橋の下

壱原 一

 

新しい家から学校まで1時間くらい。本当はもっと近道があるようだが、通学路を通ってねと言われている。


2年目の付き合いとなる担任の先生と折り合いが悪く、最近居残りさせられている。クラス対抗の合唱祭の歌の練習を、クラスで1人だけ、放課後の空き教室で先生から指導されている。


必要だからではない。伴奏者を選ぶとき「ピアノのコンクールを控えているので」と先生からの指名を辞退した所為だと思っている。


同じ理由で辞退したクラスメイトはこんな目に合っていない。空き教室へ入るなり、無伴奏で歌の盛り上がる箇所を延々と歌わされる。


早く終わらせてコンクールの練習をしたい。


その一心で焦燥を抑えながら諾々と指示に従う様子に優越感を覚えているのが分かる。苛立ちと屈辱に歯噛みするのを楽しんでいると感じられる。


すごく腹立たしくて不愉快。


明日も一緒に頑張ろうと勝ち誇る笑みに礼を言って頭を下げ退室する。


鞄を取りに教室へ戻ると、汗だくで土埃塗れの日に焼けた一団が、掃除用具入れにボールを仕舞い、下校時刻ぎりぎりまでお喋りを楽しもうと輪を作っている。


その内の1人にあれまだ居んのと訊ねられて、悔しくて奥歯を噛み締める。


新しい家の近所の子だ。登校班が一緒。


地元の大きな会社の社長さんの子で、放課後に習い事をしていないようで、授業中はふざけがちで、休み時間は一番にボールを持って外へ跳び出して行き、予鈴が鳴り響く中を仲間達とわいわい盛り上がりながら戻って来る。


俯いてそういま帰ると答え、鞄を背負って踵を返す。


じゃいっしょ帰ろとやかましく鞄を跳ねさせてその子が先を歩き出した。


*


明日ピアノの日なのにこれから帰って宿題して塾いって塾の課題したら練習時間たりない。


隣で件の子が、さっきまで仲間達と話していた動画やゲームやアニメや漫画の話を続け、てか今日なに?委員会?なに委員だっけ?と良く通る人懐っこい声で明日の天気の話でもするように訊く。


顔を見られたくないから俯いて違う歌の居残りと答えたのに、その子はえ?なにとこちらを覗き込んで来て、グラウンドの砂埃と沢山あそんだ後の汗とボールと太陽のにおいを漂わせる。


お父さん忙しいしお母さんとは漸くお互い慣れてきたところで変な心配かけられない。だからこんなことは


なんでもない。


その子はふうんと瞬いて、あ、こっちとこちらの腕を引く。


「ここの橋の下とおると近いよ」


登校班で上級生達が言っていた近道だろうか。


気負いなく先導された高い橋の下はどこかの建築会社の資材置き場になっているらしい。


隅にホームレスの人の家があり、後はドクダミとツユクサだらけの藪に囲まれた薄暗い砂地だった。


*


その子はホームレスの人の家の方へぎょっとする程ぐいぐい近付き、藪に隠れた小振りな用水路の傍に屈んだ。


橋の上から車の行き交う音がまばらに滴り落ちてくる。


橋の下は洞穴のように静かで涼しい。苔生した用水路の水流は豊かで、ホームレスの人の家の入口の奥は真っ黒で何も見えない。


その子は足元のドクダミを毟って用水路に流し、ツユクサを千切って用水路に流し、流れ行く草切れを見守りながらなんかむかつくことあんのと訊いて来た。


どうでも良さそうな気安い口調が、呼吸や瞬きと同じくらい身に馴染んだ訊き方だった。あまりに自然で羨ましく、憧れと希求の気持ちが込み上げてきて、上澄みのもやもやが舌先までせり上がった。


忌々しい名前を声に出してなじりかけた時、その子がそれさあと遮った。


「紙に書いて燃やすと良いよ。名前書いて、むかつくとか、こうなれとか、思いっきり込めて燃やすの」


さらさら流れる用水路に指を浸し、揺らぐ水面の反射を受けて、その子の横顔がちりちり光る。


顔を上げてこちらを見たその子と目が合って、ノートを破り、ペンケースを開けて、名前を書いた。


鉛筆の芯が折れるまで書いた。書き殴って往復してえぐり、なぞって掻き回して塗り潰した。


「はい。貸してあげる。ぎりぎりまで持ってて。息しない方が良いよ」


当たり前のように差し出された使い捨てライターは透明な濃い緑色だった。


その子が風除けにかざしてくれる両手の中、なめらかなせせらぎの上で、ぞっと真っ赤な火を灯し、書いた紙の端を触れさせる。


あっと言う間だった。


いとも簡単に、跡形もなく、めらめらと燃え上がった後は、薄く黒くふわふわと無力に散る。


あの厭なものが一瞬で。


解放感と言うのか、高揚感と言うのか、とても晴れやかな気分になり喜びの顔でその子を見る。その子は鏡のように笑い返して、そのままの顔で言った。


「蜂ってさあ、居るじゃん。あれ□□バチとかに何回も刺されると死ぬんだって。□□□って言うんだって」


へえと感心して、他にも色んな話をして、楽しく帰った。10分くらい早く帰れて、それも凄く嬉しかったから、翌日ピアノの先生に練習不足を叱責されても次は必ず頑張りますと泣かずに約束できた。


