第16話:届かない手③



 隣でクスクス笑う湊を見て、また意表を突かれた。

 今さっきの湊が嘘のように、表情や口調の明るさが突然変わっている。いつ、笑えるぐらいまでの元気を取り戻したのか。


「でも克也さんって、良い人ですよね。こんな僕にも『何かあったら、力になる』って言ってくれましたし。確かに克也さんは、日本の未来に必要な人だと思います。だから……――――これからも、大切にしてあげて下さいね」


 また、湊らしからぬ言葉が放たれた。

 今日はあまりにも湊らしくない言葉ばかりで、聞いていると調子が狂いそうだ。


「なぁ、お前……何か、今日はおかしくないか?」

「そうですか?」

「ああ、何て言うか妙に聞き分けがいいって言うか……さっきも、俺が克也のこと好きって聞いて、てっきり『僕っていう人間がいるのに!』って怒るかと思ったのに、全然怒らないし……」


 素直に疑問を口にすると見る間に湊の頬が膨らみ、唇の先が尖った。


「ちょっと、隆司さん。僕のこと、どんな人間だと思ってるんです? こんなに健気で献身的で、言うなれば心清らかな人間を捕まえて、まるで独占欲の強い鬼嫁のように言うなんて心外です」


 軽く手をあげた湊が、隆司の太腿をペチンと叩く。勿論、痛くはない。


「そうそう、それ。それがいつものお前だよ。あと、本当に心清らかな人間は、自分で自分のことを心清らかなんて言わないからな」


 普段の湊に戻ったことが嬉しくて、隆司は自然と笑みを浮かべる。やはり湊は、こんな風に子供のように笑ったり、時に拗ねたりしているほうがいい。


「あーもう! これ以上ここにいたら、僕のイメージがもっと悪くなりそうだから、退散します!」

 

 湊がさっと立ち上がる。向かう先は恐らく湊が寝室として使っている部屋だろう。隆司は笑いながら、いつものように見送ろうとする。

 しかし、少しずつ離れて行く湊の背中を見ていたその時――――不意に胸が騒いだ。

 何だ、この不安と焦りが混ざったような感覚は。隆司は唐突に湧いた感情に突き動かされると、意識する前に立ち上がり、先を歩いていた湊の腕を掴んだ。


「え? 隆司さん、急にどうしたんですか?」


 腕を掴まれた湊が首だけで振りかえり、きょとんとした様子でこちらを見る。


「あ……いや……」


 説明を求められるも、答えられない。当たり前だ、自分でもどうして急にこんなことをしたのか、分かっていないのだから。だが行動を起こしたからには、何か言わないと。考えた末に、隆司はふと思いついた理由を口にした


「そういえば、今日の礼……まだしてないと思って……」

「今日の?」

「ホラ、突然克也が来たから、飯、三人分作らなきゃならなくなっただろ。それの礼……」


 自分でもあからさまに取ってつけた理由だと思ったが、情けないことに今はそれしか浮かばない。


「別に二人分も、三人分も手間は変わりませんよ。だから気にしないで下さい」

「いや、それじゃ俺の気持ちがおさまらない。何か礼がしたいんだが……希望とかあるか?」


 隆司の必死さが伝わったのだろう。礼を断ろうとしていた湊は、「何かあるかな」と言いながら考える。


「…………ねぇ、隆司さん。もしも今、僕が抱いて下さいってお願いしたら、抱いてくれます?」


 そう告げた湊の顔は、やけに真剣味を帯びていた。


「え、抱いてって……」

「勿論、セックスするってことです」


 迷いが一切ない強い言葉で言い切ると、湊はクルリと身体を翻して隆司の胸の中に飛びこんできた。

 二人の体温が重なる。少しだけ隆司よりも高い湊の体温は、密着すると心地好い温かさだった。


 こういった形で他人の体温を感じるのは、いつ振りだろう。幼い頃に両親を失った隆司には思い出すことができないぐらい昔に感じたが、それでも身体は心地好さを覚えているようだ。

 この胸の中にある、華奢な背中に触れてみたい。そんな衝動が生まれる。鼓動も感情に合わせて高鳴りを強めた。


 どうして、突然こんな行動を取ったのだろうか。自分自身の感情すら形にできない不器用な隆司には、湊の考えを推測するのは不可能だった。刑事なのに相手の感情を理解できないなんて、情けないにもほどがある。


「ね、隆司さん、僕を……抱いて……」


 石のように固まる隆司の手を引くかのように、湊が再度甘い願いを口にする。

 本能を刺激する体温に、艶のある声。そして鼻を擽る果実のような体臭。それら全てが、じわりじわりと隆司の退路を奪っていく。


 正直、湊を抱くことに全く嫌悪感が湧かなかった。

 今ここで隆司が頷けば、二人の関係は大きく変わる。

 しかし、それで本当にいいのだろうか。


 この両手で湊の身体を包んでしまったら、もう後には戻れない。なのに、自分の心はまだ変わってしまう環境に順応できるだけの準備ができていないのだ。そんな状態で湊を抱いてしまうなんて、本気で感情をぶつけてくれている湊に失礼ではないか。そう考えるとどうしても一歩を踏み出す勇気が持てなかった。


「湊、あの……」

「――――フフッ。冗談ですよ」

「え?」

「ちょっと隆司さんを困らせてみたくなっただけです」

 

 ひょいっと軽やかな足どりで隆司から離れた湊が、悪戯を成功させた子供のように笑う。


「もう、僕のことどこまで節操なしだと思ってるんです? 確かにそういった類の発言はしてますけど、実際はちゃんと手順踏んでからって決めてるんですよ」

「冗談? ……って、お前、人をからかったのか!」

「だって、あまりにも隆司さんが克也さんのこと褒めるから。嫉妬しちゃったんです」


 もう一度、ごめんなさいと謝って湊が背を向ける。

 心底悩んだことを冗談だと笑われ、どうにも怒りの向けどころが見つからない隆司は一発だけでもいいから頭を叩いてやりたくなる。けれど、湊が暴力を怖がることを思い出してとどまった。


「ったく、今度やったら部屋から追いだすからな」

「……はーい。じゃあ、お休みなさい」


 リビングから出る扉の前で振りかえった湊が、手を振って挨拶する。そしてすぐに廊下へと出て行ってしまった。

 その間、わずか五秒もない。

 だからだろうか、振り向いた時の湊の瞳が濡れていたような気がしたが、隆司にはそれを確認することができなかった。

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