BGM 4 -Ladies of metropolis-
sou
1.London 7:00.
広い空港内を、スーツケースと共に一人の青年が歩いていた。
24時間営業の巨大国際空港は午前7:00の早朝から多くの利用客が闊歩するも、悠々としたスペースが保たれている。優雅なカーブを描く天井からは自然光が降り注ぎ、異国の香りに、カフェスタンドのコーヒーの香りが懐かしい。
青年はぼんやりと案内を見ながらガラス張りの壁に向かって空港内を抜け、薄曇りの空に
「ようこそ、ロンドンへ」
まろやかな英語と共に微笑んだ白髪混じりの紳士が差し出す手を見て、青年はしばし黙した。相手が誰だか思い出すには少々長い
「ブレンド社でボスの世話役を勤めております。ラッセル・アディソンと申します」
青年は見たことのある名刺を覗き込み、Vice Presidentの役職名に目を落とし、改めて紳士の笑顔を見てから、およそ感情に乏しい顔でその手を握った。
「
紳士は慈父のように優しい笑みで頷いた。
「お会いできて光栄です、未春。日本では不出来な弟子がお世話になりました」
「やっぱり貴方が、ブラックの師匠なんですね」
「ええ。彼を迎えにやりたかったのですが、忙しいもので。弊社には、仕事に非常にシビアな女帝が居るのです」
「大丈夫です」
未春は頭を下げ、彼が示すブラック・キャブに乗り込んだ。運転手に行先を告げると、彼は聞き取りやすくゆったりとした英語で話した。
「滞在先にご案内しますね。何処か寄りますか?」
大丈夫だとかぶりを振ると、彼は車内でも美しい姿勢を保って問い掛けた。
「朝食は召し上がられましたか」
「はい。機内で少し」
「そうですか。では、コーヒーか紅茶と、軽いものを準備しますね」
「ありがとうございます」
一流ホテルマンか執事のような紳士に頷くと、彼は穏やかに言った。
「ブラックは、日本が相当気に入ったようですよ。帰還するなり、親友に一緒に行こうと誘っていました。彼がああした事を言うのはとても珍しいので、我々も驚いています」
「そうですか……良かった」
少しだけ微笑んだ未春に、ラッセルは優しい視線を置いてから前を向いた。
「焦らない事ですよ、未春」
「……」
「ロンドンで羽を休めるのは良い選択肢です。ボスは社を挙げて貴方をサポートするようにと指示していますから、滞在中は、どうぞゆっくりなさって下さい。観光なさるのなら、お供致しましょう」
「はい……ありがとうございます」
頷いた未春は、窓に映る街並みを見つめた。
林立する木々と空港に挟まれた道路はどこか国道16号のベースサイドストリートを思い出した。車の往来は激しく、乗用車やトラックは無論のこと、映画などで見た赤い二階建てのバスが通った。日本車のディーラーが在ったり、世界展開のファーストフード店など、看板が英字である以外は日本とあまり変わらないと思っていたら、唐突に中世そのものの建物が現れて、急に異国に引っ張られた。
到着した家屋も、映画で見たことがあるような、六軒が一棟として繋がる長屋タイプのテラスハウスだった。周囲に同じようなタイプの家が何軒もある中、立ち行ったその家がとても素敵だということはすぐにわかった。掃除の行き届いた室内は、こじんまりとした縦長の空間を落ち着いたグリーンや白、良い色の木製インテリアが囲んでいる。廊下には家主と一緒に妻と思しき人が映った写真が掛けられていた。
「男やもめのむさくるしい家ですが、どうぞ」
お辞儀と共に入った未春は、知った香りにはっとした。その様子に気付いているのか、ラッセルは先に二階に伴うと、その部屋の前で立ち止まった。
「此処を使って下さい」
ドアの先は、ベッドとクローゼットに本棚、その前に置かれた一人掛けソファーとサイドテーブルというひどくシンプルな部屋だった。窓から差す光に照らされるそこに漂う香りに思考が止まっている青年に、スーツケースを運び入れながら紳士が微笑んだ。
「弟子が使っている部屋ですみませんが、他に比べれば綺麗ですから」
「ブラックの部屋を……使って良いんですか」
「ええ、許可は取りました。いつもは本に埋もれて床が見えないぐらいなのですが……貴方が来ると聞いたので、掃除をしたんですよ。自由にして良いと聞いていますから、寛いでください。荷を下ろしたら、下のリビングに――」
ラッセルの言葉が終わるより先に、青年はふらふらとベッドに近付き、上半身をぼすん!と勢いよく投げ出した。突っ伏したまま動かなくなる様には、さすがの紳士も驚いて片手を伸べた。
「み、未春? 大丈夫ですか?」
未春はベッドに寄り添ったまま、顔だけ向けて頷いた。紳士は少しだけ頬をひくつかせたものの、それ以上は追及しなかった。
「では……落ち着いたらリビングにどうぞ。間もなくボスとウチの女帝も参ります」
ベッドに頬を当てたまま、未春はこくりと頷いた。
静かに扉が閉じられると、再び突っ伏し、その香りを吸い込んで――……少し冷静になってくると、恥ずかしくなって顔を上げた。
小さく溜息を吐いて、部屋を見渡す。
「ハルちゃんの部屋は、何でもないのにな……」
……好きな人の部屋に入るって、こんな気持ちか?
