もくしろくでこいをして

しがない

斜陽

 発砲事件が起きたのだと、クラスメイトの誰かが口にしたことを聞いた。人ひとりの命を奪いかねない凶器の存在は、しかしたちまち放課後の喧騒へと溶け込んで、動揺を波及させることはなかった。当たり前だ。片手で数えられない数になり始めた段階で、非日常は日常へと変化していく。今となってはこの街で発砲事件が起こることは珍しくなくなっていた。

「拳銃を売り捌いてばら撒いている奴が居るんだってさ」

 どこからか聞こえてくる流言が肥大化し始めたところで、僕は鞄を持って立ち上がり、教室を出る。黒板の端には「あと三十日」と女生徒が書いたらしい文字が浮かんでいた。毎日書き直されているせいで、漢数字の部分だけが滲んだその記号の羅列は寂しさというよりも不安を訴えているように僕の目には映る。

 半年前と比べて、放課後の廊下は閑散としていた。校舎内を反響していた吹奏楽部の練習の音は随分と静かなものになり、校庭から運動部の掛け声が聞こえることはもうない。冬の寒さのせいだろうか。静寂は殊更に激しくなっているように思えて、思わず手を握り掌に爪を立てた。痛みとも言えない感覚は、現実を何も誤魔化してはくれない。

 人影の少ない帰路に見えるまばらな人影は、触れ合ってしまえば壊れてしまうとでも言うように重ならない距離を保ちながら歩いている。僕は彼らを追い越しながら、高校から最も近い無人駅へと向かう。

 改札を通ると、折よく電車がホームへと滑り込んでくる。殆ど人の乗っていない電車に乗り込み、端の席に座って目的の駅に着くのを待った。

 かつてであれば、鞄の中に仕舞った文庫本を取り出していたのだろうけれど、いつからか本を読むことが出来なくなっていた。それでも持ち歩いているのだから、染み付いた習慣は侮れないものだと思う。

 僕が生まれた頃から変わることのない風景が窓外を流れていく。暫くそれらを見送った後で、目を瞑り時間をやり過ごした。こうしている間にも、命が浪費されていく。そう分かっているはずなのに、僕は何も出来ないままで何も変わらない日常を繰り返し続けていた。

 世界は、もうすぐ終わるらしい。その残酷な事実が人類に宣告をされてから、もう半年が経とうとしている。そして、人類が終わるまで、あと一か月を切っている。

 僕たちの多くは、かつて地上を支配していた恐竜という生物たちが巨大隕石によって滅びたことを知っていた。けれど、人類は違うのだと、根拠もなく身勝手に思いながら生き続けていた。そんな楽観を嘲笑うように、人類もまた隕石によって滅びようとしている。そして、それ以上ないほど絶対的な終わりは覆されることもないままで、その期限を迎えようとしていた。

 昔読んだ小説に、似たような設定の物語があった。もうすぐ世界は終わるのだと宣告をされたその世界では、終末を悲観した人々によって街が壊され、あらゆるシステムは停止し、人々は混沌の中を生きていた。法律は形骸化し、善良な市民は密やかに支え合いながらかつての生活の痕跡をなぞる。

 もしも、そんな世界が訪れれば。世界が終わるのであれば。僕は終末を待たずに脱落することになるのだろうと、ぼんやりと思っていた。地球に接近する隕石を見ることも出来ないままで名もなき暴徒によって殺されることになるのだろうと、確信めいた考えを抱いていた。

 けれど、現実は違った。世界が終わると知っても、人々は生活を続ける。日常を繰り返す。勿論、あらゆる物事が完璧に以前のように進むわけではない。コンクールや大会がなくなった部活動は活動を縮小しているし、どこのクラスも半数ほどの無断欠席者が出ている。犯罪率が上がったことは確かだろうし、この街でも発砲事件は珍しくなくなった。数えればきりがないほどに、綻びは生まれているのだ。

 それでも、社会は平静を装ったまま廻り続ける。インフラが止まることもなければ、暴徒は市民によって通報され警察官によって取り締まられる。受験という目標がなくなったのに授業は続いているし、朝の満員電車はなくならない。

 日常の耐久性は、僕たちが思っていたよりも遥かに頑強なもので、世界の終わり程度では何も揺らぐことはなかった。人類の多くは見慣れた風景の中で、繰り返される出来事の中で、終わりを迎えようとしている。

