異世界恋愛短編集
巻鏡ほほろ
優越の甘美さを教えて
夜な夜な聞こえるのは猫が甘えたときに出すような嬌声。おかげでウラジール公爵家の第一夫人であるファリスはここ半年ほど睡眠不足に悩まされている。
「あらファリス様、随分と遅いお目覚めなんですね。おはようございます」
煌びやかなドレスを身にまとい食堂で鉢合わせたのは昨晩の嬌声の主であろうクラリス嬢。金糸のようなまっすぐな髪の毛をサラサラと流して挑発的な視線でファリスを見ている。
なぜ第一夫人を差し置いてクラリス嬢がこんな日中から堂々と挑発していられるのか。その理由はまさにウラジール公爵家の主人であり、ファリスの旦那であるダラス・ウラジールが許可しているからに他ならない。
公爵様が許すというのならば、使用人たちは反論をあげず従うだけだ。下手な反抗をすればクビを切られどんな謝罪を要求されるか未知数であり、それが恐怖となっている。しかしそれ以前に、この国の人間は高い地位に盲目的であった。
名のある家に生まれただけでもすごい。それ以上に立場を持って国を動かしているだなんてとんでもない。公爵なんて言ったら圧倒的じゃないか。そんな価値観。
この家の中でファリスに同情し、クラリスを邪険に思う人間は、表面的には皆無であった。
「私たちもう朝食は済ませてしまいましたの。寂しい食事になりますわね、また後日にはご一緒できることを楽しみにしておりますわ」
「………」
一人の方が気楽なのだが、はいともいいえとも言えず、ファリスは無言を貫く。
気に食わない態度にクラリス嬢は眉をぴくりと動かし、それでも取り繕った笑顔を絶やさないままだった。
「クラリス、待たせたね」
「ダラス様!」
食堂の扉が開いて現れたダラスは、クラリス嬢と腕を絡ませた後にファリスの姿を視認した。
「なんだ起きてたのか。決済の報告書の整理、今日中だと言われているから夕方までには書斎に揃えておいてくれ」
淡々と、業務連絡をするような口ぶりでダラスがファリスの背中に向かって声をかける。
夫婦の会話とはこんなものだっただろうか。
「………はい」
振り返ることもなく、了承の言葉を紡ぐ。それを聞いたダラスは深くため息をついて、扉を再び開ける。
「息を詰まらせるようで申し訳ない。早く庭園に行こう」
「ええ。ダラス様に今必要なのは癒しですわ」
扉が閉まる前、クラリス嬢は食堂の席に座る孤独なファリスの背中を横目で見て愉しそうに目を細めた。
「今必要なのは癒しですわぁ〜……って、まだ朝食が終わったばっかりでしょうが」
食堂に残ったのは席に座るファリスと、ファリス付きの侍女一人と、同じく執事一人、それに加えて食事担当の使用人が隣の厨房でシェフを筆頭に数名働いており、そのうちの一人マシューがファリスの目の前に食事を並べている。
「奥様、もしご気分が優れないのでしたら、無理しないで…。ですが、せめてスープだけでも召し上がるようにしてくださいね」
「ありがとうマシュー。でも貴方たちが作ってくれた料理を無駄にするわけにはいきません。今日もたくさん食べさせていただきますわ」
ファリスが笑顔で答えれば、マシューは安堵に眉を下げ、それでも心配そうに力なく笑った。
今この場に当主であるダラスはいない。であれば、
マシューが食堂に戻ると、ファリス付きの侍女と執事が、ファリスを挟んで席に座った。
「なんなんですあの浮気旦那にクソ女は! ファリス様はていのいい部下じゃないっつーの!」
「声が大きいし言葉遣いがはしたないわよ、リル」
「奥様、クソ旦……いえ、ダラス様に申しつけられた件につきましては私の方で既に手配済みです。こちらが明日以降申しつけられそうな書類の一覧になりますので、本日はこの中から選ばれたらよろしいかと」
「ありがとうグロール。ダラスの執事の動きはダラス本人にまだバレていない?」
「はい、余裕だそうです」
夜な夜な体を重ねて楽しんでいるダラスが書斎を気にかけるなんてことあり得ないということはわかりきっていたので、無駄な質問だったとファリスと執事は笑った。
ファリス付きの侍女・リルと、執事・グロールはファリスの家から一緒についてきた使用人である。幼い頃から仕えてきた二人はファリスの意向により自由な態度で接することを許されている。
リルは女友達のように気さくに、グロールは使用人としての距離をとりつつも本音を打ち明けられる程度には肩の力を抜いている。
