第八話 死

 

 暗い。



 ここは……。



 何かが、聞こえる。



「……」



 声、だ。 



「……ま……、こう……」


 少しずつ、声が明確になっていく。


「さ……使用…、…らしい…」


 女の声。


 感覚は戻りつつあるが、まだ体は動かせない。


「確かに、…せき…問題ありません」


 男の声。どちらも、聞き覚えのある声だった。






 …■■…………■…






 低く、割れた濁音が鳴った。


 視界内に人の姿はなく、床に寝かせられているため周囲の確認もできない。


 「魔族には関係のないことでしょう」


 魔族。


 千年前、勇者によって退けられた存在。


 それが何故、女の口から……。


 本能が騒ぐ。ここから逃げ出せ、と。






 体に力を入れる。






 動かない。






 もう一度、力を入れる。






 動いた。






 しかし、体の向きが変わっただけだった。



「皇太子妃殿下、お目覚めになられたようです」


 動いたことに気づいた側近レフが、皇女パトリシア様に知らせる。


「……さすがは朝の子。もう解けてしまわれたのですね」


 パトリシア様は驚いたような、感心したような声を上げ、こちらに顔を向けてくる。


「な、なんで……?」


 必死に吐き出した言葉。


 向きが変わったことで、パトリシア様が目に映る。だが、ぼやける視界のせいでパトリシア様が、顔の無い、青白い人型をした異様な姿に見えた。


「『なんで』ですか? 貴方様にお教えすることは何もございません」


 異様な姿から発せられる美声。



 ……■■■■



 また、濁音が聞こえた。


「ええ、そうです」


 パトリシア様が返事を返した。






 ……誰に。






 自分にではない。


 側近レフにでもない。


 残るは……、


「■■■、■■■■■■■■■」


 声。


 もう一人いる。


 そう思った矢先、何かが動く気配を感じ取った。


 一定の間隔で刻まれる音。


 音は次第に大きくなり、床を通して僅かな振動が伝わる。


 この音は、足音。


 体が小刻みに震え、心臓は張り裂けんばかりに鼓動する。


 後頭部に当たっていた風が止んだ。


 さらに、薬品のような刺激臭が漂ってくる。






 固定された視界。





 闇が広がるその中に、それは突如として現れた……。






 黄色く濁った二つの目。






「あぁああああぁぁぁ!!!」


 言葉にならない叫び声を上げた。


 逃げようとしたが、体は動かない。


 パトリシア様に、助けを求める視線を送る。


「■■■■、■■■■■■」

「ええ、こちらが要求した物はいただきました。もう、好きにして結構です」

「■■■」


 側近レフと濁声が数回言葉を交わすと、重く低い音が鳴り響き、床が揺れた。


「あッ!?」


 両脇腹に、硬い何かが当たる。


「ぐぁッ」


 突然のことで体を硬直させるが、硬いものが脇腹に食い込み、鈍い痛みに襲われた。


 体が浮き上がり、ゆっくりと床から離れていく。


 そのまま、得体の知れない何か大きいものに背負われた。


 這いつくばって見上げていたパトリシア様のことを、今度は見下ろす。


「だず、げて……」


 パトリシア様が、こちらへ近づいてくる。


「……」


 パトリシア様から決して目を離さない。離せない。


 一瞬でも目を離すと、パトリシア様が遠ざかる気がしたから。


 パトリシア様は手の届く距離まで近づくと歩を止め、静かにベールを持ち上げた。






 何だ。


 何だ、その顔は……。


「■■■■」


 大きい何かが動き始め、パトリシア様との距離が開いていく。


 向かう先は、暗闇。 


 パトリシア様が見えなくなるまで、一度も視線を逸らさなかった。






◇◇◇◇◇






 暗闇を進む。


 通路なのか、トンネルなのか、それとも全く違う場所なのか。


 何もわからない。


 目を開けているのかさえ曖昧になるこの暗闇で感じ取れるのは、淀んだ空気に、纏わりつく濃い湿気、それとくぐもった足音だけ。


 抵抗は、無意味だった。


 いくら暴れても体を離さない。 


 逃れられないことを悟ると、様々な考えが頭を巡った。


 だが、暗闇が連想させるのか、考えは暗い方へと堕ちていく。


 そして、たどり着いてしまう。


 へと。


 背筋に悪寒が走る。


 続けざまに襲ってきたのは、身も凍えるような寒さ。


 堪えられず、手を伸ばす。


 しかし、伸ばした手さえ見えなくなる暗闇。


 掴んでくれる者はいない。


 

 俺は、死ぬのか……。



「――ああああああああああぁぁぁ!!!」


 発狂した後、意識が途切れた。






 ◇◇◇◇◇






 意識が覚醒し始めると、周囲の変化に気付く。


(……あったかい? それに……光?)