「お前ら馬鹿じゃないのか」と、クラスメイトの一人が朝のホームルームを遮って叫んでいたことを思い出す。半年前。世界が終わることを宣告されたばかりの頃のこと。

「どうして世界が終わるのに学校なんて来てんだよ。英単語も化学記号も世界史の年号も数式も、死んだら何の役にも立たないっていうのにさ」

 馬鹿、という言葉は彼の中でもかなり柔らかい言葉を選んでいたんだろうと思う。彼の言葉はある側面から見ればどうしようもなく正しくて、無為を続けるだけの僕たちは馬鹿どころか狂っているようにさえ見えたはずだ。

 けれど対照的に、僕たちを馬鹿と言っていた彼は殆どのクラスメイトから馬鹿を見るような目を向けられていた。その目線は、向けられていない僕でさえもゾッとするほど冷たいものに感じて、逃れるようにして机に視線を落としたことを覚えている。結局、彼はそのまま教室を出て行き、二度と学校に姿を現すことはなかった。

 僕は今まで、自分のことを欠陥のある人間だと思っていた。哲学がなく、信念がなく、望みがない。どこまでも空っぽな自分は居るべき場所を見つけることが出来ない異常者なのかもしれないと、そう思っていた。

 しかし違うのだと、今になれば思う。多くの人間は、いざ終わりを突き付けられたとしてもやりたいことなんてないのだ。耐久性のある、惰性的な安寧を打ち破ってでも成し遂げたいことなど、ないのだ。

 空っぽなのは僕だけではない。人間なんていうのは、その多くが空っぽなのだろう。そう気付くと、少しだけ生きるのが楽になった気がした。あと半年で終わるというのに、ようやく知ることが出来た。

 ただ、事実だから仕方がないと受け入れることは未だに出来ないままで居た。もうすぐ世界は終わるのに、僕は死ぬのに、このままでいいのだろうか。怯懦を貪るままで、無為を引き摺り続けたまま死んで、それで本当にいいのだろうかという強迫観念にも似たものが頭の中で反響し続ける。

 けれど、ないものを探しても、何も見つからない。生まれない。今から何かを求めるにはもう、何もかもが遅すぎた。

 電車が停止し、ドアが開いたところでようやく降りるべき駅に着いたことに気が付く。急いで席を立ち、駅へと降りた。

 改札を出た先に広がる住宅街は、既に世界が終わっているんじゃないかと錯覚をさせるほど閑散としている。半年よりも前から、この場所は変わらない。時代に取り残され、腐るように緩やかに潰えていく。隕石なんて大層なものがなかったとしても、行き詰るより他になかっただろう。

 時折、下校中の小学生とすれ違いながら帰途に就く。子供は、失うということを知らない。知識としては理解していても、経験として実感を抱いたことはない。世界が終わるということを、どのようにして捉えているのだろうか。あるいは、僕がもしもまだ何も失ったことがない子供であれば、世界の終わりをどのように観測していただろうか。答えは、分からない。経年による劣化は不可逆的なもので、かつての記憶は思い出へと加工され既に歪んでしまっている。失われてしまったものは、もう元には戻らない。

 家に帰ったとしても、僕にはすることがなかった。本を読むことは出来なくなり、授業こそあれど課題が出されることもなくなった。元より目的も持たずただ慣性に従うまま生き続けて来た僕にとって、この半年間は誇張や比喩ではなく本当に、命の浪費だった。魂のような何かが、時間の流れによって風化するように擦り減っていくことを自覚していながら、僕はそれをただ見送るだけの生活を続ける。今までも、そしてきっとこれから世界が終わるまでも。

 そう、思っていたのだ。

 誰も待っていないはずの家に辿り着くと、寒空の下、コートを着た少女が佇んでいた。偶然その場で立ち止まったわけではなくて、確かな意志を持って僕の家の前に居るということが、遠目から見てもすぐに分かる。

 宗教の勧誘か何かだろうか、と真っ先に思う。世界が終わるとなったからこそなのか、インターフォンを鳴らす宗教者の数は半年が経った今でも増え続けていた。終末に流行る宗教らしく、それらはみな口を揃えて救いを口にしていたけれど、それが例え現実のものであったとしても空想に過ぎなかったとしても興味のなかった僕は、決まって来訪者の存在をないことにしたまま生活を続けていた。

 無遠慮な来訪が迷惑であるという事実には変わりがないけれど、もしかしたら彼らも悪い人ではないのかもしれないと思ったことがある。沈みゆく世界の中で人々を救おうとした箱舟の造り手のように。彼らは面識のない僕ですらも救おうとしている。手を差し伸べようとしている。その行動に正しさがあるのかは分からないけれど、少なくとも動機には正しさが存在しているような気がして、僕は彼らを少しだけ羨ましく思った。