食事の時間にダラスとクラリス嬢の姿がない時は、こうして席に並んで座り、ファリスの孤独を癒していた。
「ていうかあの旦那、本当に性豪ですよね」
食事の場に相応しくない下世話な内容をリルが口にするが、ファリスは気分を変えることなく食事を次々と口に入れつつその話にのる。
「私の目のクマの色がどんどん濃くなってるのわかる?」
と左にいるグロールに確認させる。グロールが少しだけ近づいて眉を顰め、「こりゃひどい。今日は仕事しないで寝た方がいいですね」と言う。
「なんで窓全開でシてるんですかあの人たちは」
「ダラスの代謝がいいから、すぐ汗だくになっちゃうのよ。今の時期夜風が寒いくらいだからちょうどいいんでしょうね」
「マジで迷惑だから私良い耳栓買ったんです。ファリス様の分もありますけど」
「ええ、もらっておきます」
「俺も同じもの買っておこうかな」
ファリスがダラスの性事情に詳しい理由は、まさにこの家に嫁いできた2年前に遡る。
ファリスとダラスは政略結婚だった。
ダラスはウラジール公爵家の長男であり、政界の重鎮の一人として既に有能な才覚を知らしめており、そのうえ俳優顔負けの美しい顔を持つ美青年であった。
人々は二人の容姿を並べてお似合いだと口々に言った。ファリスは、ある人が見ればとても綺麗だと言われる容姿をしているが、万人受けする顔ではないので、ダラス好みかどうかわからなかったのでその賛辞を言われても微妙な心持ちであった。
けれど、少し心配したのも束の間、初夜の日にダラスから熱烈に愛されたファリスは、どうやら彼に一等気に入られたのだと実感した。そして安心した。
この調子なら後継もすぐにできるだろうと考え、次の日の夜も、その次の日の夜も、ダラスに深く愛される。
が、問題はその回数だった。さすがに2週間連続毎晩床に呼ばれることにファリスは恐怖した。
生理が早まったのだと嘘をついて情事を断った。
あの頃は今と別の理由で寝不足だった。今に比べて体のだるさも加えられているのだから、今よりもしんどかった、という方が正しい。
そんな日々が続き、社交界でもダラスからファリスへの態度は甘く、政略結婚だがとんでもなく愛されているという噂が広まるのも時間はなかった。
そして誰もが「ダラス様に愛されるだなんて幸運だ」と口にした。
当時ファリスは乾いた愛想笑いで返すしかできなかった。夜の営みで疲れていたから脳が回らなかった。
愛されている。たしかに、体は愛されているだろう。けれど自分がこんなにも疲れていることを気に留めず、一方的に愛をぶつけてくるダラスは、真に自分を愛しているのだろうか?
結婚してから半年目の社交界でそんなことを考えていた。
そしてある日、ファリスの従姉妹であるクラリスと社交界で会う機会があった。
クラリスはダラスと目が合った瞬間に、それはそれはメロメロに溶けていた。そしてそんな素敵なダラスに愛されているとされるファリスの足を、隠れたドレスの下で思い切り踏みつけた。
彼女は昔からそうだった。ファリスへの嫉妬心を隠さず、ファリスに対してのみ攻撃的に接する。しかし誰にもバレないように、表面では笑顔を向けて。
ファリスの従姉妹であるという関係性から、他の令嬢よりも長い時間ダラスと会話できていたことを、自分に気があるからだと勘違いしたクラリスは、その旨をパーティー会場のお手洗い場にてファリスに自慢げに話していた。
何を言っているんだか、とその時はいつもの嫉妬故の戯言だろうとスルーしていたファリスだったが、それからクラリスがダラスの愛人になるまでは早かった。
クラリスは、自分の身に流れる高貴な血を餌にダラスに近づいた。
クラリスはファリスの従姉妹であるが、ファリスの血族に当たらないクラリスの母親が、亡国の王族の血筋を引いている。なので、クラリスは今は無き王族の血を引く子孫となる。その血脈のためクラリスは、この国の別の公爵家に嫁ぐ予定があったが、ダラスと出会ってゾッコンになったためその婚姻を白紙にしたかった。
ダラスの見た目だけでなく条件もクラリスにとっては最高だった。結婚予定だった公爵の地位を同じく持ち、長男であり、顔もよく、能力も高くて、社交界ではほとんどの女性にとって憧れの存在。しかも嫌いな従姉妹のモノだと知った時は、より一層燃え滾った。目標が決まったクラリスは行動に移した。
