第4話 “死”
暗い。
ここは……。
何かが、聞こえる。
「…………」
声、だ。
「……ま……、こう……」
少しずつ、声が明確になっていく。
「さ……使用…、…らしい…」
女の声。
感覚は戻りつつあるが、まだ体は動かせない。
「確かに、…せき…問題ありません」
男の声。どちらも、聞き覚えのある声だった。
…■■…………■…
低く、割れた濁音が鳴った。
視界内に人の姿はなく、床に寝かせられているため周囲の確認もできない。
「魔族には関係のないことでしょう」
魔族。
千年前、勇者によって退けられた存在。
それが何故、女の口から……。
本能が騒ぐ。ここから逃げ出せ、と。
体に力を入れる。
動かない。
もう一度、力を入れる。
動いた。
しかし、体の向きが変わっただけだった。
「皇太子妃殿下、お目覚めになられたようです」
動いたことに気づいたレフが、パトリシア様に知らせる。
「……さすがは朝の子。もう解けてしまわれたのですね」
パトリシア様は驚いたような、感心したような声を上げ、こちらに顔を向けてくる。
「な、なんで……?」
必死に吐き出した言葉。
向きが変わったことで、パトリシア様が目に映る。だが、ぼやける視界のせいでパトリシア様が、顔の無い、青白い人型をした異様な姿に見えた。
「『なんで』ですか? 貴方様にお教えすることは何もございません」
異様な姿から発せられる美声。
……■■■■
また、濁音が聞こえた。
「ええ、そうです」
パトリシア様が返事を返した。
……誰に。
自分にではない。
レフにでもない。
残るは……、
「■■■、■■■■■■■■■」
声。
もう一人いる。
そう思った矢先、何かが動く気配を感じ取った。
一定の間隔で刻まれる音。
音は次第に大きくなり、床を通して僅かな振動が伝わる。
この音は、足音。
体が小刻みに震え、心臓は張り裂けんばかりに鼓動する。
後頭部に当たっていた風が止んだ。
さらに、薬品のような刺激臭が漂ってくる。
固定された視界。
闇が広がるその中に、それは突如として現れた……。
黄色く濁った二つの目。
「あぁああああぁぁぁ!!!」
言葉にならない叫び声を上げた。
逃げようとしたが、体は動かない。
パトリシア様に、助けを求める視線を送る。
「■■■■、■■■■■■」
「ええ、こちらが要求した物はいただきました。もう、好きにして結構です」
「■■■」
レフと濁声が数回言葉を交わすと、重く低い音が鳴り響き、床が揺れた。
「あッ!?」
両脇腹に、硬い何かが当たる。
「ぐぁッ」
突然のことで体を硬直させるが、硬いものが脇腹に食い込み、鈍い痛みに襲われた。
体が浮き上がり、ゆっくりと床から離れていく。
そのまま、得体の知れない何か大きいものに背負われた。
這いつくばって見上げていたパトリシア様のことを、今度は見下ろす。
「だず、げて……」
パトリシア様が、こちらへ近づいてくる。
「…………」
決して目を離さない。離せない。一瞬でも目を離すと、遠ざかる気がしたから。
パトリシア様は手の届く距離まで近づくと歩を止め、静かにベールを持ち上げた。
何だ。
何だ、その顔は……。
「■■■■」
大きい何かが動き始め、パトリシア様との距離が開いていく。
向かう先は、暗闇。
パトリシア様が見えなくなるまで、一度も視線を逸らさなかった。
◇◇◇◇◇
暗闇を進む。
通路なのか、トンネルなのか、それとも全く違う場所なのか。
何もわからない。
目を開けているのかさえ曖昧になるこの暗闇で感じ取れるのは、淀んだ空気に、纏わりつく濃い湿気、それとくぐもった足音だけ。
抵抗は、無意味だった。
いくら暴れても体を離さない。
逃れられないことを悟ると、様々な考えが頭を巡った。
だが、暗闇が連想させるのか、考えは暗い方へと堕ちていく。
そして、たどり着いてしまう。
死へと。
背筋に悪寒が走る。
続けざまに襲ってきたのは、身も凍えるような寒さ。
堪えられず、手を伸ばす。
しかし、伸ばした手さえ見えなくなる暗闇。
掴んでくれる者はいない。
俺は、死ぬのか……。
「――ああああああああああぁぁぁ!!!」
発狂した後、意識が途切れた。
◇◇◇◇◇
意識が覚醒し始めると、周囲の変化に気付く。
(……あったかい? それに……光?)