BGMという組織がある。
一人のボスを持たず、世界各地の支部から選抜された
そのTOPの一人――イギリス支部を束ねる男は、ロンドンに居た。
「おう、良く来たな!」
ボス・スターゲイジーは未春の顔を見るなり、ハルトが即座にギブアップを訴えたハグを食らわしてきた。――が、未春はギブアップはおろか、ぎゅうと抱き付き、懐かしく感じる肉厚なボディを堪能した。
「ハッハッハ……どうした、どうした、まだそんなに経ってねえのに寂しかったのか? 可愛い奴め!」
豪快な紳士はばすばすと背を叩いて喜んだが、隣の喪服姿の麗人は明らかにドン引きしていた。それに気付いているのかいないのか、未春は大柄な紳士を仰いだ。
「呼んでくれて、ありがとうございます」
「気にするな。お前には在日中、ブラックが世話になった」
表向きも裏向きも、同じ調査会社・
元スパイのスターゲイジーはその頃の功績から王室よりナイトの称号を授かっており、ラガーマンの如き筋肉ボディだが、平素からきちんとシャツやスーツを着込み、ストローイエローの髪や顎髭も品よく整え、素行は――まあ、豪快だが、優美さも兼ね備えた紳士だ。
「スターゲイジー……ブラックは帰って来ないんですか?」
「おー……やっぱそう来たか。どうなんだ、ペトラ?」
問い掛けに、喪服姿の女は事務的に答えた。
「帰還を急ぐと言ってきましたが、本作戦前は無理だと思います」
「だ、そうだ。すまんな、ミハル。ウチも荒っぽい案件にタッチできるスタッフはそれほど居ない」
ストローイエローの顎髭を撫で、申し訳なさそうに言う紳士に未春は首を振った。
何となくそんな気はしていたし、此処で彼に会うと、張りつめている緊張が解けてしまう気もした。会えないのは残念だが、せっかく此処まで来た今――揺らぐわけにはいかない。その様子を静かに眺めていた女が、冷気を吐くような声で言った。
「ボス、座ったらいかが? ラッセルのお茶が冷める」
頭の先から爪先まで喪服の麗人がテーブルに顎をしゃくるのに、余裕に満ちている紳士二人は急にいそいそと未春に座るよう促した。この反応だけでも、彼女が強い立ち位置に居るのがわかる。男勝りな仕草や語調はスターゲイジーの娘のナンシーにも似ているが、この灰色の眼はもっと厳しく冷静で、視線のみで切れるようだ。
テーブルで向かい合い、美しい緋色の紅茶を飲みながら、スターゲイジーは隣に腰掛けた麗人を紹介した。
「ミハル、彼女がウチの統括部長のペトラ・ショーレだ。女ってのを差し引いても、ウチじゃラッセルに並ぶエージェントだぜ。お前のことも隣人よりもよく知ってる」
女は
「はじめまして、ミハル。ブラックから色々聞いています。素晴らしい料理の腕をお持ちだとか」
殺し屋と知った相手に言うには揶揄か挑発にも聞こえる挨拶だが、未春はぱちぱち瞬いて、軽く首を捻ってからお辞儀をした。にこりともしない女に、スターゲイジーが苦笑する。
「そうツンケンするな、ペトラ。――悪いな。こいつはこれでも細かく気の利く良い女なんだが、プロ意識が高いんだ……俺もラッセルも頭が上がらん」
「意識だけだと思われるのは心外よ、ボス」
そら来たと苦笑しながら、スターゲイジーはクロテッドクリームとジャムを塗ったスコーンを大口で頬張ると、女にちょいちょいと指を振った。麗人は、あからさまな溜息を吐くと、きょとんとしている未春を見た。
「さっそくだけれど……今回の件、約ひと月前の『
フライクーゲルの名に、微かに表情を硬くした未春は頷いた。
約ひと月前の一月末。
来日していたスターゲイジーとブラック、ナンシーらがイギリスに帰国した数日後。
午後七時過ぎ――国道16号沿いのベースサイドストリートを歩いていたフライクーゲルこと、BGM指折りのガンマンである
遠距離射撃による二発。一発はハルトの右脇腹に着弾・貫通し、もう一発は右肩を掠めた。一緒に居た未春も銃声を聴き、狙撃手の居たであろう方向はわかったが、暗闇と16号線の騒音により、姿は確認できていない。また、ハルトの救命を優先した為、追跡はしていない――警察も犯人の目星さえ付いていない為、仮に追ってもわからなかった可能性が高いのだが。
ハルトが咄嗟に患部を圧迫した為か、コートの厚みか、当たり所が良かったか――致命傷であろう脇腹の傷を負いつつも、ハルトは死ななかった。
緊急手術は成功。リハビリをすれば元のように生活するのは難しくないと言われ、未春を含め、関係者一同、ほっとしたのだが。
「……ハルちゃんは、消えました。その翌日に」
手術室から出て来た後、個室のベッドで眠る姿は見た。
銃撃犯が現れるかもしれないのを考慮し、未春は一晩中、ベッドの傍に居た。
ところが翌朝になってもハルトは目覚めず、一度帰るように促され、帰宅し――取るものもとりあえず、病院に引き返したのだが。
戻って来た時、ベッドは空っぽだった。
……別の部屋に移動? 死ぬかもしれない怪我の手術の翌日に?
