好きぴの背中に幻滅して、日常風景が全部不潔に感じて、音が一緒でも不潔に感じて、でも飼い猫には好きぴ要素を感じるから、スローライフでも、厨病の私がタマと暮らす理由について

張ヶ谷 俊一

薔薇は可憐だが、儚げでまばゆい

 ベッドで寝るアヤカの姿は、さながら猫の様だ。丸顔で青白い鼻や、口が小さい顔ではない。その逆に近い。穴からの刺激臭でもない。フローラの匂いに近い。赤い裸体を丸くして、布団を私の代替に抱きしめる、その姿でもない。ただ彼女の、うなじから腰まで縦に生えている背中の産毛と、二か所のホクロが、さながら猫の様だ。


 昼下がりの、アパートの一室で、衣服で散らかったベッドと、花瓶に立つ一輪の薔薇と、書籍で埋もれたデスクだけで狭隘になる部屋で、そのデスクのチェアに、私は座っていた。レポート課題となったスピノザの『エチカ』を読んでいると、「嫉妬/は/愛する/像/他人の恥部/分泌物/結びつけ/忌避する」。断片が虹彩をつらぬく。あまりに長い間、一様にモノトーンの景色と、ざらついた数枚の紙、冷たい木製のに接していたせいか。突発的に、目眩をおぼえた私は、足元で昼寝をしているタマを抱き上げて、そっと、存在を消すように、驚かさないために、椅子を退かし、そして、皮剥ぎで、マルシュアースの血に染まったアポローン、その光輝の拝謁に、私はベランダまで歩く。


 なんと、ようやく見慣れた都会風景が反転していた。太陽はいつもより、黒ずんでいた。くすんでいた。そんな気がした。目眩が静まると、窓からシルク製の秋風が吹きこむ。上京した私たちを、いよいよ受け入れてくれたのか。燦然と煌めくビルディングの、鮮やかな輪郭と、急ぎ行く電車が奏でる感謝の雑音が、私には表現しがたい、いや、恋焦がれていた怠惰な思い人が、私の部屋で服を初めて脱いだ瞬間、一種の、あるいは、ヘルペス患い売春婦が、私の飼い猫を強姦した瞬間、その時にくる恍惚感と畏怖の念と似た感情を与えてくれた。秩序なき黒い太陽のせいで、また目眩がした。


 上空の幾層も重なる雲を鑑賞する。残暑の熱で火照った私は、右手でそのふさふさした、タマの背中を掻いてあげた。フリーエッジのない私の爪は、バラライカに似たその広い背中を弾いてやると、すぐさまに、アーモンド型の鮮やかな目が開いた。私の愛で破瓜したように、灼熱を帯びた声で、ひゃっひゃっと鳴きはじめて、夕暮れ時の鴉とも似た声だった。しなる枝のように、反り返った毛深い背中をくねらせる。私は茫然とその背中を見ていた。実家でも一緒にいたからか。タマの刺激的だった匂いも、今では落ち着く花の香りと感じる。


 でも、タマは心地が悪いからか、安眠を邪魔されたからか、あるいは、毛をかき分けると見える、三粒の袋状のしこりを、あえて言うなら、哺乳類の恥部にある三粒の棘のような、それを不意に掻かれたからか、私の束縛を振りほどくと、フローリングの上にすっと着地して、テクテクとタマは歩いていった。


「ごめんね。強すぎたか」


 終着駅にエロティシズムを抱いて、今にも辿り着きたく、そこへ急ぐ電車の走行音に、声を消された私は、喉の奥に渇きを感じた。同時に、とある純白で華奢な左手、川崎市の薔薇園で、離さまいと強く握ったそれを思い出す。夕日が没落する頃、その手は、墓石よりも冷たかった。タマの背中を見つめてやれば、大胆に床を踏みしめて、台所までたどり着いた。私はその轍を静かに辿る。というよりも、そこしか踏める床がないほどに、部屋は散らかっている。落ちていたピースライトの空箱と、彼女が脱ぎ捨てた下着を踏んで、台所まで来る。


 すると、タマはなぜか、私の足元に戻って来て、私の素足を触り始めた。柔らかな指で私の親指をかさかさと擦る。もう一度抱っこして欲しいのか。今度は痛くない抱擁が欲しいのか。でも、愛の沙汰も私欲次第な、私に抱いてほしいときタマは必ずこうするが、私は喉の渇きを解きたかった。


 重いケトルを蛇口の下に置いて、白く濁った水道水を入れる。水切りラックにあるマグカップを二つ取ると、その中にリプトンのティーバッグを投げ入れる。タマが、足元で鳴き始めた。私を見上げていたその両目は、物欲しそうな女の眼であった。「ねぇねぇ」が脳内に反響する。私は近くに散乱していたスティックタイプのキャッドフードを一本開けて、屈んでから、それを少しずつ、小ぶりな口に絞り出した。頭を動かして、それにしゃぶり付くタマは、嬉しそうである。頭部を回転させたり、前後に動かしたり、包装袋を噛んだり、舐め回したり。