 暗闇の中にいたにもかかわらず、今周囲から伝わってくるものはまったく異なる。


(一体、何が起きたんだ?)


 確かめる方法は簡単だった。目を開ければいい。だが、そんな簡単なことが躊躇われた。


 生まれて初めて自分の死に近づき、生まれて初めて自分の死に触れたのだ。


(落ち着け、落ち着け)


 強く瞑り過ぎた瞼の力を抜き、深呼吸を行う。


(何もない、何も起こらない、大丈夫、大丈夫だ……)


 恐る恐る、目を開く。 


「ここは……? 談話室?」


 なぜか、一人で談話室の椅子に腰かけていた。


「なんで? 俺は……連れていかれて、それで、暗闇に……」


 物静かな部屋の中、状況を飲み込めずに混乱していると後から誰かが近づいてくる。


 「セツも眠そうだな」

 「ッ!?」


 心臓が跳ねた。恐怖のせいではない。その声が聞き慣れたものだったからだ。


 ゆっくりと振り返る。


 そこには、秋人がいた。


「ん? どうした、そんなに驚いたりして。俺の顔に何か付いてるか?」


 言葉を返さず、秋人の顔を黙って見つめてしまった。それを怪訝に思った秋人は、自分の顔に何か付いているのかと手で触って確認し始める。


 「……わ、悪い、何でもない。ちょっと寝ぼけてたわ」

 「なんだ、やっぱりそうか。さっき手を上げて欠伸してただろ。舞も怠いって言って部屋に行ったし、俺もさっきから体が重いし、眠気もすごいだよな」


 黙ってしまったことを眠気のせいにし、目元を拭う動作しながら謝罪する。


(何が起きた?)


 平静を装いながら、現状を理解しようと頭を働かせる。


(……待てよ。俺が座っている椅子、それに秋人がさっき言ったこと。もしかして、夢だった……のか? 全部? ……そうだ、そうだよ! 夢だったんだ。何もかも全部!)