頭が真っ白になった。誰に訊ねてもわからないの一点張り。
独りで出て行った? 不可能だ。
麻酔が切れたとしても、直後に動けるはずがない。少なくとも走るのは無理だ。傷にしても、常人より鍛えているとはいえ、自分のような身体機能向上薬・『スプリング』を接種しているわけでもない。傷が完全に塞がるまでは時間を要する。
そんな男が、多くの眼がある大病院を人目に触れることなく脱出する方法など、それこそ魔法だ。
絶対に協力者が居る筈だが、それらしい人物は上がらない。
当然、真っ先に叔父の
警察には内部圧力をかけた一方、例の
「心配すると思うから、ラッコちゃんやリッキーには言わないようにね。未春もいつも通り過ごすこと。退院と同時に、アメリカに出張したことにするから」
BGMを認知しつつも一般人である二人への対応や表向きの話に念を押しただけで、十は忙しそうに立ち去った。
その妻子である
「退院祝いしてあげたかったのになあ……」
バレンタインに向けて入念な準備を進めていた実乃里は、さららへの相談がてら、DOUBLE・CROSSのカウンターで溜息を吐いた。その隣では、穂積が同じように残念そうにしながら頷いた。
「仕方ないわよ、アマデウスさんの急ぎの用事って言うし。帰ってきたらめいっぱいパーティーしましょ。ね、未春」
「……はい」
二人の優しい声を聴くのは楽しい筈が、憂鬱だった。
一方、
まだ同居している
「……二人きりでごはん食べるの、久しぶりな気がするね」
四席ある内の二席が空いた――正確には、一つには猫のスズがどっしりと座っていたが、あくまで猫である。三人或いは四人で囲むと皿で埋まるテーブルも、何となく空間が多い。未春が頷くのを、さららは不安げな眼差しで仰いだ。
「ハルちゃんも……一言ぐらい、連絡してくれればいいのに」
「そうですね」
連絡。その言葉はぞっとする。意識すると、もう二度と来ない気がしてしまう。
実は、彼が使用していたスマートフォンは病室の鍵付きの引き出しに残っていた。
パスワードによるロックこそ掛かっていたが、中身がいじられた痕跡は無かったらしい。その都度消しているのだろう、目ぼしいデータは皆無、且つ少ない連絡先は、ハルトの”らしさ”を強調する一方、その生い立ちの深刻さが窺えた。
「未春、大丈夫……?」
「大丈夫です」
さららの納得のいかない視線が刺さるが、それしか言い様がない。
……大丈夫。だって……俺はハルちゃんが庇ったから、怪我はしなかった。
……仮にしても、治ってしまうけれど。
彼女を心配させるのは気の毒だと思い、未春は表面上は冷静に振舞った。
取り残された心地になりながら覗くハルトの部屋は、彼が居た時と何も変わっていない。無くなった物はひとつも無いようで、愛銃だろう改造ベレッタのクーガーも、十が与えた玩具の拳銃も、何なら彼が此処に来た時に着ていた服も、スーツケースも、恐ろしい事にアマデウスにプレゼントされた数百万のブレゲの腕時計数本までが、まるきり置き去りだった。なんだか怖いからと、さららが彼の資産を店の金庫に納めるのを見つめ、そのまま永久にそこに入っている気がして怖くなった。
夜になると、スズとビビはこの部屋に入っていく。
いつも二匹でハルトを布団にしていた習慣故だろう。スズはけろりとしてベッドを占拠していたが、ビビは昼夜問わず、居ない飼い主を探して彷徨い、彼の部屋のドアや玄関の前で鳴き声を上げるようになった。代わりになるかと思ってベッドに横になってみたが、二匹が体の上に乗って来ることはなかった。
傍らや足元に丸まるだけ。それはハルトの存在を肯定するようにも見えたが、居ないことを強調するようにも見えて、切なくなった。
確かに居た筈なのに、消えてしまったことを、示すみたいに。
もし……これが何者かの陰謀――行方不明のままの、ハルトの同期であるフレディの仕業と考えたら、呑気に店先を掃いている場合ではない。
だが、十は何も指示をくれず、情報も入らない。
「ミー君~~課題手伝ってえ~~!」
その日。店頭に泣きつきに来た
「英語はミー君もわかるっしょ? お願いお願い~~」
指さすそれを怠そうに見て――……未春は寝不足の眼を見開いた。
〈ハルトさん、ドイツに居ると思う〉
「……座って」
促された明香はにっこりして席に座ると、ペンでさらさらと書いた。
〈盗聴器は室ちゃんの
「どこ教えればいいの?」
「さすが、ミー君!」
〈ドイツの首都・ベルリンで何か起きるって、ピオに聞いたんだ。それだけじゃ何でもないハナシだけど、この間、リリーと連絡取り合ったら気になる話が出たわけ〉
目を瞬かせて明香を見ると、ペン先をちょいちょい動かして普通に英文を示した。
「These are a few of my favorite things.(私のお気に入りをいくつか)」
「お、いい発音。These are a few of my favorite things~~」
復唱ではなく、英文を匠に歌い上げると、「サウンド・オブ・ミュージックは名作だよねえ」と呟いた。そのまま、CMでお馴染みの名曲を口ずさむので、単に読ませたいだけではという顔をした未春は次を見た。
〈アマデウスさんがドイツに行くんだってさ。コレ、超珍しいらしいよ? 他の国はポンポン出張するらしいけど、ドイツだと、いつもはなーんか理由付けて断ってるから、リリーも不思議がってた。怪しいでしょ?〉
明香の顔を見ずに、未春は課題を見るように頷いた。
「……あっくん、コレいつまでの課題?」
「明後日。英語の歌詞に置ける表現について、っていうヒマなレポート。何でも良いって言うから『My Favorite Things』にしたんだ。もう素案は別にできてんの」
〈ここでコーヒーを一杯〉
思わず、ハルトのようなうんざり顔を向けるが、明香はニコニコ笑った。
仕方なく一杯淹れてやると、彼は飲みながら書いた。