 五百ミリリットルのケトルからは、水が溢れだしていた。私は咄嗟に、半分残っていたスティックから手を放して、急いて、でも、既に水が、狭いシンクの内側で奔放していて、薔薇園で花の棘に刺さった瞬間に、彼女が放った「痛っ」ほどの鋭い音を出して、蛇口を閉めて、ケトルから溢れ出る水を手で覆う。


「バカだ、俺って」

「にゃー」


 べったりと濡れた両手を拭いて、タマを見下げると、きょとんとした顔で私を見つめていた。包装袋はぺっちゃりと折れていた。ケトルの余った水を、お椀に移し、電源プレートに載せて、スイッチを入れる。


「食べちゃったの。美味しかったの」

「にゃ」


 タマの頭をガサガサと撫でた。愛しい顔だ。可愛くニチャっと笑う顔に、私も嬉しさをおぼえる。背徳感、グラスに眠剤を入れる行為、不潔感、鮮やかな薔薇色から、独りでいる罪、存在が抜け落ちた感覚、それが混ざり合った感情、彼女を初めて自宅に招き入れた感情、タマを初めて迎え入れた時の感情。ぱっとしないうちに、タマはそそくさと、リビングへ戻っていった。目眩だ。アポローンとニュクスが姦通している。私のゴミだらけのリビングで。


「おはよう。今何時」

「おはよう。もう四時かな。ご飯どうしようか」

「ううん。いいよ。お腹すいてない」


 アヤカは目を擦りながら、台所まで来た。


「昨日は楽しかったよ。また連れて行って」

「嬉しいな。次はどこがいい」

「どこでも。でも、次は東京のとかがいいな」

「じゃあ、冬休みに行こうか」

「咲いてないって、全休作って、夏とかに行こ」

「そうだね」


 ケトルが泡を吹く。


「紅茶、一緒に飲もうか」


 彼女は頷いた後、台所うがいをする。不意に彼女の手と触れ合う。リメンバー、ラベンダー、薔薇の花弁だ。床を見回しながら、リビングに彼女は向かう。泣き喚くケトルは、真っ青になった命の重さをしている。十七時だ。濁る白湯をカップに注ぐと、彼女が慌てる時に、頭から出る煙が現れる。その元には、袋詰めにされた黒い塊が、密かに踊っていた。リビングを見やると、アヤカがタマとまた戯れている。すると、異様なことに、安堵する光景がやっかみになった。アヤカの存在が、タマに移ったようだ。虹彩を破くのは、まさに私がアヤカにした姦淫で、昨晩の姦淫は、一種の悪趣味な、私がまるで金魚と、豚と、畜生と、それらの、粘液が吹き出る穴という穴、血潮で腫瘍が焦げ付いた大腸への孔、鼻の孔、尿道管、さらには、アヤカの胸は園芸鋏で裂かれ、露になった白き胸骨は暴かれ、赤い心膜は再び、大きな鋏で開けられ、切り開かれ、猫が鼠を裂くように、心臓が晒され、マッサージ機の細動を反復する、その拍動している薔薇の蕾、存在を欠いた肉塊の感触、その大動脈を一本切断した時の孔でさえ、その孔をマラで一晩中、私はこの部屋で愉しんでいた、という印象だ。真っ赤な命たちは天井一面に噴射される。鮮やかな薔薇園に、アヤカだけが立っていた。


「ねぇ。まだなの。どうしたの。考え事」

「あー。デート楽しかったなって、いま持ってく」


 床に落ちたブラジャーや、パンツに足を引っ掛けないよう、私は大股で歩きながら、紅茶をデスクに置く。この部屋の唯一綺麗な平面。アヤカは私が先ほどいたチェアに座って、膝にタマを載せて撫でていた。


「ありがと。傷口まだ痛むのかな」

「全然」

「でもほら見せて、腫れてる。私も腫れてるよ」

「いいんだよ。てかお土産は何を買ったの。秘密って」

「えー、気づかないの」


 タマの首に、キラリと揺れる薔薇のチャームが、本革の首輪に咲いていた。


「ほら、かわいいでしょ。薔薇の首輪」


 しかし昨日の薔薇とは違う。より輝いている。白日に咲いた薔薇は、既に枯れていた。大概は萎れていた。でも彼女は喜んで、薔薇園を散歩していた。その時、アヤカはゴシックロリータの装いで、これと似たチャームを、チョーカーに添えていた。