嫁ぎ先の公爵家に正式な断りをしたが、ウラジール公爵家の第二夫人になると嘘をついた。この嘘がバレないうちに、別の日のパーティー会場でダラスに自分の血筋を耳打ちし、そして人気のないところで彼を誘惑した。
ファリスが情事に疲れて頻度が下がっていたこともあり、ダラスはあっけなくクラリスと体を繋げた。
性欲を持て余したダラスはいつかきっと浮気をするだろうとファリスは確信していたが、よりにもよって相手が幼い頃から自分のものを盗み壊してきたクラリスだったと知った時は、これまでの人生で一番大きなため息が出たものだった。
それからダラスとクラリスは正式に結婚し、クラリスは名実共にウラジール公爵家の第二夫人としての籍を得た。
第二夫人は普通、第一夫人より目立たず、夜の順番だって後手に回るはずだった。しかしダラスはクラリスを贔屓したのでウラジール家でもクラリスばかりを優先し、側から見れば第一夫人はクラリスなのではと言えるほどの扱いを提供した。
使用人たちは困惑した。けれども雇い主に反発することは許されなかった。
使用人のほとんどは、公爵家より低い身分の次男や三男などといった事情があって家督を継げないものたちである。仕事場を追い出されると、家督を継げないにも関わらず自分の家門に傷がつくとされ、最悪の場合縁を切られて身一つで追い出されてしまう。
なので、使用人たちはクラリスを優先せよという指令には従った。ドレスも装飾も部屋の調度品も、クラリスの方が豪華な仕様となった。
そしてあろうことか、クラリスはファリスの境遇に対してさらに追い詰めようと口を出した。
「ファリス様は優秀なお方ですから、お仕事の一部を任せた方が良いのでは?」
ダラスとの時間を作るためにていよく仕事を押し付けさせたのもクラリス。
「私の部屋がダラス様と離れていては、毎朝戻る時に歩かなくてはいけませんわ」
頻繁な夜を引き合いに出して部屋の交換をさせた。
「今度の社交界では私と揃いの衣装にしてエスコートしてくださいませ! 私には王族の血が流れていますから、第一第二の違いなど些事ですわ」
自分の血筋を理由に対外での立場すら乗っ取ろうと提案していた。
さすがのファリスもうんざりだった。生活スペースはクラリスによってどんどん制限され、仕事が増えていくので日中の活動量も倍になり、政略結婚だというのに社交界であらぬ噂を立てられそうな立場を確約されている。
もはや、ダラスが自分に興味を失ったことに関しては諦めた。
けれども自分の名誉を社会的に傷つけられるのは、ファリスは容認することはできなかった。
だから、ファリスは密かに怒りを発散する機会を待っていた。
「それで、いつ動くんですか」
執事のグロールがファリスに尋ねた。
ファリスは最後の一口を口に運び、ナイフとフォークを食事が終わったというサインに並べれば、静かに口角をあげた。
「もう少し……」
エスコートを取り替えようと言い出したパーティーの日、その日がやってくるのをファリスは待っていた。
「そうだ、さっきの書類一覧をもう一度見せてくださる?」
ファリスが食事を終えたのに気づいた使用人たちが食器を片付けるなか、もう一度ファリスはグロールにメモを渡すよう要求した。
「こちらです」
「ありがとう。………ああ、ほらやっぱり、あの人、モスコ公爵への祝辞の手紙まで私に任せようとしているのね」
「うわ………公爵家同士の交流なのに自分で書かないとか、仕事放棄にもほどがある。それもクソ女の差金なんですかね。男って愚か〜」
リルの言葉遣いにファリスは再び喝を入れた。
「私にとっては都合の良いことよ。愚かなことに感謝しなくては」
モスコ公爵への祝辞は、彼と第二夫人との結婚に送るものだ。元々モスコ公爵は、クラリスが最初に嫁ぐ予定の相手だった。もしもクラリスが予定通り嫁いでいたならばモスコ公爵の第一夫人になれたはずだった。
(それでもダラスの方が良いと思ったのはクラリス本人ですものね……)
クラリスの欲望を推し量ることはできない。おかしなことだとファリスは放置した。
食堂を出ようと席を立った時、「奥様」とファリスに声をかける人がいた。
顔を上げると、配膳をしてくれていたマシューが駆け寄ってきた。
「本当に完食なされたんですね」
「言ったでしょう。それに、今日もすごく美味しかったわ。皆様に感謝を伝えておいてください」
「はい! 奥様が喜んでくださるなら俺たちも作り甲斐があります。そういえば、昼食はこちらで召し上がられますか? それとも前みたいに執務室の方へお運びいたしましょうか」