〈こっからは俺の想像。ハルトさんと室ちゃんが喋ってるの聞いたんだけど、ハルトさんは同胞たちに協力した人間がドイツに居ると踏んでた。ジョゼフの片腕の機械も、フレディが操っている元海兵隊用の洗脳器具も、ドイツに在る医療技術に秀でた支部から出た可能性大だって。代表のレベッカ・ローデンバックって人か、またはその関係者を疑ってるみたい〉
「そっか……」
呟いてから、未春も書いた。
〈撃たれたのは、それと関係あんの?〉
「あー、コーヒー美味しい。……いやー、わからんよねえ、このレポの意図」
「わかんないんだ……」
おかげさまで自然に出た呆れ声に、明香はニヤニヤした。
〈誰かの陰謀ってのはどうせ変わらんでしょ〉
未春は顔を上げ、それもそうかと頷いた。
撃ったのは悪党。撃たせたのは悪党。撃たれたのは悪党。じゃあもう良いかって? 良くは無いが、意図は知ったところで悪だくみでしかない。世界の何処か、日常のすぐ隣、或いはその真っ只中で、同じ場所なのに裏で動くBGM。
〈あっくんは、なんで俺に教えてくれんの?〉
〈友達だから〉
フフフ、と即座に嘘を疑われるような顔で明香は笑った。
〈俺がこの行動に出るのも、十さんやアマデウスさんの計画通りかもしれないけど、それでもいいんだ。俺もハルトさん居ないのつまんないし、こういう立ち去り方は中途半端じゃん。世界的な殺し屋なんだからさー、舞台を降りるなら、もっと華々しい演出で降りてもらわなくちゃ〉
「……わかった」
頷いた未春は、ノートの端に書いた。
〈ありがとう〉
ノートから顔を上げた明香はイヒヒと笑った。
「いいねえ、ミー君の直筆。宝物にしよっと」
明香の機転により、一筋の光明は見えた。
アマデウスが普段は避けているドイツに出張する。怪しいなんてものではない。
初めから、疑ってはいたことだ。
ハルトが無理な行動を取って従う相手は、アマデウスが最も可能性が高い。
十も上司という意味合いでは有るだろうが、なんというか、十らしくないやり方だ。そもそも、十はハルトを自分の為に呼んだのではない。
俺の為だ。
だとしたら、止むにやまれぬドイツ行きには一緒に行くよう促す気がする。
だが、そうしなかった。考えられる可能性は三つ。
一つ、ドイツ行きが危険だから。
二つ、ハルトが拒んだから。
三つ、日本に残しておきたい理由があるから。
……あの十がハルトの失踪について全く心当たりがないとは考え難いので、知らないという可能性は除外しての話だが、三つ目に関しては守村の容体もあるかもしれない。それは、十が気を遣わなくても気掛かりだ。
いつだって、あの優しい人が、自分を忘れて逝ってしまうのではないかと心配だ。
だが、此処で立ち止まったら……ハルトに二度と会えない気がした。
それは絶対に嫌だ。何としても、ドイツに行かなくては。
でも、どうする? パスポートを取り、飛行機の予約を取り、宿を取るなら旅行と一緒だ。難しいことではない。
しかし、ハルトがベルリンに居る可能性は可能性の域を出ず、それ以上の手掛かりは無い。
手掛かり――欲しいのは、情報だ。情報といえば、”彼ら”だ。
そして、未春は電話を前に唸っていた。
何を緊張しているんだろう。たかが電話ひとつに、小娘のように迷うなんて。
早くしないと、買物に出たさららが戻って来る。
意を決して、見つめる連絡先に電話をした。出ないなら、出ないで――……
〈Hi.〉
体の深部をぞわりと撫でる低音に、ばねでも入っている様に背筋を伸ばした未春は、躊躇いがちに話し掛けた。
「……ブラック?」
〈ああ、未春〉
ブラック・ロス。ほんの少し前に来日していた、世界的な調査会社・BLENDの社員は、電話越しにもその美貌と、常に浮かべている笑みを感じた。
〈思ったより早い電話だ〉
「そうだね、ごめん……」
〈ん? 謝ることはない。連絡してくれて嬉しい。どうした?〉
「う、うん……」
まずい。思った以上に優しい声に、こちらの声は歪む。泣いてしまいそうな気がして、慎重に呼吸を整えながら事情を話した。
〈そうか、ハルが……〉
「俺、ドイツに行ってみようかと思って……」
〈それは危険だ〉
賛成してくれるかと思いきや、間髪入れずに出た警告に戸惑うと、彼は端的に続けた。
〈ドイツ支部は男を歓迎しない。一般的な手続きで入っても、空港或いは国境等で追い返されるか、もっと手荒い手段に出るだろう。末端ならともかく、あんたはBGMでは有名人だ……変装程度では厳しいと思う〉
「え……じゃあ、ハルちゃんは……?」
わざわざドイツに渡り、袋だたきにでも遭っているのか?
〈本当にハルがドイツに居るのなら、相応の理由が有るだろうが……彼が招かれていても、潜入だとしても、ドイツ支部があんたにシラを切る可能性は高い。上手くハルが見つかれば良いが、支部が在るベルリンだけでも広大な都市だ。一人で捜すのは難しい〉
「……そう……」
気落ちした声で呟くと、ブラックは少し待つようにと言って電話を切り、五分と経たぬ内にかけ直してきた。
〈未春、ボスに相談した。手伝ってくれるそうだ〉
「スターゲイジーが?」
〈ああ〉
「でも、俺のことで――支部同士の揉め事にならないかな……?」
この期に及んで余計なことを言う未春だが、電話越しにブラックは笑んだ様だった。
〈ボスが大丈夫というなら、大丈夫だ。俺より遥かに頼りになる。すまないが、俺はこれから仕事なんだ。今から言う番号にかけろ〉
「あ、ありがとう、ブラック……!」
「気にしないでくれ。ハルに会えたら宜しく」
スッと影が消えるように通話は切れたが、未春は身の内に温かさが湧いてくる気がした。見えない手に押されるように今度はすんなり電話を掛けると、これはすぐに繋がった。
〈はーい、メイソンでーす〉
スターゲイジーではないことに拍子抜けしたが、向こうは勝手知ったる様子で堪能な日本語で話し出した。
〈Hi、未春。例のディナー作戦以来だね。僕のこと覚えてる?〉