 しかし、目の前に佇む彼女は何かを信仰しているようには見えない。むしろ、行き場のなく彷徨わせているその目線は僕に近い、虚しい空っぽのように見えた。冬の中に佇む彼女の姿は美しく、しかし今にも崩れてしまいそうな脆さを持っている。あるいは、そうした脆さこそが美しさの所以なのか。

 何と声を掛けるべきなのか、考えはまとまらないままでその少女は僕の姿を見つけた。そして、黒く長い髪を揺らし、こちらへと近付いて来る。言い逃れが出来ないほど確実に、彼女の目的は僕なのだと知る。ただ、その事実と現実は上手く結びつかないままで、いつの間にか彼女は手を伸ばせば触れることが出来そうな場所に立っていた。

「君は、蓮見廉?」

 少女は僕の名前を呼ぶ。銃弾のように冷たい声は、記憶の奥底に沈められていたものを引っ掻く。それは、忘れていたのではない、意識的に忘れようとしていた記憶だ。否定をしようとする。世界が終わる前に、今更になって彼女が現れることなんてあるはずがないのだと、思い込もうとする。

 いっそ突き放して、話に取りあうこともせず家の中へと籠ってしまえば良かった。それなのに、僕は半ば反射的に疑問を返す。

「君は誰なんだ」

 僕が想定していた最悪の答えを彼女が告げる前に。彼女が口を開く姿をやけにゆっくりと認識しながら、ああ、と溜め息のような声が漏れた。やはり、僕の想定は決まって最悪の形で当たるのだと思いながら。

「香深由良。覚えてない?」

 忘れているはずがなかった。忘れられるはずがなかった。

 三年前。中学二年の冬。遠くへと行ってしまった香深は、僕の心に埋めようのない空白を残していった。

 人は、失われたものを補おうと代わりのものを用意する。欠落を埋めて、継ぎ接ぎの心を携えながら生きている。しかし、僕にとって香深の代わりとなるような人間は見つからないままで、ぽっかりとした虚だけが在り続けていた。

 本当は忘れたかった。けれど、忘れられるはずなんてなかったのだ。空白は時として、何かが在るということよりも激しい存在を表すことになるのだから。

「少し時間ある? 話がしたいんだけど」

「……僕は別に構わないよ」

「ありがとう」

 僕のぎこちなさとは対照的に、彼女は三年振りに話をしたことなんて忘れているみたいに昔通りの話し方をした。僕が彼女に対して一方的に隔たりを作っているのか、それとも単に長らく他人と関わりを持って来なかったせいで話すという技術が錆びついているのか。そのどちらでもあるような気がする。

「少し準備をしてもいいか」

 準備をするものなんて大してない癖に、思わずそういった猶予を乞う言葉が口から出る。このまま彼女の話とやらを正面から受け止めることは、出来そうになかったから。

「うん、分かった。どうせ時間は余ってるから、焦らなくていいよ」

 本当に時間は余っているのだろうか。世界が終わるまで、もう一か月もないというのに。

「じゃあ」と言って僕は家へと向かい、ポケットから鍵を取り出す。ドアを開けると、死んだような空間がそこには広がっていた。あるいは比喩ではなく、居住者が減り、本来の目的を果たさなくなりつつあるこの場所は徐々に死んでいっているのかもしれない。

「お邪魔します」という声に弾かれたように振り返る。香深はいつの間にかドアの内側へと居た。かつて、半年よりも遥か昔。僕たちが中学生だった頃。一度だけ、彼女がこの家へと上がったことを思い出す。しかし、そんな感傷に浸っている暇はない。僕は動揺の荒波が思考を掻き乱す中で何とか伝えるべき言葉を捜し当てる。

「何で、君も上がってるんだ」

「何でって、話をしたいって言ったでしょ。てっきりここでするのだと思っていたんだけど、迷惑だったかな」

 立ち止まって考えてみれば、彼女のその行動は図々しいものでもなく、合理的なものだった。適当な落ち着いた場所で、と思っていたけれど、僕が考えていたような落ち着いた個人経営の店の多くは世界が終わるという事実を突き付けられてからほどなくして休業へと入った。終業の間違いなんじゃないかと思いながら、もう開かれることなく閉ざされた店を何度も通ったことを思い出す。

 少し足を伸ばせば営業している店も見つかるんだろうけれど、わざわざそのような場所まで行かずともこの家を使えば問題は解決する。することに違いはないのだけれども、納得をして「はい分かりました」と簡単に進める話ではないことも確かだった。

