2024/11/7

 つい百年ほど前までは、日本の、特に一般庶民に関して言えば、(実物や絵で見ることのできない)未知の事柄について、その大部分を言葉に依拠して想像するほかなかった。そのような時代に於いて、文士の技が重宝されたのは言うまでもあるまい。ところが映像媒体が日本中を席捲し、人々がより簡便に、より直感的に未知の世界と対峙できるようになると、瞬く間に文士の市場価値は地に落ちてしまった。

 実をいうと、本当の問題はこの先にある。この盛衰の過程において、ある一定数の文士が次のようなことに気がついた――人々は言葉を頼りに想像する代わりに、言葉によって映像媒体で得た記憶を呼び起こすようになった。言い換えれば、多くの読者は言葉をもとに自ら想像を練り上げるのではなく、言葉を単に出来合いのイメージを取り出してくるためのツールとして用いるようになったのである。言葉に「語り手」としての役割ではなく、データベースに検索をかけるための「キーワード」としての機能を求めるようになったと言ってもよい。そこでこのことに気がついた文士達は、読者が求めていないことを口実に、自らが綴る言葉にも語り手としての役割を付与する必要がないと考えるようになり、「言葉によって物語る」という、至極当然の、己の存在価値ともいうべき技能について錬磨する努力を怠るようになった。かくして文士の創造が読者に想像の自由を促した時代から、文士自らが読者のによって自由な創造が規制されるのをよしとする時代へと遷っていくこととなったのである。


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近來の小説の文章は、餘程蕪雜になつたやうに考へられる、思想が大切であるのは言ふまでも無いが、粗笨な文章では思想が何んなに立派でも、讀者に通じはしまい、感じはしまいと思ふ。就中近頃の小説の文章に、音律といふことがゆるがせにされて居る、何うしてゆるがせ處ではない、頭から文章の音律などは注意もしてゐないやうに思ふ。


(泉鏡花)

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