無論、覚えている。ハリー・メイソン・ジュニア。日本在住のブレンド社スタッフだ。一家全員が社員にして、全員が一流ドライブテクニックを持つという特殊な家族を忘れるわけがない。応じた未春に、彼は嬉しそうにしてくれた。
〈ボスから君を助けるようにって連絡を受けたんだけど……ちょっと待ってね、内容確認するから〉
パソコンでも見ているのか、短い沈黙の後に彼は軽やかに答えた。
「君の用件はわかった。ボスの指示によると「ロンドン旅行に招くように」だってさ。日本からベルリンへの直行便は無いから、ウチの管轄のイギリスを経由するのは良いと思うよ。便を調達するから、君の都合を教えて」
トントン拍子に進む話に、未春はもう迷わなかった。いつもなら、さららに相談した筈だし、十にも断ったろう。だが、今回は完全に独断だった。さららも居る。ペットも居る。店も有る。仕事もある。わがままで自己中心的な行動だ。それでも。
「いつでも大丈夫」
それでも、何を差し置いても、ハルトに会いたい。
「トオルには、何て言って出てきたんだ?」
「そのままです。スターゲイジーの所に行くと言いました」
正直一辺倒の未春にペトラは呆れ顔だったが、スターゲイジーは顎髭を撫でて苦笑した。
「フフン、まあ、小細工だの口八丁かますのはお前らしくねえな。奴はなんて?」
「『行っておいで』と」
「ハッ……トオルもトオルらしい。そういうことだ、ペトラ。許可が有るなら構わねえんだろ?」
「それは許可というより只の挨拶よ、ボス。後で幾らでも都合のいい方に覆せる」
「心配すんな、ごねるなら俺らも同じ手でいけばいい。既にコイツはウチの支部内に居るんだし、俺らの仕事を手伝わせるわけじゃねえ」
不承不承といった顔付きで、女は帽子の下から改めて未春を見た。
「ウチは協力しますが、ドイツ内に入国許可が出ているスタッフは私だけです。それも、貴方をベルリンに送るまでに留めろというのがドイツ支部の要請」
こくりと未春は頷いてから頭を下げた。
「宜しくお願いします」
「ドイツは初めて?」
「はい」
「そう。では、女に気を付けなさい。貴方の顔は一般女性には有効でも、ドイツ支部の女達には通用しない。あのブラックさえ、路地裏でボコボコにされ兼ねない支部だから」
「ブラックが?」
そんなバカなと言いたげな顔に、女は少し眉を寄せた。
「貴方、ひょっとしてゲイ?」
「違います。やったことはありますけど」
真っ正直な回答に女はぴくりとも動かなかったが、こちらを見る目だけが霜に覆われた気がした。その目がちらとスターゲイジーを見るが、彼はカップに口を付けた状態で無視した。
「ブラックがまた変なのを射止めてきたわけね」
呆れた調子で言うと、嫌そうに付け加えた。
「いいこと、坊や――聞いた通り、ドイツ支部代表のレベッカ・ローデンバックは大の男嫌いなの。その中でも、ウチのボスとラッセルは一歩でも入国したら蜂の巣にすると言われるほど嫌われてる。ミスター・アマデウスも、その同列」
一体何をすればそんなに嫌われるのか? 未春の視線に、スターゲイジーはスコーン片手に、ラッセルはお茶を注ぎながら首を振った。
「何もしてねえ、と言いたいとこだが、俺らはナチの生き残りやネオナチの連中と少々揉めたことがあってな……マーガレット・メイソンやラッセルと、ドイツ国内でドンパチやっちまって、あの女に睨まれちまったんだ」
「あれはボスが悪いですね。レベッカの病院で暴れたんですから、出禁は当然です」
「人聞きが悪いぜ、ラッセル。俺は患者やスタッフには手出ししてねえし――壁とかベッドはまあやっちまったかもしれんが……」
「そんなことを言ったらまた怒られますよ。高価な医療機器も被害を受けています」
「……ンなこと言ったってよ、そもそもあれは不可抗力だ。こっちから手出ししたんじゃあねえってのに、それをあのドイツ女、いつまでもグチグチ言いやがって……」
患者やスタッフに用がなくて、どうして病院でドンパチやるのか?
未春が聞いてはいけないのだろう武勇伝に興味をそそられつつも、脱線を許さぬ様子の麗人によって話は戻された。
「とにかく、到着後は早急にレベッカと対面すること。レベッカは貴方の身体的特徴――その再生能力に強い興味を抱いている。歓迎すると同時に、貴方が本物の未春かどうかを試すでしょう。スタッフに怪我を負わせるような任務は与えない彼女ですが、一人も傷付けてはダメよ。擦り傷ひとつ付けようものなら、ドイツ脱出は不可能と考えなさい。どう見ても武器になるものは、全て此処に置いていく。いいわね?」
「わかりました」
厳しい条件を安易に呑んだ青年を、女は疑う目で見たが、上品な仕草で紅茶を喫してから言った。
「現地で調達する際には足がつかないように注意しなさい。可能な限り、その場凌ぎが良いと思う。キャッシュは現金も必ず所持。手持ち不十分なら、ボスに出させて」
当のボスが変なものを飲み込んだ顔で見たが、女は涼しい顔で無視した。
「一人で解決困難なトラブルが発生した場合は、私に連絡を。ただし、国外では名前で呼ばないように。呼ぶ必要がある場合は『レディ』と呼びなさい」
「はい」
「何か質問は」
問われた未春はぼんやりと首を捻った。
「……じゃあ、ひとつ」
「何?」
「どうして、喪服なんですか?」
スターゲイジーとラッセルが同時にむせた。
「二人とも、行儀が悪い」
吐き捨てるように言うと、女は無表情でストレートな質問をした青年に向き直った。
「――人を亡くして、その弔いが終わっていないから。それだけよ」
琥珀色の目は女をじっと見つめた。
「まだ何か?」
「いえ……早く弔ってあげられるといいですね」
「……それはどうも」
さらりと答えてカップに口を付ける女に、二人の紳士は冷や汗を拭った。
「あんまヒヤヒヤさせんなよ、ミハル……」
「?……すみません」
「ま、思ったより相性良さそうでホッとした。頼んだぜ、ペトラ」
