4.それじゃ、さよなら。

 もちろんそこには大きな葛藤があった。倫理的な忌避感、生理的な嫌悪感、そして純粋な恐怖と悲しみがあった。

 なんでもしてやるなんて言うんじゃなかったと、一日のうちに何度となく後悔を反芻した。


 しかし結局、カッコーは弟の最後の頼みを聞き入れることにした。

 ダメならそれで構わないという弟の言葉がカッコーの首を縦にさせた。


 俺が拒んだらこいつは一人で死んで行くんだろうな、彼はそう思ったのだ。

 ともすれば、最後の最後に兄に見放されたという悲しみを抱きながら。


 弟が何故死を決意したのか、結局それを聞き出すことは叶わなかった。

 しかしそれがなんであるにせよ、カッコーはもうこれ以上、なにひとつとして弟に背負わせたくなかった。




 三日後の深夜に兄弟は広場を訪れた。弟がその日と決めたのは土曜日だったが、真夜中を過ぎて日付は既に日曜日へと変わっていた。

 広場に着いてまず最初に取りかかったのは、絞首台からロープをほどきとる作業だった。結び目は固く、園内灯の明かりだけを頼りに行うこの作業はひどく難航した。

 それでもどうにかほどき終えると、弟はロープを放り投げて絞首台の上にそれを渡した。


 絞首台を頂点にロープは山なりの線を描き、その両端を兄弟はそれぞれに手に持った。

 首を通す縄輪の作られた側を弟が、反対側をカッコーが。


「なにからなにまで任せきっちゃおうなんて思ってないから、心配しないで」


 弟が笑いながら言った。


「ロープ一本で人間一人を吊り上げるっていうのは結構な重労働だろうからね。だから途中までは普通のやり方でやろうと思う。僕が踏み台に乗って自分でそれを蹴るところまではね。

 それで僕が宙に浮いたら、兄さんは僕の身体が地面についちゃわないようしっかりとロープを引っ張ってて欲しいんだ」


 わかった、とカッコーは答えた。

 弟は満足げな笑みで返すと、縄輪に頭をくぐらせ、途中で外れてしまわないようしっかりと耳の後ろまでそれを通した。


 いよいよなんだな、とカッコーは思った。

 動悸がさらに跳ね上がるのが自分でわかった。


 これからこいつは死のうとしている。

 これから俺はこいつを、弟を殺さなければならない。


 ……俺は、お前を。

 ……俺は、でも、お前に。


 ちきしょう、とカッコーは声に出さずに呟いた。ちきしょう。


「あのさ、兄さん」


 弟がカッコーに向き直って言った。


「なんだ?」


 ほとんど食いつくような調子でカッコーは返事をした。この期に及んで弟が決意を翻してくれることを期待している、そんな自分にカッコーは気付く。


 しかし弟からの返答は、そうした兄の期待を粉々に打ち砕く。


「うん、あのさ。もしかしたら吊り上げられた僕が苦しくてジタバタ暴れるかもしれないけど、だからといって途中で力を緩めたりは絶対にしないで欲しいんだ。失敗してもう一度最初からやり直しになるのは、そっちのほうがよっぽど苦しいだろうからね」


 弟は朗らかな笑顔でそう言うと、ちゃんと一度で死なせてね、と冗談めかした口調で付け加えた。

 そして踏み台の位地を調節し、ゆっくりと片足ずつその上に乗った。


 不安も緊張も感じさせぬ動作で、弟はあっけなく死への一歩を踏み出した。


「それじゃあ、これで本当にお別れだ」


 弟が振り返って言った。

 踏み台の上で、首に縄輪をつけたまま。


「まず合図をして、そのあとで足場を蹴るよ。重たいだろうけどそれほど長くはかからないと思うから、よろしくね」


 カッコーはなにも言葉を返せなかった。弟を直視することすら出来なかった。

 彼は視線を足元に落としたまま、自分の掌に幾重にもロープを巻き付けて握りしめた。そして来るべきその瞬間に備えてすべての意識を集中させた。

 ほかにはなにも考えることが出来なかった。


 俯いたままの彼の耳に、ほんの少しだけ名残を惜しむような調子の弟の声が届いた。


「あのね、僕、兄さんの弟で良かったって、心からそう思ってる。


 ……それじゃ、


 それが合図だったのだとカッコーが気付くのとほぼ同時に、ロープにぐんと加重が加わった。

 危うく重さに引きずられかけたが、彼はロープを背負うような姿勢をつくりなんとか踏みとどまった。


 ロープを通じて弟が藻掻もがいているのが伝わってきた。まるで釣り上げた魚のようだ、と思った。

 思った瞬間に耐え難い嘔吐感が込みあげてきた。


 目を回した時のように視界がぐらついていた。

 ロープが手に食い込んで激しく痛む。

 心はもっと痛かった。


 やがて伝わってくる振動が完全に途絶えても、カッコーはそのままいつまでもロープを引っ張り続けていた。

 力を弛めることが出来なかった。「ちゃんと一度で死なせてね」という弟の言葉が彼を支配していた。

 まだ死んでないかもしれない、まだ。


 ロープから力は抜かぬまま、彼はそれまで堪え続けていた涙を解き放っていた。



 やがて明け方になり、一人の老人が広場を通りがかった。毎朝この時間にこの場所を歩いている散歩者だった。

 老人はカッコーを一目見た瞬間に小さく悲鳴をあげて駆けだした。


 カッコーはまだロープから手を離していなかった。

 彼の弟はまだ絞首台に揺れていた。


 老人は程なくして同年配の仲間数人を連れて再び現れた。

 老人たちはおそるおそるといった様子でカッコーに呼びかけ、彼を諭した。


 老人たちの説得を受けて、カッコーはようやくロープから手を離すことが出来た。

 彼はようやく弟を地に降ろしてやることが出来た。


 カッコーは老人たちにすべてを打ち明け、自分を警察局に引き渡してくれるよう懇願した。

 俺は人殺しだ、と彼は主張した。

 しかし老人たちはこれに取り合わず、めいめいに弟の冥福を祈ったあとで、すりむけて血だらけになったカッコーの手に丁寧に包帯を巻いてくれた。


「……なんとも、君は大変に立派な男ではないかね」


 老人たちの一人が言った。最初にカッコーを見つけた散歩者だった。


「君のようなお兄さんに恵まれて、弟さんもさぞかし幸せだったことだろう」


 その場にいた全員が口々に同意を述べた。

 しばらくして連れられてきた若い巡査もまた、事情を説明されるとともにカッコーに多大な同情を示した。そして老人たちとまったく同様の意見を口にした。


「どうかご自分を責めないでください」と、彼は心からの慰めを述べた。



 ともかくこのようにしてカッコーは弟を失った。

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