第15話 兄妹
部屋に入った瞬間、空気の淀みを感じた。
視界に映る部屋の全容。
広さは、教室と同程度。部屋全体が独房になっているのではなく、入口と部屋の中央に敷かれた通路が繋がっており、向かい合うように二つの独房が壁際に設けられていた。
独房自体の広さは自分が入れられていた独房とほぼ同じで、中に何も設置されていない点や、通路に面している壁が解放されている点も一緒だった。
(反応しないか……)
向かって右側の独房、両膝をついたまま固まっている男性に目をやる。
年齢は、二十台前半。体つきは細身で、手足が長く、膝をついているが長身だと見て取れる。目元が隠れる程の前髪に、中性的な顔立ちと切れ長な目が知的な印象を受けた。
ここまでいい。
驚いたのが、髪と肌の色。男性の髪は艶のある黒色で、肌は血色の良い色白い肌をしていたのだ。
(何か、訳があるのか? ……いや、後だな)
容姿に疑問を抱いたが、今は二人を解放することに注力すべきと思考を切れ変えた。
男性は部屋に入って来たこちらに見向きもせず、虚ろな目で一点を見つめている。
視線を辿ると、左側の独房に女の子が立っていた。
歳は十二、三歳。背は低く、華奢な体格。髪型は黒髪のおかっぱで、玉のような白い肌をしている。顔立ちは男性に似て整っており、涙ぼくろが特徴的な女の子。
「……」
言葉が出て来ない。
植物状態だということは聞いていた。しかし、話で聞くのと実際に目にするのではまるで違う。
顎を引き、顔を傾けている女の子。目は見開かれ、瞳は不自然に上を向いている。表情筋が緩んでいるのか、開いたままの口からは涎が垂れていた。
そしてだ。まるで見せつけるかのように、女の子は兄の方を向いて立っているのだ。
「クソが……」
怒りが滲んだ声を零してしまう。
「大丈夫?」
声に反応した彼女が、心配げな顔をしながら声を掛けてくる。
「大丈夫です」
心中穏やかではなかったが、一呼吸置いた後、男性に歩み寄る。
歩み寄っていると、男性の正面の床が目に留まった。位置的に、おそらく男性が独房内で取れる移動可能範囲の際。
その箇所の床に、白っぽい破片と白い線が何本も引かれているのだ。
(なん―――)
目を凝らしながら更に一歩近づくと、目に付いた物のが何なのか分かった。
割れた爪と爪痕だった。
男性の指に目をやれば、すべての爪が剥がれていた。
男性の慟哭が、ありありと目に浮かぶ。
足掻いたのだろう。
爪が剝がれ落ちても構わずに。
己の無力さを呪ったのだろう。
男性の元に辿り着く。
「……」
触れられる距離まで近づいても尚、男性は反応を示さなかった。
絶望に染まった瞳。だというのに、顔色は生気に満ちていた。
男性を見て、三人と再会を果たす前のことを思い出す。死にたい思っていても死ねず、心は死んでいるのに体の底から活力が溢れ出てくる。あの、気味が悪く、不愉快な感覚を。
踵を返し、女の子の方へと向かう。
「話しかけないの?」
声をかけず離れたからか、彼女が聞いてきた。
「俺の声じゃ届きません」
「そうだね……」
「ここに置いても大丈夫ですか?」
男性の目の前に、鳥籠を置いていいか彼女に確認する。
「ん? 別にいいけど、なんでここなの?」
小首を傾げながらも、了承してくれた彼女。ただ、理由が気になったのか尋ねてきた。
「これから俺が妹さんにすることを見て、男性が暴れるかもしれません。だから、もし暴れたら、俺が妹さんを助けてるんだって説明して欲しいんです。多分、俺は集中して説明する余裕がないと思うので」
「そっか。うん、わかった」
独房の外には出られないだろうが、万が一を考慮し、男性の手の届かない場所に鳥籠を置く。
そして、女の子の独房に入る。
(この身長差なら、立ったまま出来るな……)
異物は、頭頂部のやや前方にある。
意識を集中して黒い穴を床に出現させると、中から小さい刃物を取り出す。
「ふぅ……」
刃物を持つ手が震える。
兄妹の命が、自分の手に掛かっているのだと改めて自覚したためだった。震える手を何度も開閉させた後、女の子の耳たぶに触れる。
(あったかい……)
女の子の体温を感じた。
それだけではない。
この距離まで近づいたことで、女の子の鼓動も感じ取った。
――生きているのだ。今も尚、必死に。
そのことを実感すると、決意が固まった。
「必ず助けるから……ごめんね」
刃物を、女の子の耳たぶに軽く突き刺す。
血は出て来ず、反応もしない。