 自分の中であの出来事は夢であると答えを出した途端、全身の力が一気に抜けた。


「良かったぁ」


 背もたれに体を預け、心の底から安堵の声を上げる。 


「どうした? いきなり声なんて上げて」 

「いや、スゲェ嫌な夢を見たんだよ。あぁ、ホント、夢で良かったぁ」


 吐息と言葉を一緒に吐き出す。


 息の続く限り、長く、柔らかく、ゆっくりと。


「ホント、夢――」


 最後まで言い切ることができなかった。


 秋人の後方。部屋の隅にいるものが目に映ってしまったから。


 一瞬にして、体が凍り付く。


「な……」


 心臓が縮み上がり、肌が粟立つ。


「なんで、ここに……」


 自分の見たものが信じられなかった。


 だが、は確かにいる。声も出さず、身動ぎもせず、こちらに顔を向けて。


「あ、秋人! 夢で出てきたヤツが部屋にいる!」


 に目を向けたまま勢い良く立ち上がると、声を荒らげて秋人に話しかける。



 ――ところが、



「秋人! 聞こえてるだろ! なあ! 無視するなよ!」


 いくら名前を呼んでも、秋人からの反応がない。


「こんな時にふざけるなよ! 秋人!」


 怒鳴り声を上げても尚、秋人は沈黙を貫き続けた。


「マジで、いいかげ――」


 ついには、焦燥に駆られて秋人の方へ向こうと顔を動かす。


 しかし、直ぐに思いとどまった。


 一瞬。たった一瞬でも視線を外すと、が自分に近づくかもしれないという考えが脳裏に過ったからだ。


 対峙し続けることしかできなかった。


 部屋の隅で立っている、青白い人型と。


 目も、耳も、鼻も、口も、何も付いていないにもかかわらず、見られていると確信できるそんな異様なものと。


「何だよ、何なんだよ、全部夢だったんだろ。だったら出てくるんじゃねぇよ!」


 何も反応を示さない青白い人型の足元から、突如として暗闇が噴き出す。


「――い、やだ」


 無意識のうちに、呟いた。


 暗闇が噴出してから、談話室の空気が淀んだものへと変わっていった。それだけでなく、湿度も上がり、肌に水滴が垂れる。


「いやだ」


 壁も、床も、天井も、調度品も、さらには光や奥行きさえもが黒く染まっていく。


「もう、やめて……くれ」


 思考を放棄し、ただ願望だけを口にする。だが、暗闇はくぐもった音を立てながら噴き出し続けた。


「いやだぁああああああああああ!!!」


 精神が限界に達し、逃げ出そうと踵を返す。


「あっ!?」


 ところが、体が動かない。足に違和感がある。正確には、足の感覚が無い。


 涙のせいでぼやける視界の中、足に目をやる。すると、すでに足は黒く塗り潰されており、腰から下が見えなくなっていた。


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」


 半狂乱になりながら両腕を振り回し、体を捩じって暗闇から抜け出そうと暴れる。


「だずげて」


 徐々に黒く染まる体。


「誰か」


 少しずつ失われていく感覚。


「あッ?!」


 下半身が、完全に暗闇へ飲み込まれた。途端に体を支えることが出来なくなり、崩れ落ちるようにその場に倒れ込む。


 倒れ込んだことで体が暗闇に浸かり、全身から感覚が失われていく。


「だず、げ……」


 口が回らず、うまく声が出せない。


 次第に意識も朦朧とし始める。


「…………い、……や……」


 気が遠くなっていきながらも足掻いていると、視界の端に人の足が映った。


 残された力を振り絞る。


 両腕で体を支え、頭を持ち上げた。


 目の前に立っていたのは、秋人や春見、成世をはじめ、生徒全員みんなだった。


「み……んな……、だ……ず、げ……」


 天高く腕を伸ばす。


 手を掴んでもらうために。助け出してもらうために。






「■■■■■、■■」


 低く、割れた濁声が聞こえた。






 ――あぁ、そうか。






 腕の感覚も失い、暗闇へと身を落とす。


 そこにはある筈の床が無く、体は暗闇の中へと沈んでいった。







 ――これが、現実か。






 ゆっくりと目を開ける。


「……」


 鼻につく薬品のような刺激臭と、降り注ぐ白い光。衣服は全て脱がされており、冷たい平らな台に体を拘束されていた。


「■■■■、■」


 頭上で、濁声が響く。


 すると、冷気を帯びた霧が全身を包み込んだ。


 目だけを動かして周囲を確認すると、視界の端に黒紫色の煙が見えた。


(なん――)


 そう思った直後、全身に激痛が走る。


「あぁああああああァァァァ!!!」


 霧は、まるで無数の小さな刃物へと変貌したかのように、皮膚の中へ入り込んできた。


「あぁああああァァァ!!!」


 刃物は、丁寧に皮膚を削いでいく。


 体が熱を帯び、汗が滝のように流れる。


「がぁあ!!」


 鉄の味が口の中に広がり、視界が明滅する。


「や、やめでくれぇ!!!」


 痛みが引く間もなく、次なる激痛が襲う。


「ん、ぐぅ、はッあああああああああああぁぁァァァ!!!」


 今度は、力づくで皮膚を剥がすような痛みだった。


 痛みを堪えようと歯を食いしばるが、痛みを我慢できず、叫び声を上げてしまう。


 皮膚は、体の外側から中心に向かって剥がされていく。


「があああああああああああァァァ!!!」


 心臓が異常なほど激しく脈打ち、血管は沸騰したように激しく波打つ。


「痛いいだい!!」 


 激痛のあまり気絶しそうになるが、激痛によってまた現実に引き戻される。


 痛みから逃れることができない。


「アアアぁぁぁぁ!!!」


 痛みはついに、心臓へと到達する。


「アアアアアアぁぁぁぁ!!!」


 心臓の痛みは、これまでとは比較にならないものだった。 


 体が痙攣を起こす。


「アァァァァァァ!!!」


 黒紫色の煙は、皮膚、肉、そして骨の順に浸食していった。


「ぐあがぁ、ぐあ、があがぁがアぁぁ!!!」


 口から血を吹き出す。


 さらには、目や、鼻や、耳からも血が流れる。






 一体、どれほどの時間が過ぎたのか。


 数時間か、数十分か、数分か、もしかしたら数秒しか経っていないのかもしれない。


 時間感覚は麻痺し、永遠に思えるほどの地獄だった。


 ただそれも、過去の話。


 今は、溶けるような感覚と、夢見心地のような気分だった。


 意識の片隅に残る、残滓なのかもしれない。


 消えるまでの間、この感覚を堪能するのも悪くないと思った。


 そう思っていると、が広がってくる。


 まるで、水の中に零した塗料のように。


「■■■■、■■、■!!!」


 低く、割れた濁声が沸き立っている。





 

 土雲切は――死んだ。

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