佐藤氏の待ちわびた四度の死についてのただ一回の習作
張ヶ谷 俊一
三度の妄想と感覚の刺激
レンタカーで、昼のスクランブル交差点を三周も回った。遠目でその交差点が青信号に変わりそうな頃、私は目一杯にアクセルを踏む。道玄坂の二丁目から坂下へ向かう。曲がれなかった。一つ手前の十字路で、ワゴン車と衝突した。逸れた車の前面は、ライラの指で止められた。
ガラス越しに声が聞こえる。私は一回目の死骸を押しのけ、シートベルトを外した。ドアを閉めて見渡せば、周囲は野次馬で溢れかえっている。
「大丈夫ですか。今警察と救急車を呼んでいます。怪我はないですか」
「ああ。大丈夫です。」
私は立ち眩みを感じて、痺れた片手を半壊したレンタカーに置く。相手は車検を怠ったのだろう。滑稽にも、歩道で運転手は、ガラスの上で土下座をしていた。壁に塗られた彼の血と脳漿は重力に負けている。
私は背広を整え、車から飲みかけの珈琲を取り出して啜る。大衆は僕たちを注目して、掲げたスマホで真昼の日光を反射させる。午後の渋谷だからか、周囲は車が少なく、車道に疎ら(まばら)に点在している。私はスマホでレンタル会社に電話した。
「承知しました。レッカー車―が行きますので、その場でお待ちください。」
電話を切る。警察車が来たようだ。サイレンを奏でながら、車両の間を縫って、私に向かっている。私が先ほど、有象無象を轢き殺そうとしたように。私に衝突した。珈琲は宙に舞い、白黒の車体は私をレンタカーへ押し付けて潰す。
大衆はカラカラとシャッターをきる。誰もが目を奪われていく、私は岩石で崩壊の彫刻。上半身はダビデの生まれ変わり、下半身は潰れた粘土のゴミ、見事に私の下半身は境界線を失っている。弾けたのではない。青年が蟻を潰すように。
サイレンの音はさらに大きくなる。救急車だ。警察車越しに見える純白の鉛は、この現場に向かっている。蛇行しながらも速度を殺さずに、私に向っている。後は鋼鉄が衝突する音だけだった。警察車は半分くらいの横幅に圧縮され、私の体はググっと完全に切断された。響き合うサイレンは観衆の喝采をかき消した。上半身は衝撃で、車のフロントからズレ落ちる。サイレンは止まらず。血は広がる。アスファルトに死臭が染み付きつつある。
華やかさは重さと轟音と共に到来し続ける。分かっていた。レッカー車だ。再びの衝撃で警察車が爆発した。上半身は燃え盛り、私の味蕾には、焦げた軟口蓋の何かが染み付いた。
ループする圧力と焦げ臭さで、珈琲が口から吐き出された。漆黒のズボンに胃液交じりの珈琲が打ち付けられた。仕事の帰りにいつものバーに寄ろう。私はレンタカーを運転し続けて、十二回目のスクランブル交差点を通り、職場に戻る。
テレビに事故映像が映ったのは、私はカウンター席で浮足立ちながらビールを注文する時だった。潰された枝豆を飲み込むと、ぶかぶかで酸っぱさを感じさせる膀胱を感じて、お店のお手洗いを探すが、脳内がゼリーに眼球が水風船になった今はどうしても見つからない。
マスター、お手洗いは。真後ろだよ。そうだよな。正しき人の唇は叡智を告げ、その正しき舌は正義を語るなら、彼から唇と舌を奪ったらどうなるのか。このビルはいつ壊されるんだっけ。来月か。来週だよ。床下の鼠ともお別れ。口が達者で饒舌なお前ならどこでもやっていける。ジョッキの水滴でべっとりな右手が足元からの振動で揺れる。
入学から卒業まで一緒にいた友達が遠くに行くと聞くと、自宅に招待して自家製のマドレーヌに舶来の柑橘系の紅茶を添えてご馳走してその記憶を天井に染み付かせたくなる。ただ今消えゆく楠の芳香の代わりに。香りは記憶に残りやすいと聞くが、それがどんな状況かを思い出せなくてかように目を閉じながら紅茶を啜るなどの動作と結ばれなければ、いとも簡単に郷愁の空に葬り去られて、ただ空虚に寝入ることになる。セレクトショップで店員にマドレーヌに合うお茶を聞いたらアールグレイと言われたときに気が気でならなかったのは、その店員の澄ました顔が原因であり後から別のものを手渡されても良かった。