おやふれち
きせのん
外は暑い
親不㆑知。
かっこよく書こうという私の試みは、レ点が小さくなかったため大失敗に終わった。
そんなことは忘れるとして、とにかく私は今日親知らずを抜いた。
まだ記憶が新鮮なうちに、できるだけ書こうと思う。
……思うが、まだ止血用ガーゼを噛んでいる今ですら既に怪しい部分があり不安を感じる。
まあともかく、こんな余計な話を書いている暇があればとっとと本題へ進むべきだ。時間が経つにつれ、確実に記憶は薄れてゆくのだから。
私のかかりつけの歯科は幸運にも近場にあるので、歩いて行くことができた。
いや、思い返すとやっぱり幸運ではなかった。とても暑かった。燦々と照る日差し。ポカポカに温まったアスファルト。昨日の雨で高い湿度。どれをとっても嬉しくない。
そんな中を歩いて私は歯医者へと向かった。
入口の薄いガラス戸を抜けると天国であった。夏の空が遠ざかった。特に足は止めなかった。
既に何度も来たことがあるので勝手は知っている。人のいない待合室を通り過ぎて受付へ向かい、常連のようなスムーズさで受付のお姉さんへ話しかける。
「あっ、あの、すいません……お願いします……」
……まぁ、多少誇張があったことは認めよう。しかし何の問題もなく受付を終えられたのだ。誰も私に文句など言えまい。
受付が終わると少々暇な時間ができる。
しかしこれは私の悪癖なのだが、なんとなく人前でスマホを触りたくないと思ってしまうのだ。赤の他人に、自分を「暇さえあればずっとスマホをいじっている人」とカテゴライズされたくない。
なので私はその辺にあった雑誌を手に取った。適当に見栄を張るために取っただけなので、興味のある話題など載っていない。若干の後悔を覚え始めた頃、つまり30秒ほど後、ようやく名前を呼ばれた。
ところでここで補足しておこう。先ほど「人のいない待合室を」と言ったが、ここが客のいないボロ歯科という訳ではない。平日の昼間だから人が少なかっただけだ。誤解されると少し悲しい。
さらに補足しておこう。私は別に平日昼間でも暇なニートではない。夏休みだ。誤解されると少し腹立つ。
案内された場所へ行き、荷物を置いて椅子に座る。椅子に座ると前の画面にレントゲン画像が映し出され、軽い説明を受ける。この画像は前回撮ったものだが、また今回も一応撮ってから抜くらしい。
自慢ではないが私は歯科のレントゲンをたくさん体験してきた。なので当然やり方は知っている。しかし私はそんじょそこらの凡人とは違うため、さらに多くのことが分かっているのだ。
調子に乗って指示を受ける前に色々やろうとすると、微妙に忘れていたりして恥ずかしい思いをすることになるのだ。一敗。
大人しく詳しい人の指示を聞くのが一番である。
席に戻ると先ほど説明してくれたお姉さんがどこかへ向かい、「エクストお願いしまーす、親知らずです」と言うのが聞こえた。
エクスト。かっこいい響きではないか。exで外向きの意味だから抜歯という意味だろうが、なんだかそういう専門用語的な略語の方がかっこいい。
しかし冷静に考えてみると、「エクスト」よりも「抜歯」の方が短い。何のために横文字を使うのか、やはりロマンか。では仕方がない。
あとときは思いつかなかったが、これが抜歯ではなくエクストリームの略だったら面白い。「フゥー!歯抜けるぜ!エクトリィーーーーム!!」とか歯科医が言っているのを想像するだけで不安になる。やっぱり面白くない。そんな人に口の中を見せたくない。
色々と考えていると、先生らしき偉そうな——褒め言葉——人がやって来るのが分かった。
先生は私の隣に座ると、歯の抜き方について詳しく説明してくれた。
「親知らずを覆ってる歯茎をちょっと削ると頭が見えるから、そしたらまず周りの薄い骨を削ります。でその後歯の上側を削ると隙間ができるので、残った根本のところをくるって取るからね。一度じゃ抜けないからいくつかに割って出すよ」
痛そうだった。ただとりあえず、「麻酔さえ我慢すれば大丈夫だから」という言葉を信じることにした。というかそれを信じるしかなかった。
トレーの上に置かれている、麻酔に使う大きな金属製の注射器は見ないことにした。
ところで自慢ではないが、私は数多くの歯を抜かれてきている。しかしそれ故に、油断していた。これまで通りまず最初は歯を綺麗にして、歯を抜くのはその後だと思っていた。
そもそも、この先生が出てきた時点で気が付くべきだったのかもしれない。
「はーい、じゃあ麻酔していくから、頑張ってね」
正直あまり覚えていないが、たぶんこんなことを言われたと思う。
そして思いっきり口を開けるよう言われたので開けると、口の奥の方になにかを刺された。
「(まだ来て10分も経ってないくらいなのに!心の準備ができてない!)」
何を刺されたのかは考えないようにしようとしたが、当然のように無理だった。痛みは少ないがただただ怖い。
長いのか短いのか良く分からない間の後、ようやく抜かれた感触がある。
刺されたところを舌で触ると、麻酔液が滲んでとても苦い。
苦いが、もう終わったという安心感もあった。しかし私が「麻酔さえ我慢すれば」という言葉を思い出していると突然、
「はーい、じゃあもう一回口開けてねー」
なん……だと……?終わりではなかったのか?いやしかし今の私には麻酔の力が、これも痛いわ。
まだ麻酔は効いていなかった。
2回だったか3回だったか忘れたのだが、とにかく何回か麻酔を打たれた。たしかに親知らず大きいからね、これまでと同じ量じゃだめだよね……
最後の針を抜くころには、微かな痺れを顎に感じていた。少し喋りづらいが安心感もある。これでもう痛くない、怖くない。
先生は別の人のところへ行ってしまった。体感で数分、麻酔が効くのを待っていた。その間に「あまり長風呂しないこと」「数日腫れるかもしれないこと」などを聞く。
どんどん感覚の無い部分が広がる。思うように動かせているのか分からなくなり、自分の舌なのに異物感が強い。
……舌?
さっき刺されたのは歯茎である。もしや、さっき舐めたのがいけなかったんだろうか。ちなみに麻酔から2時間程度経った今でも、舌は右半分の感覚が戻らない。麻酔強すぎでは。でも無いよりはよっぽど良い。
体験したことのある人は分かると思うが、自分の一部がゴムのようになるというのは奇妙な体験だ。
触られたら、一応分かる。しかしそれは、周りの皮膚が引っ張られることによってのみ。爪で軽く触るくらいでは一切分からないのだ。
久しぶりに味わう懐かしい感覚を楽しんでいると、先生が戻ってきてまた椅子を倒した。
「沁みるかもだから痛い時は左手挙げてねー」
おお、歯医者でよく聞くセリフだ。しかし何故左手なのだろう。右手では……この世の真理を究明しようとしたその時、口へ何かが近付いてきて、激しい痛みが——ない。
一切痛みがない。本当に何かしているのか疑わしいくらいだ。素晴らしきかな麻酔!
そして意外にもあっさり第一段階が終わり、言われた言葉がこれである。
「はい、ちょっと今血出てるからこれ噛んで止血してね」
血?口の中で?んなバカな。全く痛みはないぞ。
でもそうだって言うならそうなんだろう、多分。
そう思いつつも3割ほど疑っていた。しかし止血後に軽いうがいをすると、口から大量の茶色い液体と固まった血が出てきた。
痛覚の重要さを実感する、本当に怪我しても一切気付かずに動き続けられそうだ。恐ろしい。
ところでこれはまだ終わりではない。まだ歯茎をめくっただけだ。多分。
しかし麻酔の威力はさっきので十分に分かった。
もうこれで何も痛くない!残念ながら怖くない、とは言えないけれど。
しかし恐怖なんて心だけだからね、なんでも来い、と思っていると——
爆音が響いた。ガガガッ!!
……そんじょそこらの凡人とは違う私には分かる。これはあれだ、人体から出てはいけない音だ。
なんか、え?岩削れてない?大丈夫だろうか本当に。
でも痛みは全くない。それがむしろ、恐怖に拍車をかける。なにが起こっているのか分からない恐怖だ。知りたくはないが。
なんかこの辺りで色々と言われたが、もう忘れてしまった。ただ一々頷くと口の位置が動くので、ずれないかとても怖かった。次回は「右手挙げたら了承」と伝えよう、と心に念じたことは記憶している。
ただ先ほどの音も、始まりにしか過ぎなかったと悟ることになる。先ほどよりも音の発生源が下がり、近づいた。
ガガガガガガガッ‼︎‼︎
歯の根が振動するのを感じる。本当に大丈夫だろうか?麻酔が強いので唇が抉れてても気が付かない自信がある。
「じゃあ割っていくからパキッてなるよ」
もうこの辺りまで来ると、怖いは怖いのだが若干麻痺してきたかもしれない。何が起こっているのかよく分からないせいもあるだろうが。
パキッ
やはり怖かった。こんな音を体内で聞くなど、一生でそう何回もしない経験だ。そうでなければ困る。
その後も口の中をよく分からない感じで少し弄り回され、よく分からないまま終わった。
終わってみれば、とても一瞬だったような気がする。時計を見ても、来てから30分しか経っていない。
問題もなくあっさり終わったのもあり、抜いた歯の欠片たちを見せられても妙に実感がなかった。
これで無事にすべて終わったように思うだろう。
しかし私は知っている。
歯を抜いた後、翌日以降の痛みを。
なるべく痛くならないといいな、など無謀と分かりきった望みを抱きつつ。少なくともここまで無事に終わった晴れやかな気分と共に、私は帰路へと歩み出した。
とても暑かった。
おやふれち きせのん @Xenos
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