プロローグ⑦

 ———地震だ!

 俺は咄嗟に体が動いて、ばあちゃんをテーブルの下に押し込んだ。介助をするときの安全な体の触れ方なんてものは、すっかり頭から抜けていた。「やだ、痛いですよ、おとうさん!」と、ばあちゃんが素っ頓狂な声をあげた。直後、地面が微かに震えた。その揺れは初めはささやかで、大したことはないかもしれないと思ったのも束の間、壁の書棚が微かに揺れているのが見えた。壁に掛けられた時計がカチカチと不規則に動いている。

「地震!!」

 そこでようやく、筒原さんは事態を理解したようだった。揺れは次第に激しさを増し、建物全体が唸りを上げるような音を立てた。俺は床に膝をつき、両手でテーブルの脚をしっかりと掴んだ。脇腹がばあちゃんの背中に当たる。パソコンや書類、筒原さんが飲んでいたコーヒーのマグカップが宙を舞い、耳をつんざくような音を立てて地面に落ちていくのが見えた。

「筒原さん! あぶなっ!!!」

 地震が起きていることは理解しているのに、あまりにも突然のことだったからか、筒原さんはその場に棒立ちになっていた。彼女の背後にある書棚が、ガタンゴトンと大きく揺れている。施錠していない引違いのガラス扉が開いたり閉じたりを繰り返していて、ガシャガシャけたたましい音を立てている。このままだと、筒原さんは書棚の下敷きになってしまう!

 俺は、筒原さんを助けようと、筒原さんのもとへ駆け出した。地面が根っこから揺れているから、足取りがおぼつかない。バランスを崩し、前に転びそうになりながらそれでも足を前に突き出す。彼女は俺の顔を驚いたように目を見開いて凝視している。この間、ほんの数秒だというのに、随分と長い時間のように感じられた。

 そのとき、ちょうど筒原さんの背後にある書棚が、大きく傾き始めた。俺はなんとか駆け寄り、彼女を引き倒すようにして書棚の下から引き離した。

「大丈夫ですか、筒原さん!」

 筒原さんは驚愕した顔で頷いた。言葉が出てこないようだ。口許がわなわなと震え、ただ俺の顔から視線が外せないようであった。

「あれ?……え?」

 あれだけの揺れが起こったのだ。室内のものは全て倒れ、書類の山が崩れ、足の踏み場がなくなっていてもおかしくない……はずだった。

「ばあちゃんっ!?」

 ばあちゃんは俺が押し込んだままの格好で、机の下で丸まっている。「ばあちゃん、大丈夫かっ!?」

「あれまあ、わたし、どうしてまあ、こんなことになってるのでしょう。いててて、腰が……」

「あっ、ばあちゃん!」

 俺は慌てて机の下に潜り込み、ばあちゃんを助け起こした。

「コタロウくん、いたの? ごめんねえ、またばあちゃん、頭がおかしくなったみたいだねえ」

「大丈夫だよ、それより、腰は?」

「年寄りはねえ、常に腰なんて痛いもんですよ。さあさあ、どうしたものかねえ」

 絶好調だ。ばあちゃんは、自分の腰をトントンとたたきながら、よろよろと立ち上がった。

 よろよろと、とはいえ、ばあちゃん、足腰は丈夫なのだ。俺の助けを借りずとも、床から立ち上がることは出来る。

「虎太朗くん、大丈夫だった?」

 書類の山の向こうから、ひょっこり顔を出す筒原さん。どうやら彼女も、無事なようだ。でも、なぜなんだろう。今までに経験したことのないほどの凄まじい揺れだったのに、そう、あれは体感的には震度七くらいの地震だったのに、この事務所内は何も起こっていないかのように、ただいつもの光景が広がっていた。

「筒原さんこそ、なんともなかったっすか? その、怪我とか」

「見ての通り、ピンピンしてるわよ」

「良かった。筒原さんが怪我なんかして就業不能になったら、事務所回りませんからね」

「それは心配ないわよ。虎太朗くんがいるから」

 こんな時に褒めてくれなくてもと思うが、口には出さなかった。そんなことより、なにが起こったのか、状況を把握することが先決だ。


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