憂鬱な背中
実家でも一緒にいたからか。タマの刺激的だった匂いも、
今では落ち着く花の香りと感じる。
でも、タマは心地が悪いからか、安眠を邪魔されたからか、
あるいは、毛をかき分けると見える、三粒の袋状のしこりを、
あえて言うなら、哺乳類の恥部にある三粒の棘のような、
それを不意に掻かれたからか、私の束縛を振りほどくと、
フローリングの上にすっと着地して、テクテクとタマは歩いていった。
「ごめんね。強すぎたか」
終着駅にエロティシズムを抱いて、今にも辿り着きたく、
そこへ急ぐ電車の走行音に、声を消された私は、喉の奥に渇きを感じた。
同時に、とある純白で華奢な左手、川崎市の薔薇園で、
離さまいと強く握ったそれを思い出す。
夕日が没落する頃、その手は、墓石よりも冷たかった。
タマの背中を見つめてやれば、大胆に床を踏みしめて、台所までたどり着いた。
私はその轍を静かに辿る。
というよりも、そこしか踏める床がないほどに、部屋は散らかっている。
落ちていたピースライトの空箱と、
彼女が脱ぎ捨てた下着を踏んで、台所まで来る。
すると、タマはなぜか、私の足元に戻って来て、私の素足を触り始めた。
柔らかな指で私の親指をかさかさと擦る。
もう一度抱っこして欲しいのか。
今度は痛くない抱擁が欲しいのか。
でも、愛の沙汰も私欲次第な、
私に抱いてほしいときタマは必ずこうするが、私は喉の渇きを解きたかった。
重いケトルを蛇口の下に置いて、白く濁った水道水を入れる。
水切りラックにあるマグカップを二つ取ると、
その中にリプトンのティーバッグを投げ入れる。
タマが、足元で鳴き始めた。私を見上げていたその両目は、
物欲しそうな女の眼であった。「ねぇねぇ」が脳内に反響する。
私は近くに散乱していたスティックタイプのキャッドフードを一本開けて、
屈んでから、それを少しずつ、小ぶりな口に絞り出した。
頭を動かして、それにしゃぶり付くタマは、嬉しそうである。
頭部を回転させたり、前後に動かしたり、包装袋を噛んだり、舐め回したり。
五百ミリリットルのケトルからは、水が溢れだしていた。
私は咄嗟に、半分残っていたスティックから手を放して、
急いて、でも、既に水が、狭いシンクの内側で奔放していて、
薔薇園で花の棘に刺さった瞬間に、
彼女が放った「痛っ」ほどの鋭い音を出して、蛇口を閉めて、
ケトルから溢れ出る水を手で覆う。
「バカだ、俺って」
「にゃー」
べったりと濡れた両手を拭いて、タマを見下げると、
きょとんとした顔で私を見つめていた。
包装袋はぺっちゃりと折れていた。ケトルの余った水を、
お椀に移し、電源プレートに載せて、スイッチを入れる。
「食べちゃったの。美味しかったの」
「にゃ」
タマの頭をガサガサと撫でた。
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