*


次の日の休み時間はその子達に混ざって遊んだ。青々と生い茂った桜の木の傍で、笑い合って錆の滲む雲梯のパイプを掴む。思い切り体を揺らし、交互に手を伸ばして次々と移る。


渡り終えて今度はタイヤ跳びの列へ向かいかけた時、先生が校舎の方から歩いて来て今日からお昼休みも練習しようと朗らかに笑った。


独りでに握り締めた手は、沢山あそんで土埃でざらつき錆の臭いがするので大丈夫。


分かりましたと答えるより先に、その子が先生はち!と大声を発した。


「蜂だよ先生!□□バチ!先生さされたことあるんでしょ!□□□で死んじゃう!倒さないと!危ない!先生が□□バチに刺されて□□□で死んじゃうよ!」


その子が素早く木の枝を拾い、機敏に辺りを叩き始める。「えっ!先生死ぬ!?」「やばい!蜂どこ!」「早く倒せ!」とその子の仲間達も慌てて参戦する。


陽射しが眩しく、土埃が舞って、蜂を見付けられない。先生も蜂を見付けられないようで、少し後退り戸惑っている。


耳を澄ませると、確かに蜂の羽音が聞こえるような気もする。


先生は。


先生は道徳の授業でお母さんが死んだ時の気持ちを皆に教えてあげてくれる?と指名して泣くまで立たせ辛いよねお話しできなくても大丈夫だよと肩や背中を撫でてきた。


その時のことを授業参観で披露し今でも本当のお母さんが一番大好きで戻って来て欲しくて忘れられないって気持ちを我慢して言えないんだよねとお母さんの前で言った。


去年お母さんが死んだあと登校を再開した日に空き教室へ呼び出され先生に何でも相談してねと抱き締めてきたのが厭で思わず押し退けてからそうなった。


あれからずっと気が合わない。


でも死んで良いとは思っていない。


皆と同じように木の枝を拾って当てずっぽうに振り回す。


相変わらず見付けられないけれど、あの子があんなに真剣なんだから、蜂は実際に居るだろう。


先生は大丈夫かな。蜂に襲われてないかな。


まだ生きてるかな。刺されて苦しんでないかな。


□□□で死んでないかな。


全力で蜂と闘いながら、その場に居る皆が先生の命を危ぶんで、先生の様子を窺っていた。


徐々に騒ぎが伝わって校庭中の注目が集まり、異変を察した他の先生達も近付いて来るなか、先生は段々汗を掻いて猫背になり、ゆっくり倒れてぶるぶる震え出した。


救急車で病院へ運ばれて、代わりの先生が担任になった。


療養が長引き、退院を待たずに退職したそうだが、その頃には皆あたらしい担任の先生に馴染んでいた。


*


帰省して母の墓参りを終え、継母はは恒例の好物尽くしの夕飯が待つ実家へ向かう。デザートにアイスでも買ってきてとリクエスト付きの連絡が来て、途中でスーパーに寄る。


思い立って橋の下の近道を目指すと、金網の柵が設けられ通り抜けられないようになっていた。


あの日先生が運ばれた後、その週のピアノ教室でレッスンを終えピアノの蓋を閉める時、指を挟んだ上へピアノの先生が転んで手を突きコンクールもピアノも駄目になった。


それも思い出に変わった頃、あの子のお父さんが借金を残して蒸発し、お母さんが失踪し、お兄さんが家出してしまって、あの子は親戚の下へ引っ越していったと聞いた。


金網越しに懐かしい橋の下を眺める。


隅にホームレスの人の家がある。あの辺りのドクダミとツユクサだらけの藪に隠れて、苔生した小振りな用水路に豊かな水が流れているだろう。


ホームレスの人の家の入口の奥は、真っ黒で何も見えず、相変わらず誰か人の居る気配がする。


どうしてか、あの子の家族のうちの誰かではないかと思うが、金網で塞がれているため確かめる術はない。


アイスが融けてしまうので、大人しく元来た方へ戻り、帰り道を急いだ。



終.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

橋の下 壱原 一 @Hajime1HARA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