「今日も仕事が立て込みそうだから運んでくださる?」
ファリスの言葉にマシューの顔が曇った。あからさまな表情変化にファリスはつい笑みをこぼしてしまう。
「奥様…!」
何を笑っているのだと顔を赤らめるマシューに、笑ったことを謝罪しつつファリスは笑顔で答えた。
「そんなにバレバレじゃダラスにクビを切られてしまいますわよ。まだ切られないでほしいから我慢して」
「大丈夫です。旦那様の前に出ることはありませんから」
「まあ…ふふふ」
隣の厨房を指してそこに引き篭もるのだとマシューは鼻を鳴らした。
「でも、昼食はどうか貴方が運んでね」
「えっ」
「貴方を見ていると元気が出るから」
ファリスの微笑みに、マシューはドキリと胸を高鳴らせた。困惑しつつ、了承の旨を小さな声で返すと、またファリスは目を細めてふふっと笑った。
「奥様、参りましょう」
執事のグロールが声をかけたのでファリスはマシューに軽く手を振り、食堂を後にするのだった。
***
「やだ、馬車も別に決まっているでしょう。ドレスが大きいんだから一緒に乗るわけないじゃない」
クラリスの一声でダラスは頷き、ファリスは別の馬車に乗せられることとなった。
クラリスはキャハハと甲高い笑い声でファリスの境遇をただ面白がった。ファリスは言われた通りに手配された馬車に乗り込み、二人の姿が見えなくなると二人が乗ったであろう馬車に下品なハンドサインを向けた。
本日は大臣の生誕パーティーをメインとした社交界である。大臣は政界でもダラスをよく気にかけ共に政策に励むパートナーにも等しい。とはいえ、相手はダラスよりも一回り以上年上である。さすがのダラスも大臣には頭が上がらない。
パーティーの主催は大臣の奥様であるバドワ夫人。伝統的な婦人会の会長をしており、貴族界の重鎮とも言える。彼女に睨まれたら社交界での立場はないと言われるほどだ。
最初、彼女にクラリスのことを告げ口でもしてお灸を据えてもらおうかと考えたこともあったが、そんなことに夫人の手を煩わせるのも申し訳ないと思って取りやめた。けれども彼女ほど伝統と貴婦人としてのあり方を大切にしている人はいない。今日の目的はバドワ夫人に現状を知ってもらうことである。
パーティー会場に到着し、予定通りクラリスはダラスの隣に位置して入場した。
ダラスは有名人なので、注目を浴びた。前と違うパートナーであることに周囲は大いに困惑し、そして彼らの後に現れたファリスを見て事情を仄かに察したようだった。
当事者であるクラリスは優越感に浸った表情だ。彼女の血筋も有名であることには変わりないので、ミーハーな貴族が興味本位で彼女を囲う。そしてダラスはすっかり愛の矛先をクラリスに向けているので、彼女を自慢げに周囲の人々に話していた。
それを横目にファリスは一人主催の元へ向かう。目的のバドワ夫人を見つけ声をかけ挨拶をすると、バドワ夫人は困惑と少しの苛立ちを持った表情でファリスと二人きりになった。
「ちょっと、どうしてあなたがパートナーとして入場していないのよ」
責めるような物言いは予想の範疇である。本来なら、ファリスはあの場を譲ってはいけなかったのだから。
演技に自信はないが、ファリスは悲しげに目を伏せて、胸の前で両手をぐっと握りしめた。
「もちろん、第一夫人として社交界でのポジションは理解しております。私も、招待してくださったバドワ夫人のためにも慣例に則ってせめて入場だけでも、と反論いたしました。けれど……ダラス本人がよしとしてしまえば、私に発言権はありません。あの二人に私の意見はもう……」
マナーを重んじるバドワ夫人の前でふしだらなことを提案し決行したのは事実クラリスとダラスそのものである。クラリスの血筋が良いから、というのは、他の社交界で許されても、バドワ夫人には通用しない。
バドワ夫人はわなわなと震えた。普段はふくよかな体格に似合った温厚そうな表情なだけあって、怒りを持ったとなるとその形相を見たら冷や汗が出る。
「ああでもどうかバドワ夫人、今日ばかりはお許しください!」
ファリスは大仰に彼女の怒りを鎮めようと頭を下げた。
「どうしてあなたが謝るのです。屈辱的なことをされたのは他でもなくあなたでしょう」
バドワ夫人の言葉は、ファリスの心に響いた。本当に涙が出そうになって、ファリスはその涙を止めることなく利用した。