「Yes, Boss.」
それはつれない返事だったが、頼もしい声に聴こえた。
閉店後のDOUBLE・CROSSには、四人の男が集まっていた。
一人はオーナーでもある十条十、
「そういうわけで、未春をイギリスにやったよ」
開口一番、あっけらかんと言った十に幾らか厳しい視線が刺さった。
「何が、“そういうわけ”なんですか?」
刺すどころか貫く視線は、優一だ。十に向けた正論を吐かせたら右に出るものは無いだろう男に、睨まれた方は肩をすくめた。
「怒んないでよ、優一くん……可愛い子には旅をさせろって言うじゃない」
「このタイミングでよくも教育の話ができますね。今回の件、深入りを禁じたのは貴方だというのに」
「まあ、うん、そうだね」
へらへら笑う男に、優一は額に手をやり、呆れ顔で押し黙った。それを引き取るように話し掛けたのは室月だ。
「十条さん、未春さんがイギリス支部の力添えでベルリンに行ったとして……そこからお一人で行動できるのですか?」
「子供じゃないんだし、出来ると思うよ」
「先ほど、可愛い子には云々と仰っていましたが?」
優一がぐっさりやるのに対し、室月も不安げな顔になり、ディックさえもげんなりした。
「トオル~~……俺は逃げ隠れすんのが終わってホッとしてるけどさあ……実際、もうちょい未春には情報か手伝いをやるべきだと思うぜ? どうせ警戒されんなら、一人より二人の方が良いに決まってるだろ?」
「……私も、今回の件は不安です。ハルトさんのことを開示した方が、未春さんは無茶な行動をしなかったのでは……」
「どうせ十条さんのことだ、奴の野々くんに関する行動力を試す気だったのだろう」
「げー、トオルゥ……あんまり若者の純情を弄ぶなよお……」
「はははは……ちょっと待って、僕、自分の支部なのにアウェー過ぎない?」
一様に非難を浴びた男は苦笑しながら黒髪を掻き、片手をひらひらと振った。
「今回の件は、皆が不安に思う通り、結構キツイ案件だ。だから尚、行かせるならスプリング適合者の未春が適任なんだ。僕はいま日本を離れたくないし、優一くんはさらちゃんの近くに居てほしいから」
明確な舌打ちが響いたが、十は陽気に笑ったまま続けた。
「ただし、未春が自分から言い出さなかったら、行かせる気はなかったよ。あっちの問題は、ハルちゃんが居れば十分だから」
「手術直後の彼が、それまで通りのパフォーマンスが出来るのですか?」
「フフ、その辺はディックが言う通り、一人より二人になったんだからオーライじゃない? ま、ハルちゃんは色々と痛いのは経験してるから大丈夫、大丈夫」
「帰るなり、どたまを狙撃されないのを祈るぜ……」
ディックが嫌なことを呟くが、十は涼しい顔だ。室月は首を振り、仕方なさそうに言った。
「我々は、これまで通り国内の事案に当たるだけで宜しいのですか?」
「うん。通常の依頼も受けるし、フレディがこっちに割いた場合も考慮し、小牧とも協力して万全に。君たちの身内に関しても油断しないこと。いいね?」
「DOUBLE・CROSSの運営は大丈夫でしょうか?」
「室ちゃんはしっかりしてるよねえ……その辺は僕も常駐的に顔出すし、あっくんと、国見くん、ガヤちゃんも呼ぶつもり。緊急時は室ちゃんにも頼むし、それで清掃員の手が足りなければブレンド社のメイソン一家が手伝ってくれるってさ」
「わかりました。なるべく支部内で対応した方が良いと存じます。スターゲイジーの部下は優秀だけに油断なりません。いつでもお呼び立て下さい」
オッケーと指で輪を作る十を胡散臭そうに見つめながら、優一は呟いた。
「……さっそく、スターゲイジーは貸しを回収するわけですか。豪快の様で抜け目のない人だ」
「そうだねえ……ま、それも踏まえての今回の件だから、そこら辺は僕としてもWinWinだ。スターゲイジーはアマデウスさんより義理堅いタイプだし、他の支部より女性スタッフが揃ってるから頼りになるよ」
「BGMに女性人材は少ないですからね……悪いことではありませんが」
「そうだね、スターゲイジーのとこだって、殺しまでやるのは噂の『レディ』だけだよ。他は追手や狙われた際のやむを得ない場合だけだから」
「ペトラ・ショーレですか……ディックは面識が有るのか?」
「あるある。一回でも会った奴は、カミさんの次か魔王の次に怖い女だって言うと思う。復讐に走る女ってのは、男なんざ足元にも及ばないぜ」
「ハルちゃんが本気でビビってるもんね」
可笑しそうに言う十に付き合って笑える者は居なかった。
そのぐらい、『レディ』こと、ペトラ・ショーレは怖い女――同時に恐るべき才女と名高い。ブレンド社にしても、危険な案件、裏向きの仕事は統括部長である彼女が殆どのミッションを担当・指示しているし、場合によっては代表のスターゲイジーさえも顎で使うらしい。危険に従事するのは、彼女が優れた戦闘能力や指揮能力を持つこともそうだが、アマデウス並にドラッグを嫌っていることと、それに伴う復讐で麻薬組織のボスを狙っていること等に由来する。
更にペトラには、常人には絶対に真似できない、特別な才が有るのだ。
「ま、彼女が案内人ならベルリンまでは”絶対に”安全だよ。彼女は乗る飛行機がどうなるのかもわかるし、何処に刺客が配置されるかもわかるからね。ついでに色々仕込んでもらえると有難いなあ」
「トオル……これ以上、未春を強くしちまったら足元掬われるんじゃねえか?」
「え? そのぐらい強くなってくれたら、僕は安心して引退できるよ」
「その前に叩きのめされないのを祈った方がいいですね」
溜息混じりの優一は腕を組むと、へらへらしている上司から室月に視線を移した。
「グレイト・スミスや
「調査中ですが、ひとつ気になる事が」
室月の言葉に、十もディックも振り返った。
BGMにとって敵になるだろう伝説のスパイにして、BGMの基礎の創始者である『グレイト・スミス』の居所は、つい先日、ハーミットという男がもたらしたばかりだ。
