の長さ以上に高い帆柱でありその頂点から前と後ろに細い綱が張られている。


 帆柱の前には小さな三角形の帆が張られていた。

 一方、後方には大きな帆が張られ、その下側に長い桁のような部材がついている。


 その部材が左に大きく張り出して真横よりやや斜め前方の風を受けているようだ。

 前帆も一番下にある隅から細索が引き絞っていて左手に帆が膨らんでいる。


 船は僅かながら左に傾斜しているが物がずれたりするほどの傾きではない。

 未だ薄暗い夜明け前ではあるが、右手後方には黒々とした島が見えていた。


 左手には長く黒い陸地が見えている。

 彩華は海の地図など見たことはないが、右手に見えるのが伊豆大島、左手に見えるのが伊豆の山並みではないかと思った。


 船は今日も滑るようにして穏やかな海を進んでいた。

 尤もさすがに外海であるから大きなうねりが船を捉えてゆっくりと上下動をさせている。


 彩華もお咲もそうした揺れを感じながらも船酔いにはなっていなかった。

 揺れ自体が非常にゆっくりとしているからかもしれない。


 船室に戻って広い部屋に入るとお須磨とお喜代が朝餉あさげを作り始めていた。

 彩華とお咲も一緒になって朝餉の手伝いを始めた。


 半時ほどで朝餉の用意ができ、彩華が最初に宗徳の部屋に行き、滑り戸の外から声を掛けた。

 すぐに宗徳が出てきた。


「他の方は如何いたしましょう。」


「吉野、三次、八太は起こすがいい。

 水夫の芳蔵と平吉は寝かせておきなさい。

 二人は深夜の見張りに立っていた。

 腹が空けば起きて来るだろうし、城ケ島沖辺りからは見張りも増やさねばならないから二人にも起きてもらわねばならない。

 今見張りに立っている秋蔵は私が食事の交代に行く。

 先に秋蔵から食べさせてくれないか。」


 彩華は頷いた。


 ◇◇◇◇


 水夫二人を除いて朝餉が終わり、後片付けをしていると伝声管を通じて知らせがあった。


「間もなく三浦沖、半時ほどで江戸湾に入る。」


 その声は部屋にも届いたようで水夫の芳蔵と平吉も起きてきた。

 お須磨が二人のために給仕を始めた。


 二人はそれこそ掻き込むように朝餉を食べて上に上がって行った。

 自らご飯をどんぶりによそい味噌汁をぶっかけて、御新香おしんこをぼりぼり齧って食べていったのだが傍目にも凄まじい速さと言える。


 あっという間に食べ終わっていた。

 彩華達女衆は、二人が飛び出していった後で顔を見合わせ苦笑いをしたものである。


 後片付けを済ませて四人の女たちが操船場所に上がると、既に久里浜の沖を通過しているとのことだった。

 前方に弁財船べざいせんがいるのだが、見る見るうちに距離が縮まり、やがて弁財船を追い抜いた。


 この船が非常に速い船であるということが一目瞭然である。

 風はほとんど横風である。


 弁財船も同じ風を受けてはいるのだが、いくら横帆を斜めにしてもさほどは進まず、むしろ風に落とされているのである。

 それに比べ、この船は余り風に落とされずに進んでいる。


 浦賀うらが富津ふっつの間をすり抜けると江戸湾であった。

 目的地は霊岸島れいがんじまだと教えてくれた。


 霊岸島の西側大川に面した場所に桟橋があってそこに着けるつもりであるようだ。

 尤も、その前に浦賀沖で浦賀奉行所の手代による検問があり、乗客や船の大きさによって通行料を収めなければならない。


 船の帆を降ろして浦賀沖で待っていると、船役人が小舟で近寄り、船には上がらず乗客数と船の石数を確認し、料金を告げた。

 この船の通行料金は一両一朱であった。


 役人は、金だけ受け取るとさっさと引き上げて行った。

 水夫の話によれば、浦賀奉行の配下ではなく船手組合が代行しているのだそうだ。


 この浦賀沖で五つの時鐘を聞くことができた。

 それから二刻ほど経って、船は大川を入り霊岸島の西側にいた。


 霊岸島の桟橋の上流でくるっと反転すると速やかに二人の水夫が帆を降ろし、川の緩やかな流れに乗って岸に近づく。