徐々に刃物を深く刺していき、耳たぶを貫通すると下に向かって切り裂いた。
「……」
ここまでしても、女の子は微動だにしなかった。
鳥籠の彼女の言う通り、女の子は痛みを感じていない。
異物を取り除くために、まずは頭の肉を削ぎ落さなければならなかった。
決意が揺らぐ前に、女の子の頭に刃物を当て、肉を削ぎ落とし始める。
刃から伝わる肉を削ぐ感覚。
血の気が引いていき、動悸がする。
五人を殺めた時の記憶が鮮明に蘇り、頭の中を駆け巡る。
次第に歯の根も合わなくなり、ガタガタと音を鳴らす。
頭蓋骨が見えた。
新たに凹凸の歯が付いた刃物を取り出し、頭蓋骨に三角形の切り込みを入れていく。
(失敗したら、この子は死ん……俺が殺したことになる。殺す、俺が、この子を……)
異物に近づくにつれ、最悪の結末を想像してしまう。
へたり込みそうになるのを、歯を食いしばりながら必死に耐える。
一度深呼吸をし、集中力を高める。
ここからが、正念場だからだ。
鳥籠の彼女によれば、異物を取り除く術が思いつかなかった魔族は、女の子の見た目だけを元に戻して放置していた。
取り除く方法は、思いついている。が、僅かな手元の狂いも許されない。だが――、
(失敗したら、二人は……)
心が、死を恐れてしまう。
鼓動と共に脈打ち、こめかみが締め付けられる。
さらに、視界が白んでいき、意識が段々と遠のいていく。
そんな時だった。
――キミなら、大丈夫だよ。
意識が呼び戻された。
独房は、今も静寂に包まれている。
だが確かに、想いは届いた。
恐怖はまだある。
それでも、想いに応えたいという思いが勝った。
丁寧に頭蓋骨を剥がす。
「あった……」
黒紫色をした脳に突き刺さる異物。
長さは十センチ程、太さは一センチ程の棒状で、滑らかで光沢を帯びている。
刃物を黒い穴を放り込むと、今度は青紫色の液体が入った試験管を取り出す。
試験管の蓋を外して左手で持つと、異物の真上で構える。そして右手の親指で人差し指を支えながら、慎重に異物に近づけた。
人差し指の先が、異物に軽く触れる。
その瞬間、異物が消えた。
間髪入れず、試験管の液体を穴にかける。すると、穴の周囲の脳が蠢き出し、絡み合いながら見る見るうちに塞がっていく。
穴が完全に塞がったことを確認した後、頭蓋骨をはめ、残った液体をすべてかけた。瞬く間に頭蓋骨が接合され、削ぎ落した肉や髪も元通りに再生する。
やれることはやった。
あとは、上手くいったことを祈るのみ。
「ん……」
女の子が、喉を鳴らす。
全身の産毛が一気に逆立ち、目を開く。
(頼む!)
食い入るように女の子を見つめながら、必死に願う。
女の子に、変化が起こる。
口が閉じられていき、目も正常な位置に戻ると、瞼を閉じた。
女の子の様子を、固唾を呑んで見守る。
ゆっくりと、女の子が目を開く。
「私……」
まだ声変わりをしていない、高い声。
目が乾いているの、女の子が瞑っている瞼を動かす。
女の子に声をかけようと口を開いたが、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
第一声は、俺じゃない。
女の子を驚かせないよう静かに横へとずれ、調子が戻るのを待つ。
ようやく目が慣れた女の子は、前を見た。
「おにい、ちゃん……?」
声をかけられた兄の方へ目をやる。すると、あれだけ反応を示さなかった男性の指先が微かに動いた。
それだけではない。
少しずつ眉が上がっていき、口もゆっくりと開いていく。
「さ……よ……?」
殆ど、空気のような掠れた声。
「お兄ちゃん」
女の子の声に力がこもる。
まるで、悪夢から醒めたことを伝えるように。
「さよ」
男性が、もう一度口にする。
まるで、夢ならば醒めないで欲しいと願っているかのように。
――やがて、
「お兄ちゃん!」
「小夜ッ!」
二人が、声を張り上げた。
「お兄ちゃん!」
女の子が、男性に飛びつく。
二人の再会に水を差さぬように気を付けながら、鳥籠の彼女の元へ向かう。
鳥籠の彼女は、嬉しそうに二人を眺めていた。
横に辿り着くと、彼女が顔を向けてくる。
彼女も二人に気を遣ってか、声は掛けてはこなかった。が、変わりに屈託のない笑顔を見せてくる。
ありがとう、そう言われている気がした。
◇◇◇◇◇
男性に抱きついていた女の子が、こちらに向き直った。が――、
「……」
手を胸の前で握りしめ、視線を下に向けながら右往左往させている。
(警戒? いや、緊張してるのか?)