――気温25℃以下となる地域には存在しない。
空気も、動植物も、人も、街も、暖かく、穏やかなるを好み、多くを求めない。
この抽象的な情報を元に、一人の人間を探すのは容易ではない。
現在、協力関係に漕ぎつけた小牧グループのブレーンたるジャンクの調査で、ある程度の地域に絞られたものの、それでも依然、雲を掴む話だ。おまけに温暖地域は島国が多く、渡航するのが困難な場所、単純に辿り着くまでに時間を要する場所が多い。
室月は静かに言葉を継いだ。
「既にブレンド社はこの件の調査に乗り出し、温暖な地域を中心に捜索しています。我々は彼らほど人員も居ないので、なるべく縁があると思しき場所から当たっているのですが、気になるのはその内の……例のフィリピン・ミンダナオ島です」
ミンダナオ島。フィリピン南端の島は、豊かな自然と農場やビーチの顔とは別に、テロ組織が拠点を置く無法地帯が存在する。高い犯罪発生率によって渡航中止勧告が出ているこの地域には、現地人も近寄らない。
「此処の治安が落ち着かないのは、ハルトさんのご両親が亡くなった時代からさほど変わっていない筈だったのですが……最近、落ち着いている様なのです」
「平和ってコト?」
十が首を捻ると、室月は曖昧に頷いた。
「ゼロではありませんが、テロ組織が原因の銃撃戦や危険な事件は激減しています。単に危険な団体が出て行ったのか、あまり考えられませんが素行を改めたのかは、まだ定かではありません」
「ふーん……ディック、どう思う?」
「え、俺?」
「こういう人の動きとかよく見るでしょ?」
にこにこと促す十に狼狽えつつ、武器商は伝説の傭兵じみた両腕を組んで唸る。
「そうだなあ……それが唐突な変化だとしたら……あんまり良い想像はできないぜ? テロ組織がそっくり全滅してるパターンか、もっとヤバい奴に乗っ取られたか……」
「僕もどっちかだと思うなー……」
のんびり言うと、十はふわわとあくびをした。
「眠くなってきちゃった。上でコーヒー淹れてくるよ……」
「……十条さんが行かなくてもいいでしょう。室月――」
「私が行くぐらいなら、優一さんが行って来て下さい」
大抵のことは引き受ける室月のにべもない返事に、優一は渋い顔をしたが、十が二度目のあくびをしたので仕方なさそうに席を立った。
店内に設けられた階段を、さららが居る十条家に向かって上がっていくのを見送りながら、ディックがぼやいた。
「……なんだかんだ、あの二人は上手くいってるんだろ?」
室月が眉をしかめて頷いた。
「進展はしています。小学生以下のスピードで」
「ほおお……殺しは疾風迅雷なのに、恋愛は奥手なんだなあ、ギムレットは」
「ディックは相変わらず、マニアックな日本語知ってるねえ。ま、上手くいくよあの二人は。どっちも好き同士なんだし……未春が居ないから丁度いいよ」
「……僕に聴こえない所で言ってくれませんか」
最上階で呟くと、優一は躊躇いがちにドアの向こうに消えた。
「ボス」
訪ねて来た喪服の麗人に、スターゲイジーはデスクの向こうで首を傾げた。
いつも厳しく迷いのない顔つきの女が、今夜は悩んでいるような表情だった為だ。
「どうした、ペトラ……お前にしちゃ、シケた面だな」
「女にツラの話はしない方がいいわね」
女は腕組みして指摘すると、気重な様子で応接用のソファーに腰掛けた。
「……未春をベルリンに送り届ける件なのだけど」
「おう。不安要素でも”見た”か?」
妙な問い掛けだったが、女は曖昧に頷いた。
「”見た”のと、両方。……正直、口にするのもどうかと思う」
「おいおい……マジで不安な話か。どんなもんを見たんだ」
ストローイエローの顎髭を撫でる紳士に、何故か女は黒帽子の下の額に繊手を添えて俯いた。
「ニムよ」
「ん? ニム?」
出ると思わなかった名に紳士は胡乱げな顔をした。互いによく知った男だが、今度の件とは無関係――いや、貧弱という意味で『白アスパラガス』のあだ名を持つ男は、無関係にしておかねばならない類の人間だ。
「ニムがどうした……?」
「あれが、未春と一緒にベルリンに居るのを”見た”の」
スターゲイジーはあんぐり口を開けた。
「そいつは……また、どういうことだ……?」
「私もそう思って、あれのスケジュールを確認した。……勿論、作家の方での」
理解したのだろう、スターゲイジーは片手で顔を覆って天を仰いだ。
「……どうもニムには、愉快犯の神が憑いてる気がするぜ……」
「同感ね。まさかこのタイミングで、ニムがベルリンに取材旅行だなんて」
「変更はできないのか? 例えばオーストリアにするとか……」
「ボスがあのイカレた編集長や、担当のジンジャーと交渉するなら止めないけど?」
「……ペトラよ……俺だってやりたくねえことはあるんだぞ……」
うんざりと言ったスターゲイジーの反応は尤もだった。
変人揃いで名高いブレンド社だが、その代表さえ、英国でも指折りのマッド・カンパニーといえばエクスター・ハウス社だと信じて疑わない。出版社としては先進的であり、実績もあるのだが……例えば、他の企業が公道をきちんと走る乗用車なら、この企業はモンスター・トラックで爆走するのに等しい。何処の出版社もああだと思いたくはないのだが、とにかく此処の連中はヒットを連発する一方、出版物に操られてはいまいかと思うほど常に殺気立っている。良い意味で仕事熱心、悪い意味で狂っているのだ。こいつらが立てたスケジュールである以上、その完遂は国家機密の任務と同等の重要性を強いられると言っても過言ではない。
「別に同行しなけりゃ……普通は良いんだろうがなあ……」
「レベッカが無関係と思ってくれるかは怪しいわね。ニムはウチに在籍したままだし、作家になった後も”調査”には出ている。あの目に関しても、BGM内では知られていることよ」