この澄ました顔に私が傷を付けたのはよりにも中学校からの親友であるが、彼は私を快く許して私に右手に握ってある剃刀でそのまま髭をそってくれと言ってくれた。面白半分で校舎裏にて三人の友達と剃刀で遊んだが唯一刃先が狂ったのは私だけであった。親友のその端正な顔に一線の傷跡、ある今日みたいな雨が強い日に私が幼少期に三重の竹林を曾祖父と散歩したとき、彼の下顎の左側面に海外映画の銃撃戦で主人公の顔に九ミリ口径の弾丸がかすり、その裂かれた傷跡が板前の大将がお披露目で一貫のまぐろをカウンター越しに我々の目にナイフを刺しこむようなくらい印象的に、刃先より数秒遅れてその日本刀模様に似つかわしい柔軟な肌が血潮を放ちながら花咲く傷跡が出来ていて、私はその裂け目から目を逸らして何も言わずに歩き、彼も自宅にずぶ濡れでたどり着くまで気づかなかった傷跡、まさに鎌鼬が面白半分で傘寿の老人の余生を空中で揶揄っているかと思って私が両目を逸らしたその傷跡が彼の顔に彫られた。私が謝ることになったのは真横にいた友達がああと声を上げてからのことで、それと似た私の目に刻印された有無を言わさず想起されるその顔の心象はなぜ今でも鮮明に思い出せるのか理解できなかった。
私は席を立ち便所へ行くもののポーチを忘れて半分くらいの地点で引き返して、それを取ってから歪む暗色の床を直線に進んだ。幸いに他の客はいなく私はドアを開けてすぐに便座に座った。入社祝いに父が買ってくれたシックなポーチ。白銀のファスナーを開いて剃刀を取り出し内股に閉じられた膝の上に置いく。ポーチはがじゃがじゃと床に投げ捨てられて私は左腕のシャツを捲し上げて内なる高揚感を存分に感じる。右手で剃刀を持ち二百六十個目の生きた証を入れる。これをマスターに見せられない。彼はこの腕に触れることを許さない。まずは彼の耳目に届かないように膝元に何層もの柔い落し紙を重ねて次に左手首を膝に乗せ手首を外に逸らす。糞尿を通わすその青黒さに目を逸らさずにでも無限に続いている横断歩道の縞模様でそれは隠されている。紅茶に浸されたマドレーヌを持った右手は慎重に剃刀を柔肌に当てる。よく掃除された個室には市販の芳香剤が充満しており、如何にも熟考を重ねた末に澄ました顔から放たれた“アールグレイ”という気取った素振りを前日談に持つものだ。けど私は熟達した職人でもなければ場数と才能にあふれた殺陣芝居の達人でもないゆえに、この血肉からの芽吹きは名も知らない残虐な古めかしき妖怪が、私が気にも留めないうちにこの心臓を血管や精神共々繋がれたまま宙に抉りだされるくらいに軽く、カンボジアでポルポトは幾度もの大虐殺を繰り返してその成果物を山頂の川に投げ捨てる、その下流の荘厳な滝までもがパンとワインで燃え上がったという迷信と似て、それらは私の足元まで濡らしてドアの隙間から南シナ海に知らせるように流れ出すとき、私の両手はただただ痛みと匂いと力と音と味と意味が無く赤く見えて軽かった。
「はあ、あ、はああ。」
明晰に聞こえる私のため息は徐々に弱まりドア越しに聞こえる誰かの叫び泣き声はただただ音と力と匂いと痛みと味と意味が無く黒く見えて軽かった。
マスターに起こされて、バーから出る。袖のボタンを閉めても、夏の夜道は肌寒かった。自宅まで約五百メートルの距離。路地道を通りながら私は自宅へ。今日の出来事を振り返る。ゲロが出る。口を閉じる。誰もいない夜道で、体裁を守った。飲み込んだ。沈んだ衝動を隠すと、私の口腔(こうこう)内は軽かった。
足早に歩いていると、背後からずれた足音が聞こえる。すごく近い。振り返ると、やつは私の肩を掴み、右わき腹に出刃包丁をねじり込んだ。直線に刺さずに、回して入れてきた。とぐろを巻いた腹部の贅肉は、酒のせいか、痛みがしなった。抜かれた包丁には崩れた枝豆と私がくっ付いていた。
走った。けどやつは私に追いつかず、私は痛みを感じず、路地を曲がっても、街には誰一人いなく、でも叫ぶには力が腹に入らず、歩かずに、私はただ追い付かれまいと、そして、やつの姿は見えず。