 ざらりとした微かな抵抗感を覚えつつ、断ることも出来ないままで結局「リビングで待っててくれないか」と言って僕は逃げるように階段を上がっていく。

 部屋の中に入り、鞄を床に放り捨てると、溜息を吐いて椅子に座り込んだ。どうしてこうなったんだよと、誰でもない誰かに愚痴りながら、目を瞑る。

 香深は何の話をしに来たのだろうかと、考える。思春期の、特に心の脆い期間に、僕たちは時間を共有していた。それが特別な時間であったことは否まない。隕石が降ってこなかったとして、もしも僕が大人になっても彼女のことを忘れることはなかっただろう。

 しかし、世界が終わる直前に、貴重な残りの時間を割いてまで訪れるような関係なのかと問われれば、疑問だった。僕たちの関係は名前すら付いていない不安定で不定形なもので、繰り返すようなものではない。あのタイミングだったからこそ成立したものであり、もう甦ることはない時間なのだ。

 かつての知り合いの下を訪ねて回っている人が居る、という話を思い出した。世界が終わる前に、自分の過去をなぞるように省みていると。他の理由が思い浮かばない以上、消去法的にその可能性は説得力を持つけれど、納得をすることは出来なかった。香深が、そんな感傷的な旅をしているとは思えない。

 そうした考えは、愚かな決めつけに過ぎないのだろうか。人は誰しも変わっていくし、そもそも僕が香深の全てを知っていたという仮定が狂っている。この三年の間に彼女は変わったのかもしれないし、そもそも彼女は感傷的な人間だったのかもしれない。

 何も分からないままで、結局僕は思考を放棄した。考えても答えが出ないのならば、それ以上現実を歪めてしまう前に打ち止めるべきだ。能力に似合わない思索は身を滅ぼすだけということを、僕は今までの短い人生の中で理解している。

 長く待たせるわけにはいかないと思いつつ、準備をすると言った以上せめて着替えておくべきかと適当な服を探す。長らく来ていなかった外ゆきの服を引っ張り出して着替えると、家の中にも関わらず着飾っている自分のことが馬鹿馬鹿しく思えてくる。ただ、香深の前でみっともない姿を晒すのはやはり嫌で、これでいいのかと自らを納得させて階下へと降りていく。

 香深は何かで退屈を誤魔化すようなことはなく、ただ座ったまま僕のことを待っていた。多少の罪悪感を覚えつつ、僕は少しだけ歩幅を広げてテーブルへと近付いて行く。

「何か飲みたいものあるか?」

「選択肢は何があるの?」

「紅茶、緑茶、コーヒー、水あたり」

「なら紅茶で」

「オーケー」

 食器棚から来客用のカップを取り出し、軽く水で濯ぐ。世界が終わる前にこれを使うことになるとは思ってもいなかった。

 紅茶のパックを入れ、ポットから熱湯を出す。味が染みわたるのを待っている間に、僕は自分のカップにインスタントコーヒーの粉を入れて、熱湯を注いだ。このインスタントコーヒーはチープな味がして好きになれないけれど、それももう慣れた。

 終末が宣告された直後。人々は枯渇することを恐れて食料を買い漁った。名状することの出来ない狂気に駆られた人は、最初はそれほど多くなかったのだろう。しかし、情報が広がるにつれてその狂気は伝播し、各所で一時的な食糧の枯渇が起こった。

 父はそうした狂気に染まっていなかったと思う。ただ、狂気が蔓延するにつれて食料がなくなっていくことは確かで、一か月ほどをかけて節制をすれば数か月は耐え凌ぐことが出来そうな食料を調達した。今の僕の生活は、その残骸で繋ぎ留められている。

 しかし、父の奔走や世間の狂騒を嘲笑うようにほどなくして混沌は収束し、さしたる不自由もなく好きなものを食べることが出来るようになった。それでも、僕は安っぽい保存食を食べ続けている。そうでもしなければ、何だか父が報われない気がして。

 ぼうっとしていたことに気が付いて、急いで紅茶のパックを取り出した。見るだけで味が出過ぎていることの分かる紅茶を流しに捨てて、新しいパックでもう一度紅茶を淹れる。

 ほどよい色に染まった紅茶とコーヒーを持って、僕は香深の待つリビングへと戻る。テーブルに二つのカップを置き、香深が座っている正面の席に、僕は腰を下ろした。僕以外の誰かがテーブルに座っていることは、酷く不自然なことのように思える。半年前までは日常の一部だったことが、いつの間にか異常へと変貌していることに戸惑う。世界が終わると告げられてから、僕は僕であり続けていると思っていた。日常はいつまでも変わりなく続いているのだと思った。しかし、異常は緩やかに日常を浸食しているのだ。気が付かないうちに、人は慣れて、違和感すら覚えなくなってしまう。無自覚的に世界が、自分が変わっていっているという事実は嫌な感触を胸の中に横切らせた。

