第一話⑤

 それでも彼は黙って俺の後についてきた。俺は事業所の扉を開く。見慣れた風景が目の前に広がり、奇妙な心地に囚われる。全く見知らぬ場所で、以前見たことのあるような気がする光景が広がっていることをデジャヴというが、今の状況は見知らぬ土地によく似た建物が建っているのではなく、見慣れた建物そのものが見知らぬ土地に建っているのだ。これを説明する言葉なんてあるのだろうか。

「あら、空野くん、戻ってきたの?」

 筒原さんとばあちゃんは、パーテーションの奥でお茶を飲んでくつろいでいるようだった。俺を外に行かせておいて、何を呑気に……という思いが湧き上がってこなくもないが、それよりも電気やガス、水道が使えていることに驚いた。

「……順応力が高いっすね」

「だって貴方、本で読むような出来事に直面しているんだもの。楽しまなきゃ損じゃない」

 人間、何十年も生きていると、何事にも動じなくなるのだろうか。

 そう思った直後、筒原さんは「きゃっ!」と、甲高い声で叫んだ。まるでその時だけ、少女の心を取り戻したかのような、そんな声色だった。

 筒原さんはガークを見たのだろう。僅かに頬を赤らめている。種族は違うとはいえ、ガークは人間に近い形をしている。筋骨隆々の若い男が、その筋肉を惜しげもなく披露しながら佇んでいるのだ。彼女の中に眠っていた乙女心がときめいたのかもしれない。

 もっと可笑しかったのはばあちゃんだった。筒原さんの驚嘆の声を聞いて、俺たちの気配をようやく察したのか、湯呑みを持ったままこちらに視線を向けてきた。

「あれまあ、若い旦那さん、ここは銭湯ではありませんよ」と、ケラケラ笑い始めたのだ。

「セントウ……?」

 ガークの声色に緊張の色が滲み出る。まさかこいつ銭湯を戦闘と間違えているんじゃないだろうな。発音が違うだろうに。

 俺はまるで二つの立場を取りなす仲介役のように、筒原さんたちとガークのあいだに入って、説明を行った。立ったままというのもあれだったから、ガークには事務所の椅子に座るように促したが、キャスターがついて自走する椅子を見るのは初めてだったらしく、「これはひとりでに動いたりしないのか」などと俺に聞きながら、おそるおそる座っていた。

 ばあちゃんは何も言葉を発しなかったが、ガークのことをじっと見つめている。どうしてこの若いお兄さんは、裸になってここにいるんでしょう、などと考えているのかもしれない。

「要約するとこうね。私たちが転生したのは『ベリュージオン』という世界。そこには人間以外に知能を持った種族の生き物たちも暮らしている。私たち人間はここではロイメンと呼ばれていて、ガークくんは竜族の少年ってことね」

 筒原さん、俺よりも理解力が高いような気がする。俺は読んだことがないから、異世界転生小説なんて、どんなものなのかよくわからないけれど、そういうのを読んでいれば、自然とこんな不可思議な出来事も受け入れやすくなるのだろうか。知識があると物事の理解がより深まるのと同じように。

「コタロー、オマエの仲間は随分と物分かりが良さそうだな。我が『少年』なのかどうかはさておき、おおかた、己の身に降りかかった禍患を理解している」

「まるで俺が馬鹿だと言いたげだな」

「そうは言っていない。なにもオマエのことを貶したりはしていないだろう。オマエがそうう思案するということは、己でそう感じている節があるということであろう」

 どうなんだ? と言いたげに、ガークはほくそ笑んだ。俺はなにも言い返せなかった。ぐうの音も出ないというのはこういうことだろう。

「してコタロー、さっきから我のことを凝視している老女が、オマエの血縁の者か」

「そうだ」

「あらあらお兄さん、コタロウくんのお知り合いですか?」

 ばあちゃん、相変わらずマイペースだな。椅子から立ち上がり、ひょこひょこと歩きながら、ガークの前に立つ。しゃんと背筋を伸ばしても、彼の鳩尾ほどの身長しかないため、顔を見るには、ばあちゃんがガークを見上げることになる。

「いつも孫のコタロウがお世話になっています。不束者ですが優しい子なんです。どうぞこれからも仲良くしてやってくださいな」

 ばあちゃんは、俺とガークが昔からの知り合いなのだと誤解しているようだった。いや、誤解しているというよりは、思い込んでいると言ったほうが正しい。

 突然見知らぬ年寄りにペコペコと頭を下げられて、ガークは些か戸惑っている様子だった。俺のほうに目配せをしながら、どうしたらいいんだと言いたげな表情をしている。

「ばあちゃん、そんなにかしこまらなくても、ガークにはいつもよくしてもらっているから」

「まあ、坊ちゃんはガークさんと言うんですか! まるでメリケンさんのような名前ですねえ。あれ! よくみれば、目鼻立ちもすっきりしていて、随分と男前だこと」

 さっきから、ガークの見た目に、みんなが虜になっている気がする。ガークの反応を見るに、彼はあまり容姿を褒められることに慣れていないようであった。

「コタロー、そろそろ長老の元に行きたいのだが」と、あからさまにこの場から逃げ出そうとしている。

 まあ、ここにとどまっていても、何も進まないのは確かだから、俺もガークの提案には賛成だ。

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