私の前に現れた。左わき腹を刺されたが、同じく痛みを感じず、私はまた追い付かれまいと逃げる。無駄な足取りを無くして、自宅以外の場所には向かわない。それ以外で助かるとは思わない。息ができないまでに、止まらずにいた今、酸素は走る以外に使われず、あらゆる思考ができず、振り返ることも出来なかった。
刺された。まただ。やつは脇道から眼前に現れて、走っている私の恥部の前に包丁を据えた。思考できず、止まれず、避けられなかった私は、原罪から解放される事を、理解させられた。恥骨まで貫通した瞬間、女王が御剣でアコレードをするようにして、やつは刃を下向きに振った。わずか一瞬の事でも、そのイメージは何度も脳内でループされた。
やつは姿を晦まし、私はしな垂れて自宅まで歩いた。オートロックを解除して、エレベーターに入った。私が五階を押すと、やつの手が閉めるボタンを押した。振り向けなかった。やつは私の左手を取って、私の親指を、何度も刃先を当てて、コンッ。
「五階です。」
左手が、すっかり解放されると、私は廊下を通って、自室に向かう。右手で左ポケットにあるカギを取って、鍵穴に差し込む。ドアを開けて、室内に入る。後ろ手にドアを閉めると、言語化できない全ての事を、脳内は考え込んだ。事故、便所、通り魔。何もが華やか過ぎた。自宅で不安は感じず、眠気は覚えず、落ち着くことができず、平熱を感じることもできない。岩肌に打ち上げられた一匹の稚魚が、ただ玄関で干からびているだけだった。
目が覚めると、私は口にある味わい慣れた鼠と昆虫の混ざりを、飲み込むには、ただ洗面場で吐くために起きるには、塩辛さと粘着性が不味い、これは、ここでこうする他にない。腹にいた頃の姿勢のままで私は頬伝いに粘液を出した。死臭。刺激臭。静かに、悪臭が部屋からくる。仕方なく。私は。起きる。洗面場を。通り過ぎて。台所を見る。十六の頃に彼らと遊んだ体育倉庫を思い出す。シンクで。軽く。顔を手で洗うと、それが彼の顔から流れ出る血に見える。どこかで彼は生きている。でも曽祖父は鬼籍に入った。ある豪雨の日に。崖から落ちて。運悪く。何も残ってなかった。クマに食われた。曾祖母は気にもしなかった。だって不倫していた。帰らない日もあった。一週間浮世していたって。いつも通りだった。
カーテンを閉めて着ていたジャケットを畳んだ。このリビングでは誰にも邪魔されない。観衆だってマスターだって知らない人だっていない。私の味と身と私のみ。母から臭いと言われたこの狭い部屋は、馴染みの香辛料で溢れている。それで眼頭が熱くなる。先月からずっと置かれていた縄を持って椅子を足場にして天井高くに支え打ち付ける。私の人生を支えられるだけの強いものを買った。そこに縄を掛ける。朝に赤の信号機を無視した私は、もうじき澄ました顔できる。彼の切り傷だって無視した。天井を眺めて紅茶も飲んだ。
マドレーヌが食卓に放置されていたので首をくくる前に一つだけエメラルド色のものを味わった。心配で私は椅子から降りてゴミ袋をとガムテープを持ってきた。椅子に上ってまた太く編まれた縄に首を入れて切り裂かれるくらい絞める。ゴミ袋を頭に被せて、ガムテープで首に巻き付けた。テープは私の周囲をビリビリと回されて回されて回されて、切られることもなく、ぶら下がった。椅子は蹴られた。
苗字が佐藤の私は、サトシなんて高校時代に呼ばれていた。高校までは三重に居て、大学入学後に東京に引っ越した。やんちゃな行動は剃刀遊び以外に賭けもした。かわいいもの。テスト点数で勝負し合った。僕ら三人は進学先が違い。一人は地元の大学でもう一人は関西に行って連絡先は今でもあるが、滅多に合わないし通話もしない。十年も疎遠になった今に何を話せばよいのかただ消えたいのにあれこれ説明するのも辛く今でも君らがやって来てこの縄を切って欲しいのに妖怪だって良くてゴミ袋でマドレーヌの匂いが循環するし簡単に言えば今日はなんとなくで本当になんとなくで帰ってきたら靴があって酒臭くて無味無臭で意味
佐藤氏の待ちわびた四度の死についてのただ一回の習作 張ヶ谷 俊一 @5503
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