「ありがとうございます……。けれど、良いのです。近々私はウラジール公爵夫人ではなくなりますから」
「なんですって?」
「あの光景が当たり前になるでしょう。……いえ、もしかしたら……」
「詳しく聞かせなさい」
バドワ夫人は個室へファリスを案内した。これでファリスの計画の第一段階は完了した。
彼女に詳細を伝えれば、口止めさえしなければ婦人会を通じて貴族たちに噂が広まることは間違いない。
そんなことも知らずに、ファリスたちから遠く離れた場所で、クラリスは令嬢たちに囲まれて華やかな笑顔を浮かべている。
「ウラジール公爵の寵愛はすっかりクラリス様のもの、というわけなのですね」
「しかもクラリス様は王族の血を引いているとは、本当なのでしょうか?」
貴族令嬢たちの質問と羨望の眼差しを浴びるように受けてクラリスは笑った。
「ええ本当です。この血脈をこんなに素敵な人と紡いでいけることに最高の幸せを感じていますわ」
クラリスの言葉に生々しさを感じて令嬢たちも頬を赤らめてキャーと黄色い声を上げた。皆酒が回り始めて声のトーンが大きくなっている。
「でも、公爵様は第一夫人をあんなに溺愛しておりましたのに……」
誰かが呟くと、クラリスは一瞬そちらに冷たい視線を送った。睨まれたかと思った令嬢がびくりと肩をはねるが、クラリスはすぐに笑顔になって噂をした令嬢の方へ近寄った。
「第一夫人のファリス様はダラス様の愛を返さなかったのです。我が従姉妹ながら昔から冷徹な方で不安でした。そしたら案の定、ダラス様の愛を無下にし、冷え切った関係となっていたのです。だから政略結婚の本懐である後継だって……あら、これはさすがに踏み入ったことでしたわね。失礼致しましたわ」
クラリスは、ファリスが嫁入りの役目を放棄したのだと強調した。
しかし令嬢たちはすっかり興味津々なので、クラリスの言いかけた言葉に飛びついて口々に噂をしはじめた。
「確かに2年も経つのにお子様の話もなく…」
「ダラス様はあんなに愛してくださったのに……」
クラリスは怪しく笑った。
「彼女は私に対して昔から対抗心がありましたから、ダラス様と私が初めて会った日もそれはそれは自慢げに誇っていらっしゃったのに、結果愛を放棄してこのザマですわ」
こうなれば、クラリスはとことんファリスを貶めようと、自分が感じたファリスからの悪意を吹聴した。
「まあなんてひどい」
希望通りのレスポンスに口角が上がるのを抑えられそうもない。
「でも私は今こうして幸せですわ。もしもファリス様が私より幸せになるには、ダラス様以上の素敵な男性と出会って恋をすることでしょうねえ。でもそんな相手、この国にはいませんわ。外国に移住なさるしかないかもしれませんわね」
しおらしくそういえば、周りの令嬢たちが笑った。
クラリスはとても気分がよかった。
そんな様子を、ファリスが懇意にしている別の令嬢から聞いて、呆れ果てるのも無理も無い。
けれどその思いもそろそろ終わりである。
「ダラス君、君はもっと、誠実な人だと思っていたんだがねえ…」
パーティーの主役である大臣に失望の眼差しを向けられたダラスは、その夜屋敷に戻って荒れた。
主役である大臣を差し置いて話題性を持っていったこともマナー違反の一つとされ、バドワ夫人にも叱られ、ダラスは今日の社交界で恥をかくこととなった。
ここにはファリスは特に関与していないが、そうなるのは当然だと最初からわかっていたので、荒れるダラスを見てとにかく逃げた。
気分の良かったクラリスは荒れるダラスに少し苛立ちを覚えているようだった。ひとまずは良い気味だと心の中で笑った。
「ファリス、ファリス!!!」
ダラスの怒声が響き渡る。
ファリスの寝室とされる部屋を開け放ち、無遠慮に侵入してきた。
開け放たれたドアからクラリスも面白がった様子で覗いている。
ファリスは読んでいた書類をテーブルに置き、「何の御用でしょうか」と佇んだ。
「どうして入場の段取りを指摘しなかったんだ」
「あら? 指摘を許さなかったのはダラス様ではございませんか」
「責任転嫁か。いつから君はそんなに可愛げのない人になったと言うんだ」
責任転嫁は今まさにあなたの発言だろう、と言いたいのをファリスもファリス付きの侍女と執事も胸にしまい込んだ。
「ダメですよダラス様、それがファリス様の本性なのですから。可愛くないなんて言ってしまっては女性なんですから傷ついてしまいますよ」