正常な状態に戻った女の子と改めて向かい合ってみると、儚げで、気弱な印象を抱く。
こちらに喋りかけたそうな気配は感じるが、目が合うとすぐに逸されてしまう。
話し出すのを待った方が良いのか、それとも、こちらから声をかけた方が良いのか悩んでいると――、
「体は大丈夫? どこか、変な感じがするところはない?」
優しい口調で、鳥籠の彼女が女の子に尋ねた。
思わぬところからの声に驚いたのか、女の子の肩が大きく跳ねる。
身を縮こませながら、女の子は恐る恐る鳥籠の中に目をやった。
「ここだよー」
そんな女の子とは裏腹に、鳥籠の彼女は両手を挙げ、満面の笑みを浮かべる。
「……あ、うわぁ」
鳥籠の彼女の姿を見た途端、怯えていた女の子の表情が僅かに明るくなる。
「だ、大丈夫……です」
女の子が、おずおずと鳥籠の彼女に返事を返す。
「そう? 良かった~。あ、私たちもあなたたちと同じ実験体だよ。よろしくねー」
鳥籠の彼女は、持ち前の明るさを存分に発揮させる。そのおかげか、女の子の緊張も徐々にだが解かれていっているようだった。
「あの……」
「ん? どうしたの?」
女の子が、こちらと独房に居る男性を交互に見る。
「あ、そうだよね。うん、大丈夫だよ。お兄ちゃんのこともちゃんと助けるよ。ね?」
鳥籠の彼女が、話を振ってきた。
「はい。まかせ――」
彼女と顔を見合わせた後、女の子の方を見る。
「ッ!?」
ところが、女の子と目が合った瞬間、顔を逸らされてしまった。
女の子は俯きながら、手を強く握り締める。
(まぁ、しょうがないよな……)
目の前にいるのは、年端も行かない女の子。それに加え、この場所で辛い時間を過ごしていたのだ。
警戒するのは当然と言える。
ただ、女の子に何の説明もせずに、男性の異物は取り除けない。
腰を屈め、女の子の目線に合わせると、できるだけ優しい口調で語りかけた。
「怖いよね? でも、俺は君に何もしないよ。君のお兄さんを助けたいだけなんだ。だから――」
「あ、ちが、違います……」
俯いていた女の子が、顔を上げ、か細い声で言葉を遮ってきた。
「あの、ごめんなさい。私、お兄ちゃん以外と話したことがなくて……。その、怖くないです。だって、貴方は私を助けてくれた人だから……」
「ッ、……意識があったの?」
「はい」
女の子は、たどたどしい口ぶりながらも話してくれた。
意識はあったが、ぼやけていたということ。
まるで、闇の中に一人で過ごしていたようだったということ。
兄の悲痛な叫び声が、闇に木霊していたということ。
けれども、自分にはどうすることもできなかったということ。
そればかりか、自分が生きているのかさえ、分からなくなっていたということ。
「そんな私に、貴方はやさしく触れてくれたんです。あったかかったんです。『必ず、助ける』って言ってくれたんです。それで、本当に闇から救い出してくれたんです。だから、怖くないです」
純粋で真摯な言葉が、胸が熱くなる。
「……」
自分の両手を見つめた。
「助けてくれて、ありがとうございます。あの、だから、お兄ちゃんも……」
「必ず助けるよ。君のお兄さんも、約束する」
手から視線を外し、不安そうな表情を浮かべている女の子の目を見て、力強く答えた。
女の子は、右目から涙を零した。
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