「それで、どうしたんだよ急に」

 ざらついた感触を吐き捨てるように、僕は質問をすることで気分を紛らわせる。

「そう簡単に来られるような場所じゃないだろ。それに、こんなタイミングでわざわざ来るような場所でもない」

 香深が越した場所は、この場所から飛行機を使って移動するような場所だった。不可能とまでは言わないけれど、面倒であることには変わりがない。つまりそれは、彼女の中にどうしてもこの場所に来なければならない理由があることを示していた。

 彼女はカップの持ち手に触れる。けれど、紅茶に口をつけることはないままで、口を開いた。

「簡単に来られるような場所じゃなくても、来る必要があったの。こんなタイミングだからこそ来る必要があったの」

「それは僕に関係のある話なのか?」

「当たり前でしょ。関係がないなら尋ねてないよ」

 当たり前と言ったけれど、僕の中では未だに疑念を拭うことが出来ていないままでいた。彼女が僕に伝えなければいけないことなんて、ないはずだ。僕たちの関係は、美しくはないかもしれないけれど、不可分ないかたちであの時終わった。付け足すような言葉なんてない。

 香深は小さく息を吸って、僕の目を覗き込むように見る。真夜中の水族館のような色をした彼女の目は、昔から変わらないままだった。

「蓮見君に頼み事があって来たの」

「……悪いけど、僕に出来ることなんて殆どないよ。期待に応えられそうにはない」

「違う。君にしか出来ないことだから、頼んでるんだよ」

 僕にしか出来ないこと。

「そんなもの、あるわけないだろ」

 十五年を生きたあたりで、誰でも気付くことだ。誰でもない誰かなんていうのは物語によって作り上げられた幻想に過ぎなくて、殆どの人間は代替が効く。例えば、僕に特出した才能があれば別かもしれないが、十七年生き続けて自らの才能の有無に気付かないほど、僕は盲目ではない。

 しかし、香深は「あるよ」と僕の言葉を否定する。

 本当にあるなら、僕にとってそれ以上のことはなかった。空っぽだと思っていた僕にも、意味があったのだと思えるのだから。

 口の中はひどく乾いていて、けれどコーヒーに口をつける気にはなれなかった。そうした逡巡の間に、彼女は口を開く。僕にしか出来ない「頼み」を言葉にする。

「私と、恋人になってくれませんか」

 その言葉は、僕に鈍い痛みを齎し、一瞬にして身体中に毒に中てられたような吐き気を巡らせた。

 僕は、香深由良に恋していた。どうしようもないくらい、頭がおかしくなりそうなくらい、身体がばらばらにぶっ壊れちまいそうなくらい、彼女のことが好きだった。

 けれど、今彼女が口にしたその言葉は、僕が最も彼女の口から聞きたくなかった言葉だった。僕の人生というのは、つくづく想定の中の最悪を再現し続けるらしい。

「揶揄いに来ただけなら帰ってくれ」

「揶揄ってるわけじゃない。私は本気だよ」

「嘘を吐くなよ。だって君は――」

 その言葉の先は、声にしたくなかった。ずっと気付いてはいた、揺るぎのない現実ではあるけれど、声にしてしまえば確定してしまうような気がしていたから。

 僕は、彼女との過去を大切に想っている。隕石が降って来て人類が滅びゆく中、走馬灯のようなものが見えるのだとすれば、僕は間違いなく彼女と過ごした日々を思い出すだろう。だからこそ、過去という壊れることのない硝子ケースに、化石のように展示されたそれを取り出して傷付けるような真似はしたくなかった。

 しかし、言葉にしないわけにはいかなかった。彼女が吐いた頼み事は、彼女自身の過去を塗り替えようとしているように思えたから。同じ過去を宝物のように、心の奥底へと仕舞っているものとして、僕は否定をしなければならなかった。

「君は、僕のことなんて好きじゃなかっただろ」

 香深がこの街から離れると知っても尚、僕は彼女に告白をすることはなかった。それは、思春期らしい恥じらいや、関係が壊れてしまうかもしれないという怯えのためではない。そんなことをしても意味がないのだと痛感をしていたからこそ、何も言わなかったのだ。

 僕の恋は失われることすらも許されないままで、行き場を失ったまま沈んで行った。形骸化したかつて恋だった何かは、呪いのようにいつまでも残り続けている。

 僕が異常へと慣れたように、人は時の流れに晒されることによって変容する。彼女が僕のことを好きになったのだと言えば、納得は出来るのかもしれない。しかし、彼女が僕を見る目は、昔から何も変わっていなかった。僕は、僕自身が狂いそうな恋をしていたからこそ、理解している。恋をしても尚、変わらない人間なんているはずがないということを。