暗闇の中にいたにもかかわらず、今周囲から伝わってくるものはまったく異なる。
(一体、何が起きたんだ?)
確かめる方法は簡単だった。目を開ければいい。だが、そんな簡単なことが躊躇われた。
生まれて初めて自分の死に近づき、生まれて初めて自分の死に触れたのだ。
(落ち着け、落ち着け)
強く瞑り過ぎた瞼の力を抜き、深呼吸を行う。
(何もない、何も起こらない、大丈夫、大丈夫だ……)
恐る恐る、目を開く。
「ここは……? 談話室?」
なぜか、一人で談話室の椅子に腰かけていた。
「なんで? 俺は……連れていかれて、それで、暗闇に……」
物静かな部屋の中、状況を飲み込めずに混乱していると後から誰かが近づいてくる。
「セツも眠そうだな」
「ッ!?」
心臓が跳ねた。恐怖のせいではない。その声が聞き慣れたものだったからだ。
ゆっくりと振り返る。
そこには、秋人がいた。
「ん? どうした、そんなに驚いたりして。俺の顔に何か付いてるか?」
言葉を返さず、秋人の顔を黙って見つめてしまった。それを怪訝に思った秋人は、自分の顔に何か付いているのかと手で触って確認し始める。
「……わ、悪い、何でもない。ちょっと寝ぼけてたわ」
「なんだ、やっぱりそうか。さっき手を上げて欠伸してただろ。舞も怠いって言って部屋に行ったし、俺もさっきから体が重いし、眠気もすごいだよな」
黙ってしまったことを眠気のせいにし、目元を拭う動作しながら謝罪する。
(何が起きた?)
平静を装いながら、現状を理解しようと頭を働かせる。
(……待てよ。俺が座っている椅子、それに秋人がさっき言ったこと。もしかして、夢だった……のか? 全部? ……そうだ、そうだよ! 夢だったんだ。何もかも全部!)
自分の中であの出来事は夢であると答えを出した途端、全身の力が一気に抜けた。
「良かったぁ」
背もたれに体を預け、心の底から安堵の声を上げる。
「どうした? いきなり声なんて上げて」
「いや、スゲェ嫌な夢を見たんだよ。あぁ、ホント、夢で良かったぁ」
吐息と言葉を一緒に吐き出す。息の続く限り、長く、柔らかく、ゆっくりと。
「ホント、夢――」
最後まで言い切ることができなかった。
秋人の後方。部屋の隅にいるものが目に映ってしまったから。
一瞬にして、体が凍り付く。
「な……」
心臓が縮み上がり、肌が粟立つ。
「なんで、ここに……」
自分の見たものが信じられなかった。
だが、それは確かにいる。声も出さず、身動ぎもせず、こちらに顔を向けて。
「あ、秋人! 夢で出てきたヤツが部屋にいる!」
それに目を向けたまま勢い良く立ち上がると、声を荒らげて秋人に話しかける。
――ところが、
「秋人! 聞こえてるだろ! なあ! 無視するなよ!」
いくら名前を呼んでも、秋人からの反応がない。
「こんな時にふざけるなよ! 秋人!」
怒鳴り声を上げても尚、秋人は沈黙を貫き続けた。
「マジで、いいかげ――」
ついには、焦燥に駆られて秋人の方へ向こうと顔を動かす。
しかし、直ぐに思いとどまった。
一瞬。たった一瞬でも視線を外すと、それが自分に近づくかもしれないという考えが脳裏に過ったからだ。
対峙し続けることしかできなかった。
部屋の隅で立っている、青白い人型と。
目も、耳も、鼻も、口も、何も付いていないにもかかわらず、見られていると確信できるそんな異様なものと。
「何だよ、何なんだよ、全部夢だったんだろ。だったら出てくるんじゃねぇよ!」
何も反応を示さない青白い人型の足元から、突如として暗闇が噴き出す。
「――い、やだ」
無意識のうちに、呟いた。
暗闇が噴出してから、談話室の空気が淀んだものへと変わった。それだけでなく、湿度も上がり、肌に水滴が垂れる。
「いやだ」
壁も、床も、天井も、調度品も、さらには光や奥行きさえもが黒く染まっていく。
「もう、やめて……くれ」
思考を放棄し、ただ願望だけを口にする。だが、暗闇はくぐもった音を立てながら噴き出し続けた。
「いやだぁああああああああああ!!!」
精神が限界に達し、逃げ出そうと踵を返す。