「どうかな。似合ってるよね。タマは偉いのだ。一番可愛いから。目の前の、このポンコツ男爵とは違うのだ」

「うるせぇ」


 癪に思いながら、私はカップを持ち、立ったまま一口すすった。口腔に含んだ紅茶を、舌で回すと、その先端が歯茎に当たる。凸凹な感触と雑味が、この良く動く筋肉を刺す。アヤカと交わした接吻とも近い感覚、腫れた傷口を舐めた感触だ。


「なんて本を読んでるの」

「エチカ。文章がきめぇ。つまんねぇ」

「じゃあどうでもいいね」


 アヤカは本を端へと追いやると、タマをデスクに乗せた。


「ねぇ、次のデートはどうする」

「動物園行きたいな」

「いやだ。くちゃい。レポートで煙草を書きたいからさぁ。墨田の博物館、あれどう」


 アヤカは私の顔を見上げて、物欲しそうな眼で私の虹彩を破く。その両手は、デスクに置かれたタマを、優しく撫でていた。タマの首輪が気になって仕方がなかった。その薔薇の輝きでも、大きさでも、揺れでもない。私は薔薇に見つめられている。存在の欠いた薔薇だ。


「いいじゃん。いつにする」

「また土曜かな。ねぇ。まだリプトン飲んでるの」

「安いからね」


 薔薇を見て、もう一口すする。渋味が舌に広がる。


「昨日のアールグレイ飲んじゃったら、リプトンってやっぱ不味いよ。渋い。罰ゲームみたい」


 やはり同じ薔薇ではない。喫茶で、薔薇を眺めて飲んだ紅茶は、ベルガモッドがよく効いていた。テラス席の柵に絡みついた多数の薔薇からは、甘い芳香が流れてきた。アヤカは好奇心で、一輪の薔薇に触れようとした。薔薇は私たちを見ていた。


「美味しいよ。渋いから」

「何それ。ゴキブリでも主食にしてるの。もう明日、私が良いやつ持ってくるわ」


 妙に棘を含んだ物言いに、笑いそうになった。紅茶をまたすすって、カップをデスクに置く。彼女に近づく。タマは相変わらず、アヤカに背中を撫でられていて、気持ちよさそうに寝転がっていた。他に視線を感じるが、その連環からは、私は一度も目を離さなかった。

「やっぱり気に入ってくれた。ずっと見てるもんね」

「うん。ありがとう。うれしいな」


 いつもの通りに丸くなった物言い。彼女は立ち上がって、デスクで寝そべるタマの背中を見下ろした。


「ねぇ。タマの背中にこんなデキモノあったけ」


 彼女の背中越しにそれを見る。さっき見たのと同じ、薔薇畑、花をかき分け、土壌に近い場所に見える、三粒の赤い蕾。鮮血が溜まったしこり。彼女はその三つに触った。昨晩、彼女の乳房が露になったときに、私が両手で擦り当てた二つの蕾を、いや、というよりも、むしろ、彼女を背後から愛撫した時に、酔った私は、たった一粒のしこりを、私が彼女と交尾をし、しかも私自身を、被りのない、隔たりのない、僅か零点零三ミリの裏切り行為をしたとき、ヴァギナの他に、その一粒を、私は愛していた。舐めてもみた。渋い汗の味だ。無数の産毛が揺れる中、私は肥えたムカデと、薔薇の棘に刺されていた。


「なんかね。俺もさっき見つけた」


 彼女の背中がはっきりと見える。背筋に生えた、産毛もそうだ。彼女の背にぴったりと接して、しこりをのぞき込むと、薔薇の芳香が、臭う。タマの向こう側には、一


凛の薔薇が花瓶に刺さっていた。未だ枯れずに、棘を持っている。

「大丈夫かな。可哀そう」


「なんで。そんなの誰にもあるでしょ」


 アヤカは棘に刺さった指を、私の黒ずんだ傷跡を抓った。威張った態度で、椅子を退いた。勢い余ったせいで、私はよろめいた。


「お腹すいたー」

「なんか買ってくるよ」


 私は台所に行って食材を探した。空の容器をゴミ袋に入れた。タマの飯だけが残った。リプトンの袋も中に落ちた。私を刺す渋さ。存在なき鮮紅に、未練はなかった。

震える手からゴミ袋を置いて、玄関で靴を履いた。スマホは持った。


「何が欲しい」

「なんでも」


 突き出した鋳造のドアノブは、私の手に刺さる。傷口から存在なき鮮血が流れた。絆創膏を取りにリビングに戻ると、タマだ。アヤカだ。タマの薔薇だ。アバが破瓜だ。アヤカがまた、タマとだ。アポローンがアヤカを当てる。黒が虹彩を明けた、花瓶の薔薇の棘が、立ち眩みの中。太陽のせいだ。

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