第12話 ファンデルとアンテ 4
「これはどういうことだろうね?」
ユーランが草むらに横たわるバシリアスを目にして鼻先を近づけた。フィルは低空を旋回しながら、ただその様子を眺めている。
「器が空になってしまったのかな? ファンデルの気配が感じられないけれども」
ユーランは、バシリアスの周りを何周も回った。バシリアスに息はある。幾度も触れたことで、バシリアスが夕べ見た幻影もユーランに見えた。頭が抜け落ち、四肢が失われる幻影だ。
しかし、現実のバシリアスは意識を失っているところを除けば、その四肢に異常はない。
「もしかしたら、ファンデルは完全に機能を停止してしまったのかもしれないね。だとしたら、余りにも残念だ。あれだけ悪あがきをしておいて勝手に滅びるなんて」
「滅びてなどおらぬぞ」
不意に言葉を発したバシリアスに、ユーランは丸い体を転がすようにして距離を取った。
ファンデルが戻ったのかと思考したユーランに、バシリアスは立ち上がりユーランの考えを読んで笑った。
「ファンデルはとうに抜け出し、残るオルビスを求めて去った」
両手のこぶしを確かめるように握っては開きつつ、バシリアスは返した。
「じゃあ、君は元のバシリアスに戻ったのかい?」
その問いにもバシリアスは笑った。
「あのバシリアスという混血の子孫ならば、最初にファンデルの器となったことで、魂の半分ほども残っていなかったのではないかな」
ファンデルでもバシリアスでもないというその生命体と対峙し、ユーランは自らの身体にも変化が起き始めているのを悟った。首周りの冷却襞(れいきゃくへき)がミシミシと音を立てる。和毛が抜け落ち、透き通る水晶の鱗があらわになる。
「アンテの精神か」
姿を変えてゆくユーランが口にした言葉に、バシリアスだった者は、今度はにやりと笑っただけで背を向けた。
「こんな不完全な生物などに、用はあるまい。あるいは我々の器にでもと試してみたが、いまひとつだ。聖獣の血がもっと濃ければ耐えられそうだが」
「聖獣の? 混血ではないバルバリの民か?」
「そう呼ぶらしいな。ところで、聖獣がこぞって追っているのはファンデルであろう? 急いだほうが良いかもしれんぞ。ま、我々が忠告するでもない。お前は本能でそれを察知しているようだ」
バシリアスの身体はそう語ると、振り返り変化するユーランを見上げた。先程までは見下ろしていたユーランの顔が、今では空高く見上げるほどの位置にある。
突き出した鼻の下にある口は、大きく耳の下まで裂けバシリアスをひと飲みできるほどだ。長く伸びた首を振るうと、こすれた鱗と冷却襞が竪琴を爪弾いたかのような音をたて、両翼が姿を現した。
「オルビスが揃っていないファンデルはまだ無力。支配のオルビスを直接体内に取り込んだバシリアスとかいう奴の身体でも少しは動けたようだが、それも僅かな間だった。我々なら今度の器には聖獣、できれば力の弱いその幼体でも選ぶだろうな」
完全に成体へと変化したユーランが、大きな爪をもつ前足でバシリアスを掴もうとした。だがその寸前、中に入っていたアンテの精神の集合体、精霊もバシリアスの身体から抜け出し、完全な抜け殻と化した肉体は、うつ伏せに倒れ、再び動くことはなかった。
「サンクテクォは余程不運なのか、この事態を予見していたのか」
ファンデルはサンクテクォの幼体、サンティとは別のもう一体の所へ向かったのだろう。だが、今サンクテクォは、ファンデルを一万年もの間封印していた洞窟にいる。ファンデルもむやみにその場に突入しないだろう。今から向かっても間に合うはずだが、ユーランは思案していた。
「フィル、どう思う?」
ユーランのごく短い問いでもフィルには伝わっていた。首を横に振っている。
「私もそう思う。器が何であれ関係ない。もとよりサンクテクォが今現在三体も存在しているのは不自然極まりない」
ユーランはそう言って、事の成り行きを静観することにした。
ユーランたちが精霊の高地ディシビアを去った翌日の夜。その人物は、無残に虫たちの食料と化した我が子の亡骸を見下ろしていた。
「間に合わなかったのね」
ファンデルのキノニアが動き出して以降、バシリアスを追っていたのはスタークだけではない。シェニムの巫女である彼の母親、ジャネルもバシリアスを捜していた。
バルバリの国でスタークに鋭い視線を向けていた白装束の女だ。
ジャネルは纏っていた装束をその場に脱ぎ捨て、薄衣一枚の姿になり、両手を広げて天を仰いだ。
精霊の気配はずっとある。その精霊が何をしようとしているのかもジャネルは理解していて、それを受け入れようとしていた。
一束の白い光が、ジャネルの口へ渦を巻きながら侵入した。
その勢いに、ジャネルの身体はガタガタと波を打っている。
ジャネルの身体から僅かに溢れた光が両目から放たれると、彼女の震えは収まった。
「悪くない器だ。これならばまた」
ジャネルは身体を軽く動かし、足を踏み鳴らした。
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