「あっ!?」
ところが、体が動かない。足に違和感がある。正確には、足の感覚が無い。
涙のせいでぼやける視界の中、足に目をやる。すると、すでに足は黒く塗り潰されており、腰から下が見えなくなっていた。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
半狂乱になりながら両腕を振り回し、体を捩じって暗闇から抜け出そうと暴れる。
「だずげて」
徐々に黒く染まる体。
「誰か」
少しずつ失われていく感覚。
「あッ?!」
下半身が、完全に暗闇へ飲み込まれた。途端に体を支えることが出来なくなり、崩れ落ちるようにその場に倒れ込む。
倒れ込んだことで体が暗闇に浸かり、全身から感覚が失われていく。
「だず、げ……」
口が回らず、うまく声が出せない。
次第に意識も朦朧とし始める。
「…………い、……や……」
気が遠くなっていきながらも足掻いていると、視界の端に人の足が映った。
残された力を振り絞る。
両腕で体を支え、頭を持ち上げた。
目の前に立っていたのは、秋人や春見、成世をはじめ、
「み……んな……、だ……ず、げ……」
天高く腕を伸ばす。
手を掴んでもらうために。助け出してもらうために。
「■■■■■、■■」
低く、割れた濁声が聞こえた。
――あぁ、そうか。
腕の感覚も失い、暗闇へと身を落とす。
そこにはある筈の床が無く、体は暗闇の中へと沈んでいった。
――これが、現実か。
ゆっくりと目を開ける。
「…………」
鼻につく薬品のような刺激臭と、降り注ぐ白い光。衣服は全て脱がされており、冷たい平らな台に体を拘束されていた。
「■■■■、■」
頭上で、濁声が響く。
すると、冷気を帯びた霧が全身を包み込んだ。
目だけを動かして周囲を確認すると、視界の端に黒紫色の煙が見えた。
(なん――)
そう思った直後、全身に激痛が走る。
「あぁああああああァァァァ!!!」
霧は、まるで無数の小さな刃物へと変貌したかのように、皮膚の中へ入り込んできた。
「あぁああああァァァ!!!」
刃物は、丁寧に皮膚を削いでいく。
体が熱を帯び、汗が滝のように流れる。
「がぁあ!!」
鉄の味が口の中に広がり、視界が明滅する。
「や、やめでくれぇ!!!」
痛みが引く間もなく、次なる激痛が襲う。
「ん、ぐぅ、はッあああああああああああぁぁァァァ!!!」
今度は、力づくで皮膚を剥がすような痛みだった。
痛みを堪えようと歯を食いしばるが、痛みを我慢できず、叫び声を上げてしまう。
皮膚は、体の外側から中心に向かって剥がされていく。
「があああああああああああァァァ!!!」
心臓が異常なほど激しく脈打ち、血管は沸騰したように激しく波打つ。
「痛いいだい!!」
激痛のあまり気絶しそうになるが、激痛によってまた現実に引き戻される。
痛みから逃れることができない。
「アアアぁぁぁぁ!!!」
痛みはついに、心臓へと到達する。
「アアアアアアぁぁぁぁ!!!」
心臓の痛みは、これまでとは比較にならないものだった。
体が痙攣を起こす。
「アァァァァァァ!!!」
黒紫色の煙は、皮膚、肉、そして骨の順に浸食していった。
「ぐあがぁ、ぐあ、があがぁがアぁぁ!!!」
口から血を吹き出す。
さらには、目や、鼻や、耳からも血が流れる。
一体、どれほどの時間が過ぎたのか。
数時間か、数十分か、数分か、もしかしたら数秒しか経っていないのかもしれない。
時間感覚は麻痺し、永遠に思えるほどの地獄だった。
ただそれも、過去の話。
今は、溶けるような感覚と、夢見心地のような気分だった。
意識の片隅に残る、残滓なのかもしれない。
消えるまでの間、この感覚を堪能するのも悪くないと思った。
そう思っていると、何かが広がってくる。
まるで、水の中に零した塗料のように。
「■■■■、■■、■!!!」
低く、割れた濁声が沸き立っている。
土雲切は――死んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます