私は貴女が守るべき子供ではなく、貴女の頼れる未来の夫です

五月ゆき

第1話 王の末の子①


初夏の日差しが差し込む昼下がり。


王の末の子であるアレクの私室には、昨夜の宴の残り香が未だに漂っていた。酒と香水、それにほのかなおしろいの匂い。昨夜は王宮中の女たちを集めたような乱痴気騒ぎだったのだ。アレクについている侍女たちだけでなく、上のきょうだいたちの侍女や、メイドに下働きまで。


「女であれば誰でも通してやれ」という主人の命令に従って、私室を護る衛士たちは門を開けていた。彼らは皆一様に渋い顔をしていたが、なに、アレクがこのような宴を設けるのは今に始まったことではない。部屋を訪れる女性たちも慣れたものだ。


「……これは完全に二日酔いだ……」


アレクは呻きながらも、ベッドの上でだらしなく上半身だけを起こした格好のまま、用意された病人食をなんとか食べきる。それから食後の茶を飲んで、ほっと一息つく。


そこへ、侍女からすかさず一通の手紙が差し出された。

アレクはその手紙を見下ろし、そして眼をそむけた。


「またか……」

「殿下」


露骨にげんなりとした声を出してしまったからだろう。乳兄弟でもある侍女からは嗜めるように呼ばれる。


しかし公爵家の紋章入りの封筒に見慣れた筆跡ときたら、アレクの気分がずどんと重苦しくなってしまうのも仕方がないことだろう。麗しの婚約者殿から、またお小言の手紙だ。中身を読まなくともわかる。それはもう遠回しに婉曲に、貴族らしく言葉を飾りつつも『もっと自分の立場をわきまえて行動してください』という一点が書いてあるのだ。いっそ一言でよくないか? とすら思う。婚約者殿はネチネチと、それはもうネチネチネチネチと説教することについて多大な才能がある。


だいたい婚約者殿にいわれなくとも、アレクは十分に自分の立場を理解している。王の子の中でもアレクは歳が一番下だ。すでに立派な王太子が立っている王宮で、アレクに寄せられる期待などない。すり寄ってくる貴族すら少数だ。アレクが日々を自由気ままに好きなように過ごしていたところで問題はない。小言を浴びせてくる婚約者殿以外には。


「いい加減、婚約を解消したい……」

「それは先方にお断りされていたではありませんか」


侍女に再び窘める口調でいわれて、アレクは額を押さえた。どうしてこうなった。


確かに、かつて婚約者になることを望んだのはアレクのほうだった。

アレクが十五歳、相手が十三歳のときの話だ。

その頃の婚約者殿は今のようにネチネチ小言を言ってくることはなかった。むしろ非常に物静かで、無口で、ほとんど何も喋らなかった。


あれは育った環境が影響していたのだろうと、アレクにもわかっている。

公爵家は名門だが、当時の家庭内環境はよくなかった。婚約者殿の父親は表向きは真面目な人物だったが、屋敷の中では酒におぼれて暴力も日常のことだったらしい。そのためかはわからないが、母親は早くに亡くなってしまった。それから半年と経たずに父親は愛人とその子供を屋敷へ連れ込んで、実子をいっそう目の敵にしたのだという。


当時十五歳だったアレクは、公爵家の夜会を抜け出した先で、偶然、暴力の現場を目撃した。

そこからは細い手首を掴んで、公爵家から連れ去るようにして王宮へ駆け込んだのだ。そして両親に頼み込んで婚約者にしてもらい、王宮に部屋を用意してもらった。


『恩を着せるつもりはないし、きみと本当に結婚するつもりもない』


その話は、王宮に連れてきた最初の日にした。


自分は結婚して家庭を持つというのは考えられないし、この婚約は一時しのぎみたいなものだと。とりあえずの緊急避難だと思ってくれと。きみがあの親に真っ当にやり返せるようになったら公爵家に帰ればいいと。いくら愛人の子を可愛がろうとも、血筋からいって公爵家の跡取りは君だから、その点は心配いらないと。でもきみが公爵家を捨てたいというなら、それはそれでどうやって生きていくかを考えたほうがいい。まあしばらくはよく休みなさい。そんな話をした。


あれから七年。婚約は未だに解消されていない。


ちなみに公爵家の家庭環境最悪問題に関しては、婚約者になってから三年後に、当主の様々な醜聞が明らかになるという形で代替わりを果たした。


公爵家の名誉は地に落ちたが、跡を継いだ若き婚約者殿が方々へ頭を下げ、真摯に謝罪したことにより、新たな当主へは同情が集まった。さらには婚約者殿の巧みな話術と類まれな美貌、そして魔道具開発における桁外れの才覚を示して莫大な富を築いていくと、社交界の人々はたちまち手のひらを返して公爵家を褒め称えた。


めでたしめでたし、一件落着である。


しかし婚約は未だに解消されていない。


婚約者殿の小言は年々増加の一途をたどっている。昨夜のような女性たちを集めた宴についても説教をしてくるが、最近は特に、アレクが聖女と名高い男爵家の令嬢と親しくしていることが気に食わないらしい。『ご自分の立場をわきまえて行動なさってください』から始まる小言が止まらない。アレクもいい加減、聞き流すことに関しては一流の技術を身につけているが、それはそれとして婚約は解消したい。円満な婚約解消こそが婚約者殿にとって最善である。


「わたしに問題があっての婚約解消だと父にも母にも伝えるし、きちんと慰謝料も払うといったのに、どうして……!」


「公爵家の財力と、あの方の数々の発明品が生み出した莫大な富を考えますと、殿下の提示した慰謝料は微々たるものだったのではないかと」


「いつ正論が聞きたいといった?」


憮然として睨みつけると、侍女はそっと目をそらした。


アレクの婚約者殿は、二歳年下だというのに、すでに数々の斬新な魔道具を開発し、国内外にその名をとどろかせている。


特に有名なのは、大地の浄化を行うことのできる魔道具だ。

魔物の放つ瘴気は人間だけでなくその土地や動植物まで病ませてしまうため、魔物本体を倒した後でも、その土地にはしばらく住めなくなってしまうという困難な状況も往々にして起こっていた。

教会には浄化を行う神官や聖女がいるが、土地そのものを浄化できるほどの高位の能力を持つ者は限られていて、主要都市以外では派遣を要請することも難しいのが現実だった。


大地の浄化機能を持つ魔道具は、その状況を一変させる画期的な発明だった。


無論、魔道具にもまだ難しい面はある。性能の良い物ほど量産は難しいのも事実だ。しかし、それでも新たな希望が差したといっても過言ではなく、婚約者殿の名声は大陸中に轟いた。


さらには婚約者殿の容姿は月の化身と詩に称えられるほど麗しく、長い黒髪はまるで夜空を映す湖のように輝き、その瞳は星をはめ込んだかのように美しい。


名門公爵家当主という地位に権力に頭脳に財力、さらに美貌までも兼ね備えているとあって、王家の末っ子のアレクなどよりよほど引く手あまただ。

揃って夜会へ出たときなどは、釣り合っていないといわんばかりの視線を向けられることも多々ある。婚約してからもう七年になるというのに、今でも公爵家には国内外から釣書が届いている。国外はともかく国内はいいのかそれで。王家の面目丸つぶれだとは思わないのか? 少々疑問である。


「殿下が七年も婚約のまま放置されているからでしょう」


アレクの心を読んだように侍女が嘆いた。


「お二人は不仲で、婚約破棄も間近ではないかと常々噂されておりますよ」


「噂もたまには的を射るものだな」


「もっとも、夜会でそのような話を振られるたびに、あの方がきっぱりと否定なさっているそうですけど。溺愛しているのだと仰っているそうですわ」


「嘘を広めるな嘘を。結婚しないままもう七年だぞ? わたしはともかく婚約者殿はそろそろ結婚しないとまずいだろう」


「殿下のほうがまずいと思いますわ」


「わたしはいいんだ。わたしは好きに生きると決めているから。陛下も認めてくださっている。あぁ、思い起こせば十年前、魔物が攻めてきたという知らせを前に、わたしは立派な騎士になると叫んで剣を抜いて王宮を飛び出したものだ……。あれ以来両親はわたしに何もいわなくなった……」


最近では、ねだったら騎士団まで創ってくれた。

由緒正しき第一騎士団、第二騎士団に加えて、アレクを騎士団長とする第三騎士団の新設である。

現在、他の騎士団から落ちこぼれた面々による少人数で活動中であり、周囲からは『殿下のお遊び騎士団』という蔑称をほしいままにしている。いいのだ、大所帯だと好きに動けなくなるから。国内をフラフラ出歩くには、軽んじられているくらいがちょうどいい。こちらには野心も裏もないというのに、下手に警戒される方が面倒だ。


「国王陛下も王妃様も、本心では、殿下に身を固めて落ち着いてほしいと願っておられますよ」


「わたしは十分落ち着いているだろう」


「では、ロフェ男爵家のリティ様がお見えになっておりますが、お通ししなくてもよろしいですね?」


「バカをいうな。わたしが呼んだんだぞ。礼を尽くしてリティ嬢をお迎えするように」





ロフェ男爵家のリティ嬢は、柔らかそうな桜色の髪をした可愛らしい令嬢だ。希少な光魔法の使い手としても名高く、その高い浄化能力によって教会から聖女の認定を受けている。


ただ、ロフェ家は歴史が浅く、社交界では成り上がりの男爵家と蔑まれることも多かった。教会においてもそれは同じだったそうで、その立場の弱さから、リティ嬢は教会上層部にいいように使われてしまうことがたびたびあった。この国を思っての発言や提案さえ聞き入れてはもらえなかった。


そこで彼女はアレクを頼ってきたのだ。


アレクは彼女の話を信じた。

聖女である彼女がいうところによれば、魔物の出現は事前に予測することが可能だという。初めて聞いたときはアレクも『これは誰も信じないだろうな』と思った。魔物というのはいつどこに現れるかわからない存在だ。教会では、魔物の存在は愚かな人間へ対する神の罰だと唱える人々もいる。ちなみに結構な多数派だ。


しかし桜色の髪の聖女が話すところによれば、魔物の出現前には必ずその土地の空気が淀むのだという。彼女は何度もそれを感じてきたのだと。その淀みを明確に立証することができたら、魔物の被害は大きく減らせるだろうと熱心に語られて、アレクは信じた。


聖女の熱意に心を打たれたのだ。

決して彼女の潤んだ瞳に落とされたのではない。断じて違う。


それからアレクは、両親に頼んで自分の騎士団を作ってもらった。“空気の淀み”を調査するためだ。周囲の理解を得ることは難しいだろうとわかっていたので『殿下のお遊び騎士団』という認識を正そうとは思わなかった。真実はいずれ調査と研究の結果が出たときに明らかになるだろう。まあ今のところ、めぼしい成果は得られていないのだけど、こういうことは気長にやっていけばいいのだ。


アレクは寝台から降りて彼女を迎えに行った。


室内は人払いをしてあり、彼女と二人きりだ。


彼女はアレクの手を両手で握りしめると、そのまま寝台へといざなかった。

アレクは大人しく彼女についていって、二人でベッドの上に座り込む。


「忙しいところをすまない。少し二日酔いでね」


「殿下のお呼びとあればいつでも駆けつけますわ」


リティ嬢が愛らしく微笑む。

アレクは大袈裟なほど感嘆の息を吐いた。


「あぁ、貴女の優しい言葉とその微笑みは特効薬だな。このしつこい頭痛も胸の痛みもたちまち和らいでしまったよ」


「まあ、殿下ったらお上手なんですから」


リティ嬢はくすくすと笑って、アレクの額にそっと手を当てた。

その細くか弱い手を通して、彼女の温かさが伝わってくる。婚約者殿の説教のこもった手紙の後では、その温もりに心まで癒されるようだった。


アレクは、愛らしい彼女に勧められるままに、寝台に身体を横たえた。

桜色の瞳が上からアレクを覗き込んでくる。リティ嬢はひとしきりアレクの身体に触れた。


寝台の上で事が済むと、リティ嬢はサイドテーブルに置きっぱなしだった手紙に気づいて表情を硬くした。


「殿下、その手紙はもしかして……」


「あぁ……。麗しの婚約者殿から、いつも通りのお小言だよ」


リティ嬢はそっと目を伏せて、どこか怯えた様子でいった。


「実は先日、あの方がわたしを訪ねていらっしゃったのです」


「えっ……、すまない、君に何か失礼な真似をしただろうか?」


「それが『日頃から殿下が世話になっていることへの礼』だと仰って、大金を渡されましたの」


「うわ……。いや、すまない。本当にすまない。わたしたちはただの友人だと何度もいっているんだが、どうも疑い深くてね。しかし今度こそ言って聞かせるから」


「殿下、わたくし、もう友人といい張ることは難しいと思いましたのよ」


リティ嬢はひどく心配そうな瞳でアレクを見上げていった。


「たとえ殿下が結婚されても、わたくしの心は変わりませんわ。わたくしを呼んでくださるなら、いつでもお傍に参りますから。どうか、あの方に本当のことを話して、わたくしとの関係を認めてくださるようお願いしていただけませんか……?」





リディ嬢との癒しのひと時の後は、婚約者殿との憂鬱なお茶会だ。


というか呼んでもいないのに婚約者殿がやって来た。リディ嬢が帰ってからすぐにだ。タイミングがよすぎて怖い。


アレクは重苦しい空気の中、無言でひたすらに紅茶を飲んだ。


お茶会といっても中庭などではなく王宮の一室だ。外へ出るのは侍女に反対されたし、かといってさすがに婚約者殿を寝室に招くわけにもいかない。アレクは愛でる花すらない室内で、婚約者殿と向かい合っていた。


「ロフェ男爵家のご令嬢がいらっしゃっていたそうですね」


「友人だからね。ちょっとした世間話をしたんだ」


「そうでしたか。世間話で顔色が良くなるとは、殿下も珍しい体質の持ち主でいらっしゃる」


「きみこそ、彼女にずいぶんと礼儀正しく振舞ってくれたみたいじゃないか。わたしの大切な友人だと、何度も伝えたはずだが?」


「ええ、何度も聞かされましたね。彼女はただの友人で、婚約者に明かせないようなことはなにも無いのだと。ご存じですか、殿下? 愉快なものですよ。子供騙しの作り話を大人になってから何度も聞かされるというのは」


「きみの遠回しな言い回しを愉快に思えたことはないね。いいたいことがあるならハッキリいってくれ」


「では……」


婚約者殿が立ち上がった。無言で傍へやってくる。


アレクは顔をしかめた。


長身の婚約者殿に傍に立たれると、それだけで威圧感がある。


婚約者殿の長い黒髪は一つに纏められていて、光沢のある白のシャツに首元のクラバット、それに繊細な刺繍の施されたウエストコート姿は、その名前を知らない者であっても一目でそれとわかるほどの高貴さを漂わせている。


若き公爵家当主として完璧だろう。その怒りの滲む闇のような瞳を除いては。


婚約者殿は、射殺すような強さでアレクを見下ろして、口を開いた。




「それでは、はっきりと申し上げます、殿







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る