するりとダラスの腕に絡んでクラリスは目を細めた。ダラスから見えない位置にいることを確信してか、ファリスを嘲る表情を隠しきれていない。
「あとから惨めになるよりも最初から周囲に知ってもらう方が心が軽くなるとファリス様も理解していたんじゃないでしょうか? だから入場パートナーに対して口を出さなかったのですよ」
「なるほど、自分の心を守るためか。身勝手なやつだ」
彼らはファリスの心を攻撃しようと喋ることをやめない。
部屋の周りに使用人たちがただ事でない様子を確認しに集まってきた。メイドたち、料理人たち、住み込みの庭師までも見える。
「ねえファリス様、この際ですから本当に第一夫人の座を私に譲ったらどうかしら」
クラリスは声を張り上げて言った。周囲の使用人たちに動揺が走った。
「だいたい、ダラス様の寵愛を受けてなお妊娠の兆候のひとつもないなんて、ファリス様に問題があったのではありませんか? もう夜の営みもあり得ませんし……そんな第一夫人必要でしょうか?」
クラリスの言葉に、ダラスも頷き、冷ややかな視線をファリスに向けた。
「ねえ、離婚してご実家のペトロフ家にお帰りになっては? ああでも、子供を産めないとなれば、ペトロフ家を追い出されてしまうかもしれませんね。あっはは」
政略結婚の目的はウラジール家の子孫を産むこと。良き妻そして母となり、子を育て、婦人会での地位を確立することだった。
ファリス実家、ペトロフ家の家長であるファリスの父だって、それを口酸っぱくファリスに伝えてきた。だからこそ、初夜の日にファリスは安心したのだ。
言い返さないファリスに、クラリスは笑みを絶やせずにいた。
「やっとあなたが不幸になったのだわ」
「………」
「クラリス……?」
ダラスが、声のトーンを下げたクラリスの様子を窺う。
「昔から、あなたが大嫌いでしたわ。親戚というだけで高貴な血筋を持たないあなたと隣に立たされた屈辱、何より、周りの人たちがことごとくあなたと私を比較して、そして下に見られてきた悲しみ。どれだけあなたの幸せを壊そうと私のことは眼中にないように振る舞って、ずっと優越感に浸っていたのでしょう? 私はそれが苦しくて苦しくて許せなかった」
「優越感?」
ファリスは初めてクラリスの言葉に反応した。すかさずクラリスは、ファリスに食ってかかった。
「そうよ! いつも私の前を歩いて、私を見たかと思ったら優越感を持ったその瞳を向けて、ずっとずっと許せなかったわ。でもそれももうおしまい。あなたは全てを失うの。家柄も、肩書きも、何よりこんなに素敵な男性の夫人という立場を。女性として生まれたのに、彼の愛を受けられていたのに、それを手放すなんて。一生後悔に苛まれるといいわよ!」
クラリスは見せつけるようにしてダラスの首に手を回し深い口付けをした。
ダラスは突然のことに動揺したが、クラリスが自分を求めることに気分をよくしてそれを受け入れた。
「ねえファリス様、復讐したいですか? 私に。でも、私以上の幸せってあなたは得られるのかしら。だって、彼以上の男性はいないもの。体格も、地位も、顔も、全て全て彼は持っている」
「もしダラス以上の男性に出会うなら、外国にでもいけば、と…」
「あら私の話を盗み聞きしていらしたの? そうですわ。外国に移住でもなさって、それで幸せを掴めば良いではありませんか。ねえダラス様、ファリス様の出発を祝福できますわよね?」
「子供の産めない第一夫人などあり得ない。俺はそれで構わないよ。仕事手を失うのは惜しいが…」
「あらあら、でもどうせ家から追い出されますもの、もし行くあてがなくなった時は私たちが雇えばよろしいのですわ。今度は秘書として」
「いい案だな」
二人は大いに盛り上がった。ダラスは先ほどまでの怒りを既に忘れたように、クラリスと笑顔で将来設計を立てている。
「ねえ、離婚するって言いなさいよ」
クラリスの勝ち誇った顔には、ファリスの謝罪を期待する悦びが含まれていることがわかった。
「喜んで離婚させていただきます」
ファリスは離縁状を引き出しから出して、ダラスにペンと一緒に渡した。
「ひとまず先にサインくださる?」
呆気に取られつつも、すぐにダラスは不敵に笑ってサインをした。
「後悔しても遅いぞ。もう書いたからな」
「離縁状まで用意して……これで動揺してもらえると思ったのかしら。哀れですわ。これで離婚は成立してしまいましたね」
