第三章 死に損ないと死にたがり
1.いつもと違う朝
そして奇妙な共同生活ははじまった。
※
翌朝、カッコーはいつもと同じように夜明けの少し前に目を覚ました。
ベッドの中で上体を起こして、小さく頭を振る。
カーテンのない窓の向こうでは夜の闇が朝の青さに移り変わろうとしていたが、部屋の中はまだ真っ暗だった。
いつものようにため息をつき、いつものように電灯をつけるためにベッドから出る。
立ち上がった瞬間、足下の床板がギッと軋んだ音を立てた。
すべてがいつもと同じだった。
「おはよう」
室内の闇の中から、いつもの朝には存在しなかった声が言った。
闇に慣れ始めた目に、部屋の片隅で毛布にくるまっている少女の姿が浮かび上がった。
「おはよう、カッコー」
もう一度少女は言った。『カッコー』と、そう彼の名を呼んだ少女の声音にははっきりと親しみが籠もっていた。
「……おはよう」
カッコーもそう挨拶を返した。
しかしさっきの親しみの声から一転、少女はなにも言わずに黙っている。
その沈黙が自分に対してなにかを求めているのだと、カッコーは気配で察した。
察して、少しだけ考えたあとで、もう一度言った。
「……おはよう、ユータナシア」
名前付きで言い直した瞬間、暗闇の中で笑顔が咲いたのを感じた。
「えへへ、おはよう、カッコー。おはよう」
「いったい何度言うつもりだ?」
「何度言ったっていいじゃない。おはようおはようおはよう」
はしゃぐように言ったそのあとで少女は無邪気に声をあげて笑う。
安楽死という意味の名を持つ少女は、カッコーにその名で呼ばれることが嬉しくて仕方ないらしい。
話しながら、昨夜の記憶がカッコーの脳裏に蘇る。
来るはずのないバスの到来。街の外からの来訪者。死ぬために旅してきた少女との出会いと対話。
そして、なし崩し的に結ばされた約束。
ユータナシアを伴って部屋に戻ったあと、カッコーは疲労困憊している自分を発見した。
久しぶりに涙を流したことによる肉体的な疲労だったのかもしれないし、それ以外のなにかによる心労だったのかもしれない。
とにかく、部屋に戻るなり彼はもう眠ると告げた。
ベッドはユータナシアに譲ろうとしたが辞退されたのでそのまま横になった。
それ以上議論や言い合いをする余力など少しも残されていなかったのだ。
「眠れたか?」
カッコーはユータナシアに聞いた。少しの罪悪感を滲ませながら。
「眠れなかったわ」
ユータナシアの答えに慚愧の心が重みを増す。
が、続けれらた言葉が、その心理は不要であると告げた。
「興奮しすぎて、全然眠れなかった。私はついにこの場所に来たんだって。もうすぐあの絞首台で死ねるんだって。しかもただ死ぬよりも、もっと最高の死に方ができるって。そう考えたら、嬉しすぎて一睡もできなかった」
カッコーはため息をついた。
もはや罪悪感はなかった。しかしそれよりも重いなにかが心にのしかかっていた。
そのあとで、彼はようやくその場から移動して、手探りで壁のスイッチを探した。
天井の電球が点灯し、くすんだ光が室内から闇を払った。
閑散とした部屋が浮かび上がる。
「あらためて見ても、やっぱりなんにもない部屋だね」
部屋を見渡してユータナシアが言った。
悪意のない無邪気な感想という感じだった。
むしろ少女はそこにある寒々しい虚無性を歓迎しているようですらあった。
「ストーブはあるんだね。これ、使えるの?」
「薪を買ってくれば使えるだろう」
「トイレは?」
「廊下の先、階段の横にある」
「水場は?」
「それも各階で共有だ。水道が廊下の行き止まりにある。俺は使ったことがないが、一階には炊事場もあるらしい」
ふうん、とユータナシアは言った。
「他の部屋の住人と顔を合わせることも多そうだね。挨拶とか行った方がいいかな?」
カッコーは黙って首を横に振った。
「その必要はない」
「どうして?」
「他の部屋の住人なんていないからだ。他の階までは知らないが、少なくともこの三階の入居者は俺一人だけだ」
ふうん、ともう一度ユータナシアは言った。
特に興味もなさそうに。
「なぁ」
「ん? なあに?」
「もし君が望むなら、空いている他の部屋に寝泊まりすることもできるぞ。ベッドとストーブくらいしかないだろうがそれはこの部屋も同じだ。賃料は俺が払ってやってもいい」
たとえ黙って住み着いたところで文句も言われないだろう、とカッコーは言い足した。
鍵はかかっているかもしれないし、開いているかもしれない。
「んー」
ユータナシアは少しだけ考える。
小さな手の細い指先が唇に触れ。瞳は宙を見つめる。
ややあってから、少女は「いいや」と言った。
「この部屋でいいや。だってさ、ただ寝泊まりする場所を確保するだけじゃなくて、あなたと一緒に暮らすことも私にとっては大事なテーマなんだもの。ちゃんとあなたを知って、ちゃんとあなたに知ってもらうことが」
だからお気持ちだけいただいときます、と少女は言った。笑顔で言った。
カッコーはため息をついた。
「ねぇ、今日はあなた、なにか予定はあるの? お仕事に行くの?」
「いや、ちょうど休日だ」
カッコーが答えるとユータナシアの瞳がぱっと輝いた。
「やった! それじゃあ街を案内してよ!」
有無を言わせぬ無邪気さでユータナシアはカッコーの腕をとった。
それがその朝の情景だった。いつもと違う朝の。
誰かに朝の挨拶をするのは久しぶりだ、とカッコーは思った。
誰かと名前で呼び合って会話するのも、言葉のやりとりそのものを目的とした会話も。
その朝、カッコーは絞首台を見なかった。
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