第13話 1ー13 藩邸にて その二
そんな彩華の想いとは別に松倉が言上する。
「お殿様、たかが素浪人の分際で、お殿様に意見申し上げるは甚だ僭越ながら、仮にお殿様がご処分を受けることになれば、多くの家臣郎党が迷惑を
お殿様が清廉潔白な武士であることは重々承知の上で申し上げますが、清濁あわせ飲むことも
家臣郎党更には領民の利害さえ
そうしてこの場合、全てを内密に処理成されるが上策にござります。」
「むむっ・・・。
そなたがそう言うのならば・・・。
上様への報告は、すべてが終わってから改めて検討する。
それまでは全てを秘密裏に運ぶとしよう。」
ここでも藩侯が引き下がる必要はないのに、藩主は『そなたが言うのなら』とわざわざ断った。
江戸家老である西脇が藩主を
だが、藩主は家老の意見を聞くこともなく、松倉の言い分を認めたのである。
一体どういうことなのだろうと彩華は不思議に思った。
「で、下屋敷にそれほどの
「おそれながら、それら不逞の者十数名の切り捨て御免のお許しいただきたく。
またその検分役として、お側用人
「五名の伴侍とな。
それでは如何にも少なすぎよう。」
「お殿様、筧十兵衛殿らはあくまで
相手をするのは、あくまで仇討ちをするここに控える四名のみにございます。
外向けには、塩崎以外の者はあくまで突然の病死にございます。
仮にその場から離脱を図る者あれば、筧殿達で取り押さえて頂くもやむを得ぬかと存じます。」
「そなたたち四名で、十数名を討つというか。
女子と若侍それに老爺の三人ぞ。
それは如何にも
「お殿様の
「しかし、岡崎四天王の二人がおるのじゃぞ。
そのような死地へそなた達を追いやっては
彩華はしっかりと聞き耳を立てていた。
千代殿とはいったい誰の事だろう。
少なくとも松倉の身内のようにも聞こえる。
母か或いは姉か、最悪、嫁もありえる。
そうして何故に藩侯はその御方を知っているのだろう。
余りに松倉に関する秘密が多くて彩華の思考は麻痺しかけていた。
「お殿様、
その上で、某が言うことの真偽のほどを見届けては下さりませぬか?」
藩侯の明らかに迷っている様子が彩華にも見て取れた。
暫しの沈黙の後、藩侯が言った。
「よかろう。
見せてくれい。」
「されば、脇差にて演武
藩邸に入る際に大刀は預けているので、手元には脇差しかないのである。
松倉は立ち上がり、少し離れた場所に立った。
脇差をすっと抜くと正眼に構えた。
ゆっくりとした足さばきから、右に払い、左に払う。
まるで優雅な踊りのような動きであったが、その動きに一切の
それが様々な形から動き始めるのであるが、一分の隙もない。
かなり長い演武であったが、やがて正眼に構えて静止した。
次の瞬間、松倉は凄まじい速さで動き始めたのである。
それが一分の狂いも無く先ほどの動きを再現していた。
但し、その動きははるかに速いのであり、尋常ならざる人の動きであった。
それが再度静止して正眼に戻り、今一度動き始めた時、その動きは
松倉の動きがおぼろになって見えないほどであり、脇差の動きは単なる閃きとしか見えなかった。
凄まじい風切り音とすり足の音が連続して聞こえていた。
瞬時にその動きが止まった。
松倉は静かに納刀した。
そうして微笑みながら言った。
「お殿様、同じ演武を三度繰り返しました次第、ご確認いただけましたでしょうか。」
藩侯は首を振りながら言った。
「全く、
人の成し得る動きとは到底思えぬほどであったものの、二度目の動きはわしにもかろうじてわかった。
が、三度目の動きは見えなんだ。
それほどの腕を持つそなたが、この三名の者を確かに育てたというならば、・・・。
わしもその言葉を信じよう。」
「ありがとう存じます。」
松倉は懐から一通の書状を取り出した。
「この書状は、筧十兵衛殿宛に
藩侯は書状を手に取って内容を読み取った。
そうして、すぐに懐に仕舞うと、松倉に言った。
「
筧にこの役目を任せよう。
が、くれぐれも、四人が無事に戻ってくれよ。
さもなくば、
その日、藩邸から白木屋へ戻った彩華は、着替えてすぐに松倉の部屋を訪ねた。
松倉の部屋には、既に宗長と弥吉が訪れていた。
三人共にくつろいでいるのがわかる。
戦いの前の静けさなのであろう。
それとともに宗長と弥吉の二人には自信が伺えた。
他の者と立ち会ったことはないが、少なくとも今日の演武の二番目の動きならば見えるし、対応も可能である。
三番目の動きに対応することは、今の時点では、宗長と弥吉には到底無理がある。
動きそのものが見えないのだから、・・・。
だが、松倉は気配で察知しろと教えてくれた。
二番目の動きは少し離れた場所に居ればわかるものの、間近にいる相手にとってはその動きそのものが見えないのである。
これは、これまでに師と立ち合った弟子だからこそわかる。
だがその見えない打ち込みに対応できるということは、気配を察知して対応できたということに他ならない。
打ち込みの剣が動き出してから、対応し始めたのでは遅いのである。
少なくとも剣が動き出す直前に対応を始めなければならない。
無論それまでもまぐれで刀を合わせたこともある。
だが、松倉はまぐれなのかそうでないのかを的確に見分けていた、
そのことを教えてくれたのは、昨日の夜のことだった。
そうして今日の藩邸に行ったときに、驚いたことに藩邸内に殺気を放つ者数人を認めたのである。
最初は警護の者だろうと思ったがそうではないようだ。
士分もいるが、中には中間さえもいるのである。
中間が一々客に対して殺気を向けていたのでは仕事にならない。
彼らの仕事は雑用であって、警護の役ではない。
無論、邸内で起きる事象に目を光らせていなければならないのではあるが、何か起きた場合にも彼らが邸内で利用できるのは、通常は棒か杖である。
打ち据えることは可能でも、殺気を放つまでには至らない。
彩華は、自らの感性がそこまで上達していることに驚いたものだった。
少なくとも江戸に着いた当初はそのようなことには全く気付かなかった。
松倉の元で稽古を続けたお蔭であることは明白だった。
だが、どうしても疑念に感じていることを松倉に聞いておかねばならないと思った。
明日は仇討の日、或いは命を落とすやもしれぬ。
その前に揺れ動く不安を持っていれば、失敗に終わるかもしれない。
だから松倉にその疑念をぶつけて解消しておきたかったのである。
彩華は、松倉の前に
「松倉様。
明日の仇討を前に、どうしてもお聞きしたいことがあって参りました。
どうかお教えくださりませ。」
「ほう、何かな。
先ずはお手を上げられよ。
そう、しゃちほこばっていては話もしにくいでな。
某で教えられることであれば何なりと。」
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