見えない口

角居 宗弥

 これ以上の貧乏はかなわないので、役所に行くことにした。父は役所に行くというと激しく抵抗した。


「役所なんか行くな!人を呼ぶな!話しかけるな!」


 この汚言が全く私の身に響かないほど、ここに来た一日で私も麻痺していた。それほどにこの父親の暴言はひどかった。今まで自分は父親に盾を突くということを夢にも思わなかったが、この時ばかりはどうしても反抗せずにいられない。積もってゆく一方のペットボトルは、はたから見てもどうもおかしい。ゴミに埋まって明らかに使えない、黒ずんだ風呂。もはやカビどころではない、ヘドロのようなものがこびりついているのを見ると、父親の身体はこれ以上に汚いのではないか、という気がしてきた。


 どうしていかないの、お金を払う必要はないよ、ただ役所に言うだけだよ、と言葉を並べるが、ここに書くのも躊躇われるほどの狂人ぶりをさらに際立たせる他何の効果も得られなかった。


 こうなれば仕方がない、聞く耳も持たないうるさい父親は放っておいて、この家に帰ってきてから様子のおかしい母親の安否を確認する。母親は起こそうとしても全く起きなかった。目の前のやせこけたジジイに訊いても埒はあくまい。息をしているか怪しいほどである。かすかにまつ毛が動いたのに少しばかり安堵して、これもしばらく様子を見ることにした。


 問題は二階にいる弟の面倒だる。二階に上がると、後ろから一段と荒ぶった、野太い言葉にならない怒号が聞こえる。私にはもはや、意味のない言葉を聞く猶予は到底なかった。まず、この家を何とかしなければならない、という焦燥感と義務感と、多大なる得体のしれない罪悪感にさいなまれて、階上に向かう。


 案の定、部屋の鍵が閉まっていた。今は昼真っただ中であるものの、全く人の動いている気色が感じ取れない。ドアを軽くノックしてみる。返事がない。今度は強く叩いてみた。集金の取り立て屋のようにたたいてみた。最後に父親の叫喚に背後から押されつつ、ドアに体当たりせんがごとくぶつかってみた。

 途端に、階下から聞こえるものとは違う喚声がしたかと思えば、いきなり蹴破らん勢いがドアにあった。お姉ちゃんだよ、という声は、全くその大声と物音にかき消されてしまう。どうやら重たい何物かをドアへ繰り返し投げつけているようだった。


「やめて、けんちゃん!」


 うるせえ、クソばばあ、という声が聞こえてきた。その言葉ですべての抵抗する力と心を失った。へなへなと情けなく、その場に座りこむ。そして残った力で、かすかな涙を振り絞った。

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