これを教会に提出して印を貰えば正式に離縁となるのだが、書いた時点で執行されたも同然だった。
ファリスは肩の荷が降りた気分でふぅと息を吐き、すぐにこれを教会に持っていくよう侍女のリラに渡した。リラは笑顔を噛み殺して冷静に受け取り、すぐさま部屋を出た。かき分けた使用人たちの動揺がさらに増してざわめきが止まらない。
そんな中、ファリスはテーブルの上に置いた書類を再び手に取り、愉快だと微笑むダラスとクラリスへ手渡した。
「離縁状にサインありがとうございました。ダラス様には生殖能力がございませんので、政略結婚の目的は実行不可と証明されましたから円満離婚となって安心です」
「な、え、え……!?」
手渡したのは診断書。記載された日付は3ヶ月前となっている。
ファリスも、これだけ夜を重ねても生理が繰り返されることに疑問を持っていた。なので自分の診断と、そして万が一にとダラスの診断も行った。
「無許可でこんなことはできないだろう。でっちあげだ」
「いいえ、許可はとりましたよ。お忘れになったのですか?」
デリケートな問題だから、本人の確認は必要だった。だから同意書を差し出してサインを貰った。その時のダラスは、そんなことはあり得ないと鼻で笑いながらサインをしていた。
「私との思い出は全て消えてしまいましたか」
ファリスは切なく笑った。
「え、まってよ、それじゃあ、どんだけしても私は子供を産めないってことじゃない」
「ええそうですよ。でも、クラリス嬢は私以上に子孫を残す使命がありますよね」
「いやよ、そんな………ダラス様以上の人なんて、もう……」
「でもクラリス様、ダラス様のおそばに居続けるなんて、それこそご実家のマキュリー家が許さないのでは?」
クラリスはびくりと肩を跳ね上げた。
「しかしご安心ください。私の方で縁談を再び結んでおきましたから」
ファリスの言葉に、クラリスは鋭い視線をよこした。ダラスは力無くソファに沈み込む。
「そう、これがあなたの復讐ってこと。知ってて放置したのね!?」
「知ってて放置したのはまあそうなのですが……診断書が届いたのは最近ですから、計画したわけじゃありませんよ」
「っ………」
ファリスは執事のグロールにこっちへ来るよう指示をした。
グロールが一通の手紙を渡す。
それをファリスはテーブルに滑らせて、クラリスに言った。
「もともとあなたが結婚する予定だったモスコ公爵が、この事情を知って受け入れてくださると返事をくださいました」
ダラスが任せた祝辞の手紙に、ファリスはこっそり今回の要件を忍ばせていた。ダラスが任せてくれていたため、わざわざ出向く必要がなくなったことには感謝した。
「モスコ公爵はとっても美しい容姿の方よ。政界や社交界からは退いていらっしゃるけれど、貿易業に勤しんで名を上げていますわ。地位も名誉も顔も素敵できっとクラリス嬢も気に入るわよ」
「そうなの………?」
クラリスの怒りが少しだけ鎮まり、なんて単純なんだとファリスは内心呆れ果てた。
「これまであなたを傷つけてきたお詫び、とでも考えてくださいませ。どうかそこで幸せに暮らすことを願いますわ」
ファリスがテーブルから離れ、部屋を出ようとクラリスとすれ違うと、クラリスは急いでテーブルの上の手紙に飛びついた。
急いで中身を確認し、一言一句間違いないことを確認すれば口角が上がるのを抑えられずにいた。
「マシュー」
「へ、あ!? はい」
入り口で集まる人の中で、料理人のマシューを見つけると、ファリスは自分の方へ来るようにと手招きをした。
恐る恐るマシューが近づけば、ファリスはマシューに抱きついた。
「これでようやくあなたに告白ができるわ」
「おくさ………ファリス様……!」
「私、あなたが好きよ。実家に戻るつもりもないから、どうか別の場所で一緒に暮らしてはくれないかしら」
ファリスのプロポーズに、マシューは戸惑いつつも、首をブンブンと縦に振った。
周りの使用人たちは先ほどの修羅場と打って変わって目の前の光景に喜んだ。
「あっははは! ええ!? ファリス様ってば、もしかしてバカなんですか!?」
クラリスが手にした手紙を大事そうに抱えながら、ツカツカとファリスとマシューの前に歩み寄った。
「こんな背の低くて顔も良くない男性が好き? いくら貰い手の見当がつかないからって、身分も低い使用人にプロポ-ズ、なんて、あはっあははっ! どうせなら素敵な男性と結婚してくださいよ」
「あら、マシューはとても素敵な男性よ」