「そうだね」と香深は躊躇う様子もなく、残酷な現実を肯定する。

「私は、蓮見君のことが好きじゃなかった。いや、この言い方には語弊があるかな。蓮見君には紛れもなく好意を抱いていた。でも、それは恋愛感情と呼べるようなものでもなかった。それに今も、恐らく君が思っている通り、私は君に対して恋愛感情を抱いてるわけじゃない」

 公的文書に記されるような断定をされることは、意外だった。感情を証明することは出来ない。頼みのことを考えれば、僕がどれほど疑ったとしても本当は好きだったのだと誤魔化すべきだ。

「君は結局、僕を揶揄いに来ただけなのか? わざわざ飛行機に乗って、世界が終わるという時に」

「揶揄ってるわけじゃない、って言っても信じられないことは分かってる。好きでもないのに恋人になって欲しいなんて、馬鹿にされてるんじゃないかと思われることも。でも、私は本気なんだ。君と、世界が終わる前に恋人になりたいの」

 これ以上、彼女は僕の過去を発き、荒らそうというのだろうか。彼女の口から紡がれるそれらは、確かに僕の理解することの出来る言語で構成されているはずなのに、間違えて組み立てられたジグソーパズルのようにぐちゃぐちゃで、何を伝えたいのか飲み込むことが出来ない。

 好きだから告白をして、好きだから恋人になる。感情というリキッドなものに論理というソリッドな形式を当てはめるのはおかしなことかもしれないけれど、こうした因果関係は恋愛という感情を意識し始めた時点で誰もが知ることになる、論理的帰結だった。

「好きでもない人間と付き合って、何がしたいんだよ。形だけの関係なんて、空虚で意味がないだろ」

 世界が続くのであれば、そうした関係にも意味はあったのかもしれない。自らの価値を証明するトロフィーとして使えば、実際的な利益を手にすることが出来たこともあっただろう。しかし、世界は終わるのだ。偽りの関係を築いて得られる利益に、何の意味があるのだろうか。

「形だけかもしれない。でもその形をなぞり続ければ、いつか本物になるかもしれない」

「何が言いたいんだよ」

「世界が終わる前に、私は恋がしたいんだ。眠るような、素晴らしい恋を」

 それはグロテスクな願いだった。

 彼女は彼女の叶うか分からない願いのために、僕の感情を踏み躙ろうとしている。僕の最後の時間を奪い、自らの幸福に手を伸ばそうとしている。

「恋がしたいなら、好きにすればいいだろ。ネットを使えばその手の掲示板は簡単に見つかる」

 世界が終わる前に恋がしたいという願いは、さして珍しいものではない。即席の愛に餓えた者が集った掲示板は終末の宣告からすぐにインターネットのそこら中に乱立した。きっと今もまだ、最後の時を孤独で過ごしたくないがために相手を探している人間は吐いて捨てるほどに見つかる。

 それに、香深由良という人間は、美しかった。恋によって歪められた視界から判断したのではなく単なる事実として、そう思う。どうせ、相手のことを深く知るような時間なんてないのだ。見かけだけで判断をされる今、パートナーを探すことにはさして苦労もしないだろう。

「そこに存在するのは恋愛じゃなくて性欲でしょ。私はセックスがしたいんじゃなくて、恋がしたいんだよ」

 性欲とかセックスとか、思春期の人間であれば熱い物に触れたように忌避する言葉を、香深は躊躇うこともなく言う。昔から、彼女はこうだった。単語を独立した音ではなく、コンテキストの上で判断する。誰と誰がセックスをした、なんていう下世話で生々しい話をしない代わりに、記号的な一事象としてであれば彼女は口にすることを迷わない。

 ゆえに、僕も彼女と話をしている時は例え相手が異性の、恋をしている相手だということを認識していてもそうした単語を言うことに躊躇いを覚えなかった。

「そりゃ性欲目的で始める奴が多いことは事実だろうが、そうじゃない奴だって居るだろ。そもそも、恋愛と性欲の違い自体曖昧で、線引きをすることなんて出来やしない」

 どこからが恋愛感情でどこからが性欲なのか。分かる人間はきっと居ない。セックスという行為を知り、性欲を自覚し始めた時から、ただでさえ曖昧なそれらの概念は溶けたかき氷みたいに混ざり合い、濁っていく。清廉さを突き詰めるなら、現実に恋愛を求めるのは月に手を伸ばすようなものだ。その末路は夢に溺れて死ぬよりほかにない。