「かといって、ニムには危険過ぎる。うーむ、こいつは参った。他の危険ならラッセルかブラックを付けりゃ済む話だが、今回はそうはいかん……ニムの代わりに他のスタッフに取材を頼む……のはダメか、バレちまうな。未春に頼むのも――……」
「ボス、ニムが独特の価値観をしているのを知らないわけじゃないでしょう?」
「よく知ってるぜ。俺だって作品は欠かさず読んでる……」
やれやれと溜息を吐く紳士に、喪服の麗人は足を組み替えて傲然と言った。
「いっそ、ニムを囮にすれば、未春は楽になるかもしれない」
なんとも薄情な提案に、紳士は疲れた顔で首を振った。
「ペトラ……あいつで釣りをするのはお前の得意技だが、今回は相手が悪い。俺らの方に巻き込まれて、取材旅行が丸つぶれになっちまうのもニムを殺し兼ねん」
作家が「ペンは物理攻撃に使える」と言っていたのはジョークではないだろう。無理難題を抱えた調子で言うと、スターゲイジーはむっつりと腕組みした。
「……ちと、前向きに考えてみるか。ペトラ、奴らが一緒に行動した場合と別行動した場合、どっちが危険だと見る?」
「別行動」
間髪入れず降って来た答えに、紳士はわかっていたように頷いた。
「未春に頼む他、無いってわけか」
「それはボスの優先順位による」
「ん?」
「さっき言った通りよ。ニムを囮にすれば、未春が楽になるのは間違いない。ただし、ボスが懸念する通り、ニムは危険に晒される。ニムを未春と同行させれば、未春がお荷物に苦労する」
不意に紳士が悪党らしくにやっと笑った。
「俺が誰を選んで”人でなし”になるかってことだな?」
「そう。これは最初から、ハルと未春を天秤に掛けたところから始まっている筈だから、今さら私たちが悩むのもおかしいといえばおかしいけれど」
「お前は相変わらず、厳しい事を言いやがる」
ラガーマンのようなボディ全身で溜息を吐き出すと、スターゲイジーは椅子にもたれた。
「お前ならどうする?」
「私が、目的を優先するかと聞いているの?」
それなら、そもそも相談に来ないだろう――刃のような目で聞き返す女に、男はかぶりを振るしかない。
「愚問だな。お前は口の割に情の深い女だ」
「ボス……余計な事は言わなくていいわ。ニムはうちに在籍していても、あくまで作家が本業。それを逸脱して危険な目に遭わせるのなら、ウチのスタッフが手を貸し、責任を取れる範囲にすべきだと思う――わかった?」
「わかった。大いにわかった」
頷くほかない講釈が、少々その作家に似ている気がして苦笑したスターゲイジーは、にやっと笑った。
「フフン……さて、お前がそう言うなら俺も迷うこたぁねえな。俺は悪党だ、ニムも未春も、ハルも全部取る。レベッカがうるさく言うなら争う。いいな?」
女は呆れた様子で帽子の下から強欲な上司を仰いだ。
「……わかった。二人を引き合わせる」
「おう。案外、良いコンビになるかもしれんぞ。未春の最強の聴力と戦闘力に、”最強の視力”が加わるんだからな」
「それは無いわね、ボス」
あっさり水を差す女は、本人が聞いたら憤慨するだろう一言を言い放った。
「未春は一人で充分なんだから、邪魔な望遠鏡を持たせるのと同じよ」
ロンドン、午後7:00。
未春はペトラに伴われて、一軒の家を訪ねた。
ラッセルの家と同様の長屋続きのテラスハウスは、彼の家の周辺とは異なる静けさを感じた。例えば、ラッセルの自宅周辺が白金台や田園調布なら、此処は吉祥寺や自由が丘の感がある。
その男は、玄関を開けるや、化け物か借金取りに
「ペ……ペトラ! 悪いけど明後日から出張なんだ! ブレンド社の依頼は受けないからね! 今回はドイツの絵本の翻訳も兼ねてるし、予約した行先もあるから予定変更は無理だよ? 無理だからね?」
こちらがまだ何も言っていないのに、柔らかそうなベージュの髪を振りながら、白人系の若い男は一気にまくし立てた。未春はマシンガンめいたお喋りに圧倒されつつ、その両眼に目を奪われていた。
なんという目だろう。
薄暗い玄関先で見て尚、そのグリーン・アイは豊かな森の全てが閉じ込められたように煌めいている。
一方、ペトラは双眸をナイフの刃よりも鋭くすがめた。
「ニム、」
「いや、待って待って、僕だって悪いと思うけどさ、一日前に予定変更なんかしたらジンジャーが発狂しかねないだろ? だから――」
言い掛けた横っ面に向けて、目にも止まらぬ平手打ちが飛んだ。
「人の話を聞きなさい」
「ひん…………」
頬を押さえて情けない返事をした男はようやく、ペトラの後ろに突っ立っていた未春に気が付いた。
「え、誰……? そちらのハンサム君……まさか、また……新入社員?」
「ブラックがトラウマなのはわかるけど、彼は新入社員ではないわ」
ペトラの解説に、未春が訝しそうにしつつもぺこりと頭を下げると、男は「トラウマじゃあないけど」などとブツブツ言いながら、頬を押さえたまま微笑んで……痛そうに顔をひきつらせつつ、片手を差し出した。
「やあ、はじめまして。ニム・ハーバーだ。どうぞ宜しく」
「十条未春です。はじめまして……先生の作品は読みました。面白かったです」
握手を交わしながらの未春の言葉に、彼は例の森の双眸をぱちぱちさせた。
「え、本当? 君、日本人……だよね? 日本語訳は無いのに、わざわざ英語版を?」
「はい。ブラックに借りました」
「ブラック? ちょっと待った……ペトラ、どういうことだい?」
「あんたのドイツ行きに、彼を同行させたいの」
「彼を……? ますます、わからない」
「話すから、あんたは黙って中に通しなさい」
断っても力ずくで入りそうな女に、家主は痩身の両肩をすくめて頷いた。
「まあいいや、親友の知り合いなら大事なゲストだ。旅行前で大したおもてなしもできませんが、どうぞ」
人懐こく笑った拍子に、作家はやっぱり痛そうに頬を押さえた。
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