「どこが!! はぁ〜〜〜〜……変なことになってしまいましたけど、あなたのおかげで収まるところに収まりましたわ。そこだけは感謝しなくてはね」
クラリスは勝ち誇った顔でファリスを見下ろし、そしてさっさと部屋を出た。自分の使用人を呼び出し、部屋の荷物をまとめろと指示をした。
終ぞダラスの方を気にかけることはなかった。
「皆様の再就職先も手配しなくてはね……」
***
ファリスの希望通り、郊外の海が見える街でファリスは料理人だったマシューと再婚を果たした。
執事と侍女の他に触れられることのなかったファリスの孤独を真っ先に癒したのが、マシューの心遣いだった。
マシューは密かにファリスに惹かれていた。そしてファリスもまた、優しさを与えられるたびにマシューに惹かれていった。食事の席での配膳や昼食の運搬などでマシューとの交流を深めるうちに、二人は密かな恋心を育んでいたのだった。
この辺りは、モスコ公爵の貿易業の中心となる港が街の中核としてあった。
身分は平民となったファリスだったが、街の人々と身分の優劣なく交流するモスコ公爵とはファリスも交流が続いていた。
モスコ公爵には既に二人の夫人がそばにいる。
第一夫人と第二夫人はとても仲が良く、モスコ公爵も深く愛している様子は周りに伝わっていた。三人で肩を並べて歩く姿が名物と言われるほどだった。
「第三夫人はどうしていらっしゃるのかしら」
ある日の晩、第一夫人と第二夫人とファリスで食事をする機会に、ファリスはそんなことを尋ねた。
第三夫人になったのは、当然クラリスのことである。
「あの子は、ねえ……」
第一夫人と第二夫人は苦い顔で視線を合わせた。
「うちにきてすぐ、旦那様を気に入って初夜を交わしたはいいものも、それで調子に乗ったのか傍若無人な振る舞いをしてね……」
「でも旦那様はお優しい方でしょう? すぐに私たちを守ってくださって、彼女を諌めてくれたの」
あの時の旦那様はかっこよかったわねえ、ちょっと怖かったくらいだけれどと微笑み合う夫人たちにファリスも微笑んだ。
「あの初夜でクラリス嬢も無事ご懐妊となったみたいだから、今は別棟にて安静にさせているわ」
「でも子供はね……私たちで大切に育てなくてはねって計画しているところなの」
夫人たちに危害を加えようとしたクラリス自身には沙汰が降ることだろう。愛妻家であるモスコ公爵の逆鱗に触れたのだから。
出産後彼女は公爵領のどこかで一人孤独に監視をつけられて過ごすことになるそうだ。無事王族の血筋が繋がるまで、彼女に死なれてしまっては困るからだ。
「心配だものねえ……噂だと、社交界でも結構失礼なことをしでかしたって聞いているけれど」
「そこのところは真実なの?」
夫人たちの質問に、ファリスは目を伏せた。
「お二人が見ているクラリス嬢の姿が全てですわ」
そう答えれば、二人は納得したようにして、ため息を吐いた。バドワ夫人に事を伝えたのだから、クラリスが社交界に戻ったところで立場はないだろう。
監視から無事に逃げても、華やかな世界に帰ることはない。する予定のなかったやり方だったが、結果的に成就したのでそれもよしと思いファリスは溜飲を下げた。
新しい嫁ぎ先で愛される保証なんて、どこにもなかったのに。受けられるはずだった愛を棒に振って孤独になったのは果たしてどちらだというのか。
クラリスを真に愛していたダラスはというと、彼女に見向きもされなくなったことが相当に堪えたらしく、今は事業の全てと当主の座を、ウラジール家の次男である弟に明け渡して別荘の方へ移動したという。
たった一回失敗で大臣からの信頼を失い、パートナーがそれでは仕事も瓦解したも同然。そもそも、離婚寸前まで仕事を半分もファリスに投げていたのだから、ダラス自身が把握しきれなかった内容の引き継ぎ処理も上手くいくわけがなく、責任を問われている。弟の方は今、兄の尻拭いで手一杯だと耳にしている。
ファリスが2年間過ごしたウラジール公爵家はこうして崩壊した。
「そういえばファリス様、あなたの旦那様はどうなの?」
「なかなか愛されているって話を聞くけれど」
興味津々に尋ねる二人に、ちらちらと視線を合わせる。
期待に満ちたその顔に、ファリスは満面の笑みで答えた。
「ええ、私、今とっても幸せですわ」
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