「だから、私は君に頼んでるんだよ」

「だから?」

 思わず、阿呆のように彼女の言葉を繰り返す。相変わらず、僕には彼女の論理を理解することが出来なかった。

「君は私のことが好きだったでしょ。それも、性欲のようなものはなく純粋に。それが、君を選んだ理由。君にしか出来ない理由」

 その言葉を聞いた僕にとって、どうして僕が選ばれたのかという理由は最早関心のないもので、ああ、やっぱりバレていたのか、と思う。努めて隠そうとしたことはなかった。けれど、口にしたこともなかったはずだ。結局のところ、好意なんていうものはどうしたって滲んでしまい、隠すことなんて出来ないものなのだということを知る。

「なら、分かってるのか。自分が頼んでることがどれだけ残酷なことなのか」

「……うん、分かってるつもりだよ。結局私は蓮見君じゃないから、本当にどれだけ辛いのかとか痛いのかは分からない。でも、私の頼みが君にとって残酷で最悪なことくらいは自覚してるつもり」

「それでも来たんだな」

 僕の知っている香深由良は、個人主義者だった。他人を意識的に損ねることが出来る冷たさはかつても変わらず持っていたけれど、それを振るおうとする機会はなかったように思える。自分が干渉をしない代わりに他者からの干渉も拒むという取引を、彼女は世界に対してしていたのだ。

 だからこそ、意外だった。自分のことを好きだった相手の感情を踏み台にして、理想に手を伸ばそうとしている姿は、僕の中にある香深由良の像と重ならなかった。

 しかし、香深は笑ってその答えを告げる。

「どうせ世界は終わるんだから」

 多くの人間がこの半年の間に物事を決断する際、ひとつの基準としてきた言葉を彼女は紡ぐ。馬鹿馬鹿しいかもしれないけれどそれ以上は存在しない、完璧な答えだ。

 そこに正しさなんていう尺度はない。その人間の、最後の願いであるという重みがあるだけで、理屈を用いた否定は意味がない。もしも、僕がその頼みを無下にするならば、必要なのは彼女と同じ残酷さだけだ。

 僕はようやくコーヒーに口をつける。既に冷め始めていたそれは苦味を増して、とても味のために飲むものではなくなっていた。ただ、心なしか頭の靄は少しだけ晴れたような気がする。

「勘違いをしているかもしれないから言っておくが、僕たちが別れてからもう三年は経っている。あの頃の僕は紛れもなく君のことが好きだったが、今の僕も同じ感情を引き摺っているわけじゃない」

 行き場を失ったままの初恋が僕の中で蟠り続けていることは確かなことだったけれど、それは既に風化によって無残なほどに形を変えていた。狂いそうなほど僕の中でのたうち回っていたあの猛獣のような感情は、その輪郭をなぞることも許されないほどに消えて久しい。

「分かってる。繋ぎ留める気もなかったのに好きでい続けて貰えてるなんて考えるほど、傲慢じゃないよ」

「それでも、僕じゃなきゃ駄目なのか。君は、それでいいのか」

 今更、何を確認しているのだろうと思う。この場所へと足を運び、その口で頼みを言葉にする。そうした行動をしたという事実が、彼女の選択の覚悟を表しているはずだ。けれど、僕は彼女自身の言葉として、その選択を聞きたかった。形にするということは不可逆的で、だからこそ価値があるのだから。

「蓮見君しかいないんだ。私の決断は、それだけだよ」

 彼女の瞳は揺らぐことなく、僕を見る。

 その動機は不純なものかもしれない。僕の中に存在していた感情を都合のいい道具のように使う、嘲るような、最悪なものかもしれない。それでも、そうしたグロテスクな部分を自覚しながら彼女はその選択を取ったのだ。

 どうせ世界は終わるのだ。ならば、自分のためでなくてもいい。僕の生が、誰かの役に立てばいいと思う。

「分かったよ、恋人になろう。君が恋を見つけることを、出来る限り手伝う」

 それが本当に叶うことなのかは、分からない。彼女が僕に恋をすることはないままで、ただ僅かな残りの生を無駄にするだけで終わるのかもしれない。けれど、足掻くことに意味があった。無謀な祈りだったとしても、求める物を定め、それに向かって行動をすることに意義があった。

「ありがとう」と彼女はやけに畏まった態度で礼を言う。三年の空白が存在しているとはいえ、僕たちの関係にそうしたものは似合わない気がして、コーヒーを飲んで吐くべき言葉を紛らわせた。

「それで、恋人になって何をするんだ?」

 例えば、恋人らしい生活をなぞるとしても、残された時間は少ないし、営業を止めた施設は増えつつある。終末が近付きつつある今では出来ることが減り続け、限られるようになっていた。