 岸から半間ほどの距離で船は止まった。


 その瞬間に水夫二人が桟橋に飛び降り、手早くもやいを取った。

 後は川の流れに押されるように船が桟橋に密着したのである。


 なおも数本の舫いを取って、江戸までの船旅は終わった。

 船から折りたたみ式の階段を降ろし、船べりに着けると降りる算段はついた。


 宗徳と八太が船を降り、他の者は船で待つことになった。

 宗徳と八太は荷物を降ろすために人足を手配しに行ったのだ。


 半時ほどすると大八車数台と人足達が川岸に集まってきた。

 水夫と吉野と三次は長持ちに納められた品を次々に甲板に出し、それを人足達が丁寧に陸揚げする。


 その合間に女衆は遅い昼餉を用意した。

 荷揚げは明日も行うと聞いており、今日は全員が船で泊まることにしていた。


 廻船問屋江戸屋の差配により、大八車四台分の荷が卸され、霊岸島から伝馬町白木屋まで運ばれたのである。

 荷と一緒に宗徳もついて行った。


 その宗徳が戻って来たのは夕方七つ時である。

 どうやら昼餉ひるげは抜きにしたようである。


 翌朝、再度荷揚げが始まり、長持ち二十ほどが陸揚げされたが、こちらはかなり重量があるものらしく甲板から下げられた荷卸しの器具を用いて桟橋に降ろされ、陸岸へと運ばれた。

 人足達は大事な嫁入り道具と聞かされていたようであり、随分と気を使って丁寧に運ばれていた。


 大八車十台に載せられた長持ちは紅白の晴れやかな布を掛けられ、伝馬町白木屋まで運ばれたのである。

 この日は朝から白木屋手代や丁稚数人も手伝いに姿を見せていた。


 紅白の布を掛けられた大八車は嫌でも目を引いた。

 その行列の最後に宗徳達一向九名がついて歩いたのである。


 水夫たちは留守番であるが、船を沖出しして佃島の沖合で錨を降ろすことになっている。

 白木屋に辿り着いたのは九つ時であった。


 荷物は開いていた倉に納められ、宗徳たちは白木屋伝兵衛と再会の挨拶を交わしていた。

 その日の八つ時には白木屋の手代が岡崎藩上屋敷と加賀藩上屋敷へ宗徳の書状を携えて出向いていた。


 宗徳たちは二日後の四つ時に岡崎藩邸にご挨拶に赴く旨を知らせたのであり、更に四日後には本郷にある加賀中将のお屋敷に出向くことを内々に知らせたのである。

 加賀中将の上屋敷に届ける文には養女の手数をかけることのお礼と結納の品を収めたいとの知らせも入っていた。


 白木屋で一夜の宿を取ったお須磨とお喜代の母子は、翌朝宗徳の案内で神田明神下にある萬盛に辿り着いた。

 稲荷蕎麦萬盛の主庄兵衛は宗徳とは既知ではあったが、お武家である宗徳の厚情に深く感謝し、後日ご挨拶に伺いますと丁寧な礼をよこした。


 神無月かんなづき二十五日厚い雲が垂れ込めている中、宗徳と彩華は供を連れて岡崎藩上屋敷を訪れた。

 白木屋の手代一人と丁稚四人が付き、大八車二台で荷を運んだ。


 長持ち四つである。

 長持ちの中身は半貫目の金塊二十五本が入っており、長持ち一つが十五貫目ほどもある。


 その金塊と長持のいずれにも千代が仙水寮に移った際に上皇から許された家紋である陰十二菊があしらわれている代物である。

 半貫目の金塊は、およそ百五両に当たる。


 長持ち一つで二千六百二十六両余、四つでは一万両を超える金額となる。

 岡崎藩主水野和泉守は上機嫌で宗徳と彩華に会った。


 その際、上席を巡って譲り合いが生じたものの、宗徳の勧めでやむなく上座に着いた。

 そうして今回の加賀家養女の一件について、宗徳からは、是非とも水野忠之に仲介の労をお願いしたいと言われ、水野は戸惑った。


 仲介とは言っても、既にすることが無いはずである。

 幕閣老中の寄り合いで決せられ、加賀前田公も承知の話である。


 今更、水野が出て行く場面も無いと思えるからだ。

 だが、宗徳は、養女の一件と併せて結納の品々を加賀前田家にお納めするにあたり、その仲介の労を取っていただきたいと改めて願うのであった。


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