「蓮見君は今まで、どんな生活を送ってたの?」

「通ってる高校がまだ機能をしているから、そこに通ってる。それくらいしか、することがないんだ」

 僕には目的がなかったから、多くの人と同じようにただ日常を繰り返すよりほかに出来ることがなかった。それが揺るぎのない事実ではあるのだけれども、己の怯懦を晒しているようで、何だか嫌になる。

「なら、私も学校に通っていいかな」

「別に、僕に付き合う必要はないだろ。目指すべきものがなかったから惰性的に通ってただけなんだ。恋がしたいっていうんなら他にもやりようはあるだろ」

「でもやりようって言っても私も君も、何をすれば分からないでしょ。それに、君を巻き込もうとしてるうえで言うのはおかしいかもしれないけどさ、私は出来るだけ君の生活を壊したくないんだ」

 確かに、恋をするだなんて言われてもどうすれば恋が出来るのかなんていうことを僕は知らない。恋人らしさをなぞるような生活をするにしても、一か月という時間は流石に持て余してしまうだろう。

「こんな状況だけど、だからこそ私は自然でいたいの。意識的に恋をしようとしてる時点で、矛盾してるかもしれないけどさ」

 恣意的な恋人関係と自然でいたいという願望は果てしなく相容れないものではあるけれど、彼女の言っていることは納得出来るような気がした。時間があれば。異常な状況でさえなければ。自然な恋愛が出来たかもしれない。けれど、最早その願いはどうしたって不可能だから、恣意性という異物を飲み込んで、願いを望むしかないのだ。

「分かったよ。恋人が居るということを除いて僕は今まで通りに過ごすことにする。それでいいか?」

「うん、ありがとう」

 礼を言われるほどのことではない。僕は結局、何もしてはいないのだから。

「一人でこっちに来たのか?」

「……そうだよ。私の恋愛事に両親を巻き込む必要はないでしょ」

 香深は諧謔めいた笑みを浮かべた。それはそうだ、恋愛なんていう個人的な出来事に両親を巻き込む必要はない。

「ならあと一か月、どこに泊まるんだ?」

「少し行ったところにホテルがあるから、そこかネットカフェかな。お金はあるからさ」

 この辺りのホテルは未だ機能をしていただろうか。世界に対する関心を失っていたせいで、現実の状況を把握出来ていない。関心があったとしても、ホテルの営業状況なんていうものは分からないのかもしれないけれど。

 少し考えて、僕はひとつの提案をする。素面では出来なかった提案だろうけれど、あと一か月で死ぬと分かっているなら僕にだってこれくらいのことは出来る。

「ここに泊ればいいんじゃないか。香深に抵抗がなければだけどさ」

 幸いなことに部屋は余っている。行き場のない感情のように使い途を失った物はただ憐れなだけなのだ。使われた方が、きっと良い。

「私からすれば嬉しい提案だけど、いいの? ここに住んでるのは君だけじゃないでしょ」

「いや、僕だけだよ。両親は二人とも死んだんだ」

 母は世界が終わることを知るよりも前に病気で死んだ。父は食料の買い溜めに向かっている中起こった暴動に巻き込まれて死んだ。この広い家に住んでいるのは、今や僕だけになっていた。

「ごめん、無神経な言葉だった」

「いいんだ。本当に、何とも思ってないから」

 哀切は日々の生活の中で擦り減って、もう僕の中には残っていなかった。存在しない痛みを憐れまれても、戸惑うだけで何も出来ない。

「ともかく、部屋は余ってるんだ。掃除はしてないから埃が溜まってるだろうけど、好きなところを使ってくれ」

 そう言って、僕は立ち上がる。コーヒーは未だ半分ほどカップの中に残っていたけれど、冷めて苦味の増した泥のような液体をこれ以上飲む気にはなれなかった。

「少し、眠ってくる。食べ物も飲み物も、必要だったら適当に取っていいから」

 不用心かもしれない。けれど、取られたところで困るようなものでもないし、困ったとしても残る時間は僅かなのだ。今までのことが全て嘘で、彼女が悪意に満ちた存在であったとしてもどうでもいい。

 それよりも、休みたかった。一人になりたかった。無重力から帰って来た宇宙飛行士が地球の重力に耐えきれないように、長い間孤独に慣れ続けると、他人と話すことに疲れて仕方がない。

「おやすみなさい」と香深が言う。

「ああ、おやすみ」と僕は返す。

 なんだか、久しぶりに他人と挨拶をしたような気がした。自分の中の人間的欠陥が埋まったように、そう錯覚した。

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